藍《AI》のテルモピュライ――九十二秒の密室
アベタカシ
プロローグ:青の深度 第一節:潜水艦〈ほうおう〉
小笠原の外洋は、海図の上ではただの空白だ。
航路も、境界線も、政治も――上から見れば、すべてが青に
その青の下、潜水艦〈ほうおう〉の黒色の艦首が深淵を目指していた。
「深度二五〇。艦速、五。姿勢安定」
戦闘指揮所(CIC)の照明は赤。暗順応した視界に、計器の発光だけが浮く。
金属とディーゼル油の匂い。汗。閉鎖空間が溜め込むアミン臭。
艦内の音は低く揃い、余計な成分だけが削られている。
高橋真琴は艦長席に背を預けない。
三十六歳。海上自衛隊二等海佐。潜水艦艦長。
深度限界域での異常時に、規程を崩さずに手順だけを組み替え、艦を無傷で帰投させた――その意思決定ログが〈模範〉として艦隊運用系にも記録された。だから、彼女はこの席にいる。
この艦内で必要なのは肩書きでも性別でもない。判断だけだ。
壁面で刻々更新されるディスプレイには、伊豆―小笠原海溝域の海底地形。
進路周辺域の等深線が詰まり、縁が折れ、落差が急に深くなる。
海底リッジ。谷。斜面反射の帯。
険しい地形は隠蔽にもなるが、姿勢を崩す罠にもなる。海溝の縁は、落ちる場所だ。落ち方を間違えると、沈黙ごと艦が圧潰する。
「宇宙天気、更新。センターから“即時”」
通信員の声が硬い。
高橋は深度計から視線を外さない。
「コード、サンライン。高エネルギー粒子到来予測、八分。地表広域の電子障害。医療系統に神経症状へ対応を展開中。首都圏遮蔽――“保持可能”。島嶼域――優先度低。展開遅延、または範囲外の可能性」
保持可能。範囲外。
乾いた単語が、守るべきものを1本の線で力任せに
高橋はその亀裂を、昔から嫌っていた。海の下にいるのは、上の地図に載らない場所まで届くためだ。
ピークまで八分。潜航の余裕はある。だが、ここは海溝の縁――潜航角を取りすぎると落差に吸われる。
通過後は島嶼ノードのスキャン。沈黙を続ければ、救助要請に遅れる。あるいは届かない。
高橋は短く切る。
「深度六五〇へ。
「深度六五〇。EMCON。非必須機器停止。冷却系最低限。区画閉鎖」
復唱が艦内に走る。
主バラスト注入。艦首トリム調整。
ポンプ回転数は最低。唸りは短く、低い。
副長が指示を重ねる。
「海流補正。+〇・二。トリム維持」
小笠原の海域は、表層が静かでも下が勝手に動く。
地形が作る乱流は、艦の姿勢にだけ現れる。針の揺れが先に知らせる。
EMCON。
アクティブソナー停止。送信系遮断。外部通信パッシブ。
アンテナ系、格納。
非必須機器停止。バッテリー系へ移行。照明、最低。換気、絞る。
区画閉鎖。防水扉、逐次ロック。気密確認。
「深度三〇〇通過。艦速四」
「推進系確認。スクリュー最低静粛。舵角ゼロ」
「推進系確認。八〇rpm。舵角ゼロ」
艦は沈む。
四〇〇。五〇〇。六〇〇。
「音響、外界雑音レベル」
音響士官がヘッドホンを押さえる。スペクトラムが立ち上がる。
斜面反射が太くなる。海溝の縁は音を増やす。沈黙は輪郭を持ち始める。
「広帯域ノイズ増加。推定、粒子線干渉由来の電磁雑音」
「生物音、減少。魚群、深層へ」
「斜面反射、強いです。艦影が立ちます」
高橋は即答する。
「艦速二。沈み切る。反射が濃くなる前に」
「艦速二。沈み切る」
復唱。
深度六五〇。
放射線検知器が微弱に反応し、ログが淡々と増える。
「ピークまで三分。全員、黙って耐える」
照明が一瞬だけ薄くなる。計器が微細に揺れる。
――何も起きない。
「外部電磁環境、異常値ピーク……通過傾向」
「浮上はまだだ。二〇分待機」
高橋は海図を見る。ピーク後の待機深度を決める。
深度四〇〇だ。斜面反射が薄くなる帯。そこでパッシブスキャン。
島嶼ノードの残響を拾う。沈黙なら、沈黙を確定する。――届かないのか、遅れているのか、遮断されたのか。
深度計を一瞥……六五〇。青の深度。
この艦は守られる。その分、守られない場所がある。
高橋はそれを言葉にせず、全長八十四メートルの艦に次の手順を流し込んだ。
水圧にきしむ漆黒の塊は息をひそめ、深海の時間に溶けていった。
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