木彫りの女王と、流浪の運び屋
駆出伍長
瀬戸内(セトウチ)編
第1話 凪の海と、忍び寄る影
『倭(ワ)』の湿気というのは、どうしてこうも肌にまとわりつくのだろう。
『彼土(かど)』――あの乾いた風が吹く大陸の荒野が、今になって少し恋しい。
「……ふぅ」
俺は額から垂れる汗を、肩口の布で乱暴にぬぐった。
手に持った木の櫓(ろ)が、鉛のように重い。
波は穏やかだというのに、この小舟が少しも前に進んでいる気がしないのは、物理的な重さのせいだけではないだろう。
主に、この小舟に同乗している「自由すぎる連中」のせいだ。
「おい、荷物持ち。舟が揺れたぞ」
船体の中央、積み上げた荷物の上から、鈴を転がすような、しかし氷のように冷ややかな声が響いた。
視線をやると、そこには奇妙な光景がある。
手のひらサイズの木彫り人形――『斎人形(いつきにんぎょう)』が、荷物の上に器用に腰掛け、小さな貝殻を杯(さかずき)のように持っているのだ。動くたびに「コト、コト」と乾いた音がする。粗末な木彫り人形でありながら、その首に結ばれた『紫の飾り紐』が、彼女がただの人形ではないことを主張していた。
「水面が波打ち、私の口元が濡れてしまったではないか。……まったく。これだから無粋な男は困る」
「……へいへい、すみませんね、女王様」
俺は皮肉を込めて、わざとらしく肩をすくめた。
こいつは『ヤエ』。
西の都『ツクシ』を統べる若き女王巫女にして、勇猛な戦姫。今はなぜか人形の体を依代(よりしろ)にしている。
本来ならば今頃、絹の寝所でふんぞり返っているはずの偉人様だ。それが、こんな木偶(でく)人形の分身をこしらえて旅をしているのだから、世も末だ。
倭国の呪術というのは、文明の遅れに反比例して妙に発達しているらしい。
というか、そもそもだ。
「あんた、ただの木彫りの人形でしょう? なんで水なんか飲む必要があるんですか。中身が腐りますよ」
「愚か者め。供え物の水を味わうのは、神や王の嗜(たしな)みだ。……それに、この乾いた木肌には潤いが必要なのだ」
「はいはい、そうですか。……文句があるなら、そっちの『野生動物』に言ってくださいよ。さっきから揺らしてるのは彼女だ」
俺が顎で舟のへさきをしゃくると、そこには今にも海に飛び込みそうな姿勢で、身を乗り出している少女がいた。
「あーっ! ハク、あっち! あっちで魚が跳ねたさね! 銀色の、すっごく大きいの!」
『ニライ』だ。
太陽に愛された小麦色の肌。穏やかな波を思わせるウェーブのかかった髪には、南の島由来の貝殻飾りがジャラジャラと鳴っている。正真正銘の野生児だ。
日焼けした彼女の腕には、白い貝殻の素朴な貝輪が今日も光っている。
彼女はくるりと振り返ると、太陽のような満面の笑みを俺に向けた。
「今夜はごちそうさね! ハク、あの棒で突くさね! ハクの棒術なら楽勝さね!」
「あのなぁ……この櫓は船を進めるためのもんで、魚を突き刺すモリじゃないんだよ」
やれやれ、と俺はため息をつく。
冷静な頭脳(インテリ)を自負する俺が、どうしてこうも騒がしい連中に囲まれているのか。
死んだ親父は言っていた。「いいかハク、お前はこの広い大陸で、自由に、健やかに生きろ」と。
故郷のことなど一言も語らず、俺をこの島から遠ざけようとした親父。
だが、隠されれば隠されるほど、知りたくなるのが人の性(さが)ってやつだ。
俺は親父の遺言に背き、こうしてノコノコと親父が捨てた故郷へ戻ってきちまった。
その結果が、このザマだ。
報酬といえば、ツクシの通貨である鉄屑(てつくず)が少々。
米や塩よりは嵩張らないからマシだが、大陸の規格化された通貨(コイン)に比べれば、この国の財布は重くて錆びるから敵わない。常々不便だとは思っているが、郷に入っては郷に従えだ。
「……っと」
不意に、左腕が疼いた。
痛みではない。皮膚の下を、微弱な電流が這うような違和感。
俺は櫓を片手で支えながら、左腕に巻いた厚手の包帯を上からさすった。
この下には、親父が大陸で俺に施した、幾何学模様の『刺青(いれずみ)』がある。親父が言うには「お守り」らしい。
まぁ、大陸では刺青なんて罪人の証だ。ありがた迷惑すぎるお守りもあったもんだと思う。
「……なんだ? 空は晴れてるってのに、妙にざらつきやがる」
嵐が来る気配はない。
だが、俺の『触角(アンテナ)』は告げている。
この先に待つ港町――そこには、魚よりももっと厄介な何かが潜んでいると。
「おい、荷物持ち。手が止まっているぞ」
「わかってますよ。……しっかりつかまっててくださいよ、お二人さん。少し急ぎますからね」
俺は再び櫓を握り直すと、瀬戸内の凪いだ海に切っ先を突き立てた。
◇◇◇
船底が砂を噛む鈍い音がして、小舟はゆっくりと停止した。
本来なら、ここで飛んでくるはずの「おーい、船着き場はあっちだぞ!」という漁師の怒鳴り声も、「魚はいらんかね!」という売り子の声もない。
あるのは、波の音と、不気味なほどの沈黙だけだ。
「……静かすぎるさね」
先ほどまで魚にはしゃいでいたニライが、船縁(ふなべり)に手をかけたまま、急に押し黙った。
彼女の野生の勘が、この異常な空気を敏感に感じ取っているのだろう。
「おい、荷物持ち。誰も迎えに来ぬぞ。この港の民は、よほど怠惰と見える」
「いや……これは怠惰ってレベルじゃなさそうだ」
俺はヤエ人形を腰にぶら下げ直し、砂浜へと降り立った。
浜には数艘の舟が引き揚げられたまま放置されている。
網は干されたままだし、焚き火の跡からは微かに煙が燻(くすぶ)っている。
まるで、ついさっきまでそこにいた人間が、神隠しにでも遭ったかのようだ。
俺は浜辺にある粗末な管理小屋へと歩み寄った。
無人だ。だが、壁には興味深いものが掛かっていた。
平たく削った木の板だ。
そこには墨ではなく、ナイフのようなもので刻んだ下手くそな絵と、無数の線が記されている。
「……ほう」
俺は板を指でなぞりながら、独り言ちた。
丸い満月の絵の下に、縦線が五本。
なるほど、この港では月の満ち欠けと刻(きざ)み目で、船の出入りを管理しているらしい。
大陸の役人がつける精緻な帳簿に比べれば子供の落書きだが、情報は十分に読み取れる。
「几帳面な管理人がいたもんだ。……ん?」
俺の指が、ある一点で止まった。
一番端に刻まれた、新しい縦線。
その溝の縁(ふち)に、微細な木のささくれが立っている。
「……おかしいな」
俺は爪先でそのささくれを弾いた。
ポロリ、と木屑が落ちる。湿気た海風に晒されれば、こんなささくれはすぐにふやけて落ちるはずだ。
それがまだ、乾いて尖っている。
「昨日……いや、違う。ついさっきだ。この傷は、つい数刻前に付けられたばかりだぞ」
背筋がぞくりとした。
記録係は、船の到着を書き記した直後に、筆(ナイフ)を置く間もなく「消えた」ことになる。
「ハク……」
強張った声で、ニライが俺の袖を引いた。
彼女の視線は、小屋の陰に向けられている。
「ここ、嫌な色がするさね。地面も、風も、みんな泣いてる……」
「泣いてる、か。……おい、そこに誰かいるのか?」
俺は腰のナイフに手をかけず、あえて丸腰であることを示すように両手を広げて、小屋の陰に声をかけた。
ニライの野生の勘が何かを捉えているなら、そこにいるのは敵ではない。
怯えている「何か」だ。
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