第2話 沈黙の港と、怯える老人
「……ひっ!」
短い悲鳴と共に、積まれた魚網の裏から、薄汚れた布を被った影が転がり出てきた。
腰の曲がった老人だ。
彼はガタガタと震えながら、俺たち――いや、俺の腰のヤエ人形を見て、目を見開いた。
「に、西の……女王様の、兵隊さん……か……?」
「あん?」
俺は眉をひそめた。
兵隊? 俺が?
どう見てもただの怪しい旅人にしか見えないはずだが。
「違う! 人さらいめ! わしはもう動けん! 連れて行くなら殺してからにしろぉ!」
「……なんと?」
突然、俺の腰でヤエが低い声を漏らした。
その声には、先ほどまでの「水飲み人形」としての愛嬌は微塵もない。
王としての、静かなる怒気が滲んでいた。
「おい、そこの老人。……今、なんと申した? 『西の女王』の兵が、人をさらっていると?」
◇◇◇
老人の怯えようは尋常ではなかった。
俺の腰にある人形――その意匠が、西の都『ツクシ』の王族を示すものだと気づいた途端、彼は地面に頭を擦り付けんばかりに平伏したのだ。
「お許しくだせぇ、お許しくだせぇ……! もう若い男はおらんのです……! 残っているのは、わしのような老いぼれと、赤子ばかりで……!」
「……おい。顔を上げろ。俺たちは人さらいじゃない」
俺がなだめようと手を伸ばした、その時だった。
左腕の刺青(アンテナ)が、ジリリと不快な熱を持った。
先ほどの「ざらつき」とは違う。もっと明確な、泥のような悪意の反応。
「ハク。……戻ってきたさね」
ニライが海の方角を指差す。
風に乗って、太鼓の音と、下卑た笑い声が聞こえてきた。
港の入り口に、三艘(そう)の船が姿を現した。
中型の関船(せきぶね)だ。船体はフジツボだらけで手入れが行き届いているとは言い難いが、そのマストには一丁前に『旗』が掲げられている。
赤地に、黒い太陽と剣の紋章。
見間違えるはずもない。あれは『ツクシ』の軍旗だ。
「……なるほどな」
俺は目を細め、冷静に観察した。
旗は本物だ。だが、船に乗っている連中の装備はどうだ?
大陸渡来の革鎧を着ている者もいれば、漁師のような蓑(みの)を羽織っている者もいる。武器も青銅剣、鉄剣、錆びた斧とバラバラだ。
ツクシの正規軍――特に女王直下の精鋭部隊(ロイヤルガード)なら、こんな統一感のない格好はしていない。
(野盗か、あるいは海賊崩れか。……だが、あの旗はどこで手に入れた?)
船が桟橋に横付けされる。
先頭の船から、鉄の兜を被った大男が、ドシドシと桟橋を踏み鳴らして降りてきた。
腰には、無骨な鉄の大剣を差している。
「おいコラ、村長(むらおさ)ァ! 隠れているのはわかってるんだぞ!」
男が怒鳴ると、老人が「ひぃっ」と悲鳴を上げて俺の背中に隠れた。
「ちっ、往生際の悪い……。おい! 『商品(若い男)』の積み込みは終わったが、船倉(スペース)にまだ空きがあるぞ! 次は食い物と金目の物だ! 根こそぎよこせぇ!」
男の言葉に、部下の海賊たちがゲラゲラと笑う。
「へっへっへ! そうこなくっちゃな! どうせ一度来た手間だ、骨までしゃぶらねぇと割に合わねぇ!」
「これは『女王ヤエ様』の慈悲深き命令だぞ! 『ツクシ』の復興のために、お前らの全財産をありがたく捧げろとなぁ!」
……なるほど。
人をさらったついでに、村ごと略奪して帰ろうって腹か。
現代的な効率主義とでも言うべきか。やることは外道そのものだ。
その瞬間だった。
周囲の空気が、ピシリと凍りついた。
気温が下がったわけではない。
俺の背後――腰のあたりから放たれた、『純粋な殺気』が、物理的な圧力となって場を支配したのだ。
「……ハク」
地獄の底から響くような、低い声。
俺はため息をつきながら、ゆっくりと腰の人形に手を添えた。
「はいはい。聞こえてますよ」
「許さぬ」
ヤエ人形の瞳が、怪しく光ったように見えた。
それは比喩ではない。俺のアンテナが、彼女の魂の激昂を肌で感じ取っているのだ。
「その薄汚い口で、我が名を騙(かた)るか……下郎。民を守るための剣を、民を脅す道具に使うなど……万死に値する!」
海賊たちの笑い声が止まる。
男が怪訝そうにこちらを睨んだ。
「あぁ? なんだその妙な人形を持った兄ちゃんは。……見ねぇ顔だが、痛い目にあいたくなけりゃあ……」
「黙れ」
一喝。
たかが木彫りの人形の声だ。だというのに、その一言には、戦場を支配する王の覇気が宿っていた。
大男が一瞬、気圧されて後ずさる。
「ハク。構わぬ。掃除の時間だ」
「……あーあ、もう。人使いの荒いこって」
俺はわざとらしく大きなため息をつき、観念して小舟から「木の櫓(ろ)」を引き抜いた。
ずしり、と重みが手に食い込む。
俺は手の中でその長大な棒をクルリと回し、重心を確認した。
(……チッ、やっぱ重いな。海水を含んだ樫(かし)の木だ。デカい水掻きのせいで、このまま振り回せば空気抵抗で初速は死ぬ。……が、一度回ればこっちのもんだ)
俺の頭脳が、この不格好な「武器」の特性を瞬時に解析する。
(重量と抵抗。そのデメリットを「遠心力」というエネルギーに変換する。鋭い突きは無理でも、回転に任せてぶん回せば、剣の間合いの外からすべてをへし折る鉄槌になる……!)
相手は鉄剣に革鎧。
こっちは布の服に木の棒。
手加減して勝てるほど、俺はお人好しじゃないし、腕も立つわけじゃない。
(全力で振り抜いても、刃物じゃないから死にはしないだろ。……手加減したらこっちが死ぬ。なら、最大出力で「拒絶」させてもらう!)
「おいおい兄ちゃん、そんな舟漕ぎの棒で、この俺様の鉄剣に勝てるとでも……」
男が嘲笑いながら剣を抜こうとする。
俺は脱力した構えから、櫓の重さを利用して、大きく体を開いた。
「へいへい。……追加料金、期待してますよ?」
言うが早いか、俺は独楽(コマ)のように回転した。
狙うは急所じゃない。
男の胴体そのものだ。
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