第13話 観測者のいない世界で(結月said)

 私は、白瀬結月という人間を愛したことが一度もない。

 勉強も頑張った。本当は苦手な人付き合いも、頑張って完璧を目指した。クラスのみんなに嫌われないように悲しいときも笑顔でいた。嫌いなにんじんだって食べた。

 鏡に映るのは、手入れされた髪、汚れのない制服、そして「お父さんお母さんが望む完璧な娘」を演じるための無機質な微笑み。

 息が詰まる……苦しい……

 いつからか、自分の呼吸の音さえ、誰かに許可を取らなければいけないような気がしていた。私は私ではなく、白瀬家という家を飾るための、一番高価な調度品に過ぎなかった。

 お父さんとお母さんを恨めたら、どんなに楽だっただろう。

 二人は、私を愛している。それは本当のことだ。

 私を縛る鎖は、棘のついた鉄鎖ではなく、柔らかくて逃げ場のない善意という真綿だった。


「あなたのためなのよ」


 その言葉を言われるたびに、私の意志は削られ、彼らの望む形に塗りつぶされていく。

 女の子はお淑やかにと言われて、やりたかった剣道部は諦めた。私には夢があった。夢に向かって勉強したかった。私なんかの夢の為に両親のお金は使いたくない。夢の為にアルバイトをしたかったが両親は許さなかった。夢を叶えるための勉強も両親に鼻で笑われた。私の夢は歌手になることだった。銀行時代のお母さんが支店のカラオケ大会で優勝したと聞いた。お母さんの歌はとても上手で私の自慢だった。私も歌が大好きになって。無理かもしれないけど、歌手になりたいなと思った。……でも、この夢は否定された。

 

 あの頃に戻りたい。お父さん、お母さんと一緒に遊んだ小さな児童公園。砂場の脇の小さなステージで私とお母さんはコンサートをした。お客さんは、お父さんだけ。だけどみんな笑顔で幸せだった。

 あの頃に戻りたい。でもそれはもう叶わない願いだ。もうすべては手遅れだ。

 もう私の心は、ぐちゃぐちゃだ。ぜんぶぜんぶ、嫌になった。

 反抗すれば、二人は悲しむ。悲しませる私は悪い子になる。

 だから私は、事務所と契約した。悪い子になれば、彼らは私を捨ててくれると思った。自由になれると思った。もしかしたら、私の夢も叶うかもしれないとも思った。


 ……これは悪い子への罰だろうか。事務所との契約は、歌手の練習生になって寮で歌の勉強をできると聞いていたけど、私がサインした契約書は、高額なレッスン料を1週間以内に振り込むというものになっていた。事務所のスカウトさんは優しかった。私の悩みを聞いてくれて、慰めてくれて、閉ざされた私の道を指し示してくれた。私は、スカウトさんを信じてしまい、こんなものにいつの間にかサインしていた。


 高額のレッスン料を払うか、同額の契約解除の違約金を払うか、私は迫られた。

 スカウトさんは、私ならお金を稼ぐ方法はいくらでもあるから、借金して一旦払う方法もあると教えてくれた。私を騙した人だ。私だって子供じゃない。女が大金を稼ぐ方法なんて体しかない。でもそれでも良いと思った。

 この窒息しそうな、世界から逃げられるなら。

 けれど、彼らの愛はそれすらも飲み込んだ。「お金で解決して、なかったことにしましょう」と笑う二人。私の絶望は更に深くなる。彼らにとっては、私の悲鳴、諦め、覚悟は「なかったことにできる程度のこと」でしかなかったのだから。

 心の傷がなかったことになんかに、なるわけはないのに。


 だから、私は決めたのだ。

 誰にも汚されず、誰にも管理されない、私だけの自由を手に入れる方法を。

 それが、死ぬことだった。

 命を絶つ瞬間だけが、私が私の意志で行える、最初で最後のワガママ。


 私は、自分自身に呪いをかけた。

 今日の夜午前零時。その瞬間に私は消える呪いを。


 そう決めたとき、初めて呼吸が深く吸えた気がした。ステータスが空っぽになったのは、悲しみではなく、ようやく手に入れた終わりへの安らぎだった。


 それなのに、あの人は。

 空森君は、私の 無 を、土足で踏み荒らした。

 学校でなすがままにいじめられた私を助けようとして保健室行きになった。

 私の見つけた最後の自由になる方法を 呪い なんてよんだ。

 ボロボロになって、鼻血を出しながら、私にチキンの話を笑いながらする。日野さんが二つ食べたなんて、そんなの、私の人生には一秒も必要ないはずの情報なのに。


(……変な人。本当にかっこ悪い、弱いし……だけど……)


 私のために殴られている彼を見たとき、空っぽだった胸の奥が、焼けるように熱くなった。

 痛かった。悲しかった。

 彼が私の代わりに流した血が、私の心の 透明な虚無 を、鮮やかな赤に染め上げてしまった。


「自分で死を選ぶのが自由なんて、そんなの、自由なんかじゃない!」


 彼の叫びが、私の 呪い の土台を粉々に砕いていく。

(……生きたい。初めて、そう思ってしまった)

 

 私の心臓が、痛いくらいに脈打っている。空っぽだったはずの胸の奥で、ずっと止まっていた私の時間が、今、動き出した。




設定紹介

白瀬 結月・・・にんじんも慣れてくると結構おいしい。にんじんのきんぴら(金平)が好き。

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