第3話
◇◇◇◇
「くそ、ついてないな……」
突然強くなった雨脚に、僕は小さく舌打ちをした。
普段なら雨に濡れることなど厭わない。この国では雨に降られるのは日常で、傘など常に持ち歩く人は少数派だ。
僕自身も例外ではなく、いつもなら濡れながらでも目的地に向かう。
けれど、今日はなぜだか違った。
理由は分からないが、足が前に進まない。傘がないせいでも、濡れるのが嫌なわけでもない。
ただ、どこに向かうべきなのか分からなくなっていた。こんな心持ちは、子どもの頃に迷子になったとき以来だ。
そんなとき、ふと目にとまったのは、薄暗い裏通りの先にぽつんと灯る明かりと――奇妙な看板だった。
『雨、量り売りいたします』
毎日のように雨が降るというのに、それをわざわざ売る?
おそらくこの国特有のブラックジョークか何かだろうと思いつつ、僕は激しくなる雨に仕方なく身を寄せることにした。
「すみません、雨宿りを……」
扉を開けた瞬間、少しだけ暖かな空気が頬を撫でた。僕は濡れた髪を手で拭いながら、店内をざっと見回す。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から現れたのは、まだ幼さの残る少女だった。
セカンダリースクールに通っている年頃に見えるので、店番だろうか。その装いと相まってどこか現実離れしたような、不思議な雰囲気を纏っていた。
「何かお探しですか?」
少女の問いかけに、僕は一瞬躊躇してから口を開いた。
「あの、雨がひどくて、少し雨宿りをさせてもらえませんか?」
「もちろんです。せっかくですから中でお茶でもどうぞ」
「いえけっこうです、急いでいるので」
長居をするつもりはなかった。少しだけ、この雨をしのがせてもらえればいい。
エマと名乗った少女はぶっきらぼうな僕の返答に気を悪くした様子もなく、にこりと微笑んだ。そして、妙なことを言った。
「そうですか。けれど、この雨は当分止まないと思いますよ」
僕は思わず彼女の顔を見た。
「どういう意味ですか?」
「そうですね……」
彼女はすぐには答えず、瓶が並んだ棚のほうへと静かに視線を向けた。
僕は言葉の続きを待ったが、一向に口を開こうとしない。店内に沈黙が落ちて、聞こえるのは雨が窓に打ちつける音だけ。
(なんなんだ一体……)
その沈黙は気まずさというより、試されているように感じられた。
時間がもったいない、と僕は思った。
無意識のうちに、その間を埋める言葉を頭の中で必死に探す。
何か言わなければ。
何か、正しいことを。
けれど今は、何も言葉が浮かばなかった。
外から聞こえる雨音が、さっきよりも強さを増しているような気がする。
いつもなら、すぐに返答が返ってこない相手には、自分から次の言葉を投げかけてきた。返答がなければ自分が埋める。
エリカが黙ったときも、僕は間を埋めるように言葉を重ねて――
そのことに思い至ったとき、僕はハッとした。
エマが振り返ったのだ。
まるで『その
「お探しのものがあったようですね」
促されるように、僕は小さく頷いた。
「……恋人がいるんです。でも、昨日突然『少し一人で考えたい』って、置き手紙だけを残していなくなってしまった」
エリカとの関係は順調だと思っていた。
結婚の話も出ていたし、彼女も嫌そうではなかった。なのに、なぜ?
「彼女はこの国の人じゃない。だから、早くなじめるようにって、僕の友人たちとも積極的に交流できるようにした。最近は仕事に悩んでる様子だったから転職を勧めて、具体的なアドバイスもして……」
ぽつりと、言葉がこぼれ落ちていく。
エマは何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。彼女の手の中には、空の小瓶が握られていた。
「全部良かれと思ってのことだった。彼女には悩む時間よりも、早く楽になってほしかった。でも、彼女はいつも『うん』と言っても一向に表情は晴れなくて」
そこまで言って、僕は苦く笑った。
言葉を並べるほどに、自分の無理解が浮き彫りになっていくのを実感したからだ。
「僕は……彼女を失うことが怖い」
でも、どうしていいか分からない。
これまで問題があれば、どんなことも解決してきた。同僚や友人にアドバイスを求められ頼られて、それが誇らしくもあった。
「でも今は、問題が何なのかさえ分からない。僕の何がいけないのか、どう変わればいいのか……」
「素晴らしい。とても美しい『戸惑いの雨』です」
彼女の手の中の空だったはずの瓶は、琥珀色をした液体で満たされていた。
「戸惑いの、雨……?」
「はい。お客様の言葉が雨粒となって、こうして形になったのです」
そう言って棚の一角にその瓶を丁寧に収めると、別の棚からやわらかな金色の液体が入った瓶を取り出した。
そして小瓶にほんの少しだけ、それを移し替える。
「『戸惑いの雨』をお預かりする代わりに、こちらをお渡しします」
金色の液体が、まるで生きているように瓶の中で揺れている。
「これは?」
「『迷いの雨』です。ある女性が置いていかれたものです」
僕は思わず目を見開いた。
まさか、と思った――いや、きっとそうだ。
「想いが込められた雨粒は特別な力を持っています。この雨を通して、その方の想いに触れることができるかもしれません」
「彼女の気持ちが分かるかもしれないと?」
エマは小瓶を両手で包みながら、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「ええ。ただし、それは簡単なことではありません」
エマの瞳がまっすぐに僕を見据える。
「あなたにとって深く迷うことは、おそらく未知の体験でしょうから」
迷うこと。立ち止まること。
答えを急がずに、ただ待つこと――僕はずっと、それを避けてきた。
「……それでもかまわない」
気づけば、僕は強くそう口にしていた。
「彼女の不安や迷いを、僕も一緒に背負いたい」
受け取った小瓶の蓋を開けた瞬間、ふわりと淡い香りが立ちのぼった。
花のようでも、雨上がりの空気のようでもある――けれど、どこか胸の奥を締めつけるような、そんな香りだった。
エマはやわらかく微笑んだ。
それはどこか、安堵の表情のようにも見えた。
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