第7話 善意という名の毒素
「……ひどい顔ね」
白瀬さんの消え入りそうな声が、湊の腫れた頬に響いた。視界が歪む。流れ込んでくるのは、絶望と憤怒、そして逃げ場のない場所で自分を押し殺し続ける窒息しそうな苦しみ。
「……あなたはどうして、私の邪魔をするの……」
ステータスに現れたどす黒い感情とは裏腹に、彼女はすべてを諦めたように優しく微笑んでいた。「だけど、ありがとう……」。その歪な感謝の言葉が、湊の胸を鋭く刺した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
白瀬と別れた後、湊はふらふらとコンビニへ向かった。
精神が限界だった。頭痛が酷く、視界の端でノイズのようにステータス画面がちらついている。悪意なら、あの芸能事務所の連中なら、殴って解決できた。だが、彼女を縛り付ける「鎖」の正体は、彼女自身が自分にかけた呪いだった。
湊はレジ横のホットスナックコーナーで、チキンを二つ手に取った。
学校の帰り道、いつもの公園。日野がいつものベンチに座ってゲームをしていた。
「ちーっす、空森君。ひどい顔だね!」
【名前:日野 陽葵】
【異常:空腹 98% (空森君が持っているチキンが気になる。もしかしたら……)】
(日野さんのチキンに対する期待感がスゴい……食べる前からこんがり色のオーラが少し出ているね)
湊は無言でチキンの一つを日野に投げ渡す。
もぐもぐ、
もぐもぐ、
もぐもぐ、
日野は一切の邪念なく、ただ純粋な「食欲(大)」と「喜び(小)」のステータスを全身から発散させながらチキンを頬張る。
湊は、その裏表のない単純な感情を見て、ようやく自分の輪郭を保てた気がした。
(これで……収支プラマイゼロだ)
「じーーー」
(日野さんがじーと声に出しながら、僕の分のチキンを凝視している!口では何も言っていないのに、ステータスが雄弁すぎるね!)
【名前:日野 陽葵】
【異常:空腹 93% (もう一つのチキンも気になる。もしかしたら……)】
(人数は2人、チキンも2つ……それなのに2つ目まで食べたそうにしている!それに空腹が5%しか改善していない!)
湊は「やれやれ」と首を振る。だが、自分の空腹よりも、彼女の胃袋を満たしてこの底抜けに明るい空腹ステータスを消し去る方が、今の自分には必要な気がした。
湊は無言でもう一つのチキンを日野に投げ渡す。
もぐもぐ、
もぐもぐ、
もぐもぐ、
【名前:日野 陽葵】
【異常:空腹 88% (もぐもぐ、もぐもぐ、)】
(もぐもぐしか感じない……無心すぎるね。まったく空腹ステータスは消えてないし……)
2つ目のチキンにもぐもぐ中の日野は、こんがり色のオーラに包まれている。日野の純粋な心の色に、湊の心もこんがり色に完全に上書きされた。
(こんがり色になったら、なんだかお腹が減ってきたな。帰ろう……)
湊は、チキンを2つとも奪われるとは思わなかったが、目的である「自分の心の収支をプラスに変える」が大幅プラスで達成した。放課後の公園のベンチで一緒にチキンをかじることはできなかったが。少しの寂しさを感じながら、日野に背を向けて自宅に向かう。
「空森君、また明日ねー」(空腹:明日は何を食べさせてくれるの!わくわく!)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。湊は放課後、佐伯先生から聞き出した住所を頼りに、白瀬邸へと向かった。
叡川市の高級住宅街の一角。
そこにあったのは、手入れの行き届いた庭木と、どこか息苦しさを感じる、高く威圧的な塀に囲まれた邸宅だった。近所から見れば「立派なご家庭」なのだろう。だが、湊にはそれが「美しすぎる檻」に見えた。
塀の影に身を潜め、張り込みを行う。
陽が傾き始めた頃、一台の高級車が帰宅し、厳重な門が開いた。運転席から降りてきたのは、スーツ姿の男――白瀬さんの父親だろう。
湊は能力を発動し、父親のステータスを覗き見る。
【名前:白瀬 一馬】
【状態:義務感(極大)、支配欲(極大)、疲労(中)】
【支配感情(不純物0%):純粋な親心(娘に100%正しい教育をしているという揺るぎない確信)】
(これは……)
予想に反して、そこにあったのは真っ黒な悪意ではなかった。むしろ、その感情の核は、目を焼くような白――純粋な親心だった。
続いて、玄関から出てきた母親のステータスも視界に捉える。
【名前:白瀬 香織】
【状態:依存(夫へ)、不安(極大)、執着(極大)】
【支配感情(不純物0%):娘の将来への心配(自分と同じ失敗をさせたくないという強迫観念)】
どちらも、娘を想う感情は本物だった。不純物のない善意。
湊は激しい吐き気を覚えた。悪意なら撥ねのけられた。だが、この「娘のため」という善意こそが、彼女を死に追いやる呪いの毒素になっているという矛盾。
両親の会話が、塀の隙間から微かに聞こえてくる。
「結月のためには、これが最善だ」「私たちが守ってあげなくては」
その言葉を聞いた瞬間、湊の視界に白い霧がかかったような錯覚に陥る。
(……あれ、俺がやろうとしていることは、この家族を壊すだけなんじゃないか?)
頭の中に、彼らの「正しい」教育方針が流れ込んできた。「親の言うことを聞くのが一番幸せ」「私たちは間違っていない」。その思考が精神を汚染し始める。
【ステータス異常:思考汚染(結月の両親が望む善意):20%】
助けに来たはずなのに、彼女を否定する側に取り込まれそうになる恐怖。意識が朦朧とする。
(逃げないと……)
湊は背を向け、白瀬邸から逃げるように走り去った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
自宅に帰り着き、玄関を開ける。
泥のように疲弊した湊を出迎えたのは、愛犬の茶々丸だった。茶々丸は尻尾をこれでもかと振り、湊の足元にじゃれつく。
湊は、茶々丸のステータスを観測する。
【状態:喜び(最大)、幸福(極大)】
【感情:今、目の前に大好きな人がいる幸せ(100%)】
そこにあるのは、打算も、教育方針も、将来への不安もない、ただ「今、ここにいるあなたが好き」という純粋な感情だけだった。思わず、茶々丸の柔らかな毛並みに顔を埋める。動物の曇りのない幸せの感情が、汚染された湊の心を洗い流していった。。結月の両親が望む純度100%の善意を見てから、ずっと残っていた異物……喉のつかえが取れる。
「……危なかった。あのままなら、僕もあの親たちと一緒に、彼女を追い詰めていたかもしれない」
ソファに倒れ込み、落ち着きを取り戻した湊は、メモ帳を取り出した。
(あの親たちは彼女を愛している。でも、彼女の個を認めていない。彼らの善意は、彼女という人間を塗りつぶす毒だ)
湊はある結論に達する。
「彼女は、自分を消すことでしか自由になれないと思い込み、自殺という呪いをかけたのではないか」と。
だとすれば、無理やり親から引き離すのは逆効果だ。両親の善意は、外部からの攻撃を受ければ受けるほど、結束して彼女を飲み込もうとするだろう。
親の善意の方向を書き換えるか。それとも、彼女自身に親の期待を裏切っても生きていけるという別の居場所を与えるか。
そこで、佐伯先生の言葉が脳裏をかすめる。芸能事務所ブライト・プロモーション。
(彼女にとって、あの場所は……泥沼のような家庭から差し伸べられた、偽りの救いの手だったんだ)
最悪の結末まで、残り時間は刻一刻と削られている。
設定紹介
コンビニチキン・・・骨なしサクサクこんがりのチキン。1個200円。「200円でこのクオリティー世界に誇れるよ」(日野談話)
白瀬 一馬・・・結月の父。都市銀行勤務。勤務先の都内の都市銀支店までは、片道1時間の電車通勤。通勤時間を犠牲にして(ちょっと金銭的な無理もして)、叡川市の高級住宅街に一戸建てを購入。
白瀬 香織・・・結月の母。一馬とは社内結婚。銀行員時代は支店のアイドル的存在だった。支店カラオケ大会の優勝経験あり。
空森 湊・・・みんなから、「ひどい顔」と言われ落ち込む。
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