プロローグ:青の深度 第三節:白紫の通過


 次の瞬間、白紫の帯が島の上を横切った。

 爆ぜる光ではない。落ちてくる光でもない。空そのものが一枚、裏返ったみたいに見える。


 昼でも夜でもない。眼球の表面を撫でるのではなく、目の奥に直接触れてくる光。洞の入口が青みを帯び、岩肌の凹凸が明瞭に浮かぶ。水滴が落ちる軌跡が、一本ずつ氷柱みたいに見えた。


 マリアは反射的に立ち上がろうとして、膝がわずかに遅れた。

 倒れるほどではない。ただ、身体が「いつもの自分」より半拍遅れてついてくる。

 音が遅れるのではない。音の意味が遅れる。水音だけが先に届き、言葉が、あとから追いついてくる。


 入口の青白い縁の向こうに、母の淡い輪郭が一瞬だけ見えた。見慣れた小さいシルエットが手を上げたようにも見えた……しかし、次の瞬間にはその姿がない。


「お母さん?」


 声は出た。だが洞の外へ届いたかどうかが分からない。洞の外は、青白い残像が視線を遮っている。


「お母さん!」


 白紫の帯は数秒で消えた。消えたのに、空気は戻らない。洞の入口から覗く青が、薄い。薄いというより、青の〈意味〉がまだ定まらない。


 洞の奥はぬるく、湿って、暗い。設備のLEDが赤と緑で点滅している。

 バッテリー群は生きていた。アース線は岩盤に食い込み、筐体は低い冷却音を保ったままだ。滝の裏は、外より静かだった。水音がノイズを削り、湿った岩が余計な振動を散らしている。


 マリアはラックに手をつき、端末を見る。

 πの計算は止まっていない。


 安堵が先に来て、すぐに嫌悪が追いかけた。

 いま自分は、母より先に数字を見た。

 〈先に見る〉という癖が、ここで何を守って、何を置き去りにするのか――その答えだけが、遅れて喉に引っかかる。


 マリアは端末を閉じ、端末を握りしめた。

 洞の外へ出る。呼ぶ。探す。

 その順番を、ようやく自分に許した。

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 ピーク通過後、〈ほうおう〉はゆっくりと浅深度へ浮上した。

 マストを最小限に。送信はしない。短波を拾う。


「首都圏、遮蔽成功。医療系統、部分稼働。……急性の被害、限定的」

 成功。限定的。乾いた語が、状況の輪郭だけを作る。

 〈急性〉という但し書きが、誰の口からも自然に出たのが不気味だった。今夜で終わらない、と皆が同じ場所で理解している。


「島嶼域――応答なし多数。東経一四二度近傍、ノード断。……二環島、応答なし」


 高橋の指が一瞬だけ止まる。声は揺れない。


「救助艦隊へ状況共有。うちは状況確認を優先。上陸偵察――準備」

 一拍置く。言い直す。

「ただし目的は救助ではない。偵察だ」


 艦内の空気が冷える。

 誰も反論できない。偵察は、次の優先順位を作るための言葉だからだ。


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 救助の回線は、生き返っては切れた。

 音声は途切れ、座標だけが残る。海は広い。


「父島沖、搬送二十六。意識混濁、多数。痙攣性の発作二名」

「第二航空、旋回待機。上空ノイズが落ちない。降りられない」

「医療班、鎮痙剤不足。……足りません」


 〈救えた〉は数字で来る。

 〈救えない〉は数字にすらならない。

 それでも、数字は増える。増え方だけが、病気の輪郭になる。


 救助艇の映像が一瞬だけ入った。濡れた髪、白い口、名前を呼ぶ声。返事のない肩。

 モニタが映す担架が甲板を走る。走っているのに遅い。現場は遠い。

 応答なしは島だけじゃない。沿岸の点が、同時に沈黙した。


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 二環島の内輪。


 水音の洞の入口には薄い霧が残っていた。地面はぬるく、苔は濡れて光る。小滝は律儀に落ち続ける。

 さっきの白紫は夢だったみたいに薄れている。薄れているのに、島の空気はどこか別の層をまとっている。


 ふと、マリアは急ぎ足を止めて外輪の縁を見上げる。カルデラをつなぐ細い鞍部。

 あそこを越えれば外海だ。ここは内輪だ。島は二重に分かれている。


 空は澄み始めていた。雲の切れ間に夕日の赤が滲む。

 赤は美しい。美しいから怖い。守られた場所の色に見える。


 洞の奥に戻ると、端末の計算はまだ続いていた。

 止まっていない。


 二環島は〈応答なし〉に分類される。

 その分類は、名簿になる。名簿は、読み上げられる声になる。


 二十年後の慰霊祭。

 その規模が、いまの夜の広さで決まる。

 海が広い。島が遠い。救助の窓は短い。

 そして――症状は、いまこの瞬間だけでは終わらない。


 水音だけが、変わらず落ち続けていた。

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