第4話『電波層の幽霊船(ゴーストシップ)』



第4話『電波層の幽霊船(ゴーストシップ)』


1.【深海のソナー、あるいは世界の再構成】


Enterキーを叩いた瞬間、私の脳は、過去のトラウマを強制的にキャッシュから削除した。いや、削除したのではない。それは依然として私の魂の基底層に、消えない地層のように堆積している。だが、今はその地層の上に、確固たる目的意識という名の、新しい大地が形成されていた。目の前の六つのモニターは、もはや過去の傷を映す忌まわしい鏡ではない。それは、嵐の海域全体を俯瞰し、因果の糸を読み解くための、私だけの観測装置――私自身の拡張された知覚そのものだ。


「父さん、"影"の現在位置を再送する。座標34度15分22秒、東経141度02分51秒。速度20ノット。BE70への最短コースを航行中」

『了解した! こちらは嵐を盾にして、西側から回り込む! 奴らに俺たちのエンジン音を気づかれるな!』


父との通信を確保しつつ、私は"影"の正体を暴くための、深淵なる作業を開始した。その船は、まるで深海に潜む伝説のクラーケンのように、AISという公的な海図からは完全に姿を消している。だが、私の「ステーション"YUME"」は、通常の船では決して捉えることのできない、その巨大な存在が立てる微細な「波紋」を、いくつも掴んでいた。


心理学でいう「カクテルパーティー効果」というものがある。騒がしいパーティー会場の中でも、人間は自分の名前や興味のある会話だけを選択して聞き取ることができる。今、私の脳とこの部屋のシステム全体が、まさにその状態にあった。無関係な電波という名の雑音は全てフィルタリングされ、ただ一つ、「影」というキーワードに関連する情報だけが、意味のある信号として私の意識に浮かび上がってくる。


第一のレイヤーは、パッシブレーダーが捉える、ぼんやりとした緑色の光点。それは、闇夜に浮かぶ鬼火のように、ただそこに「在る」ことだけを示す、存在論的な輪郭にすぎない。

第二のレイヤーは、敵艦から漏れ出す、旧ソ連製の軍用レーダー波。それは、敵の出自や系統を推測させる、系譜学的なヒントだ。


だが、それだけでは足りない。敵が何を考え、次にどう動くのかを知る必要がある。現象の奥にある、その本質(ヌーメノン)に触れなければ。

私は、第三のレイヤー――最も深く、最も危険で、そして最も真実に近い情報層――シギント(信号諜報)の世界へと、意識の全てをダイブさせた。


屋上の指向性アンテナを、"影"の座標に寸分の狂いなく固定する。コントローラーを操作する私の指先は、まるで熟練の外科医がメスを握るかのように、冷静かつ正確だった。スペクトラムアナライザーの感度を上げ、その船から発せられる全ての電波を「聴く」。

それは、まるで潜水艦のソナーマンが、海中の音なき音に耳を澄ます作業に似ていた。父がかつてやっていたという、あの仕事だ。彼は、クジラの歌と、敵の潜水艦のスクリュー音を、同じ静寂の中から聴き分けていたのだろうか。


数分間の沈黙。モニターには、既知の通信電波を示す、色とりどりの線が、まるで抽象画のように流れ落ちていくだけ。だが、私は待った。焦りは、知覚を鈍らせる最大の敵だ。私は、呼吸を整え、機械と一体化する。私の耳は、もはや鼓膜ではなく、屋上のアンテナそのものになっていた。


そして、見つけた。

ある特定の周波数帯で、ほんの0.5秒にも満たない時間だけ、ノイズレベルが僅かに跳ね上がる瞬間を。それは、静かな水面に一瞬だけ立った、小さなさざ波。ほとんどの観測者なら、宇宙線か何かの環境ノイズとして無視してしまうだろう、取るに足らない異常。


「…いた」


それは、周波数ホッピングを利用した、高度に暗号化されたバースト通信。一瞬で周波数を変えながら断片的なデータを送る、軍事用の通信方式だ。まるで、姿を見せずに茂みから茂みへと飛び移る、熟練のゲリラ兵のように。

通信そのものを解読することは、今の私には不可能だ。それは、神の言語を解読しようと試みるに等しい。しかし、解読できなくても、得られる情報はあった。言語の内容(コンテンツ)ではなく、言語が話される様式(コンテクスト)を読むのだ。


私は、その通信の発信タイミングと、敵艦の動きを数分間プロットし続けた。

そして、ある恐ろしい規則性――彼らの行動を支配する、冷たいアルゴリズムに気づいた。


「父さん、聞こえる!? "影"は、約3分ごとに、どこかとデータ通信を繰り返してる! そして、その通信の直後に、必ずBE70の方向へ向けて、ピンポイントでアクティブソナーを発射してる!」


アクティブソナー。それは、自ら音波を発射し、その反響で目標の位置を特定する、攻撃的で、暴力的な探知方法だ。BE70の乗員が『アクティブソナーにやられた』と言っていた言葉が、脳内でようやく意味を結んだ。


『どういうことだ、結女!? 詳しく説明しろ!』

「"影"は、単独で動いてるんじゃない! どこか別の場所に"目"があって、その"目"が捉えたBE70の正確な位置情報を、3分ごとに受信してる! そして、その情報に基づいて、ソナーで最終確認と…おそらく、攻撃のための最終的な照準合わせをしてるんだ!」


"影"の背後には、さらに巨大な何かがいる。それは、この嵐の雲の上にいるのかもしれない。成層圏を飛ぶ偵察機か、あるいは、地球の引力圏を周回する、冷たい軍事衛星か。

いずれにせよ、BE70は完全に捕捉されている。丸裸にされ、あとは魚雷か何かが撃ち込まれるのを待つだけの、祭壇の上の生贄。絶望的な状況。


2.【声紋という名の、魂の指紋】


『くそっ…! まるで幽霊と戦っているようだ…!』

父の焦りが、電波に乗って、静電気のように私の肌をピリピリと刺激する。


幽霊…。

その言葉に、私はある可能性に思い至った。

現象学において、世界は私の「志向性」によって構成される。私が「幽霊」だと思えば、それは幽霊として私の前に現れる。だが、もし私が、それを「人間」として捉え直したとしたら?

幽霊船(ゴーストシップ)には、必ずそれを操る船長がいる。ならば、その船長にも「声」があるはずだ。声。それは、その人間の過去、経歴、感情、そして魂の形そのものを反映する、唯一無二の「指紋」だ。


私は、シギントの対象を、無機質なデータ通信から、生身の人間の音声通信へと切り替えた。

国際VHF無線チャンネル。通常、船同士が航海の安全のために連絡を取り合う、公の周波数。"影"のような船が、やすやすと使うはずはない。彼らは、沈黙の掟に支配されている。

だが、嵐の中だ。彼らもまた、他の一般船舶との衝突を避けるために、最低限の「聴取(ワッチ)」はしているはず。そして、万が一の際には、声を発するかもしれない。どんなに訓練された兵士でも、不測の事態には、反射的に声が出てしまうものだ。


私は、複数のVHFチャンネルを同時に監視しながら、ある「罠」を仕掛けた。

音声合成ソフトを使い、ありふれたパナマ船籍の貨物船の船長を装った、自動音声メッセージを作成する。少しだけフィリピンなまりの、ありふれた英語。


『――こちら貨物船"オーシャン・ドリーム"。付近を航行中の、AISに応答のない船舶に告ぐ。当方は現在、激しい嵐により、舵に不具合が発生。貴船の進路上に接近する恐れあり。衝突回避のため、至急応答願う――』


これは、賭けだった。心理学でいう「認知の扉」をノックする行為。もし、"影"の船長が、この偽の警告に一瞬でも反応し、哪怕(たとえ)一言でも声を発すれば、私はその魂の指紋を採取できる。


偽のメッセージを、"影"のいる海域に向けて発信する。

1秒、2秒、3秒…。

応答はない。ただ、空電のノイズが、嘲笑うようにスピーカーから聞こえるだけ。やはり、無駄だったか。彼らは、沈黙の幽霊のままなのか。


そう思った瞬間。

監視していたチャンネルの一つで、ノイズが、鋭いナイフで切り裂かれた。


『…進路、変更の必要なし。そのまま航行せよ』


ロシア語なまりの、低い男の声。感情が削ぎ落とされた、氷のような声。

たった一言。だが、私にはそれで十分だった。


すぐさま、受信した音声を切り出し、声紋分析ソフトにかける。データベースとの照合を開始。私のデータベースは、公的な犯罪者リストだけではない。ネットの海から、合法非合法を問わず、私が何年もかけて収集した、ありとあらゆる音声データが含まれている。ニュース映像、ドキュメンタリー、テロ組織が公開した声明、暴露された諜報員の会話記録…。


数秒後、画面に、一致する可能性のある人物のリストが、確率と共に表示された。

99.8%という、驚異的な一致率を示した、一つの名前があった。


『イゴール・"ゴースト"・ロマノフ』


元ロシア海軍スペツナズ(特殊部隊)。退役後、国際的な武器密輸組織に合流し、数々の海賊行為や破壊工作に関与したとされる、S級の国際指名-配犯。彼のコードネームは「ゴースト」。決してレーダーに映らない、幽霊船の船長。その異名は、伊達ではなかった。


結女: 「父さん! "影"の船長がわかった! イゴール・ロマノフ! "ゴースト"の異名を持つ、元スペツナズの男だよ!」


3.【光の道、あるいは絶望への抵抗】


『…ロマノフだと!? あいつが、なぜ日本の近海に…!』

父の驚愕の声。どうやら、ロマノフは父にとっても、忘れることのできない因縁のある相手らしい。父の過去という、私がまだ知らない物語の登場人物が、今、私のモニターの中で、生々しく動き出している。


だが、感傷に浸っている暇はなかった。

ロマノフの正体が分かったことで、敵の行動パターンが予測できる。彼は、軍隊式の、合理的で、冷酷で、一切の無駄を排除した判断を下すはずだ。感情に流されることも、油断することもない。彼は、完璧なマシーンだ。


私は、再び全ての情報をモニターに集約させた。

BE70の漂流予測位置。

"影"の針路と速度。

3分ごとに天から降ってくる、謎の"目"からのデータ。

そして、イゴール・ロマノフという男の、氷のように冷徹な思考。


パズルのピースが、一つずつ、恐ろしいほどの精度で嵌っていく。

そして、最悪の答えが、数学的な必然として、導き出された。


結女: 「父さん、急いで! 次のデータ更新は、1分後! ロマノフは、そのデータを受信した直後に、BE70を攻撃するつもりだ! それが、軍事作戦として最も合理的で、最も確実な方法だから!」

『何ぃ!? あと1分だと…!』

結女: 「BE70に、今すぐ全ての電源を切り、沈黙するように伝えて! 少しでも電波を出せば、"目"に探知される! 赤ちゃんのように、静かに、息を潜めるんだ!」


私は父に指示を飛ばしながらも、この絶望的な状況を覆す、たった一つの可能性を探していた。

何か、何か方法はないのか。

ロマノフの、そして、その背後にいる"目"の、合理性のさらにその裏をかくような、非合理で、詩的な一手が。


その時、モニターの隅に表示されていた、ある情報が目に留まった。

それは、日本の静止気象衛星「ひまわり」の観測データ。厚い嵐の雲の、ほんの僅かな、奇跡のような切れ間が、数分後に現場海域の上空を通過する、という予測。


天文学が好きだった、兄の言葉が蘇る。

『電波だけじゃないんだ、結女。光だって、宇宙からのメッセージなんだぜ。星の光は、何万年も前の過去からの手紙なんだ』


光…?


そうだ。

衛星からのデータ通信を、妨害(ジャミング)することはできない。

だが、もし、"目"が衛星ではなく、高高度を飛ぶ偵察機だったとしたら?

そして、その偵-機が、電波ではなく、光学センサー…つまり、高性能なカメラでBE70を監視していたとしたら?


嵐の夜、真っ暗な海の上で、小さな船を見つけるのは不可能に近い。

だが、もし、BE70が**「光って」**いたら?


私は、父に叫んだ。

結女: 「父さん! BE70の乗員に、船にある全ての照明弾(フレア)を、今すぐ、雲の切れ間が真上に来るタイミングで、同時に焚くように伝えて!」

『フレアだと!? そんなことをすれば、ただの的になるだけだ! 気は確かか!』

結女: 「違う! "目"が光学センサーなら、強烈な光で一時的にカメラが麻痺(ホワイトアウト)する! 監視が途絶えれば、ロマノフへのデータ送信も失敗する! その3分の間に、安全な宙域へ逃げるんだ! 私たちが、光で、敵の目を眩ませるの!」


それは、あまりにも突飛で、あまりにも危険な賭けだった。まるで、神話の中の英雄が、太陽のかけらを使って怪物を倒すような、荒唐無稽な作戦。

だが、もう、これしか道は残されていなかった。


父は、一瞬ためらった後、覚悟を決めた声で言った。

『…分かった。結女、お前を信じる。お前の作った"光の道"を、俺たちが走る!』


私は、祈るような気持ちで、BE70からの最後の応答を待った。

数秒後、弱々しいが、確かな声が返ってきた。


『…了解…。"光の道"…か。…面白い…。やってやる…』


私は、モニターに映る、二つの光点を睨みつけた。

一つは、沈みゆく命。

もう一つは、迫りくる死神。

そして、その間に、これから私がこじ開ける、ほんの僅かな、しかし宇宙にまで届く、光の活路。


「お願い…間に合って…!」


私の声は、もう、誰にも届かない。

ただ、夜明け前の、最も暗い部屋に、虚しく響くだけだった。

私の祈りが、光となって、天に届けと、ただそれだけを願っていた。


(第4-話 了)

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