第3話

 わたくしは、雨の音に負けないくらいの声で、高く、高く笑い声を上げました。

 泥まみれのドレス。

 震える手足。

 けれど、サファイアの瞳には、かつてないほどのギラギラとした欲が宿っています。


(最高ですわ! これで、わたくしを縛るものは何一つありませんわよ! 嫌な家族の顔色を伺う必要も、カビ臭い屋根裏で泥のようなスープを待つ必要もありませんわ!)


 ぐぅぅぅぅぅぅ……。


 お腹の音が、雷鳴の合間に響きました。

 情けない。

 あまりにも切実な、生命の叫びですわ。


(まずは、ご飯ですわ。そして、今夜の宿。それから、この泥を洗い流すための温かいお風呂!)


 わたくしは、脳内のスロットを呼び出しました。

【見習い聖職者】のスキル、『微光(ライト)』。

 指先に、ポウ……と、今にも消えそうな、マッチの火よりも頼りない光が灯りました。


(あら? これだけですの? 神様、わたくしの魔力は、ロウソク一本分しかありませんの!?)


 あまりの非力さに、脳内で毒づきます。

 けれど、その小さな光は、暗闇の雨の中に、微かな道を照らし出しました。

 わたくしは、泥の中に足を踏み入れました。

 一歩。

 ズブ、と冷たい感触が足の裏に伝わります。

 靴なんて、もうどこかへ行ってしまいましたわ。


(冷たい、ですわ。痛いですわ。でも、この一歩は、わたくしの夢への第一歩。絶対に、後悔させて差し上げますわよ。わたくしを捨てた、この世界すべてを!)


 わたくしは、泥だらけの足を交互に動かし、屋敷の門から離れ始めました。

 目指すは、この坂の下に広がる「薔薇の街」。

 そこには、きっとわたくしを……いいえ、わたくしの持つ力を、本物のお金に変えてくれる場所があるはずですわ。


(あら? ああそこに、何か動く影が?)


【見習いシーフ】のスキル、『気配察知』。

 わたくしの脳内に、小さな警報が鳴り響きました。

 路地の影。

 ゴミが積み上げられた、不衛生な場所。

 そこから、三対の、赤く光る瞳がこちらを見つめていました。


「……キィィッ、ギギィィッ!」


 濡れた毛並み。

 普通のネズミの三倍はある、巨大な大ネズミ。

 それが、わたくしという獲物を見つけ、涎を垂らしながら迫ってきます。


(あらあら、まあまあ。初戦の相手が、そんな汚らしいネズミさんだなんて。わたくしの美学に反しますわよ?)


 わたくしは、地面に落ちていた、手頃な太さの木の枝を拾い上げました。

【見習い戦士】、装備。

 腕は熱で震え、枝は重くて、真っ直ぐに構えることすら困難です。


(重いですわ……。この枝、鉄でできているのかしら? いいえ、わたくしが弱すぎるだけですわね。ふふ、笑えてきますわっ!)


 大ネズミが、泥を撥ね上げて跳躍しました。

 鋭い前歯が、わたくしの喉元を狙って迫ります。


(……見えて……いますわよ!)


【見習いモンク】の直感。

 わたくしは、身体を右へと捻りました。

 泥に足を取られ、無様に転びそうになりながらも、紙一重で回避。

 そして、渾身の力を込めて、木の枝を振り下ろしました。


 ペシィッ!!


「……ギィッ!?」


 枝は大ネズミの背中を叩きましたが、致命傷には程遠い。

 むしろ、わたくしの手のひらの方が、衝撃でジリジリと痺れています。


(あらあら。痛いのは、こちらの方ですわ! なんて無駄骨ばかりの戦い方なのかしら!)


 わたくしは、必死に息を切らしながら、再び枝を構えました。

 大ネズミは、怒りに目を血走らせ、今度は低く、這うような姿勢で突進してきます。


(火よ……。わたくしの、情熱の火よ……。せめて、この毛むくじゃらの背中を、少しは熱くして差し上げなさいな!)


【見習い魔導士】、起動。

 指先から、バチバチッという、静電気のような小さな火花が飛び散りました。

 それが大ネズミの鼻先に当たり――。


「……ギュルゥッ!?」


 驚いたネズミが、一瞬動きを止めました。

 その隙を、わたくしは見逃しませんわ。


(……今ですわ!!)


 わたくしは、重たい枝を両手で握り直し、思い切り振り回しました。

 目標は、頭。

 遠心力を使い、小さな身体のすべてを乗せて。


 ボキィッ!!


「……ギッ……」


 枝が折れる音と共に、大ネズミが泥の中に沈みました。

 ピクピクと足を動かした後、そのまま動かなくなります。


【見習い戦士:Lv.1 → Lv.2】

【見習いモンク:Lv.1 → Lv.2】

【見習いシーフ:Lv.1 → Lv.2】

【見習い魔導士:Lv.1 → Lv.2】

【見習い聖職者:Lv.1 → Lv.2】


 脳内に、軽やかな鐘の音が響きました。

 あら。

 一匹倒しただけで、全職のレベルが上がりましたわ。

 これが、実戦の力。

 訓練では得られない、生きた経験の重みですわね。


(はぁ、はぁ、はぁ。あら、まあ。ネズミ一匹に、これほどの体力を……使う、なんて……)


 わたくしは、その場に膝を突きました。

 泥が冷たい。

 けれど、心臓の鼓動は、熱く、激しく脈打っています。


(見ましたこと? 神様。わたくし、やればできる子なんですわよ。オホ、ホ……)


 わたくしは、大ネズミの死骸から僅かな力が身体に染み込んでくるのを感じながら、重たい瞼を瞬かせました。

 まだ、一匹。

 街の明かりは、まだ遠い。

 けれど、わたくしの手の中には、確かに成長という名の、最強の武器が握られていましたわ。


(休んでいる暇は、ありませんわ。次の害獣が来る前に、わたくし……移動しなくては……)


 わたくしは、折れた木の枝を捨て、再び歩き出しました。

 足の裏に、鋭い石が刺さります。


「痛っ……」


 思わず声が出ました。

 六歳の幼女の肌は、あまりにも薄くて、柔らかい。

 一歩進むごとに、泥水が赤く染まっていくのが分かりました。


(……あ、ら。わたくしの、綺麗な足が。汚れを落としてくださる……方は……いないの、かしら……)


 視界が、ぐらりと揺れました。

 高熱。

 空腹。

 そして、雨による体温の低下。

 わたくしの意識は、再び混濁し始めました。

 現代日本の、明るいお店の光が。

 美味しい、温かいご飯の匂いが。

 幻のように、目の前を通り過ぎていきます。


(ダメですわ。寝たら、死にますわよ、セレス。死んだら、エステも、紅茶も、ないのですわ……)


 わたくしは、自分の頬を強く叩きました。

 パチンッ、という高い音が、雨音にかき消されます。

 痛みが、意識を辛うじて繋ぎ止めますわ。


(あら、いい音。わたくしの肌、弾力だけは一流ですわね……)


 自分を煽ることで、どうにか足を前に進めます。

 ようやく、坂の下、街の入り口が見えてきました。

 大きな石造りの門。

 そこには、松明の火が揺らめき、数人の男たちが立っているのが見えます。


(門番、ですわね。助けを、求める? いいえ、今のわたくしは、ただの怪しい幼女。捕まって、自由のない場所に……入れられたら……)


 わたくしは、門の影に身を潜めました。

【見習いシーフ】の『隠密』。

 息を殺し、雨音に紛れて、自分という存在を景色の中に溶け込ませます。

 心臓の音が、耳元でうるさいほどに鳴り響いていました。


「……おい、今、何か聞こえなかったか?」


「風だろ。こんな嵐の夜に、誰が歩いてるってんだ」


 男たちの会話が、すぐ近くで聞こえます。

 わたくしは、壁に背中を預け、じりじりと横に移動しました。

 冷たい石の感触が、濡れた背中に染みますわ。


(通して、いただきますわよ。わたくしの、未来のために……)


 一歩。

 また一歩。

 男たちが油断している隙に、わたくしは門の脇にある小さな通路へと滑り込みました。

 音を立てない。

 影を踏まない。

【見習いシーフ】の技術が、本能的に身体を操ります。


 ……抜けた。


 街の中に入った瞬間、雨の勢いが僅かに弱まった気がしました。

 建物の軒先が、わたくしを冷たい雨から守ってくれます。

 けれど、街の空気は、屋敷の周りよりもずっと淀んでいて、腐った魚と泥の匂いが混ざり合っていました。


(あら。ここが、薔薇の街。想像以上に、汚らしい場所ですわね……)


 わたくしは、震える脚で、暗い路地裏へと歩みを進めました。

 どこか、安全な場所を。

 誰にも見つからず、朝を待てる場所を。

 けれど、視界はさらに狭まり、足元もおぼつかなくなっていきました。


(……あ、ら。もう、限界……かしら……)


 わたくしの身体が、ゆっくりと地面へと傾いていきました。

 今度は、泥ではありません。

 固い、冷たい、石畳。

 その感触を最後に、わたくしの意識は、真っ暗な闇の底へと沈んでいきました。


***


 …………。


 ………………。


「……おい、お嬢ちゃん。……生きてるか?」


 耳元で、ダミ声が聞こえました。

 鼻を突く、安酒と煙草の匂い。

 わたくしは、重たい瞼を僅かに開けました。

 そこには、顔中を傷跡で覆った、岩石のような大男が、怪訝そうな顔でわたくしを覗き込んでいました。


(あら。死神さん、ですか? それにしては、随分と、ガラの悪い……)


「……ったく。こんな夜中に、お人形さんみたいなガキが道端でくたばってるとはな。……おい、返事をしろ。死んでるなら、そのまま衛兵に突き出すが」


 わたくしは、力を振り絞って、その大男を見つめ返しました。

 泥だらけ。

 ボロボロ。

 けれど、銀の髪とサファイアの瞳は、まだ死んでなどいませんわ。


「……あら。勝手に、殺さないで、いただけます? わたくし、まだ、甘いお菓子を、食べていませんの……」


「……あ?」


 大男が、呆れたように目を見開きました。


「……菓子だと? ハッ、ハハハハハ! この状況で、よくそんな口が叩けるもんだ。おもしれえ。おい、死にたくなけりゃあ、これに掴まれ」


 男が差し出したのは、節くれ立った、大きな、汚れた手。


(あら。汚い、手ですわね。でも、背に腹は、代えられませんわ……)


 わたくしは、その手をギュッと握り締めました。

 それは、驚くほどに温かくて。

 わたくしの小さな手は、一瞬でその大きな掌の中に飲み込まれてしまいました。


「……わたくしを、助けるからには、それなりの、おもてなしを、期待、しますわよ。……おじさま……」


「……へっ。おじさまだと? 口の減らねえガキだ。……俺はガレスだ。質屋の店主だよ、お嬢ちゃん」


 ガレスと呼ばれた男は、わたくしの軽い身体を、ひょいと軽々と抱え上げました。

 その腕の中は、泥だらけの地面よりもずっと安心できて。

 わたくしは、今度こそ、本当の眠りへと落ちていきました。


(質屋。いい、場所ですわ。わたくしの、最初の、拠点に、ぴったり、じゃありませんの。……オホ、ホ……)


 意識が遠のく中で、わたくしは、脳内のスロットが静かに輝いているのを感じていました。

【見習い】たちのレベルは、まだ2。

 けれど、物語は、今この瞬間から、確かに動き始めたのですわ。

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没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活 TAC @tac_tac

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