弐:ぷくぷくシール、思い出に一つ

 人気の多い大通りから目立たない小道に入ると、その先には一件の店が、陽の光に優しく照らされながら建っている。

 地面を心做しか早足で蹴る足は、小さいながらしっかりとしている。まだまあるい頬をピンク色に染めた少女が、その店——『小間物屋ゆうつづ』の前へと立った。

 小学生低学年ほどに見える少女の、その足取りには、迷いがなかった。


 少女の後ろから、若い女性が遅れてやってくる。少し困ったような顔ながら、そのはしゃぎようを愛らしいという眼差しで見つめているので、少女の母親なのだろう。

 隣に追いついた母親の手を小さな手で握って、早くと急かすように揺らしている。


「先に行っちゃだめよ、危ないでしょ」

「だってえ。ねえママ、はやくはいろー! かわいいシール、あるかなあ?」

「もう。ふふ、あると良いわね」


 母親の手が、扉の取っ手にかかる。音もなくゆっくりと開いた店の扉は、その隙間から先に風を迎え入れた。それに続いて少女が入り、母親が後に続く。


「いらっしゃい」


 店の中には、背の高い女がいた。桜色の着物を纏い、緑色の薄いショールを肩にかけた、店の店主だ。

 整然と置かれた商品棚と、そこに美しく陳列された商品たちに母親の目は少し惹かれたようだが、わくわくとした表情で手を引く娘の顔を見て、微笑みながら頷いた。

 母親から許可が出た、と、彼女は期待に輝かせた瞳を、店主に向ける。


「こんにちは! えっと、ぷくぷくシール、ありますか! かわいいのがいいです!」

「ええ、勿論。こちらへどうぞ」

「はあい! ママ、いこ!」

「え、ええ……」


 商品が並べられている棚を通り過ぎ、レジ横にある引き戸を開いた店主に、母親が困惑を滲ませつつ、手を引かれながら共に店主の後を追う。

 引き戸の向こうの部屋には、真ん中にカーペットが敷いてあり、その上に背の低い丸テーブルと一人がけソファが一脚、二人がけソファが二脚置かれている。店主は、部屋の隅にある棚の中から木のトレーを取り出し、丸テーブルの真ん中に置いてから一人がけソファに腰を下ろした。

 向かいの二人がけソファには、「どうぞ、座って」と促された母娘が座る。ふかふかのソファの座面で、少しだけ体をぽんぽんと跳ねさせた彼女が、母親に窘められる、ということはあったが、店主はそれを微笑ましく見るだけだった。


 丸テーブルの上には、木のトレー以外に甘いココアが一つと、紅茶が二つ置かれていた。紅茶は薄らと湯気が立ち上っているが、ココアは火傷しない程度の温かさになっている。

 行儀良く「いただきます」と言ってから口をつけた彼女が、息を吹きかけずに一口飲んだことから調度良い温度だったと窺える。


「わたしが提示できる選択肢は、二つ。このシールを選ぶか、選ばないか」

「わあっ、かわいい! あたし、これがいい!」

「え、いいの? 他にも見なくて、本当に大丈夫?」

「うんっ、これ!」


 純白の布が敷かれた木のトレーに乗っているのは、三枚のシートだった。ぷっくりと膨れた——所謂ぷくぷくシールと呼ばれるものが、彼女のきらきらとした眼差しを一身に受けている。

 そんな様子を驚いたように見ていた母親は、紅茶を静かに飲む店主に対して、他のお店も回ったのだが、娘はどれも「ちがう」と言って聞かなかったのだと言う。

 シールに夢中になって、シートを一枚ずつ手に取り、じっくり見つめては満足そうにむふー、と鼻から息を吐く彼女。その姿を、店主と母親は沈黙と共に微笑ましく見守った。


 小さな手がシールシートを持ったまま、何度も何度も角度を変えて眺めている彼女を視界に収めつつ、店主は時折相槌を打ちながら母親の話を聞いている。お茶菓子にと出したマドレーヌを作っているケーキ屋の話だったり、娘のおませ具合だったり、内容は様々だった。

 大人二人が二杯目の紅茶を飲み始めた頃、満足したらしい彼女が、シールシートを木のトレーにそっと置く。壊れ物に対するようなその扱いが、また微笑ましい。


「これ、ください!」

「ええ。それじゃあ、二つ、約束をしてくれるかしら」

「やくそく?」

「そう、約束。このシールを、素敵に扱うための、約束」

「うんっ、いいよ!」

「良いお返事ね。でも、こういう時は、どんな約束か聞いて、考えてから返事をするものよ」

「そうなの?」

「そうなの」


 元気いっぱいに頷いた彼女に、店主はふと息を吐きながら笑う。

 まだどういう意味か、深く理解してはいないだろうが、それでも構わない、という言い方だった。いつか頭の片隅から浮かんでくれば、それで良いと。


「約束は、二つ。一つ目、シールシートには、一枚につき一つ、必ずシールを残すこと。外してはダメ。二つ目、このシールをお友達にあげても良いけど、一度あげたら──手放したら、貴方の元には戻ってこない」

「んと、んーっと。どうして、ぜんぶとっちゃだめなの? もどってこないのは、どうして?」

「一度差し出したものは、同じ姿で戻ってこないからよ」

「ふうん。あげたら、なくなっちゃうもんね」

「そうね。だから、考えてから、ね」

「わかった。シールは、えっと、これひとつに、いっこだから……みっつ、のこす! おともだちとシールこうかんするときも、ちょっとかんがえてからにする!」

「そう、貴方の選択を尊重するわ」


 不思議な約束だ、と思っていそうな顔ながら、母親は口を出さずにその商談をただ見守っている。

 店主の言葉にあまりピンときていない様子ながら、彼女はしっかりと頷いた。シールシートの数を数え、一シートにつきシールを一つ残す、と幼い言葉で自分に言い聞かせている。ちゃんと覚えた、という自己暗示だろう、首を縦に大きく振った。


 シールシート三枚セットの値段は、既に提示されている。大人からすれば、シールに出す金額としては少し高い程度だが、小学生のお小遣い額を考えれば、ギリギリ手が届くかどうか、というところだ。

 彼女は、肩からかけていたバッグの中から財布を取り出し、母親の手を借りながら、お金が足りるか計算をしている。それを急かすことなく、店主はティーカップに唇をつけた。


「おかね、たりた! おねーさん、おかいけー、おねがいします!」

「ええ。その前に、ココアとマドレーヌ、どうぞ。苦手かしら?」

「ううん、だいすき! いただきます!」


 気に入ったシールを買えることが余程嬉しいのだろう、頬を赤く染めながら、ココアが入ったマグカップを両手で持つ。

 先程までとは違い、よく笑いよく怒り、時々ませたことを言う彼女が中心になりながら、暖かな陽の光が差し込む部屋で三人はのんびりとした午後を過ごした。


 最後までしっかりと自分で会計を済ませた少女は、白い紙袋を大切そうに持ちながら、母親と共に店を出て行った。

 扉を潜る前、深く頭を下げた母親と満面の笑みで大きく手を振る少女に、店主も袖を押さえながら小さく手を振る。その微笑みは、とても穏やかなものだった。


「良き人生を」


 三日月がはっきりと空に浮かぶ日の夜、店主は白いお猪口に口をつけていた。辛口の日本酒は、既に瓶で三本空いている。

 お猪口の水面に映り込んだ月は、どこかぷっくりとしているように見えた。

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