参:人の心、他人知らず

 コンクリートの地面が、足元へ陽炎を忍ばせる夕暮れ時。

 賑やかな大通りから一本小道に入ると、途端に喧騒が遠のいて行く。道の先には一件の店──『小間物屋ゆうつづ』が、ぽつんと建っていた。

 人気のない道を、時折ハンカチで顔を拭きながら歩く男は、中年と呼ばれるくらいの年齢だと窺える。グレーのスーツを纏い、ネクタイを緩め、ジャケットを腕にかけて、鞄を持っているので、退勤途中の社会人なのだろう。


 店の扉についている取っ手に、男性の手が伸びる。しかし、触れる直前で動きを止めた。この扉を開けようか、躊躇っているようだった。

 少しの後、深呼吸をしてから男性は取っ手を掴み、ゆっくりと開いた。蝶番は鳴らず、一歩を後押しするように、熱い外気が店内に吹き込んで行く。


「いらっしゃい」


 黒い髪の、背の高い女が店の中にいた。紺色の着物に、白っぽい水色のレースストールをかけている。店主は、汗一つない顔で微笑んだ。

 彼は、ひんやりとした店内の空調にほっと息を吐いてから、首筋の汗を拭う。整然と並べられた商品棚と、綺麗に置かれた品物に、少し萎縮しているようにも見えた。

 視線が左右へ流れ、何かを言おうとして口篭る。そんな彼に、店主は何も言わず、ただそこに立っている。

 暫くして、とても言いにくそうながら、彼は口を開いた。視線は、床に向けられている。


「あの、私のようなおっさんが来てしまい、申し訳ない。素敵なお店ですね……どの品も、とても綺麗で」

「ありがとう。でも、大丈夫。この店は、誰も拒まないから」

「そうですか、ハハ、それはありがたい。いやあ、私が若い頃は、こんな素敵な店におっさんが入るなんて、ほら、あんまり良い顔はされなかったものですから」

「そうね、でも時代は変わるものよ。可愛いものが好きなおじさんがいても、格好良いものが好きな女の子がいても、どちらにも興味がない子がいても、それを〝個性〟と括るようになったでしょ?」

「ええ、確かに、そうですね。……ああ、すみません。無駄話が長くって。家内にも、余計な話が多いって、ハハ、言われちゃって。それでですね、あの。恥を忍んでの相談があるんです。この店は、その、願いを叶えてくれる店だという噂があると、会社の若いのから聞きまして」

「相談ごとね。じゃあ、奥へどうぞ。悩みに沿って、わたしが出せる選択肢を提示するわ」


 店主は静かに頷いて、レジ横にある引き戸を開いた。カラカラと軽い音が、店内にそっと広がる。彼は、店主との距離を保ちつつ、その後に続いた。

 部屋の中央には絨毯が敷かれており、その上に黒い正方形のテーブルが置かれている。対面になるように、同色の椅子も配置されていた。

 正方形のテーブルの上には、アイスコーヒーが黒い氷と共にグラスへ注がれている。表面に結露は見えない。


 部屋の奥側にある椅子に座った店主が、席へ着くように促した。ジャケットを背もたれにかけ、椅子の横に鞄を置いてから着席した彼は、小さく息を吐く。

 店主は、急かさなかった。席に座ってから、「まずは、アイスコーヒーでもどうぞ。外は暑かったでしょう」とだけ告げて、片手で自分の分のグラスを持ち、ストローを咥える。

 彼も、それに倣って一口分、アイスコーヒーを飲んだ。店の中には、喧しい蝉の声は届いていない。


「美味しいですね、このアイスコーヒー。……ええと、それで。はい、相談なんですけどね。ほら、ここ数年、暑さがずっと厳しくなって来たでしょう? それで、あの、やっぱり、気になるんですよ。汗の臭いっていうのが。うちには、娘がおりましてね。中学生の娘です」

「天然のサウナかと思うくらい、外は暑いものね。わたしも、夏の間は冷房を切れない状態よ」

「ハハ、分かります。電気代がかかると分かっていても、熱中症になるより、ずっとマシですからね。ああ、それで、その。娘が、通学中電車に乗っていると、おじさんの臭いが気になる、と言うんです。加齢臭とか、汗の臭いとか。臭い、隣に来られると最悪、と。その時は笑って流しましたけどね、……どうにも、気になって」

「自分の匂いは、自分ではあまり分からないものよ」


 彼は、苦味を滲ませながら笑った。その通りですね、と頷いて、それから肩を落とす。

 相談事というのは、その匂いについてだと言う。歳を重ね、おじさんと呼ばれるような年齢になって、段々加齢臭も気になる頃に差し掛かっている。だからこそ、娘の言葉が気になって仕方がない。

 自分は、誰かに娘が感じたような嫌な思いを、させてはいないだろうか。もし、させているのだとしたら、それは申し訳ないことだ。特に、夏の満員電車では。


 汗対策グッズを、こっそりドラッグストアで購入し、使用していると彼は言う。汗もこまめに拭き取るようにしている。だが、外に出ると、そんな努力が水の泡になるほどに暑い。汗は拭いても拭いても出てきてしまう。

 気にしすぎかもしれない。分かっているが、そういう性分なので、気にしないなんてことも出来ない。日々答えの貰えない不安に悩んでいる時、仕事中の雑談で、部下から「願いが叶う店」「願いごとが叶う商品を売っている店」──つまり、この店の話を聞いたのだそうだ。


 初めは、信じなかった。むしろ部下が何らかの霊感商法に引っかかっているのではないかと、心配したくらいだと、少し言いにくそうに呟いた。

 そんな時、喫煙室でたまに話をする同僚から、自分の娘がこの店で欲しかったぷくぷくシールを手に入れて毎日ご機嫌だ、という話を聞いた。小さな子が、欲しかったものを手に入れる。それは確かに、願いが叶ったと言えるだろう。

 だから、警戒心が少し解けて、実際に店へと足を運んでみた。ダメで元々、何か良い商品があれば、家内や娘に買っていくのも良いかもしれない、と。

 店主は、それらの話を、時折相槌を打ちながら静かに聞いていた。


「なので、ええ。失礼なことだとは思いますが、そういった経緯で訪れたのです」

「誰かの言葉を頭から信じすぎない、というのは良いことよ。それに、わたしにとっては貴方がお客としてこの店に入った、という事実で十分」

「そうですか? そう言って貰えると、私も、はい、ほっとしました」

「じゃあ、品物を持ってくるから、少し待っていて」


 椅子から立ち上がって、引き戸を開けて商品棚が置かれている店内スペースへと、店主は一人で向かう。彼は、「はあ」と気のない返事ながら、頷いた。

 暫くして、純白の布が敷かれた木のトレーを持ち、店主が戻る。四角形のテーブルの真ん中に、それをそっと置いた。

 木のトレーの中央には、ハンカチが三枚と、値札が一つ乗っている。どれも品の良い、普段使いに適したシンプルなデザインのものだ。値段も、ハンカチにしてはほんの少し高い程度で、誤差の範囲内と言っても問題はない。


「貴方にわたしが提示できる選択肢は、二つ。このハンカチを使うか、使わないか」

「……このハンカチは、汗の吸収力が良いとか、脱臭機能があるとか、そういうものですか?」

「いいえ。手触りは、とても良いわよ」

「は、はあ……なるほど?」

「わたしが出来るのは、これを出すことだけ。後は、貴方の選択次第よ」


 困惑した顔で、ハンカチを見つめる。特別な機能のない、手触りが良いだけのハンカチ。これで願いが叶うのだろうか、そういった疑心が、彼の瞳に浮かんでいた。

 店主は、それ以上言葉を重ねなかった。時折アイスコーヒーを飲みながら、答えが出るのをゆっくりと待つ姿勢を保っている。


 暫くの沈黙の後、彼は、店主に向かって頷いた。

 その顔には、ほんの少しの期待が浮かんでいたが、それよりもハンカチを気に入った、という側面が強いのだろうことが、布地にそっと触れる指先から察することができる。


「いただきます。どれも、素敵なハンカチですね」

「ええ。それじゃあ、もう三つ、伝えておくわ。このハンカチは、同じものを連日使わないこと。そして、洗う時は、貴方が手洗いすること。自分でするのよ」

「はあ、自分で、ですか。洗濯機ではダメなんですか?」

「ダメよ。最後に、このハンカチは夏場以外使わないこと。夏場の定義は、貴方が〝今日は夏だと思うか〟で判断して頂戴」

「それは、随分不思議な条件ですね。ええと、はい。連日同じものを使わない、自分で手洗いする、夏場以外は使わない、ですね。分かりました」


 それから、店主と彼はいくつか雑談を楽しんだ。時事的な話から、娘のことについての悩みなどを聞き、アイスコーヒー二杯分の時間が過ぎた頃、どちらともなく立ち上がって、会計を済ませる。

 三枚のハンカチが入った白い紙袋を鞄にしまい、男性は入店時に比べて明るい表情で店を出て行った。店内に入り込んだ熱は、もうない。


「良き人生を」


 朝と夜には秋の気配が近づいてきたものの、昼間は夏の気配がまだまだ色濃い頃。

 店主は、馴染みの神主と共に、涼しい店の中で温かな緑茶と栗きんとんを味わっていた。

 どちらともなく話し出して、それがふと途切れたら暫く心地よい沈黙を楽しむ。そしてまた、気が向いた方が口を開く。


「そういえばこの前、電車に乗ったんですよ。久しぶりにね、でも、いやあ、疲れましたね」

「貴方、いつも車で移動しているものね」

「ははは、それもありますけどね。電車には、色々な人が乗るでしょう? 大勢の、ほら、匂いが混ざりますから。どうにもそれが合わなくて」

「あれはもう、我慢と慣れよ。貴方には向かない、それだけ」

「ええ、まさに」


 こぽこぽと、急須から緑茶が注がれる。神主の手の中にある湯呑みからは、良い香りが漂っていた。

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