第7話 路地裏の罠と、消えた貝輪
『境(サカイ)』の市場は、ニライにとって巨大な宝箱だった。
見たこともない色の鳥、嗅いだことのない香辛料の匂い、そして様々な国の人々の熱気。
南の島にはなかった「カオス」が、彼女の好奇心を刺激してやまない。
「すごーい! ヤエちゃん、見て見て! あの魚、ピカピカ光ってるさね!」
「……おい。誰が『ヤエちゃん』だ。不敬だぞ」
ニライの頭の上で、ヤエ人形が不機嫌そうに声を上げた。
彼女は今、ニライのボリュームのある髪の毛を鳥の巣(クッション)代わりにして、ちょこんと鎮座している。
ハクと別れてから数刻。この凸凹コンビは、意外にもうまく機能していた。……主に、ヤエがニライの手綱(髪の毛)を握るという意味で。
「あっちには大陸の焼き菓子があるさね! 甘い匂いがするさね!」
「待て、そっちは人通りが多い。揉みくちゃにされるぞ。……ったく、少しは落ち着いて歩けぬのか」
「えーっ。だって楽しいさね!」
ニライは満面の笑みで振り返る。
その拍子に、彼女が腕に巻いていた布が少しだけズレた。
隙間から、太陽の光を浴びて『ゴホウラの貝輪』が白く輝く。
その一瞬の煌めきを、見逃さない目がそこにあった。
(……ヒヒッ。手下の報告通りだ。「南の島の娘」と「白い腕輪」。眉唾かと思ったが、たまには役に立つ情報を拾ってくるじゃねぇか)
雑踏の影から、ぬらりと男が現れた。
身なりは良い。上質な麻の着物を着て、腰には立派な飾り帯を締めている。
人当たりの良さそうな、笑顔の商人だ。
「……お嬢ちゃん」
「ん? 誰さね?」
「いやぁ、楽しそうだねぇ。遠くから来たのかい?」
「うん! 南の島から来たさね! おじさんは?」
ニライの無邪気な返答に、男の目が三日月のように細められた。
「私はこの街で珍しいものを商っていてね。……お嬢ちゃん、魚は好きかい?」
「大好きさね! 一番のごちそうさね!」
「そうかそうか。実はね、今朝上がったばかりの『とびきりの魚』があるんだ。市場には出していない、特別な極上品だよ」
男は声を潜め、秘密を共有するように囁いた。
だが、ニライは野生の勘で小首をかしげた。
「極上品……? でも、おじさん変な色がするさね。嘘つきの腐った魚の腹(ワタ)の色さね」
「おっと……」
ニライの無垢な指摘に、男の笑顔が一瞬引きつる。
だが、百戦錬磨の商人はすぐに表情を塗り替えた。
「ははは、商売敵にはよく言われるよ。だがね、その魚は滋養強壮に良くてね。……お連れの方への『土産』には最高なんだがねぇ」
「え?」
「男衆なら泣いて喜ぶ逸品だ。……あっちで待ってる彼も、きっと満足すると思うんだが?」
男の言葉に、ニライの表情が変わった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、いつも面倒を見てくれるハクの顔だ。
「ハクが……喜ぶ?」
「ああ、間違いなくね」
「見る! 見るさね! ハクにお土産もっていくさね!」
ニライの色(警戒心)が、ハクへの想いで上書きされる。
男は口の端を歪めた。
「さあさあ、こっちだ。氷で冷やしてあるから、早くしないと味が落ちちまうよ」
商人は巧みにニライの背中を押し、人混みを遮るようにして路地裏へと誘導した。
「……待て、ニライ」
頭上のヤエが鋭い声を上げた。
「妙だぞ。なぜこの男は、我々に『男の連れ』がいると知っている?」
「えっ? 商売人のカンってやつじゃなかさね?」
「違う。……それに匂うぞ。魚の匂いなどしない。漂ってくるのは、乾いた欲望の臭いだ」
ヤエの警告(センサー)は正確だった。
だが、ニライの足は止まらない。
一歩、また一歩と路地へ踏み込むたびに、背後の市場の喧騒が遠のいていく。
まるで、深い水底へと沈んでいくように、音が消えていく。
路地裏は、静寂と腐敗臭に満ちた迷路だった。
腐った板壁と、高く積まれた荷物に挟まれた細い道。
そこにはもう、客引きの声も、活気ある物音もない。
「……おじさん。まだ着かないの?」
さすがのニライも、異変を感じ始めた。
足元の地面は泥濘(ぬかる)み、腐敗臭が強くなっている。極上の魚を保管する場所とはとても思えない。
「ああ、もうすぐだよ。……ここだ」
男が足を止めたのは、行き止まりの倉庫の前だった。
頑丈な木の扉。窓はない。
「さあ、入ってくれ」
「……魚はどこさね?」
「中だよ。……とびきりの『金になる魚』がね」
男がニヤリと笑った、その時だった。
物陰から、数人の男たちが音もなく現れ、退路を塞いだ。
彼らの手には、荒縄や布袋が握られている。
「……ッ! 罠か!」
頭上のヤエが叫ぶ。
ニライは瞬時に身を翻そうとしたが、背後は既に壁だった。
「ひひっ、やっぱり本物だ。……おい、見ろよあの腕」
商人の視線は、もうニライの顔にはない。
彼女の右腕――布がズレて露出した『貝輪』に釘付けになっていた。
「間違いねぇ。『ゴホウラ』だ……! しかも、こんなデカくて傷のない極上品、ヤマトの王族だって持ってねぇぞ!」
「えっ……? これ?」
ニライはキョトンとして自分の腕を見た。
「これ、ただの貝殻さね。故郷の浜で拾った……」
「馬鹿め! 魚一匹だと? その貝輪一つで、小国(クニ)が一つ買えるんだよォッ!」
男が豹変し、獣のように飛びかかってきた。
ニライの腕を掴んだその手。
手の甲には、赤黒くただれた発疹が浮いていた。
それは、水銀(毒)を用いて精製された黄金に取り憑かれ、昼夜を問わず触れ続けた者特有の、欲望の代償だった。
「よこせぇぇッ!」
「触るなッ!」
ニライは野生の反射神経で男の手を弾いた。
だが、多勢に無勢。
背後から別の男が布袋を被せようとし、さらに足元をすくわれる。
「きゃあっ!?」
体勢を崩したニライの頭から、ヤエ人形が滑り落ちた。
「ニライッ!」
「離すさね! ハク! ハクゥゥッ!」
ニライの抵抗も虚しく、彼女は布袋を被せられ、担ぎ上げられた。
商人が、地面に落ちたヤエ人形を汚いものでも見るように蹴り飛ばした。
「ケッ、気味の悪い人形だ。……おい、ずらかるぞ! その女(宝)を『顔役』のところへ運べ! 腕を切り落とすのはそれからだ!」
男たちは嵐のように去っていった。
残されたのは、静寂と泥。
路地裏の水たまりに顔を突っ込んだまま動かない、小さな木彫りの人形。
そしてその横には、泥に塗れた白い布――ついさっき、ニライが「ハクとお揃いだ」と喜んで巻いていた包帯が、無惨に捨てられていた。
……ピクリ。
人形の指が、微かに泥を掻いた。
「……許さぬ」
泥水の中から、地獄の底から響くような怨嗟の声が漏れる。
「私の……ニライを……」
「よくも……泥を……!」
人形の目が、一瞬だけ赤く明滅した気がした。
遠くで、雷鳴のような音が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます