第5話『夜明けのハッキング』
第5話『夜明けのハッキング』
1.【180秒の閃光、そして影】
時間は、残酷なほどに正確なリズムで、死へと向かって行進していた。
"影"の次のデータ更新まで、残り10秒。
私のモニターに映るBE70の光点は、まるで風前の灯火だった。それは、広大な暗黒の海図の上で、今にも消え入りそうに瞬く、孤独な魂のメタファー。そのすぐ側には、死神の大鎌のように、"影"の邪悪な光点が、絶対的な捕食者として迫っている。9、8、7…。私の脳内で、無慈悲なカウントダウンが響く。
『結女、BE70が動いた! 覚悟を決めたぞ!』
父の緊迫した声が、ヘッドフォンを震わす。その声には、作戦の成否を祈る響きと同時に、これから起こるであろう閃光に対する、元兵士としての冷静な観測者の響きが混じっていた。
次の瞬間、私のパッシブレーダーが、異常なエネルギーを探知した。BE70の座標から、閃光としか表現しようのない、純粋な光の暴力が放たれる。
モニターのその一点が、白く、完全に飽和した。それは、小さな超新星爆発。暗闇に慣れた私の網膜に、その光は残像として焼き付き、まるで聖痕のように、じりじりと痛んだ。
BE70が、照明弾を焚いたのだ。
嵐の夜の海に、突如として生まれた、束の間の太陽。
その光は、高高度を飛ぶ"目"――おそらくは無人偵察機の光学センサーを焼き、その電子の網膜に、回復不能な純白の残像を刻み込んだはずだ。それは、物理的な破壊ではない。情報的な飽和。過剰な光という情報によって、敵の「知覚」そのものを麻痺させる、情報戦における一撃だった。
「"影"のデータ通信に、変化は!?」
私は、スペクトルの滝が流れ落ちる画面に全神経を集中させる。そこは、電波の生態系。強い信号が弱い信号を捕食し、ノイズという名の深海が全てを飲み込む、非情の世界。
3分周期で現れるはずの、あの不気味なバースト通信が、現れない。
5秒、10秒、30秒が経過しても、敵の通信は、墓場のように沈黙したままだった。
作戦は、成功した。
"目"からの情報が途絶え、"影"――イゴール・ロマノフは、一時的に盲目になったのだ。彼は、海という三次元空間の中で、最も重要な「情報」という名の羅針盤を失った。
『やったか…!?』
「まだ! 父さん、今だ! BE70に、全速力で北へ向かうよう伝えて! "影"は情報が途絶えた場合、最後に受信した座標へ直進するはず! それが軍事教範(ドクトリン)の定石だから! その予測進路から、今なら離脱できる!」
私の脳は、安堵という感情を処理する前に、次の手を計算していた。喜びは、生き延びた後に、ゆっくりと味わえばいい。今は、思考を止めるな。
与えられた時間は、わずか180秒。次のデータ更新までに、BE70は"影"の探知範囲から完全に脱出しなければならない。それは、神から与えられた、束の間の猶予。
モニター上で、二つの光点が、運命の鬼ごっこを始める。
北へ逃げる、小さな光。それは、希望そのものだった。
それを追う、大きな影。それは、過去の亡霊だった。
両者の距離が、少しずつ、しかし確実に開いていく。私の部屋には、冷却ファンの音と、私の荒い呼吸の音だけが響いていた。
120秒経過。
150秒経過。
そして、180秒。砂時計の最後の砂粒が落ちる。
「…通信、来た!」
"影"からのバースト通信が、再び現れた。偵察機のセンサーが、眩暈から回復したのだ。
だが、その時にはもう、BE70の光点は、"影"のレーダー探知範囲の、ギリギリ外側にいた。ロマノフは、闇雲にレーダーの出力を上げるだろうが、嵐の海ではシークラッターに阻まれ、木の葉のような救命ボートを見つけ出すことは、ほぼ不可能に近い。
ロマノフは、騙されたことに気づいただろう。
モニター上で、"影"の光点が、まるで傷を負った獣のように、 erratic な動きを見せる。怒り狂い、周囲を無差別に捜索し始めた。だが、もう遅い。BE70は、嵐の闇の中へと、完全にその姿を消していた。
『…やった…。結女、お前のおかげだ…! 本当に、やったんだ…!』
父の、心からの安堵の声が、ヘッドフォンから聞こえる。その声は、ほんの少しだけ震えていた。
私も、全身から力が抜けていくのを感じた。張り詰めていた神経の糸が、ぷつりと切れる。椅子に深くもたれかかり、天井の吸音材の、規則正しい凹凸を、ぼんやりと見上げた。
だが、安堵は、脆いガラス細工だった。
BE70の乗員から、父を経由して、絶望的な報告が届いた時、それは音を立てて砕け散った。
『…結女、まずいことになった。BE70は浸水がひどく、もう自力航行は不可能だ。船を放棄し、救命ボートで脱出する。だが、この嵐だ。小さなボートでは、夜明けまで持たん…!』
2.【海の墓標と、選択という名の罰】
私たちは、戦闘には勝った。だが、戦争には負けようとしていた。
敵からは逃れた。しかし、嵐という、もう一つの巨大で、そして意思を持たない絶対的な敵が、BE70の乗員の命を飲み込もうとしている。
公式の救助を呼べば、BE70の秘密が公になり、父の潜入捜査も全てが水泡に帰す。最悪の場合、国際問題に発展する。
八方塞がり。
哲学で言うところの「ツークツワンク」。チェスで、どの駒を動かしても状況が悪化する、究極の選択的劣勢。私たちが置かれたのは、まさにその盤面だった。
私のモニターに映る海図は、もはや活路を示す希望の地図ではなく、彼らの墓標の位置を示す、冷たい死亡診断書にしか見えなかった。
『…結女、もう一つ、方法がある』
父が、重い口調で言った。その声には、覚悟と、そして深い諦念が滲んでいた。
『海洋気象ブイだ。お前がさっき言っていた。あのブイには、EPIRB(イーパブ)…非常用位置指示無線標識装置が搭載されている。あれを作動させれば、全世界の救助機関に、自動で救難信号が発信される』
「でも、そしたら、"影"にも…!」
『ああ。だが、"影"が駆けつける前に、俺たちが先に救助する。俺の船の位置からなら、ブイまで30分だ。ロマノフより、俺たちの方が近い。これは、速度の勝負だ』
それは、あまりにも危険な賭けだった。
救難信号をキャッチするのは、"影"だけではないかもしれない。付近を航行する、第三国の軍艦や巡視船が受信する可能性もある。そうなれば、事態はさらに悪化する。父の言う「速度の勝負」は、あまりにも楽観的すぎた。
「…ダメだよ、父さん。リスクが高すぎる。それは、希望的観測という名の、感情的な判断だよ」
『だが、これしか…』
「あるよ」
私は、父の言葉を遮った。
震える指で、私は憎むべきインターネットブラウザを、再び前面に表示させる。
そのアイコンは、私を地獄へと誘う、パンドラの箱だ。
「私が、その信号を乗っ取る」
『…何を言っているんだ、結女?』
「EPIRBが発信する救難信号には、遭難した船の識別コードが含まれてる。そのコードを管理してるのは、国際衛星組織のデータベース。もし、そのデータベースに侵入して、BE70が発信するコードを、全く別の船…例えば、この海域で昨日あたりに沈没したと報告されている、ただの外国漁船のコードに書き換えることができたら…?」
父が、息を呑んだ。
私の言葉の意味を、その危険性を、そして、その可能性を、瞬時に理解したのだろう。
「"影"も、他の国の船も、それがBE70からの救難信号だとは気づかない。『ああ、あの沈んだ漁船のEPIRBが、衝撃で今頃作動したのか』くらいにしか思わない。父さんたちだけが、本当の遭難信号だと知って、救助に向かえる」
それは、理論上は可能かもしれない、荒唐無稽な作戦。
国家レベルのセキュリティに守られた国際機関のデータベースを、ひきこもりの少女が、たった一人でハッキングする。それは、神の領域への侵犯にも等しい行為だった。
『…できるのか? そんなことが…お前に…』
「わからない」
私は、正直に答えた。声が、震えていた。
「でも、やるしかない。私が最も憎んだ、この技術でしか、もう誰も救えないから。私が前に進むためには、私が最も見たくない、私自身の過去と、向き合うしかないから」
それは、私自身に課した、最後の試練だった。
感情理論でいうところの「暴露療法」。トラウマの原因となった対象に、あえて自らを晒すことで、その恐怖を克服しようとする、荒療治。
私の指は、これから、私を焼いた炎の中に、自ら飛び込もうとしていた。
3.【YUMEの亡霊、RIKUの道標】
ハッキングは、静かな戦争だった。
私は、プロキシサーバーを幾重にも経由し、自分の痕跡を、デジタル世界の雪の上に残る足跡のように、注意深く消しながら、目的のデータベースへと続く、電子の迷宮を進んでいく。
ファイアウォールという名の、分厚い城壁。
侵入検知システムという名の、無数の監視の目。
それらを、私は、かつて培った知識と、この数年間の孤独な観測の中で磨き上げた直感を頼りに、一つずつ突破していく。
それは、まるでかつて自分がネット上でやっていたことの再現のようだった。
ただ、目的が違う。
昔は、自分のガラスの城を守るためだった。
今は、誰かの命の砦を築くためだ。
何度も弾かれ、何度もルートを変え、時間だけが、無慈悲に過ぎていく。
父から、BE70の乗員が救命ボートに移り、嵐の中、決死の覚悟でブイに向かっているとの連絡が入る。残された時間は、あと僅かだ。焦りが、私の思考を鈍らせる。
追い詰められた私の脳裏に、ふと、ある記憶が蘇った。
それは、私がネット上で「YUME」として活動していた頃、海外のハッカーコミュニティの、今はもう閉鎖された掲示板の片隅で読んだ、ある論文。それは、このデータベースの、古いバージョンのシステムに存在する、理論上の脆弱性について書かれたものだった。
ほとんど都市伝説のような、忘れかけていた知識。だが、あの頃の私は、なぜかその論文を、暗号化してハードディスクの奥深くに保存していたのだ。
(…まさか…)
私は、その古い脆弱性を突くための、特殊なコードを書き始めた。
それは、システムに正面から侵入するのではなく、設計者がデバッグやメンテナンス用に密かに残した「裏口(バックドア)」を叩くための、魔法の呪文。
キーボードを叩く私の指は、もう震えていなかった。憎しみは消え、ただ純粋な目的意識だけが、私の神経を支配していた。
Enterキーを叩く。
数秒の沈黙。それは、神の審判を待つ時間。
そして、モニターの画面が切り替わり、私の目の前に、目的のデータベースの、最高権限を持つ管理画面が現れた。
信じられないことに、城壁の裏口は、まだ開いていたのだ。
「…侵入、成功」
私は、震える声で父に告げた。
すぐさま、BE70の識別コードを検索し、それを、昨日この海域で沈没したと報告されている、パナマ船籍の老朽化した漁船のコードへと書き換える。それは、死者の名前を、別の死者に上書きするような、冒涜的な行為だった。
『結女、BE70がブイに到着した! 今、スイッチを入れる!』
私は、データベースのログアウトボタンにカーソルを合わせた。
その時、私の目に、管理画面の隅に表示されていた、ある文字列が飛び込んできた。
それは、このバックドアを最後に使用した者の記録。
「最終更新者: RIKU SHINOHARA」
兄の名前。
そして、その横に記された更新日時は、兄が行方不明になった、あの嵐の夜の日付だった。
頭を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃。
この裏口は、都市伝説なんかじゃなかった。
兄が、このシステムに関わっていた?
兄は、この裏口を、知っていた?
いや、あるいは、兄が、この裏口を**「作った」**…?
思考が、停止する。
その一瞬の隙を突いて、データベースの侵入検知システムが、私の存在を捉えた。
モニターに、警告を示す赤いウィンドウが、心臓の鼓動のように点滅し、けたたましいアラーム音が部屋に鳴り響く。
強制ログアウトまで、残り10秒、9、8…。
私は、兄の謎を追いたいという、魂からの叫びを、奥歯を噛み締めて押し殺した。
今は、目の前の命が最優先だ。兄の謎は、私が生き延び、そして彼らを生還させた後に、必ず解き明かす。
ログアウトボタンをクリックすると同時に、BE70が作動させたEPIRBの救難信号が、全世界へと発信された。
私のモニターに映るその信号の識別コードは、もはやBE70のものではなかった。
それは、嵐の海に散った、名もなき漁船の、静かな墓標に変わっていた。
そして、その偽りの墓標の下で、今、二つの命が、夜明けを待っていた。
(第5話 了)
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