第2話 感情の収支、濁る心
その力は、単なる視覚情報に留まらなかった。
放課後の教室。拓海と他愛もない話をしていた湊は、不意に胸の奥が温かくなるような、柔らかな高揚感に包まれた。
「……? なんだ、これ」
視線の先には、昨日の試験の点数が意外と良かったことを自慢する拓海の笑顔がある。
【状態:歓喜(小)】
拓海の頭上に浮かぶその文字が、まるで心臓に直接プラグを差し込まれたかのように、湊の心に彼の喜びを流し込んでくる。自分には何の得もないはずなのに、気づけば湊の口角もわずかに上がっていた。
(相手の状態に、自分の心が引っ張られる……?)
「中々の点数だな。俺はやればできる子だ、いや、やらなくてもできる子だ。そろそろ、2学期あたりから本気を出すかな」
(これは!拓海の喜びの感情で心が満たされていく……拓海の心って思うと、なんかキモいわー)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
湊は帰り道の駅のホーム、不機嫌そうに舌打ちを繰り返す中年の男に不意に意識が向い、視線を向けた。
【名前:谷口 良平】
【職業:会社員(中間管理職)】
【状態:憤怒(中)、殺意(極小)】
「ッ……ぐ、あ……!」
視線を合わせた瞬間、焼けつくような熱い毒が血管を駆け巡った。理不尽な上司への呪詛、鳴り止まない電話への苛立ち、すべてをぶち壊したいという昏い衝動。
目を逸らそうとしたが、網膜に焼き付いた【殺意(極小)】の文字が、脳内で不快なノイズを立てて膨れ上がった。
それらはドロドロとした黒い泥のような感情となって、湊の無防備な心の中に一気に流れ込み、内側から壁を叩き始めた。ライトグレーの湊の心を黒が浸食する。
吐き気がする。
激しい動悸と、自分のものではない怒りに震え、湊はその場にへたり込んだ。男が去り、視界からステータスが消えても、脳裏に焼き付いた黒い泥は消えない。
他人の悪意に触れることは、これほどまでに自分を汚すのか。
ふらふらと、逃げるように帰宅した。
玄関を開けると、パタパタと小気味よい足音が響き、茶色の毛玉が勢いよく飛び出してきた。
「ワンッ! ワンッ!」
【名前:茶々丸】
【状態:至福(おかえりなさい! ご飯! 散歩! 大好き!)】
「……ああ、茶々丸……助かった……」
湊は茶々丸を抱きしめ、その温もりに顔を埋めた。
茶々丸から伝わってくるのは、純度100パーセントの親愛と喜びだ。
先ほどまで心を侵食していた男の泥が、茶々丸の放つ純粋で真っ白な気持ちに塗りつぶされ、上書きされていく。感情の収支が、ようやくマイナスからゼロへ、ライトグレーに戻る。
湊は、震える手で茶々丸の頭を撫でた。
この力は、諸刃の剣だ。
この力は、努力で得たものじゃない。だからこそ、自分の器を超えた負荷が、直接魂を削りにくるんだ。
不用意に他人の闇を覗けば、自分という器が壊れてしまう。
湊は、部屋の明かりも点けずに、茶々丸の鼓動だけを頼りに、静かな部屋で眠りについた。
設定紹介
茶々丸・・・柴犬、5歳。カリカリなドッグフードが好物。半生も缶詰も好き。ジャーキーも犬用煮干しも好き。去年のクリスマスに食べた犬用ケーキの味が忘れられない。だけど、湊のことはもっと好き。
谷口 良平・・・会社員(中間管理職)。黒い感情は家族への八つ当たりとアルコールで紛らわせる。もう20年頑張ってきたが定年までは、まだまだだ。頑張れ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます