【第9話】約束の日。
前日の夜。
スーパーのかごの中には、
必要以上の食材が入っていた。
明太子、生クリーム、バター。
オムライス用の卵に、鶏もも肉。
唐揚げ用の下味の材料まで。
大地の好きな明太クリームパスタ。
それに、オムライスと唐揚げ。
何度も明日の段取りを思い浮かべる。
失敗しないだろうか。
足りないものはないだろうか。
そんなことを考えているふりをしながら、
胸が騒がしい。
——いよいよ、明日。
気持ちが落ち着かない。
家に帰り、ケージの中で、
ゴンゾーが小さく動く音がする。
「ゴンゾー、ついに明日やね」
そう呟いてみる。
返事のない部屋で、
その言葉だけが、静かに浮かんだ。
その時、
スマートフォンが、そっと震えた。
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2012年6月1日
木村京介
件名:なし
練習終わった⚾️
いよいよ明日やな〜😍ゴンゾー(笑)
福岡までだいたい3時間くらぃやけん
12時くらいに出るたい🤭★
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画面に浮かぶその文章を、
私はしばらく、見つめていた。
さっきまで現実味を持たなかったはずの言葉が、
京介の文字になると、
急に、はっきりとした輪郭を持ちはじめる。
三時間。
たったそれだけの距離。
これまで何週間も、
声と文字だけで繋がってきた時間に比べたら、あまりにも短い。
ゴンゾーが、回し車で遊んでいる。
小さな命の気配が、
この部屋が"現実"であることを、強く突きつける。
明日になれば、
この部屋に、大地と京介が来る。
画面の向こうにいた人が、
声だけだった人が、この空間に立つ。
それが嬉しいのか、怖いのか、
もう、自分でもよく分からない。
ただ、今の私の日常の一部に、
京介がいることは、確かだ。
「会ってしまったら、この日常はどうなるんだろう?」
ふと芽生えた不安が、胸の奥を冷たく撫でる。
——約束の日。
ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、
身体だけが、妙に重たい。
それでも、
止まってはいられなかった。
重たい身体を引きずるようにして、
午前練習予定のグラウンドへ向かう。
スパイクの音。
ボールがミットに収まる乾いた音。
いつもと変わらないはずの景色。
なのに、
どこか遠くで見ているような感覚だった。
時間は確実に進んでいるのに、
私の気持ちだけが、
まだ昨日の延長線に取り残されている。
考えないようにしても、
ふとした瞬間に、「あと数時間」という言葉が頭をよぎる。
私は、とにかく目の前のことに集中した。
今はまだ、“会う”という現実を、
真正面から受け止める準備ができていなかったから。
——どうして、
こんなにも気持ちが落ち着かないのか。
自分でも、よく分からない。
家に友達が来ることなんて頻繁にある。
部員が遊びに来ることだってある。
今日も仲のいい男友達と、
今はよく連絡を取っている男友達が、
ただ遊びに来るだけ。
会ったことがないだけで、
中身はもうよく知っている人なんだから。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう、
何度も自分に言い聞かせる。
それでも、
胸の奥に沈んだざわめきだけは、
どうしても、静まってはくれなかった。
胸の奥のざわめきを無理やり置き去りにするように、
私は、今日の自分をそこに残すみたいに、
——グラウンドの扉を、ゆっくりと閉めた。
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