第2話 嫌疑

「ねえ、知ってる? 幽霊からの手紙の話」


 すぐ隣の下女の言葉に、一嵐は口に含んでいた薄い汁を危うく吹き出しかけた。

 一つ咳をしてむせそうになったのを誤魔化し、隣の会話に聞き耳を立てる。


 配達もひと段落し、下女用の食堂で一人遅い昼食を食らっていたのだが、まさかこんな短期間に幽霊という言葉を再び耳にするとは。


「知ってる、知ってる! 死んだ下女から手紙が届いたって話よね」

「そうそう。『お前たちが私を殺した』、『赦しを乞え』とか書いてあったって」

「それって、死んだ子が化けて出たってこと?」

「きっと呪いよ。なにか未練があったんだわ」


 一嵐は呆れて目を回した。


(今朝の出来事が、もう下女の噂話か)


 人の口に戸は立てられないと言うが、相変わらず後宮の噂は伝染病のように広まっていく。朱玉屏のような女が次々と新しいものに手を出すのも納得だ。


 あっという間に興味を失った一嵐は、さっさと食事を終えようと汁を流し込んでいく。

 が、続く下女の言葉を聞き、ついに汁を吹き出してしまった。


「お医者様と帝様にも届いたんでしょ?」

「手紙を届けた人も、あれは幽霊だったって……ってあなた、大丈夫?」

「だ、大丈夫です。気にしないで」


 涙目になって咳き込む一嵐を怪訝そうに見つつも、下女たちは噂話に舞い戻った。


「でも、下女が帝様となんの関係があるのかしら」

「帝様なんて雲の上のお人なのに」


 一嵐は口元を拭いながら、心臓が早鐘を打つのを感じていた。


(医者と帝にも届いているだって?)


 宦官相手に悪戯を仕掛けようというのならまだ分かる。だが、医者、さらには帝ともなれば話は違う。徹底的に犯人探しが行われ、犯人は見せしめとして首を刎ねられるだろう。いや、斬首で済むならまだいい。場合によっては、帝の威光を損ねたとしてさらに惨たらしい刑が科されるかもしれない。


(……いったい何がしたいんだ、あの幽霊もどきは)


 幽霊が手紙を書くわけがない。手紙を書いたのは、幽霊の皮を被った生者だ。


 一嵐が空の椀を前に考え込んでいる間、下女たちは食事を終えて出て行ったらしい。気づけば食堂には沈黙が下りていた。微かな衣擦れの音でさえ異様に大きく聞こえる。


 その沈黙を破ったのは、上擦ったような少年の声だった。


「こんなところにいたか」


 顔を上げると、目の前の椅子に沈琛シェンチェンが腰かけていた。駆け回った後の子供のように乱れた髪に、しわの寄った官服。背は低く、あどけなさを残す顔にはにやついた笑みを浮かべている。

 しかしながら、その正体はれっきとした朝廷勤めの官人だ。さらには一嵐を後宮に拉致、もとい登用した張本人でもある。

 正直、一嵐としてはもうかかわりたくない相手だ。


「……何用ですか」


 そうと分からない程度に小さくため息をついて問うと、沈琛は頬杖をついて一嵐を見た。


「そう邪険にするなよ。用がなきゃ来ちゃいけないのか?」

「この後すぐ仕事に戻るつもりだったのですが」

「そうなのか? 俺が声をかけなきゃ、あと数刻は考え込んでいそうだったがな」

「……いつから見ていたんですか」

「お前が無様に吹き出したのは見た」


 目の前の生意気な少年が官人でなければ、身を乗り出して張り倒していたところだろう。だが、それをできないことを知っているのが沈琛の嫌なところである。


 それでも一嵐は負けじと不満を漏らした。


「盗み見とは趣味が悪いことで」

「それが命の恩人に対する態度か?」

「その件に関してはお世話になりました……」


 一嵐は目を逸らして曖昧に笑った。


 今でこそ配達人を名乗ってはいるが、もともと一嵐は市井で違法な品を運んでいた、いわゆる運び屋だ。

 しかし、長らく悪事に加担していたツケか、ある日お縄にされそうになったところを沈琛に拾われたのである。


(もっとも、お縄にされた方がマシだったかもしれないが)


 一嵐はため息をつくと、改まって沈琛に向き直った。


「それで、官人ともあろうお方が、罪人とおしゃべりをしに来たわけではありませんよね」

「まあ、それも目的の一つではあるが……」


 目的の一つではあるのか、という一嵐のつぶやきは無視し、沈琛は少しだけ眼光を鋭くした。


「お前、幽霊騒動は知っているな?」

「幽霊から手紙が届いたっていう?」

「その言い草だと、まるで自分は関係ないとでも言いたげだが……お前が手紙を届けた張本人だと聞いているぞ」

「……それが?」


 訊き返してしまってから、今のは悪手だったかと顔をしかめる。ここでしらばっくれておけばまだ巻き込まれずに済んだ可能性もあっただろう。

 しかしながら、一嵐はすでに片足を踏み入れてしまっていた。


「今日、お前が宦官に届けた手紙と同じものが、医局の医者と帝にも届いた。むろん、これはお前が届けたものではないことは知っている」

「本当に同じものなのですか」

「一語一句同じだ。いま文官に調べさせているところだが、おそらく筆跡も同じだろう。つまり、たった一人がこれだけの騒ぎを起こしたというわけだ。これが林翆の筆跡かどうかは調べようがないがな」


 椅子が軋む。沈琛は腕を組んで深く座りなおした。


「……で、なにを知っている?」


 何か知らないか、ではなく、何を知っている、と来たか。


「何も知りませんよ。依頼人のことも、届け先のことも」

「では、配達記録に残っていないのはなぜだ?」

「個人的に受けた依頼だからです」


 沈琛はぴくりと眉を動かした。


「つまり、誰かに頼まれたことを証明のしようがないわけだ」

「私が騒動の犯人だと?」

「少なくとも刑部の連中はそう考えている」


 一嵐は思わず天を仰いだ。


 帝の威光が脅かされた以上、警部は血眼になって犯人を探し出そうとするだろう。場合によっては、帝を満足させるために、何より自分たちに怒りの矛先が向かわぬように、犯人をでっちあげることも厭わないはずだ。

 このままでは一嵐がその犠牲になってしまう。


「……刻限は」

「明日の朝にでも縄を持って訪ねてくるだろうな」


 一日にさえ満たない短い時間。その間に真犯人を探し出し、自身の身の潔白を証明しなければならない。


 一嵐は小さく舌打ちを漏らし、沈琛を半眼で睨んだ。


「最初から私に犯人を探させるつもりだったのですね」

「犯人はおそらく下女だ。だったら刑部の宦官どもにやらせるより、お前みたいな立場に捉われない人間にやらせた方が早い。……むろん、お前が犯人である可能性も皆無ではないがな」

「本当にそう思っていたら、今ここにいないでしょう」

「へえ、よく分かっているじゃないか」


 沈琛が口角を上げたのを尻目に、一嵐は席を立った。


(とにかく時間がない)


 歩き出しながら思考をする。


 いま一嵐に必要なのは何よりも情報だ。

 林翆はいつどうして死んだのか。犯人はなぜ林翆の名を騙り手紙を送ったのか。宦官、医者、帝の三者のつながりは。


 無意識に口元に手を当てる。その下には抑えきれない笑みが浮かんでいた。


(少し面白くなってきたな)


 食堂を後にした一嵐の背後で、沈琛は面倒くさそうな表情で外を眺めていた。

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