第2話 キス
俺は迷わず少女に駆け寄った。
横腹の傷は深いが、致命ではない。砲弾の破片が肉を抉っただけで、臓腑には達していない――そう判断できる程度には、俺はもう戦場に慣れてしまっていた。
膝をつき、彼女の喉元に指を添える。脈は弱く、しかし確かに打っている。
――生きている。助かる。
そう結論づけ、俺は独学で身につけた、数少ない魔術のひとつを呼び起こした。
治癒魔術。
視界に淡く光る術式が立ち上がる。幾何学的な線と面が絡み合い、回転し、わずかなズレが不快な軋みとなって脳裏を掻き立てる。
それを指先の感覚だけで一つずつ噛み合わせていく。
完成図など知らない。
ただ、壊れないように、壊れないようにと祈りながら。
息を整え、最後の一面を押し込む。
術式は淡い光となり、少女の横腹へと沈み込んだ。
甲冑の下で、裂けた肉が縫い合わされていく感触が、魔力を通じて指先に伝わる。同時に、頭の奥がじくりと痺れた。
魔力の枯渇。慣れない治癒は、いつも代償が大きい。
――間に合った。
その瞬間、少女の睫毛が微かに震えた。
「……山の毒蛇の兵士が魔術とはな。“時代は常に移り変わる”とは、こういうことね」
かすれた声。
咳き込み、唇の端から赤い血が零れる。それでも、その瞳は確かに俺を捉えていた。
「良かった。目、覚めたんだ」
俺がそう告げると、少女は喉の奥で、低く笑った。
「随分と、手の込んだ殺し方ね」
「生かしてるんだよ」
「それが、なお悪いわ」
冗談めかした声音だが、視線は鋭い。
「……なんで」
少女は、俺を真っ直ぐに見据えた。
「なんで私を助けるの」
責めでも懇願でもない。
ただ、理由を知りたいという目だった。
俺は一瞬、言葉に詰まる。
正直なところ、理由など後付けだ。
見捨てられなかった。
それだけだった。
「……俺たちが、卑怯なことをしたからだ」
撤退する敵を追い、背を斬った。
それが戦だと言われれば、それまでだ。だが――。
「卑怯?」
少女は小さく肩を揺らし、笑った。
「はは……戦で“卑怯”とは、ずいぶん優しい言葉を使う」
硝煙と血臭の満ちた戦場で、その笑い声だけが妙に澄んでいた。
「けれど、いい一手よ。永遠に続くと思われていたこの小競り合いに、ようやく楔が打ち込まれたわ」
彼女はゆっくりと息を整えながら続ける。
「怠慢に慣れきった我が軍は、この有様だが……それでも、私の領主――カーツ・ブラックウェルは、まだ本気でこの城を落とそうとはしない」
彼女は嘲るように口角を上げた。
「貴様たちの領主、サロード・ヴァンダは――生きる伝説だから」
寒村に生まれ、薬師の母の知恵と、市井で培った欺瞞を武器にのし上がった男。
正統な武功ではなく、策と噂と血で領主となった、辺境の怪物。
少女は、そんな男の名を、どこか愉しげに口にした。
「……けれど」
その声色が、ふっと変わる。
「噂にある通り、カーツ――我が“父”の病は深刻よ」
父。
その言葉に、胸の奥が冷えた。
カーツを「父」と呼ぶということは……
「じきに私が家督を継ぐ。さすれば、貴様らヴァンダの甘ったれた幻想を叩き潰す。城を――貴様たちを、滅ぼす」
静かな声だった。
だが、その内側には、確かな狂気と確信があった。
宣告。
怒号でも、呪詛でもない。未来を当然の結果として語る口調。
「だからこそ、忠告するわ」
少女は、血に濡れた唇の端をわずかに吊り上げた。
それは勝者の笑みでも、敗者の自嘲でもない。
「貴様は、私を今ここで殺すべきよ」
霧と煙の向こうで、戦はまだ続いている。
剣のぶつかる音、遠くで崩れる岩、誰かの叫び。
だがそのすべてが、ひどく遠くに感じられた。
この場にあるのは、俺と――
喉が、ひくりと鳴る。
「……まさか」
零れ落ちたのは、確信を伴った名前だった。
「君は……メテラナ・ブラックウェルか」
その名を口にした瞬間、少女の瞳が、細く愉しげに細められた。否定も肯定もない。ただ、名前を当てられたこと自体を面白がるような視線だった。
メテラナ・ブラックウェル。
「海賊」と恐れられた豪傑、カーツ・ブラックウェルの実娘として生まれながら、彼女は温室で育てられることなく、幼い頃から戦場と政争の只中に放り込まれてきた少女だ。
ブラックウェル家の内情は、敵対するこの辺境にすら噂として届いている。兄弟は互いに疑い合い、家臣は昨日の忠誠を今日の裏切りに変え、粛清と失脚が日常のように繰り返される――そんな家だ。
メテラナは、そのすべてを異常としてではなく、当然の風景として見て育ったはずだ。血が流れ、誰かが消え、権力だけが残る。その循環の中で、彼女は怯えることも、逃げることも選ばなかった。生き残るのではなく、支配する側に立つと、最初から決めていたのだろう。
だからこそ、先ほどの言葉が虚勢には聞こえなかった。
父を殺し、伝統を塗り替えると、あまりにも静かに語ったあの声は――狂気ではなく、長い時間をかけて研ぎ澄まされた決意の音だった。
なるほど、と俺は内心で息を吐く。
この少女は、ただの敵将ではない。
生まれながらにして、火種そのものなのだ。
メテラナは、静かに目を閉じた。
まるで次に来る刃の角度まで、すでに知っているかのように。
喉元をさらし、首筋の力を抜く。その仕草はあまりにも手慣れていて、処刑台に立つ囚人というより、むしろ自ら死を選び取る者のそれだった。
「――さあ。私が同朋に
彼女はそう言った。
「
煙と血の匂いの中、彼女の言葉だけがやけに澄んでいた。
俺は剣を握り直す。
柄に滲んだ汗が、指に冷たく絡みつく。
殺せる。
今なら、確実に。
負傷している。動けない。抵抗もない。
騎士として、兵として、これ以上ない好機だ。
――なのに。
剣先が、わずかに下がった。
それを、メテラナは見逃さなかった。
「……?」
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、怒りでも嘲笑でもない。
純粋な困惑だった。
「……どうしたの」
声音が、微かに揺れる。
「早くしなさい。私を見逃せば、貴様は後悔する。私は情けを返す女ではない」
それでも、俺は動かなかった。
剣を構えたまま、ただ立ち尽くす。
彼女の命を刈り取るには、あまりにも――彼女の目が、まっすぐすぎた。
死を恐れていない目。
いや、それどころか、死を「当然の帰結」として受け入れている目。
その事実が、胸の奥を鈍く打った。
「……君は」
喉が、ひりついた。
「女の子だから……」
言葉にした瞬間、自分でもその幼稚さがわかった。
理由としては、あまりにも脆く、無防備で、戦場では通用しない理屈だ。
けれど。
メテラナは、はっきりと目を見開いた。
その眉間に走ったのは、驚きではない。怒りですらない。
――侮辱に近い、理解不能なものを突きつけられた者の表情だった。
無理もない。
彼女がどう育てられてきたかは、想像に難くない。
ブラックウェル家の娘ではない。ブラックウェル家の兵士として、生まれた瞬間から。
メテラナは、俺から顔を逸らした。
横顔に浮かんだ感情を、見せまいとするように。
「……馬鹿ね」
吐き捨てるようでいて、どこか力の抜けた声だった。
先ほどまでの、刃のような口調とは違う。音が、柔らかい。
彼女は、よろめきも見せずに立ち上がる。
治癒魔術の効果か、それとも意地か。
「私をここで生かすというのなら」
淡々と、事務的に言葉を選ぶ。
「せめて――犯したらどう》」
「な、何を言ってるんだよ」
思わず声が裏返った。
「あなたが言ったでしょう。私は女だと」
メテラナは振り返らない。
背中越しに、その声だけが届く。
「それも、男が欲しがる年頃の女。敵兵として捕らえ、生かして返すなら……それくらいの“理由”がなければ、辻褄が合わない」
まるで、戦場の帳簿をつけるかのような冷静さだった。
「そうでなければ、私はただの“取り逃がし”になる。あなたの立場も危うくなるでしょう?」
俺は、拳を強く握りしめていた。
爪が食い込み、痛みが走る。
許せない。
――そんな価値観を。
――そんな発想を、当然のものとして植えつけたブラックウェル家を。
いや、それだけじゃない。
この戦乱の世界そのものを。
「……それは、あまりにも酷いだろ」
声が、震えた。
「敵兵を“無事に返す”という選択肢は……この世界で本当に許されないのかよ」
メテラナが、ゆっくりとこちらを振り返る。
その顔に浮かんでいたのは、嘲笑でも軽蔑でもなかった。
――純粋な、驚愕。
まるで、今まで一度も聞いたことのない言葉を耳にしたかのような。
理解しようとして、理解できないものを前にした表情だった。
「……本気で言っているの?」
低く、確かめるような声。
「敵を殺さず、辱めもせず、理由もなく帰す? ……新しいね。 なら――」
あろうことか、彼女は一歩踏み込んだかと思うと、迷いなく俺の懐へ身を投げ込んできた。
「――っ」
反射的に息を呑む。
鎧越しではない、確かな体温。思考が追いつくより先に、彼女の顔が近づき――
柔らかいものが、俺の唇に触れた。
メテラナの、唇。
一瞬の接触では終わらなかった。
彼女は俺の後頭部に手を回し、逃げ場を塞ぐように引き寄せる。力は強くない。だが、拒めないと確信している手つきだった。
硝煙と血の匂いの中で、異物のように鮮明な温度。
短く、しかし確かに、奪うという意思を刻みつける口づけ。
やがて、ふっと力が抜ける。
唇が離れ、彼女は半歩下がった。
そこにあったのは、勝ち誇った笑みでも、挑発でもない。
どこか愉しげで、そして――少しだけ諦めを含んだ、柔らかな微笑みだった。
「せめて、」
低く、穏やかな声。
「唇くらいは、奪っておきなさい」
それは褒美でも、侮辱でもない。
“殺さなかった代償”を、彼女自身が選んだという宣言だった。
俺は言葉を失い、ただ立ち尽くす。
メテラナ・ブラックウェルは、血と霧の中で背を向ける。
「あなた、名は?」
横顔で彼女は問うた。
「俺は……ルシアン。ルシアン・ブライト」
「……へぇ」
それだけ言って、彼女は再び歩き出した。
その背中は、傷ついた少女のものではなく――
これから世界に新たなる火を起こそうとする者の、静かな足取りだった。
そしてルシアンは魔王になる〜辺境騎士が魔王に至るまでの叙事詩〜 山猫計 @yamaneko-k
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