境(サカイ)編

第5話 欲望の港と、濁った黄金

 風が変わった。

 そう感じたのは、生駒(イコマ)の山並みが、東の空をギザギザと切り裂くように見え始めた頃だった。


 瀬戸内の、あの穏やかで湿った潮風ではない。

 もっと重く、粘りつくような風だ。


「……うへぇ」


 俺は思わず鼻をつまみ、顔をしかめた。

 風に乗って漂ってきたのは、強烈な「生活」の臭いだ。

 魚の内臓が腐る臭い、獣肉を焼く煙の臭い、排泄物のアンモニア臭、そして万単位の人間が発する脂ぎった体臭。

 それらが湿気た海風でごちゃ混ぜに撹拌され、見えない壁となって俺たちを出迎えていた。


「ハク、なんか臭いさね! すっごく賑やかな匂いがするさね!」


 船首で仁王立ちしていたニライが、犬のように鼻をひくひくとさせて振り返った。

 彼女にとっては、この悪臭さえも「賑やか」というポジティブな評価になるらしい。野生児の感性は実にたくましい。


「おい、荷物持ち。なんだこの不浄な空気は」


 対照的に、俺の腰からは氷点下の声が響いた。

 ヤエ人形が、不快そうにその木彫りの顔を背けている(ように見える)。


「私の美しい木肌に、穢れが染み付くではないか。……おい、私を高い位置に掲げよ。低いところは空気が澱んでいて敵わん」

「へいへい。……ほらよ、これで満足ですか」


 俺はため息交じりに人形を外し、荷物の一番上――麻布を巻いた竹籠の上に鎮座させた。

 ヤエは「ふん」と鼻を鳴らし(たように見え)、満足げに周囲を見渡し始めた。


 (……しかし、奇妙だな)


 俺はふと首を傾げた。

 こいつはただの木彫り人形だ。鼻の穴なんて彫られていないし、呼吸もしていない。

 なのに、なんで「臭い」や「空気の澱み」がわかるんだ?

 霊的な穢れを感知しているのか、それとも……俺の知らない間に、変な機能でも身につけたのか?


「……ま、鋭いこって」


 俺は考えるのをやめ、視線を前に戻した。

 目の前に、その街はあった。

 『境(サカイ)』。

 『ヤマト』の玄関口。

 ヤマトへの緩衝地帯(バッファーゾーン)として機能する、地図にない都市。

 

 入り江には、蛇腹のような帆を掲げた大陸の大型船から、丸木舟、葦船(あしぶね)に至るまで、ありとあらゆる地方、時代の船が無秩序に係留されている。

 砂浜には杭を打って布を張っただけのテントや、流木を組んだ掘っ立て小屋がカビのように密集し、そこから無数の煙が立ち上っている。


「……ひどいもんだ」


 俺は思わず苦笑した。

 大陸の都・『洛陽(ラクヨウ)』の、あの碁盤の目のように整備された美しい街並みとは比べるべくもない。

 ここは巨大なゴミ溜めだ。

 だが同時に、この島で最も生命力が溢れ、欲望が剥き出しになっている場所でもある。


 船を強引に桟橋へねじ込み、俺たちはその熱気の中へと足を踏み入れた。


 一歩歩くごとに、音の奔流(シャワー)を浴びる。

 倭国の言葉だけじゃない。大陸の訛り、半島の方言、南方の言葉……共通語を持たない連中が、身振り手振りと大声で商談を成立させている。

 

「おい! そこの兄ちゃん! いい槍があるぞ! ツクシの戦場跡から掘り出した一級品だ!」

「こっちの壺を見ろ! ヤマトの貴族様が使ってた本物の土器だ! 水が漏れねぇぞ!」


 右からは武器商人の怒号、左からは骨董屋の売り文句。

 俺は愛想笑いでそれらをかわしながら、市場の奥へと進んだ。

 ふと、ある露店の前で足が止まった。


 干した獣肉を売っている薄汚い男が、客と何やらやり取りをしている。

 客の男が、懐から小さな革袋を取り出した。

 俺の目は、その中身を見逃さなかった。


 キラリ、と鈍く光る黄色い粒。


 (……砂金か)


 この国じゃ、通貨といえば鉄か、あるいは米や塩のはずだ。

 だが、この市場では当たり前のように「金(ゴールド)」が動いている。

 それも、俺が瀬戸内で見たのと同質の、妙に赤黒く濁った金だ。


「……ハク、どうしたさね? 怖い顔してるさね」


 ニライが不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。

 俺はハッとして、眉間の皺を解いた。


「いや……なんでもない。ただ、ちょっと鼻につく臭いがしただけだ」

「臭い? 干し肉の匂いなら、いい匂いさね!」

「そうじゃない。……もっとタチの悪い、死人の臭いだ」


 俺は小声で呟き、視線を切った。

 あの金からは、微かだが水銀の刺激臭がする。

 アマルガム法で無理やり抽出された、命を削って作られた金。

 ヤマトの豊穣(ひかり)の裏には、とんでもなく深い闇が埋まっているらしい。


「あーっ! ハク、あれ見て! キレイな色の石がいっぱい売ってるさね!」


 ニライが歓声を上げ、露店の一つへ駆け寄ろうとした。

 俺は慌ててその襟首を掴んで引き戻した。


「おい、待てバカ! 勝手にふらつくな!」

「えーっ! なんでさね! 見るだけならタダさね!」

「ここは『見るだけ』で済むような甘い場所じゃないんだよ。……それに、お前」


 俺は周囲を警戒しながら、彼女の右腕を布で覆った。

 そこには、彼女が故郷から持ってきた『ゴホウラの貝輪』が、無防備に輝いていた。


「その腕輪、絶対に人に見せるなよ。いいか、絶対だぞ」

「むぅ……ハクは心配性さね。こんなただの貝殻、誰も欲しがらないさね」


 ニライは不満げに頬を膨らませたが、俺の真剣な眼差しに渋々といった様子で布を巻き直した。

 だが、巻き終えた自分の腕と、俺の左腕を見比べて、ふと悪戯っぽく笑った。


「でも、これならハクと『お揃い』に見えるさね」

「あん?」

「ハクも包帯、私も包帯。……ね、お揃い!」


 ニライが嬉しそうに、布を巻いた腕を俺の左腕に並べてみせる。

 俺は思わず苦笑した。

 俺のこれは「罪人の証」を隠すための包帯で、お前のそれは「国宝」を隠すための布だ。中身の価値は天と地ほども違うってのに。


「……へいへい。仲良しこよしで結構なことだ」

「えへへー」


 ……やれやれ。

 この「歩く国宝」を連れてこのスラムを歩くなんて、火薬庫の中で火遊びするようなもんだ。


「行くぞ。まずは情報収集だ。……この街の『裏口』がどこにあるか、探らなきゃならない」


 俺たちは人混みをかき分け、さらに深く、混沌の奥へと進んでいった。

 その背中を、ねっとりとした視線がいくつも追っていることに、ニライはまだ気づいていない。

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