第6話【偽りの墓標、そして第二の影】



1.【偽りの墓標、そして第二の影】


『最終更新者: RIKU SHINOHARA』


兄の名前が、網膜に焼き付いて離れない。それはまるで、激しい閃光を見た後の残像のように、私の意識の中心で黒く、禍々しく明滅していた。けたたましい侵入検知アラームは止んだが、代わりに私の頭の中では、壊れたレコードのように思考が空転を始める。兄さんが、なぜ? 国際衛星通信機構の、それも最高レベルのセキュリティデータベースに? あの夜、兄を飲み込んだ闇は、私が想像していたよりもずっと深く、冷たく、そして国家という巨大な機構の神経網にまで、その根を伸ばしていたというのか?


『結女! 聞こえるか! 救難信号を受信したぞ! コードは偽装されている! 間違いない!』


父の切迫した声が、硬いヘッドフォンのシェルを突き抜け、思考の渦に沈んでいた私を現実へと乱暴に引きずり出した。そうだ、今は感傷に浸っている場合じゃない。今は、兄の亡霊を追う時ではない。目の前の、今まさに消えかかっている生命の灯火をこそ、見つめなければ。

目の前のモニターには、国際救難チャンネルを示すウィンドウが点滅し、私が仕掛けた偽りの遭難信号が、太平洋を周回する無数の衛星を経由して、全世界の救難機関に向けて発信されている。それは、私のハッキングが成功した証であり、BE70の乗員にとっては、か細いが唯一の命綱だった。


「…うん、聞こえる。父さん、"影"の動きは!?」

私は自分の声が震えていないか確認するように、ゆっくりと、しかしはっきりと尋ねた。エナジードリンクの飲み過ぎで、口の中が甘ったるく、乾ききっている。その不快感が、かろうじて私を現実に繋ぎとめていた。


『…罠だと気づいていないようだ。減速し、救難信号の発信源から距離を取り始めた。部外者の厄介ごとに巻き込まれたくない、というところだろう。ただの遭難信号だと完全に判断した』


うまくいった。

イゴール・ロマノフほどの男でも、まさか信号そのものが偽装されているとは思いもしなかったのだろう。彼は、この救難信号を、自分たちの作戦とは無関係の「ノイズ」だと判断したのだ。これで、父の船が、誰にも邪魔されることなく救助に向かえる。


安堵の息が、肺の底から漏れ出た。張り詰めていた肩の力が抜け、何時間も同じ姿勢だったせいで凝り固まった首筋をさする。オフィスチェアの背ももたれに深く沈み込むと、ギシリ、と悲鳴のような音がした。部屋の空気は、数時間分の私の体温と、数十台の機材が絶えず吐き出す熱気で、じっとりと生暖かくなっていた。窓の外では、依然として激しい雨が壁を叩いている。その音は、まるで、世界が私の小さな部屋の存在を忘れずに、その扉をノックし続けているかのようだった。


だが、その安堵は、冷たい水を浴びせられたように一瞬で消え去った。

私のシギントシステムが、新たな脅威を探知し、モニターの隅に警告を表示したのだ。赤い文字が、まるで血液のように、警告的に点滅している。

"影"の船から、これまでとは全く違うパターンの、極めて指向性の高いデータ通信。それは、広範囲に拡散する衛星通信ではない。地上にいる特定の相手にだけ届くよう、針のように鋭く絞られた、極超短波(UHF)通信。まるで、すぐ近くにいる仲間に、耳打ちで秘密の指令を送っているかのような…。


「…なに、これ…」


そして、数分後。房総半島の沿岸レーダーの反射波を監視していたサブモニターに、新たな光点が現れた。港の、それも民間のマリーナではない。自衛隊基地の影に隠れるように存在していた、海図に記載のない、非合法な桟橋からだ。一隻の高速艇が、水面を切り裂くような猛烈なスピードで出港したのだ。その船は、AISに応答せず、一直線に救難信号の発信源…つまり、BE70のいるブイへと向かっていく。その船影(シルエット)データを、防衛省が公開しているデータベースと照合するが、該当するものは一つもない。黒く塗装された、レーダー波を吸収するステルス素材で覆われた、鋭角的なデザイン。それは、まるで深海鮫が、獲物の匂いを嗅ぎつけて水面に躍り出たかのような、凶暴な姿だった。


"影"は、一隻だけではなかった。


背筋を、氷の指でなぞられたような悪寒が走る。


『結女、どうした!? 何かあったのか!』

父の訝しむ声。私は、乾いた唇を舐めた。

「父さん、ダメだ! 陸(おか)から、もう一隻、"影"の仲間が出てきた! "ゴースト"は、救難信号を無視するフリをして、陸の別動隊に連絡したんだ!」


ロマノフは、一枚上手だった。

彼は、私の偽装工作を完全には信用しなかった。99%無関係な遭難信号だと思いつつも、残りの1%の「ありえない可能性」を潰すために、別動隊に「念のため」の現場確認を指示したのだ。それが、幾多の戦場を生き抜いてきた傭兵の、冷徹で合理的なリスク管理だった。彼は、決して希望的観測に頼らない。最悪の事態を常に想定し、そのための手を、常に複数用意しているのだ。


高速艇の速度から計算して、現場への到着は20分後。父の船より、10分も早い。BE70の乗員たちは、救助される寸前で、第二の死神に捕まることになる。

万策尽きた。

もう、私に打てる手はない。

モニターに映る、絶望的な航跡を、ただ見つめることしかできなかった。画面の中で、小さな光点が、急速に迫るもう一つの光点から、逃げることもできずに、ただそこにいる。それは、かつてネットの炎に焼かれ、現実の駅前で追い詰められた、無力な私自身の姿そのものだった。あの時も、私はただ、逃げることしかできなかった。


『…結女』

父が、静かな、しかし覚悟を決めた声で言った。その声色だけで、父が何をしようとしているのか、痛いほどわかった。

『もう、ここまでだ。俺が、ケリをつける』

「父さん…やめて…そんなことしたら…」

『俺の正体を明かし、海上保安庁の特殊救難隊に緊急出動を要請する。時間はギリギリだが、間に合うかもしれん。お前はもう、回線を切れ。いいな、これは命令だ。お前は、もう、関係ない』


それは、父の、最後の優しさだった。

これ以上、娘を危険な闇の世界に引きずり込むまいとする、親としての決断。

だが、私には、それが父の自己犠牲の覚悟の表れだと、痛いほどわかった。

正体を明かせば、父が何年もかけて築き上げてきた潜入捜査は全て失敗に終わり、彼のキャリアにも深い傷がつく。最悪の場合、"影"の組織から、私たち家族が報復のターゲットにされるかもしれない。


ふざけるな。

私のせいで、父さんまで失ってたまるか。

私が、この物語を始めたんだ。終わらせるのも、私の役目だ。


2.【最後のカード、夜啼鳥(ナイチンゲール)の歌】


私は、父の言葉を無視し、再びキーボードに指を置いた。

もう、守るべきプライドも、失うものもない。

ならば、私も、最後のカードを切る。躊躇も、後悔も、全て捨てて。


「父さん。私に、あと15分だけ時間をちょうだい」

『結女、何を言っている! 馬鹿なことを考えるな! お前がこれ以上関わることじゃない!』

「いいから。お願い。15分経っても状況が変わらなかったら、父さんの好きにしていい。でも、それまでは、絶対に正体を明かさないで。お願いだから、私を、信じて」


父からの返事を待たずに、私は回線を一方的にミュートした。聞こえてくるのは、自分の荒い呼吸と、ドクドクと耳元で鳴る心臓の鼓動だけ。

そして、これまで収集した、全ての情報を、一つのフォルダに集約していく。


"影"の正体。船長のイゴール・ロマノフの経歴と声紋データ。

彼らが使う、暗号化された通信のパターンと周波数。

陸から現れた、第二の"影"の存在と、その航跡データ、そして母港と思われる非合法桟橋の座標。

そして、兄・陸の名前が残されていた、国際データベースのバックドアに関する、暗号化されたアクセスログ。


これらは、もはや単なる情報の断片ではない。

それは、"影"という巨大な犯罪組織の、心臓部に突き刺すことができる、一本の「槍」だった。


問題は、誰が、その槍を投げるかだ。

海上保安庁では、もう間に合わない。組織の構造上、現場が動くにはあまりにも多くの手続きと時間がかかる。

ならば、さらにその上の組織を、日本の行政機関の頂点を、直接動かすしかない。


私の指は、吸い寄せられるように、あるプロトコルを解析し始めた。

それは、日本の行政ネットワークの、最深部に存在する、聖域。

有事の際に、総理大臣とその側近たちだけが使う、物理的にも電子的にもインターネットから隔離された、秘匿緊急通信回線。


――官邸への、直通線(ホットライン)。


普通のハッキングとは、次元が違う。これは、国家に対するサイバーテロと見なされてもおかしくない、禁断の行為だ。捕まれば、私の人生は終わる。もう二度と、日の光を見ることはないだろう。

だが、もう、迷いはなかった。迷っている間に、光は消えてしまう。


私は、これまで集めた全ての情報を、AES-256ビットで暗号化し、一つのファイルに圧縮した。ファイル名は「Nightingale.zip」。夜啼鳥。夜の闇の中で、最も美しい声で鳴き、危険を知らせるという、伝説の鳥。かつて兄が好きだと言っていた、古いスパイ映画のコードネームだ。兄さん、あなたの遺してくれた知識で、私は今、戦おうとしているよ。


そして、官邸ホットラインの、幾重にもかけられた認証システムを、兄が遺したデータベースの裏口と同じロジックで、バイパスしていく。

まるで、兄が、この時のために暗闇の中に細い道を遺してくれていたかのように、私の指は迷いなく、正確に、必要なコードを打ち込んでいった。あの頃、兄と一緒に半田ごてを握り、複雑な基盤のパターンを追いかけた記憶が、指先を導いてくれているようだった。


数分後、私の目の前に、余計な装飾が一切ない、極めて簡素なメッセージ送信フォームが現れた。背景は、目に痛いほどの真っ白。それは、これから私が書く言葉以外の、あらゆる情報を拒絶する、絶対的な虚無の空間だった。

宛先は「内閣危機管理監」。


私は、そこに、一度大きく深呼吸をしてから、たった二行のメッセージを打ち込んだ。


『添付ファイルを参照。貴官らは、東京湾の玄関口で、巨大な脅威を見逃している』

『15分以内に、房総半島沖を航行中の国籍不明戦闘艇の行動を停止させよ。さもなくば、この情報は、"別のルート"から全世界の報道機関に同時送信される』


それは、懇願ではない。救助要請でもない。

ひきこもりの少女が、この国の最高権力に対して突きつけた、最後通牒だった。


(場面転換:官邸地下・危機管理センター)


「なんだこれは!?」

深夜の官邸地下、危機管理センターの、コーヒーと静電気の匂いが充満した静寂を、当直の分析官である若林の鋭い声が破った。彼の目の前のモニターに、本来ならばテスト信号以外は表示されるはずのない、緊急ホットラインの受信ウィンドウが、警告音もなく、しかし不気味にポップアップしていた。

「不正アクセスか!? いや、認証は正常にパスしている…だと…!? ありえない…この回線に外部からアクセスできる人間など、存在するはずが…」

隣の席で仮眠をとっていたベテラン職員、田所が、その声に飛び起きて駆け寄る。

「おい、若林、騒ぐな。内容は?」

「それが…脅迫です。『15分以内に動け、さもなくば情報をリークする』と…添付ファイルが一つ」

「馬鹿な。どこかの愉快犯だろう。すぐに削除しろ。こんなものに構っている暇は…」

田所が吐き捨てるように言った、その時。

若林は、震える指で添付ファイルを開き、その中身を見て絶句した。

「た、田所さん…これ…まずいですよ…本当に、まずい…」

画面に表示されていたのは、彼らがここ数ヶ月追い続けている、国籍不明の武装組織――コードネーム"影"に関する、極めて詳細で、生々しいレポートだった。彼らですら掴めていなかった、幹部の名前、通信パターン、そして、現在進行形で日本の領海内で違法な活動を行っているという、衝撃的な内容。その情報の精度は、ただのハッカーが入手できるレベルを、遥かに超えていた。

「…危機管理監を起こせ。いや、官房長官と、総理もだ。叩き起こせ。夜が、明ける前に」

田所の顔から、血の気が引いていた。


(場面転換:結女の部屋)


3.【15分間の沈黙、そして夜明け】


「送信」ボタンを、強く、クリックした。

その瞬間、私の部屋は、再び墓場のような静寂に包まれた。

もう、私にできることは何もない。槍は、投げられた。

あとは、国家という、巨大で、顔の見えない怪物が、この槍をどう受け止めるかを見守るだけだ。


時間は、永遠のように長く感じられた。

モニターに映る、死神のように突き進む、第二の"影"の航跡。

BE70の救命ボートとの距離が、刻一刻と、絶望的なほどに縮まっていく。

私は、ただ、時計の秒針の音だけを聞いていた。それは、処刑台へと続く、最後の階段を上る音のようだった。


5分経過。

状況に、変化はない。やはり、ただの悪戯だと思われたのか。あるいは、私のメッセージは、無数の情報の中に埋もれて、誰の目にも留まっていないのかもしれない。エナジードリンクの飲み過ぎで、心臓が嫌な音を立てている。キーボードを握る手が、汗で滑った。


10分経過。

第二の"影"が、BE70のいるブイの、目と鼻の先まで迫っていた。あと数分で、全てが終わる。

父からの通信が入る。

『…結女、もう時間だ。約束だ。お前はよくやった。本当に、よくやった。あとは、俺たち大人の仕事だ…』


父の、覚悟を決めた声。

私は、唇を強く噛み締めた。万策尽きた。

ごめん、父さん。ごめん、BE70の乗員さん。

そして、ごめん、お兄ちゃん。私には、やっぱり、誰も――


その時だった。


私のシギントシステムが、これまで聞いたこともないような、けたたましいアラームを発した。

第二の"影"から、混乱と怒りが入り混じったような、短い通信が発信されている。


『…何だと!? 本国からの直接命令だ…!? 理由を言え! …くそっ、わかった! 作戦は、直ちに中止する! 全速力で帰港せよ!』


そして、モニターを見て、私は息を呑んだ。

第二の"影"が、急激に針路を変え、まるで何かに追われるように、港へと引き返し始めたのだ。

さらに、イゴール・ロマノフが乗る、母船である"影"もまた、ゆっくりと針路を南に取り、日本の領海から離脱していく。


彼らは、撤退したのだ。


何が起こったのか、理解が追いつかない。

私のメッセージが、本当に届いたというのか?

ひきこもりの少女の、たった一本の脅迫が、本当に国家を動かしたというのか?


呆然とする私のヘッドフォンに、父の、信じられないといった響きを帯びた声が、飛び込んできた。


『…結女…お前、一体、何をしたんだ…?』


私は、何も答えられなかった。

ただ、モニターに映る、遠ざかっていく二つの影と、その場にぽつんと取り残された、小さな救命ボートの光点を、いつの間にか溢れ出ていた涙で滲む目で、見つめているだけだった。


私の、長くて、暗い夜が、終わろうとしていた。

窓の遮光カーテンの隙間から、ほんの僅かに、朝の気配を帯びた、青白い光が差し込んでいるような気がした。


(第6話 了)

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