第五話 悪習
この国では長年、知を魔道師が司ってきた。
科学では説明できない超常的な魔術を操る魔道師の知見が、常識を左右した。帝国魔術学院の卒業生が文官の上位を占め、魔道師の祈祷や進言により政治の方針が決まることも歴史上多々あった。
この数百年、皇族や貴族の間で全身入浴の習慣がなかったのもそのためだ。多くの国民が命を落とした疫病が大流行した際、その当時に権勢を振るっていた特級魔道師が、
「入浴して毛穴が開くことで、そこから水中や空中の病原菌が体内に入り込む。疫病の原因は入浴である」
と断言したことで、湯に浸かる入浴は忌み嫌われ、石鹸で身体の表面の流れを落とすことが清潔の方法とされた。悪臭が当然とされる時代である。
先帝の世までは、皇宮内でもそれが常識だった。だが、現在の皇太后の美の感性は先鋭的で、皇后時代から率先して入浴で身体を整えていた。魔道師からどう言われようと、命よりも美を優先するほどの覚悟である。
十年前に先帝が崩御し、二十五歳で帝位を継いだ現皇帝も母の影響で風呂好き。公衆浴場が作られるほどに入浴文化は次第に一般化している。だが
「愚か者が。魔術を軽視すれば、国は滅ぶ。知の無き蛮国は国にあらず」
口の止まった
「あんたの言う知とは、魔術の領域の中の後付け知識に過ぎねえんだよ。愚劣な知に操られる国なら、知の無き蛮国のほうがまだマシだ」
「魔術を愚弄するか」
「魔術は別にいい。それを変に政治利用する魔道師の老害どもがこの国の進化を阻んでるんだ。魔道師なんていなけりゃ、この国の文化と科学は百年は早く進んでたぜ。実際この十年、重商主義が進んでうちの国家財政は大陸史上最大の豊潤だろうがよ」
「浅い思考よ。たかが調香師の分際でさえずるな。おぬしの仕事など、香りのお遊びに過ぎぬ」
「そのたかが調香師の香りのお遊びが、莫大な利益と豊かさをこの国にもたらしてるって言ってんだよ。オレはな、四千以上の草花の香りを緻密に組み合わせて次の時代に活きる芸術品を生み出してるんだ。それに比べりゃ、たかだか火水木金土の五元素だかを組み合わせてるだけの魔道のほうが、お遊びにしか見えねえぜ」
「魔術を知らぬ者に、その奥深さは分からぬわ」
「あんたらそんなに雁首並べてその奥深さと戯れて、それでどれだけの国益を生み出してるってんだよ。一銭も生み出せない魔術など、オレから見ればただの手品みたいなもんだ。いや、手品師のほうがよっぽどおひねりで稼いでるな」
「おまえは世の上辺しか見えておらぬ。我が帝国の発展は、魔術によって護られているからこそであろう。魔術無くば、この国はとっくに魔界の魔物どもに食い潰されておる」
「魔術はその魔物どもの魔力ってのを応用してるんだろ。はびこる魔物は撃退してきたかもしれないが、その魔物の数が減るに従って魔術界隈も魔力の補給のしどころがなくなってるじゃねえか。魔術なんてそんな矛盾を孕んでいる過去の遺物だってことに気づけよ。古臭い魔術なんかなくとも、この国は利益で護られて、文化と芸術で発展していくんだよ。退場しねえならおとなしく手品してろ」
「おのれは……」
無礼な訓薫鳳の暴言に、燕該曜は声を振るわせ始める。それ以上に憤怒している曹牙陵が青筋を立て、再び薫鳳の肩に杖を圧し当てようとした。
薫鳳は閉じた扇子を曹牙陵の杖に当てて横に押し払うと、ひょいと首を伸ばして、燕該曜の後方にいる十数人の魔術師の中の一人に視線をやった。
「該曜どのの後ろの後ろの、そこのあんた。そう、少し背の低いあんただ」
曹牙陵以外の魔術師全員が被り付きの外套を身につけているため、顔がほとんど見えないが、薫鳳が話しかけたのは他よりは小柄の魔術師だった。
「あんたも入浴拒否の習慣を断れないみたいで、かわいそうだな。オレはさすがに陛下の公衆浴場ほどの広さではないが、山に自前の温泉を持ってるぜ。そんな臭えだけの悪習はやめて、麗しき香りの湯に癒されないか。若い女性なら大歓迎だ」
薫鳳の言葉に、燕該曜をはじめ魔術師一同がざわつく。慇懃無礼への怒りよりも、頭巾で顔が見えないはずのその魔術師を女性だと見破った薫鳳の洞察力への驚き。人の香りを遠くからでも見分けられるという薫鳳の嗅覚を目の当たりにして、動揺が起こっている。
その一同の様子を見て、薫鳳はなおさら鼻で笑い、俯いて顔をさらに隠そうとしている小柄の魔術師に言葉を投げ続ける。
「若き才女がオッサンどもに紛れてオッサンどもの悪習に従う必要もないだろ。せっかく女という性別に生まれながら、もったいない。女に生まれたんなら、もっと綺麗好きを目指したらどうだ。女は香りを磨けば、男はもっと喜んで、女はもっと生きやすくなるぜ。女ならもっと芳しくなれよ。そもそも女は男に比べて身体の構造上、汚れが溜まりやすくなってい……、おっ?」
薫鳳の言葉がノリに乗ってきた時、横から飛びかかってくる若者の姿が目に入った。右手を大きく振りかぶって飛び込んできた
大きな音が響き、薫鳳はよろける。体勢を立て直そうとする薫鳳に、玻璃はさらに右足で蹴りを入れようとした。慌てて祖父の玻丈が背後から手を回して玻璃を押さえる。玻璃の興奮は止まらず、絶叫に近い叱責の声を上げる。
「あなたねえ、どれだけ鼻が利く偉い奴か知らないけど、女性のことを何だと思ってんの! ふざけるな」
玻璃は男から「女ならこうしろ」「女ならこうすべき」などと言われると、頭に血が上る。薫鳳の偏見の発言は許せなかった。
羽交い締めにされながらも獰猛に食いかかろうとしている紅玻璃。痛む頬をさすりながら目をぱちくりしている訓薫鳳。そして、何を見せられているのか分からず呆然としている燕該曜や曹牙陵と魔術師一同。
庭園の一角は、微妙な静寂が漂う空間と化した。
(つづく)
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