第3話『焼失したアバター』



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### **第3話『焼失したアバター』


**1.【憎しみのキーボード】**


憎い。

この、キーボードが、憎い。


嵐の海で沈みゆく命を救うため、私は今、自ら進んで、憎悪の対象であるはずのインターネットブラウザを開き、そのインターフェースであるキーボードに指を置いている。黒いプラスチックの塊。その表面に、シルク印刷されたアルファベットと記号の羅列。AからZまで、0から9まで。それは、かつて私の世界を焼き尽くした呪いの言葉を構成する、不気味な部品そのものだ。ひとつひとつが、私に向けられた悪意の弾丸のように見える。


指が、記憶に縛られて震える。

カタカタと、まるで極度の緊張や恐怖を感じた時に歯が鳴るように、私の意志とは無関係に指が微細な痙攣を起こす。タイピングができない。モニターに映る、ありふれたログイン画面が、まるで地獄の第九圏へと続く、凍てついた門のように見えた。その向こうには、私を嘲笑い、私を特定し、私を現実の世界まで追い詰めてきた、顔のない怪物たちがうごめいている。


(どうして、私が…)


どうして、私が最も忌み嫌うこの技術を使わなければならないの?

どうして、私を奈落の底に突き落としたこの世界に、再び、自らの意志で足を踏み入れなければならないの?

それは、蛇に噛まれた人間が、治療のために同じ蛇の毒から作られた血清を打たれるような、残酷な自己矛盾だった。


父の声が、ヘッドフォンの向こうで雷鳴のように叫んでいる。

『結女、急げ! 躊躇している時間はない! 一秒、一瞬が、彼らの命を削っているんだぞ!』


わかっている。論理では、頭では、痛いほど。でも、できない。

私の指は、あの日の記憶に縫い止められたように、動かない。感情が、理性を麻痺させる。心理学で言うところの「感情ヒューリスティック」――過去の強烈なネガティブな経験が、現在の合理的な判断を曇らせるという、人間の脳の不完全な機能。私の脳は、インターネットという刺激に対し、「危険」「逃げろ」という最大級の警報を、全身の神経に向けて発信し続けていた。


瞼を閉じると、全てが昨日のことのように、鮮やかな色彩と、鋭い痛みを持って蘇る。

私が、まだ「YUME」だった頃。

私が、まだ誰かを信じることができた、愚かで、そして、二度と戻らないほど幸せだった頃の記憶が――。


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**2.【ガラスの城と、投影された自己】**


中学2年生だった私、篠原結女は、二つの世界に生きていた。

一つは、現実の世界。教室の隅で息を潜め、他人の顔色をうかがい、自分の意見一つまともに言えない、臆病で透明な少女の世界。社会心理学でいう「同調圧力」の檻の中で、私は自らの輪郭を消し去ることで、かろうじてそこに存在していた。私は、クラスメイトたちの集合的無意識の中に溶け込む、名もなき風景の一部だった。


そして、もう一つが、インターネットの世界。

ハンドルネーム「YUME」を名乗る私は、そこでは別人だった。それは、心理学における「ペルソナ(仮面)」、あるいは、私が投影した「理想自己」そのものだった。現実では決してできない、大胆で、鋭い自己表現。古いSF映画の、誰も気づかないような細部に光を当てた緻密な考察ブログを書き、自作のデジタルアートを発表する。その世界では、私は創造主であり、預言者であり、そして女王だった。


顔も知らないフォロワーからの「いいね」や「神!」という称賛の言葉が、私の存在価値の全てだった。それは、社会的な承認欲求という、人間の根源的な渇望を満たしてくれる、甘美な麻薬だった。現実の私がどれだけ透明であろうと、ネット上の「YUME」は確かに存在し、誰かに影響を与え、賞賛されている。その事実だけが、消えかかりそうになる私の自尊心を、かろうじて繋ぎとめていた。ネットは、私が自分の手で築き上げた、安全で、キラキラしたガラスの城だった。


その城が崩れるきっかけは、あまりにも些細な、しかし必然的な出来事だった。

私が書いた、あるカルト映画の結末に関する、新しい解釈。それは、従来のファンの間では定説とされていた物語の構造を、根底から覆すような、挑戦的な内容だった。私にとっては、それは純粋な知的好奇心と、作品への愛から生まれたものだった。

だが、その愛は、ある人々にとっては「異端」であり「冒涜」に映った。


「にわかが語るな」「解釈違いだ」

最初は、健全な批判だった。だが、私が不器用な言葉で反論を試みたことで、事態は悪化する。「言い訳」「上から目線」。言葉は、受け取る側の感情というフィルターを通して、いともたやすくその意味を変容させる。

そして、批判は、あっという間に人格攻撃へと変貌した。

「リアルではどうせ友達いないんだろ」「キモいオタク」。

これは、社会心理学でいう「内集団バイアス」と「外集団同質性効果」の典型だった。彼らは「古参ファン」という内集団を形成し、私を「新参者のにわか」という外集団の記号へと単純化した。もはや、そこに個人としての私は存在しない。ただ、叩いていい、記号化された「敵」がいるだけだった。


炎は、現実世界にまで燃え広がった。

「特定班」と名乗る者たちが、私の過去の投稿から個人情報を割り出そうと動き始める。「△△中学の生徒か?」という書き込みを見つけた時の、全身の血が凍りつくような感覚を、私は一生忘れないだろう。それは、ガラスの城の壁が砕け、城の外の冷たい現実の空気が、私の肌を直接撫でた瞬間だった。


それでも、私にはたった一人だけ、信じられる人がいた。

ネット上で「親友」だったフォロワー。彼女にだけは、DMで現実の悩みも打ち明けていた。彼女もまた、現実世界での生きづらさを抱えているように見えた。私たちは、互いの傷を舐めあう、デジタル世界の片隅の共依存関係だったのかもしれない。

だが、彼女は、炎上という名の怪物に恐怖したのか、あるいは注目を浴びたいという甘い蜜に誘われたのか、私を裏切った。

私の悩みを歪曲して匿名掲示板に晒し、「YUMEはリアルでも病んでるメンヘラだよ」と、最後の一撃を放った。

「認知的不協和」――彼女は、私を裏切るという行為と、「自分は正しい人間だ」という自己認識の矛盾を解消するために、私を「裏切られても仕方ない、悪い人間」に仕立て上げる必要があったのだ。


信じていた相手からの、冷たいナイフ。

それが、私の心を完全に殺した。


その夜、私は泣きながら、数年かけて築き上げた全てのアカウントを削除した。

私のガラスの-城は、跡形もなく焼け落ちた。私の投影された自己、私のアバターは、デジタルの灰と化した。


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**3.【現実への侵食】**


それでも、私はまだ、現実の世界にしがみつこうとしていた。

学校へ行かなければ。普通に、戻らなければ。

そう自分に言い聞かせ、震える足で駅に向かった朝のことだった。秋の冷たい空気が、やけに肌に染みた。


「あの…篠原結女ちゃん、ですよね?」


背後からかけられた声に振り返ると、見知らぬ同級生の男子が、好奇心に満ちた、悪意のない、だからこそ残酷な目で私を見ていた。

「YUMEってアカウント、結女ちゃんだよね? 俺、ファンだったんだよ」

彼が突きつけてきたスマートフォンの画面。そこに映し出されていたのは、私が削除したはずの、炎上したブログのキャッシュだった。

周囲の生徒たちの、ひそひそ声が聞こえる。「マジ本人?」「うわ…」

安全な場所は、もうどこにもなかった。匿名の悪意は、ついに現実の肉体を持って、私の名前を呼んだのだ。デジタルとリアルの境界線が、音を立てて崩壊した瞬間だった。


私は絶叫し、逃げ出した。

家に駆け込み、自室に鍵をかける。


そして、私の内なる何かが、完全に壊れた。

感情の洪水が、理性の堤防を決壊させた。

憎い。

私を評価し、私を監視し、私を追い詰めた、このPCが。キーボードが。そして、その無機質なレンズで、私という存在を「コンテンツ」として消費していた、ウェブカメラが。


**ガッシャァァァンッ!!**


私は、椅子を振り上げ、モニターを叩き割っていた。キーボードを床に叩きつけ、ウェブカメラをヒールで何度も、何度も踏み砕いた。

『見るな! 私を見るな! 消えろ!』

ドアを叩く母の悲鳴も、もう耳には届かなかった。

私が破壊していたのは、機械ではない。世界と繋がっていた、私自身の「窓」だった。そして、その窓の向こうの世界を信じていた、愚かな自分自身だった。


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**4.【夜明けのハッキング】**


――「結女! 聞こえるか、結女! しっかりしろ!」


父の切羽詰まった声が、ヘッドフォンの中から響き、私を悪夢の底から現在へと引きずり出した。

目の前には、ログイン画面。その向こうには、私が最も憎んだ、インターネットの世界が広がっている。


震えが、まだ止まらない。

でも、ほんの少しだけ、何かが違っていた。


かつて、ネットの向こう側にいたのは、顔の見えない、無数の悪意だった。それは、私という個人ではなく、「YUME」という記号に向けられた、空虚な悪意の集合体だった。

だが、今、この回線の向こうにいるのは、たった二つの、消えかけている命だ。顔も知らないけれど、その「心拍」を、私は確かにこの耳で聴いた。それは、記号ではない。紛れもない、個人の、生命の証だった。


兄が言っていた。

『俺たちの声を、月まで旅行させてこようぜ』


私の声は、もう、どこにも届かないと思っていた。

私の技術は、もう、誰の役にも立たない、呪われた知識だと思っていた。


違う。

まだ、できることがある。

この憎しみのキーボードでしか、救えない命がある。

この、私を地獄に突き落とした知識が、誰かを天国へと導く、唯一の鍵になるのかもしれない。


私は、ゆっくりと、息を吸った。肺の底に、淀んだ部屋の空気を満たす。

そして、震える指で、パスワードを打ち込む。

それは、私が「YUME」だった頃から、ずっと変えていないパスワード。

兄のコールサインと、私の誕生日を組み合わせた、古い、そして最後の、おまじない。


**『JA1YGG-XXXX』**


Enterキーを叩く。

モニターに、見慣れた、しかし今は異世界のように見えるデスクトップ画面が表示された。


私はもう、ガラスの城に隠れる、臆病な「YUME」じゃない。

私は、篠原結女。

嵐の海の、二つの命を救うための、ただ一人のハッカーだ。


「父さん、聞こえる? 今から、始めるよ」


マイクに告げた私の声に、もう迷いはなかった。

憎しみを、絶望を、過去の全てを、燃料に変えて。

私の指が、夜明けをこじ開けるためのコードを、猛烈な速度で打ち込み始めた。それは、まるで、凍てついた鍵盤の上を、狂ったように踊るピアニストのようだった。


**(第3話 了)**

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