第3話 嘘の客

扉が閉まると、外の喧騒は布で包んだみたいに遠のいた。


残ったのは、紙とインクと、古い木の匂い。

そして――窓際の椅子から漏れる、壊れたオルガンのような“嘘”。


ぎぃ……ぎぃ……。


音は声じゃない。

耳の奥で骨を擦る、濁った和音だ。


ノアは反射で耳を塞ぎかけて、指を止めた。


(塞いでも無駄だ)

(これは、耳じゃなくて……頭の中で鳴ってる)


机の向こうにいる老いた男は、こちらを見ていない。

視線は書類の上。だが、嘘の音がない。


「――まず、座れ」


声は低い。

命令口調なのに刺さらない。嘘がないからだ。


ノアは椅子に手をかけたまま、動けなかった。

座った瞬間、あの嘘に近づく気がした。


隣でミラが遠慮なく椅子に腰を下ろし、足をぶらぶらさせる。


「ほらほら、兄ちゃん。椅子って便利だよ。座ると立たなくて済む」


「……立ってる方が、まだ楽です」


「嘘ついた」


ミラが笑った。

――笑い声にも、嘘がない。


老いた男が眉を動かす。


「ミラ。茶化すな。……ノア、と言ったな」


「はい」


返事をした瞬間、窓際の嘘がわずかに跳ねた。

まるで“返事”を嗅いだみたいに。


老いた男は自分の胸元を指で軽く叩いた。


「俺はバルド。この支部のギルドマスターだ」


(……この人は、嘘をつかない)


それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


「そして」


バルドが視線を窓際へ向けた。


「……勝手に自己紹介しろ。俺の口から言うと、ややこしくなる」


窓際の影が、ゆっくり立ち上がった。


背丈は高い。細い。

服は黒に近い灰で、どこにも紋章がない。

日差しが当たっているのに、輪郭がぼやけて見える。


彼が一歩踏み出すたび、嘘の和音が大きくなる。


ぎぃ……ぎぃ……ぎぃ……。


ノアの胃がきゅっと縮む。

耳の奥が熱くなる。


影は丁寧に礼をした。


「初めまして。――リュシアン、と呼んでくれればいい」


呼んでくれればいい、という言い方が妙に優しい。


――なのに。


その名の部分だけ、嘘の音が鋭く歪んだ。

弦が切れたみたいな、嫌な高音が混ざる。


(名前、違う)


ノアは喉の奥で言葉を飲み込んだ。

言ったら、また巻き込まれる。


ミラは頬杖をついて、影を見上げる。


「“呼んでくれればいい”って便利だね。呼びたくない時もあるし」


「君は正直だね、ミラ」


「うん。嘘つくと面倒だし」


リュシアンは笑った。

笑顔の形だけは綺麗だった。


でもその笑いに合わせて、嘘のオルガンが鳴る。

笑顔そのものが嘘みたいに。


バルドが机を指先で叩く。


「目的を言え。時間がない」


「もちろん」


リュシアンが視線をノアへ戻す。


「ノア。君は今日、城門で“声を奪った”」


嘘の音はない。

事実だ。


ノアの喉が乾く。


「……奪ったつもりはありません」


「つもりの問題じゃない。結果だ。王都守備隊が動いた」


言葉に嘘はない。

だから余計に重い。


「君が使ったのは魔法か?」


「……わかりません」


それも本当だ。

ノアは自分の異能を説明できない。


「自分でも?」


「はい」


リュシアンはしばらく、ノアの顔を観察した。

目の動き。喉の動き。息の間。


(……やめてくれ)

(検分みたいに見るな)


見られると、嘘の音が増える。

そういう気がした。


リュシアンが窓の外を一度だけ見た。


「ギルドの誓約石は、君にとって楽だろう?」


「……はい」


この建物に入ってから、久しぶりに呼吸ができた。


「静けさは、欲しい?」


その言葉だけ、嘘の音が大きく跳ねた。


(……言わせたい)


バルドが、ふっと鼻で笑った。


「餌の出し方が雑だな」


リュシアンは肩をすくめる。


「急いでいる。王都守備隊が、次は“書類”を持ってくる。ギルドは王に従属しないが、法を無視もできない」


「それを止めるのが、お前の仕事か?」


「そういうことにしておこう」


“しておこう”。

そこに嘘が混じる。音が嫌に柔らかい。湿っている。


リュシアンがノアに近づいた。

一歩。嘘のオルガンが耳の奥まで入り込む。


ノアは反射で椅子の背を握った。


「君の異能は珍しい。――《神聴》」


その単語に、嘘の音はない。

本当にそう呼ぶらしい。


「嘘が“音”になる。そして、君はそれを黙らせられる」


「……僕は、黙らせたいわけじゃ」


言いかけて止めた。

黙らせたい。けれど、“誰のために”黙らせるかで、結果が変わる。


リュシアンが穏やかに言う。


「君のためだよ」


――嘘のオルガンが、爆ぜた。


ぎぎぎぎぎ……。


ノアの視界が一瞬、白くなる。

鼓膜が熱で焼けるようで、吐き気が込み上げた。


(うるさい)

(黙れ)

(黙れ黙れ黙れ――)


ノアの口が、勝手に動く。


「……嘘だけ、黙れ」


吐息みたいな声だった。


なのに。

部屋の空気が、すっと冷えた。

嘘の和音が、断ち切られたみたいに止まる。


静寂。


ノアは息を飲んだ。


(止まった……?)


リュシアンの表情が、初めて崩れた。

笑いが消える。眉がわずかに寄る。


彼は口を開き、何か言おうとして――言葉が引っかかった。


「……俺は」


声が出た。


「俺は君のために来たんじゃない」


嘘の音がない。

真実だ。


ノアの心臓が嫌な音を立てる。


リュシアンは続けようとして喉を押さえた。

言葉が詰まる。舌が動かない。


(嘘が出せない)


ノアは理解した。

自分の言葉が、相手の嘘を喉で殺している。


「……っ」


リュシアンは短く息を吐き、視線をバルドへ投げた。


「さすがだ、ギルドマスター。……面白い」


そして、わざと軽く言う。


「玩具を拾ったな」


その“玩具”の軽さに、嘘が鳴った。

この男が見ているのは、玩具じゃない。

――もっと硬くて、危ない“道具”だ。


バルドが椅子から立ち上がる。

大きな体が影を作る。


「――帰れ。ここは見世物小屋じゃない」


リュシアンが肩をすくめる。


「帰るよ。今日は確認ができた」


「確認?」


「君が、俺の嘘を殺せるかどうか」


リュシアンはノアを見る。


「ノア。君はまだ知らない。君の耳が拾う嘘は、ただの“人間の嘘”だけじゃない」


その言葉に嘘はない。

だから怖い。


「都には、嘘で出来たものがいる。人の形をして、人の声で、人の人生を食う」


(……嘘で、出来たもの)


ノアの背筋が冷たくなる。


リュシアンは懐から小さな黒い札を取り出し、机の上に置いた。

薄い金属。天秤に似た刻印。


札から、微かな嘘の音が鳴っている。

壊れたオルガンの残響が、札の中でくすぶっているみたいに。


「必要になったら、それを握れ。俺の方から迎えに来る」


「……やめてください」


ノアが言うと、リュシアンは首を傾げた。


「嫌いかい? 静けさ」


その言葉に、また嘘が鳴る。

静けさを餌にする気だ。


リュシアンはそれ以上何も言わず、扉へ向かった。

歩くたびに嘘の和音が戻り、部屋が汚れていく。


扉の前で、彼は振り返る。


「一つだけ忠告だ」


声は優しい。音は醜い。


「黙らせるのは嘘だけにしておけ。……さもないと、君は“真実”まで黙らせる」


扉が閉まり、嘘のオルガンが遠ざかった。


残ったのは、バルドの机の木の匂いと、静けさ。

そして――机の上の黒い札から漏れる、微かな残響。


ミラが札を指でつつこうとして、バルドに睨まれて止まる。


「これ、嫌な感じ」


「触るな」


嘘がない鋭さは、刃物みたいだった。


ミラはすぐ手を引っ込め、舌を出す。


「はーい」


バルドはノアを見る。


「……今のは、制御できるのか」


「できません」


ノアは正直に言った。

嘘をつけない。


「嘘を黙らせたくて、黙らせたわけじゃない。……耳が勝手に」


「わかる」


バルドは短く頷いた。


「お前の異能は危ない。だからこそ、使う場所を選べ。――そして、味方も選べ」


ノアは黒い札を見た。

触りたくないのに、目が離せない。


母の声がよぎる。


『正しさは人を救うけど、同時に、あなたを殺すわ』


「ギルドは……僕を守れるんですか」


ノアが聞くと、バルドは嘘のない顔で答えた。


「守れる範囲で守る。……だが、俺は王ではない。城の騎士が本気で来れば、押し返すには理由がいる」


「理由……」


「冒険者だ。依頼を受け、税を払い、実績を積む。国にとって“使える人間”になれば、簡単には切れない」


現実が、真っ直ぐ刺さる。


「……僕は道具になりたくありません」


「なら、冒険者になれ。道具じゃなく、働く者としてな」


バルドは引き出しから小さな革紐を取り出し、ノアに放った。

先端には、白い石片が括り付けてある。

掌ほどの誓約石とは比べ物にならない、欠片。


「それを首にかけろ。嘘の音が少しは薄くなる」


ノアが受け取ると、石片は冷たかった。


首にかけた瞬間、世界のざわめきが少し遠のいた。

完全な静けさじゃない。

でも――刺さる針が、鈍る。


「……すごい」


思わず漏れた。


ミラが覗き込む。


「いいなそれ。私も欲しい」


「お前は静かだろ」


「うん。でも、兄ちゃんの顔がマシになるなら、私も得する」


バルドはため息をつきながら、もう一つの革紐をミラに投げた。


「お前にはただの石だ。気休めにもならん」


「もらえるなら、もらう」


ミラは嬉しそうに首にかけた。

嘘のない顔で笑う。


バルドが扉を開け、廊下を指す。


「部屋を用意する。今夜はギルドの宿舎に泊まれ。……外に出るな。守備隊がまだ嗅ぎ回ってる」


「はい」


階段を下りると、一階の匂いが戻ってくる。

麦酒と汗と革。皿の音。笑い声。


――それでも、さっきより耐えられる。

首元の石片が、嘘の針を丸めてくれている。


(これがあれば……都でも、生きられる)


そう思った瞬間。

入口の扉が開き、冬の冷たい空気が吹き込んだ。


外の“嘘”が、波みたいに押し寄せてくる。

笛。太鼓。擦れた弦。

石片が鈍らせても、胸の奥がむかむかする。


その波の中で、ひとつの名前が跳ねた。


「――悪女リディア! 王城を血で染めた女の“真実”だぞ!」


外で誰かが叫んでいる。

声に混じる嘘の笛が、きぃん、と鋭い。


ノアは足を止めた。


扉の脇の壁に、紙が貼られている。

無遠慮な大文字。汚れた指の跡。


そこに、母の名前が黒々と書かれていた。


ミラが小声で囁く。


「兄ちゃん。顔、また『吐きます』だよ」


ノアは首元の石片を握りしめた。


(……まだ、終わってない)

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