プロローグ:青の深度 第二節:二環島


 東経一四二度。

 二環島――外洋に浮かぶ二重カルデラの島。外輪の壁は風を切り、内輪は湿った温度を抱え込む。島が青に見えるのは外海のせいだ。内側に入ると、青は濃緑に変わり、固有の熱帯林が密集し、地面がかすかに温い。土が息をしている匂いがする。


 カルデラの斜面を辿って雨水が集まり、細い谷を流れて小滝になる場所がある。

 島の人間はそこを「水音の洞」と呼んだ。洞は滝の裏に口を開け、空気はヒンヤリする。地熱により気温が安定し、湿った岩が振動と電磁波を奪う――日射が強く、電力に乏しい島では、高湿でも計算機には整った環境だった。


 吉田マリアはその洞の奥に、自作のサーバー設備を隠していた。

 十三歳。二環島の日差しと湿気が、浅黒い肌、癖のある髪質にした。学校の制服は着ていない。島には中学がない。通信教育の端末が、彼の教室だった。


 金属ラック。自作の配電盤。アース線。バッテリー群。

 発電は小型ディーゼルと風力の補助、冷却は淡水――落ちる雨水と、地熱の温度差を使った拙い熱交換。外から見れば子どもの工作だが、内部は徹底していた。ノイズは敵だ。湿気も敵だ。停電も敵だ。空からの微弱信号を乱すものは、すべて敵だった。


 ノート端末の画面には、数字が流れている。

 終わりのない列。小数点以下の深海。

 π。

 欠損を許さない、終わらない基準。

 去年、母が買ってくれた中古のノートPCで、島の外の小さな計算コミュニティをざわつかせたとき、誰かが「本物だ」とだけ送ってきた。それ以来、彼は止まらなくなった。


「また、洞にいるの?」

 背後でトーンの高い声が響いた。母だった。洞の入口で、湯気の立つカップをのせたトレーを持っている。


 四十代半ば。島で生まれ、島で暮らし、島の外を知らない。

 母は港の組合の雑用と、民宿の手伝いを掛け持ちしていた。午前は魚箱の伝票、午後はシーツと浴室。夕方になると浜に下り、網を干す手を借りる。島の仕事は“肩書き”で分けられない。空いたところに体を差し込む人間が回している。


 母には、話す前に一度だけ、親指で爪の縁をこする癖がある。昔、釣り針で指先を裂いて以来の癖だ。

 誰の噂も、最後まで信じない。島は狭い。噂は潮と同じで、回って戻ってくる。だから母は、肯定もしない。否定もしない。台所で包丁を洗いながら「そうなの」とだけ言う。


 この島では、湯気が白いのは寒いからではなく、湿気が濃いからだ。

 母の作業着はいつも同じ色で、洗っても抜けない魚と石鹸の匂いが残る。指の関節が少し太い。よく働く手だ。


 母はトレーを持ったまま、洞の手前で足を止める。

 濡れた岩を踏み外すのを怖がっているわけじゃない。機械のそばに無闇に近づかない癖だ。子どもの工作に見えても、母にはそれが“触れたら壊れるもの”に見えている。


 マリアは背中を向けたまま、モニターから目を離さない。

「電圧が落ちる。今止めたら、ログが乱れる」

 

 背中が丸い。丸いのではない――洞の天井が低いからだ。


「終わりはあるの?」

「ない」


 母が背後で少しだけ笑った気がする。笑ってはいけない場面のように、静かな笑いだったと思う。

「終わりがないものは、途中で止めても壊れない。……でも、止める〈窓〉は選びなさい」


 洞の外で、風の匂いが変わった。

 海の匂いが一瞬薄れ、金属の焦げるような、乾いた臭気が混じる。遠くで雷のような光――しかし音はない。いつもならオガサワラオオコウモリが飛び始める時間なのに、今日は空が静かすぎる。


「漁船は出漁禁止で、港に停まったまま。ヘリも欠航だって。消防団に招集がかかったらしいけど、誰も来てないの」

 母が言った。

「今日は、青が青じゃない。ラジオで太陽が騒いでるって。でも島は後回しだって」


 言い方が、島の言い方だった。

 泣かない。責めない。頼らない。――ただ、順番を数える声。


 この島で〈後回し〉は、よくあることだ。台風も、医者も、部品も、いつも遅れる。遅れることに慣れると、人は諦める。その代わりに、互いの家の玄関を勝手に開けるようになる。母はその側にいた。だから“遅れる”匂いを、早い段階で嗅げる。


 マリアは反射的に外を見る。外輪の上の空が、薄く白くなっている。

 気のせいで済ませられる程度の白。でも、気のせいにすると大事なものを落とす気がした。


「太陽が騒いでるだけだよ、母さん」

「そう」

 母は頷いた。頷き方が、どこか不自然に丁寧だった。

「……じゃあ、ここにいてね」


 母の声は命令ではなかった。祈りに近かった。

 祈りという言葉を口にしない島の人間が、祈りをするときの言い方だった。

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