第2話
私は躊躇した。
こんな奇妙な話を信じられるだろうか。
それでも棚に並ぶ無数の瓶を見渡しながら、自然と一つの瓶が目にとまった。
雨といえば無色透明なのに、それは深く濃いエメラルドグリーンのような色をしている。
「あれは……」
私の視線に気づいたエマが棚からそれを取ると、瓶の中の液体が静かに波打っていた。
エマは、すぐには口を開かなかった。
手の中にあるその瓶を包み込むようにしながら、深い緑色の液体をじっと見つめている。
「……これは、ある人が」
小さく息を吸ってから、静かに言葉を紡いだ。
「大切な人のために、人生を変える決意をした日の雨です」
そう言って彼女は瓶を光にかざす。
白い肌に影を作った長い睫毛が、少しだけ震えたように見えた。
「人生を変える……」
私は、エマの言葉を繰り返すようにつぶやいた。
「……あの、これをください」
エマは、少し驚いたように目を見開く。
見た目の年齢以上に落ち着き払っていた彼女が、初めて少女らしい仕草を見せた。
「よろしいんですか?」
私は黙って頷いた。
自分がどんな変化を望んでいるのか、はっきりとは分からない。
けれど、もしその効能が本当なら、この迷いからも解放されて楽になれるんじゃないか――そう思ったのだ。
「かしこまりました。ではお代をいただきますね」
私がバッグから財布を取り出そうとすると、エマは首を振る。
「お代はお金ではありません。代わりに、お客様の雨を置いていってください」
「私の雨を……?」
どうやって?と首を傾げると、彼女は微笑みながら私の前に空っぽの透明な瓶を差し出した。
「この店では想いと想いを交換するのです。この瓶に向かって今の気持ちを、迷いや不安――あなたの心にあるものを話してください。想いは自然と雨粒になります」
(私の心にあるもの……)
自分の中にある、些末で独りよがりなこの感情をさらけ出せと、彼女は言っているのだ。ただそれはすごく勇気のいることで、私は俯いて手の中の瓶を見つめるしかなかった。
ガラス瓶に映り込んだ自分の顔は、見慣れているはずなのにどこかよそよそしい。
私はいつから、こんな表情をするようになったのだろう。
「正直に」
と、エマは優しく促してくる。
しばらくの逡巡のあと、私は意を決して深く息をついた。
「私は、迷っているんです」
心の奥に押し込めていた想いを、ゆっくりと言葉にする。
「憧れていたこの国で生きていくと決めたはずなのに……早く溶け込みたいのに、暮らしや文化にいつまでも慣れなくて。仕事もうまくいっていないのに、新しく踏み出す勇気もなくて」
言葉が途中で途切れた。
けれど一度口をついて出たことで、奥に詰まっていた何かが少しだけ解けていく。
『仕事で悩んでいるの?
それなら環境を変えるのも手だよ。我慢し続けるのは時間がもったいない』
正しい提案だった。フレディの言葉は、いつも合理的で、現実的で、優しい。
だから私は、笑って頷いた。
けれどその夜、一人になった部屋でなぜか涙が止まらなかった。
「すべてが中途半端で、何一つ決められない。恋人は――フレディは私とは正反対で、いつも自信満々で迷うことがないんです。そんな彼についていけない自分が情けなくて」
自分は彼に相応しくないのではないか。
すべて諦めて、自分の国に帰ったほうがいいんじゃないか。
誰にも話せなかった不安、正解のない問い。
見ないふりをしてきた自分の弱さ。
そのすべてを話し終えると、瓶の中に何かが静かに現れていた。
かすかに金色に光る小さな雫が、ひと粒、またひと粒と現れて、瓶の底に静かにたまっていく。
まるで、私の言葉がそのまま雨粒になって降っているかのように。
「……本当に、雨になるんですね」
私は思わず呟くと、エマは「美しい」と感嘆した。
「とても純粋な『迷いの雨』ですね。これもまた、きっと誰かの助けになります」
エマは私の瓶を受け取ると、大切そうに棚の一角に置く。
そして、エメラルドグリーン色の液体が入った小瓶を私に渡そうとして――気が変わったかのように手を止めてしまった。
代わりに選んだのは、透き通るような淡いピンク色の液体が入った瓶だった。
蓋を開けると、それを小瓶に少しの量を移し替えて私に渡してくれる。
「これは『肯定の雨』です。先ほどのお話を聞いて、お客様にはこちらのほうがぴったりなのではないかと思いました」
コルクの蓋に力を入れると、柔らかな音を立てて外れた。
その瞬間、ふわりと――まるで空気が入れ替わるような、やわらかな気配が立ちのぼって全身を包みこんでいく。
言葉では説明できないけれど、何かが自分を許してくれるような、不思議な心地がした。
「迷える、というのはとても素敵なことだと思います」
「え……?」
私が首を傾げると、エマは伏し目がちに微笑む。
「迷えるだけの選択肢が、あなたには残されているということですから」
エマの声は静かで優しい。
けれど、どこか深く静かな湖のような、底知れぬ想いを湛えた響きがあった。
まるでもう、選べない何かを背負った人の言葉のようで――その言葉の強さに、私は知らず知らずのうちに息を詰めていた。
迷うのは自分が弱いからだと、ずっと思っていた。
(でもそうじゃない。私が本当に恐れていたのは……)
自分が選んだ道を後悔すること。
選ばなかったもう一つを惜しむこと。
そして――自分の選択を、誰かに否定されることだった。
完璧な選択なんて、きっとどこにも存在しない。
大切なのは、選んだ道をこれから自分のものにしていくこと。
不安がすべて消えたわけじゃない。
でもそのことに気づけただけで、一歩踏み出せる気がした。
「ありがとう、おかげで答えが見つかったような気がします」
店を後にするとき、エマが小さく手を振ってくれた。
「また雨の日に、お待ちしております」
ドアを開けて外に出ると、雨はまだ少し降り続いていた。
けれど今度は、その雨粒一つ一つが輝いて見えた。
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