雨、量り売りいたします。

綾瀬アヲ

第1話

 ◇◇◇◇


 冷たい雨粒が、ぽたりと頬に落ちてきた。


 ついさっきまで少し晴れ間も見えていたのに――裏通りの一角で私は足を止めた。


 灰色の空が珍しくないこの国では、突然の雨に降られることは日常だ。

 その証拠に道行く人は傘をさすこともなく、雨に降られていることすら気にせず歩き続ける人が多い。


 ただこの国で生まれ育ったわけではない私にとっては、何年経っても彼らの習慣には慣れない。

 冷たい雨粒が頬を叩く中、雨宿りができそうな場所はないか目を走らせると、裏通りの先に一軒の店が目に入った。


 店先には小さな屋根があり、雨宿りに良さそうだった。

 ちょうどいい――と、私はためらうことなく濡れた石畳の上を走って軒下へと駆け込む。


 アンティークショップのような店構えの前には、奇妙な看板が掲げられていた。


『雨、量り売りいたします』


 どういう意味だろう?

 雨を量り売りするなんて聞いたことがない。


 自分の翻訳が間違っているのだろうかと思いながらも、少し興味を惹かれた。


 この空模様では雨もすぐに止みそうにない。

 私は思い切って店の中に入ってみることにした。


 扉を押し開けると、来客を告げるベルが鳴る。

 その途端、空気が変わった気がした。濡れた舗道の匂いの代わりに、ほんのりと甘やかな香りが鼻をくすぐる。 


 気がつくと、外の雨音が遠ざかったように感じる。完全に消えたわけではないのに、ガラス越しに耳に届く雨はどこか現実味を失っていた。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの奥から現れたのは、十二、三歳ほどの少女だった。


 フリルのついた水色のワンピース。淡い栗色の髪には大きめのリボンを飾っている。そのクラシカルな装いは、昔好んで読んだ児童文学の挿絵から抜け出してきたかのようだと思った。


「何かお探しですか?」


 長い睫毛の奥にある青い瞳は、よく見るといくつかの色が複雑に混ざり合っていて、光の角度でも見え方が変わった。

 その眼差しは年齢不相応な落ち着きを湛えていて、それが私に『彼女を子ども扱いしてはいけない』という気持ちを抱かせた。


 ここに長居してはいけない――そんな気が、直感として囁きかけてくる。

 けれど同時に私は、この空間に呼び止められているような感覚を覚えていた。


「すみません、雨宿りをさせていただきたくて……」


 私はこの店に立ち寄った理由を正直に話すと、少女は嬉しそうに微笑んだ。


「もちろんです。せっかくですからお茶もいかがですか?雨の音を聞きながら飲むお茶は格別です」

「……あ、ありがとうございます」


 この年齢の少女までそんなことを言うなんて、さすがは紅茶の国だ。カウンターの奥へと下がった後ろ姿を見つめながら、変なところで感心してしまう。


 店内は薄暗く、壁際には大小さまざまな大きさのガラス瓶が並んでいた。


ここはなんのお店なのだろう?

最初はアンティークショップかと思ったけれど、そうではなさそうだった。


 瓶の中にはそれぞれ異なる色合いの水で満たされている。

 透明なもの、薄い青色のもの、銀色に光るもの――私は彼女が戻るまでの間、それを見るともなしに眺めた。


「おまたせしました。今朝届いたアールグレイです」


 しばらくして少女――エマと名乗った――が、茶器を運んで戻ってきた。

 私は勧められるままカップに口を付けると、ベルガモットの香りが鼻に抜けていく。雨で冷えた体が温まって、無意識にほっと息をついた。


「あの、これは何ですか?」


 私は気になっていた壁一面の瓶について尋ねてみる。


「これは雨です」


 私の質問に、少女は当然のように答えた。


「春の雨、夏の夕立、秋の霧雨、初雪前の雨……ひと口に雨と言っても、意味合いも効能も違うんです」


(……効能?)


 私は内心で繰り返した。

 冗談めいて聞こえたけれど、彼女の瞳にからかいの色は見えない。


「たとえばこれは春待ちの雨――新しいことを始めたくなる希望の雨です」


 眉をひそめる私に、エマは一つの小瓶を手渡した。

 中の水は淡い桜色を帯びている。瓶は冷たいはずなのに不思議と温かみを感じた。


「お客様は何をお探しですか?」


 ふいに投げかけられた問いに、私は戸惑った。


「私は通りすがりです。ただ雨宿りがしたくて入っただけで……」

「雨はお客様を選んで降るのです。雨宿りはきっかけにすぎません」

「雨が、人を選ぶ?」

「雨には意志があるんです。この子たちにもすべて」


 エマは棚に並ぶ瓶を、そっと指で撫でた。


「特別な想いを含んだ雨だけが、ここに集まってきます。誰かを想って流れた涙雨、大切な約束をした日の雨、喜びの雨……感情を吸い込んだ雨粒は、普通の雨とは違うのです」


 その言葉に呼応するかのように、外の雨が強くなった。

 窓を叩く音が、胸の奥を揺さぶるように響く。


「……じゃあ、今降っている雨は?」


 エマは立ち上がり、静かに窓を開けて手を差し出す。信じられないことに、雨粒が彼女の手のひらに触れた瞬間、ほのかに光りを放った。

 私は思わず息をするのを忘れて魅入ってしまう。


「迷いの雨ですね。何かに迷っている人の想いが降らせた雨です」


 振り返ったエマと目が合うと、胸の奥がざわりとした。

 まさかと思いながらも、彼女の言葉が胸の奥深くに落ちていく。


 確かに、私は迷っていた。


 異国での慣れない暮らし、うまくいかない仕事。そして、恋人との関係――


「お気に召す雨がありましたら、量り売りいたします」


 そう言って、エマは穏やかに微笑んだ。


「お客様は、どんな雨をお望みですか?」


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