第2話 誓約の静けさ
扉の向こうは、酒場みたいな匂いがした。
麦酒の甘い酸味。
汗と革。
鉄と油。
笑い声が弾け、椅子が軋み、皿が鳴る。
――なのに。
(……痛くない)
ノアは思わず、自分の耳たぶを指でつまんだ。
嘘の笛も、嘘の太鼓も、ない。
門前で積もっていた、汚れた雪みたいな嘘が――ここには落ちていない。
息が、久しぶりに深く吸えた。
肺の奥まで、空気が届く。
「ほら。顔、戻った」
隣でミラが覗き込んだ。フードの影から目だけが笑っている。
「……戻ってません」
「戻ってる戻ってる。さっきは『吐きます』って顔だった」
「吐いてないです」
「吐く前に走ったからね」
嘘の音がしない笑い声。
それが、逆に怖かった。
ノアはホールを見回す。
丸テーブルが並び、昼間から酒をあおる冒険者がいる。壁には依頼書が貼られた板。奥に受付のカウンター。
そして――天井近く。二階の回廊の影。
そこから、ぎぃ……と音がした。
腐った木を捻るような、濁った和音。
笛でも太鼓でもない。壊れたオルガンみたいに、耳の奥で骨を鳴らす。
(……嘘)
背筋が凍った。
(さっきの……これだ。ここにもいる)
「ミラ、二階……」
「ん?」
「……なんでもない」
言い直してしまう。
関わるな、と決めたのに、耳が勝手に拾う。
今は――追っ手から逃げ込める場所が必要だ。
ノアは拳を握り、カウンターへ向かった。
受付の女性が、笑顔を向ける。
その声にも嘘の音はない。
「いらっしゃいませ。冒険者ギルドへ。新規登録でしょうか?」
胸の奥が、きゅっと縮む。
嘘がないだけで、こんなに楽なんて。
「新規登録……したいです」
「承りました。お名前を伺っても?」
「ノアです」
「苗字は?」
一瞬、視界が白くなる。
苗字。
母の家名。王都でそれを名乗れば、嘘の都はきっと“正しい音”でも殺しにくる。
(言うな。拾われる)
でも、嘘はつけない。
嘘を吐いた瞬間、自分の耳が自分を殴る気がした。
ノアはペン先を止め、空白のまま書類を差し出した。
「……ありません」
受付の女性は小さく瞬きをし、名札を軽く指で押さえた。
そこには『セリア』と書かれていた。
「承知しました。家名を持たない方もいらっしゃいます。では、年齢と出身を」
「十六。……辺境です」
「登録料は銅貨五枚です」
ノアは懐を探り、銀貨一枚を出した。
「……これしか」
「お釣りをお渡ししますね」
指先に迷いがない。
都の門番のような、湿った嘘がない。
(信じていいのか)
ノアが記入を続けていると、横からミラが身を乗り出した。
「ねえねえ、私も登録できる?」
セリアがミラを見る。
「可能ですが、保護者の同意は――」
「いない」
ミラは即答した。
その即答にも嘘の音がない。
ノアの胸が、ちくりとした。
ミラは平然としているのに、その“まっすぐ”が痛い。
セリアは一拍置いて、柔らかく言った。
「……承知しました。必要事項を記入してください。ミラさん」
「へへ」
ミラが紙を受け取り、ノアに小声で言う。
「ね。ここ、嘘つけないんだよ」
「……どういう意味ですか」
ミラは顎で奥を示した。
カウンターの背後、壁に埋め込まれた掌ほどの白い石。天秤の紋章が彫られている。
「誓約石。ギルドの“約束”の芯。契約と金の話をする場所では、嘘つくと舌が絡む」
「舌が……?」
「試す?」
ミラがわざとらしく胸を張って、セリアに向かって言った。
「私、実は王女様なんだ」
次の瞬間、ミラの声が出なかった。
口は動くのに音にならない。舌が縫い止められたみたいに、息だけが漏れる。
セリアがこらえきれず、少し笑ってしまい、慌てて咳払いした。
「ミラさん。遊ばないでください」
ミラは頬を膨らませてノアを見た。
「ほら。嘘、言えない」
ノアは白い石を見つめた。
(だから……静かなんだ)
嘘が“音”になる前に、喉で詰まる。
嘘が、黙らされる。
――なら、さっきから二階で鳴っている嘘は何だ。
ぎぃ……と、また音が鳴った。
ノアの心臓が跳ねる。
「登録証です。お二人とも、まずは白札になります」
セリアが小さな木札を差し出した。白く塗られ、紐がついている。
「規約はこちらです。ギルド内での私闘、窃盗、脅迫は禁じられています。違反した場合は除名。悪質なら討伐対象にもなります」
「討伐……」
「はい。ギルドは冒険者の自由を守ります。だからこそ、ギルドの秩序を壊す者は――」
その時。
入口の扉が、乱暴に開いた。
鎧の擦れる音。硬い靴音。
空気が、一段冷える。
「ここに逃げ込んだ暴徒がいる」
現れたのは、銀の百合を胸に刻んだ騎士たちだった。
門で見た、背筋の伸びた綺麗な男――隊長格。
(……来た)
ノアの耳がきゅ、と縮む。
誓約石のせいか、嘘の音はくぐもっている。それでも湿った太鼓の低音が、腹の底を叩いた。
騎士隊長がカウンターへ進み、セリアを見下ろした。
「王都守備隊だ。門前で騒乱を起こした少年を引き渡せ。危険な異能を使った」
セリアは表情を変えない。
「ギルド内での拘束はお断りしています。証拠と、正式な文書を」
「王命だ」
騎士隊長の口が、その言葉の途中で歪んだ。
「……お、う……めい……」
音にならない。
舌が絡む。
周囲の冒険者が酒を置き、こちらを見る。
笑いかけた空気が、すぐに凍った。
騎士隊長の頬が赤くなる。
「……ちっ」
彼は言い換えた。
「守備隊の権限で、事情聴取を行う」
その言葉は出た。
嘘ではない、ということだ。
セリアが淡々と言う。
「ギルドの規約が優先です。ギルドは王権に従属しません」
言葉が、まっすぐ刺さった。
嘘の音がない“正しさ”は、刃物みたいだ。
背後の兵が苛立って足を鳴らした。
「隊長! こんな連中――」
「黙れ」
騎士隊長は視線を逸らさず、低く言う。
「なら、少年を出せ。本人が自主的に同行すれば問題ない」
(自主的、ね)
嘘の太鼓が、鈍く鳴る。
ノアは一歩、後ろへ下がった。
ミラが、さりげなく前に出る。
「やめときな。ここで暴れたら、ギルドから“討伐”されるってさ」
「貴様、誰だ」
「ミラ。巻き込まれたくないだけ」
挑発のくせに、嘘がない。
騎士隊長の視線がミラの隣――ノアへ移った。
「……お前だな」
嘘の太鼓が強くなる。
門で感じた、腹の底を揺らす低音。
ノアの耳の奥が熱い。
逃げたい。けれど、外に出た瞬間にまた嘘の洪水に沈む。
母の声がよぎる。
『正しさは人を救うけど、同時に、あなたを殺すわ』
(わかってる……)
騎士隊長がゆっくり手を上げた。
拘束魔法の気配。空気が重くなる。
「ギルド内で魔法は――」
セリアが止めかけた、その瞬間。
二階から、ぎぃ……という嘘が、ひときわ大きく鳴った。
ノアの意識がそっちへ引っ張られる。
耳の奥が、嫌な熱で満ちる。
(……うるさい)
言葉が勝手に出た。
「嘘だけ、黙れ」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
ただ――次の瞬間。
騎士隊長の口が、開いたまま固まった。
「――……」
声が出ない。
正確には、“嘘”が出ない。
騎士隊長は必死に言葉を繋ごうとする。
「私は……門番の……喉を……」
続きが言えない。喉が詰まる。舌が痺れる。
そして、絞り出すように落ちた言葉は――
「……俺が……黙らせた」
嘘の太鼓が止んだ。
ノアの背中に汗が走る。
(……言った)
今のは誓約石のせい?
それとも、自分の――。
騎士隊長の目が、初めて揺れた。
「貴様……何を――」
セリアが静かに言った。
「隊長殿。今の発言は記録します。ギルドは不当な権力行使を許しません」
騎士隊長は唇を噛み、踵を返した。
「……撤収だ」
兵たちも渋々続く。
扉が閉まり、鎧の音が遠ざかる。
ホールに、息が戻った。
ノアは膝が笑うのを必死に堪えた。
「……やっちゃったね」
ミラが囁く。
「……僕、何も……」
「いや、やった。今の、最高にやった」
ミラは楽しそうに笑い――すぐ真顔になった。
「でもさ。二階のやつ、反応してた」
ノアも感じていた。
あの嘘の和音が、今の瞬間だけ跳ねた。
まるで――こちらを見たみたいに。
セリアが声を落とす。
「ノアさん、ミラさん。ギルドマスターがお呼びです。二階へ」
ノアの喉が鳴る。
(行くな)
でも、今ギルドを出たら捕まる。
そして、二階の嘘は――逃がしてくれる音じゃない。
ノアは白札を握りしめた。
「……わかりました」
ミラがニヤリとする。
「ほら。巻き込まれ体質」
「……だから書いてないです」
階段を上る。
一段ごとに、嘘の音が大きくなる。
ぎぃ……ぎぃ……。
二階の廊下は静かだった。扉がいくつも並ぶ。
奥の扉の前で案内の職員が止まった。
「こちらです」
扉が開く。
部屋の中には、老いた男がいた。
銀髪を後ろへ撫でつけた、がっしりした体格。目は疲れているのに澄んでいる。
(……嘘がない)
ギルドマスターだろう。
――ない、はずなのに。
彼の背後。窓際の椅子に座る影から、あの醜い嘘が鳴っている。
ノアの耳が凍った。
影が、ゆっくりと顔を上げた。
「ようやく会えた。……君が“神聴”の子だね、ノア」
声は丁寧で、柔らかい。
なのに。
耳を裂くほどの嘘が、同時に響いた。
(……誰だ、こいつ)
ノアは白札を握り潰しそうになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます