第11話 「黄金の雌蕊(サフラン)と、天才のメンテナンス」

「――おい、エルザ。今日の『終業時間』だ。脳みそが沸騰する前に、こいつでクールダウンしろ」


聞き慣れた三・八ニュートンのノックの後、ガラムが盆を持って現れた。 執務室に漂っていた焦げたハンダと魔力のオゾン臭が、一瞬にして鮮やかな、どこか高貴でエキゾチックな香りに塗り替えられる。


エルザは拡大鏡を覗いたまま、小さく鼻を鳴らした。 「……ガラム様。この香り、成分分析をせずとも分かります。アヤメ科クロッカス・サティウスの雌蕊――サフランですね。地中海沿岸原産の、非常に希少な」


「能書きはいい。その『非常に希少な』やつを、北方の商人と大剣の調整一回分で取引して手に入れたんだ。あんたのボロボロになった記憶力と、冷え切った体を叩き直すためにな」


ガラムが机の端の部品を無造作に避け、盆を置いた。 そこには、黄金色に輝くサフランライスと、湯気を立てる具沢山のスープが並んでいた。


「……黄色。目に刺さるような、純度の高いクロセチンの色ですね」


エルザは観念したようにペンを置き、黄金の米を一匙、口に運んだ。 舌の上で踊る独特の風味。米の一粒一粒に、ビタミンB群やミネラル、そして神経細胞を修復する力が凝縮されているのが感覚的に伝わってくる。


「……驚きました。脳の海馬が、直接洗浄されているような感覚です。クロセチンとピクロクロシン……私の記憶回路のノイズを消し、神経伝達をスムーズにしているのが分かります」


「はっ、難しく言うな。要は『忘れ物が減って、頭がスッキリする飯』ってことだろ」


ガラムはエルザの隣で、ショウガとニンニクをたっぷり効かせたスープの器を差し出した。


「飲め。サフラナールが血管を広げてくれる。あんたは集中しすぎると血の巡りが止まって、手足が氷みたいに冷たくなるだろうが。ショウガとニンニクで内側から点火して、サフランで全身に熱を送り出すんだ」


スープを啜ると、強烈なショウガの辛味とニンニクのコク、そしてサフランの華やかな香りが鼻に抜けた。 胃の腑から熱がじわりと広がり、万年冷え性だったエルザの指先が、桜色に染まっていく。


「……温かい。指先の感覚が、零点五ミリ単位で鋭敏になっていくのを感じます」


「だろう? 良いか、エルザ。あんたは『バグ』だの『システム』だの言うが、その本体はただの生身だ。バランスの取れた食事、血を巡らせるための適度な運動、そして深い睡眠。この三つが揃わなきゃ、どんな天才の脳もいつかは焼き付く」


ガラムはエルザの耳当てを少しだけ持ち上げ、その下の冷え切っていた耳を、大きな、温かい手のひらで包み込んだ。


「サフランには睡眠を改善する効果もある。今夜はこれを食って、のぼせる前にさっさと寝ろ。クロセチンが細胞の老化を抑え、あんたを明日また『最強』の状態に戻してくれる」


エルザはスープの温かさと、ガラムの手の温度を同時に感じながら、ふと視線を落とした。 「……ガラム様。サフランは多量に摂取すると脳が興奮し、逆効果になるリスクがあります。摂取量の計算は……」


「あんたの体重と代謝率に合わせて、俺がミリグラム単位で調合した。文句あるか?」


「……いえ。完璧な配合です。……美味しい、ですね」


エルザは二口目のサフランライスを口に含み、ゆっくりと目を閉じた。 ビタミンCやα-カロテンが細胞のダメージを修復し、体内の活性酸素が中和されていく感覚。 かつて王宮で「役立たず」と捨てられた自分。食事さえも「苦痛なノイズ」でしかなかった日々。 それが今では、自分を誰よりも深く理解する騎士の手によって、最高の「燃料」へと書き換えられている。


「……ガラム様。次回のサフランの収穫期には、イランとの直接交易路を独占しましょう。私の記憶力が改善されたおかげで、新しい商路の幾何学的な最適解が見えました」


「ははっ! 食わせたそばからこれだ。全く、あんたは止まることを知らねえな」


ガラムは豪快に笑い、エルザの頭を子供を撫でるように、しかし敬意を込めて乱暴に撫でた。


「良いぜ、その道は俺が守ってやる。だが、今はその『心』の火を少し冷ませ。サフランは東洋の医学じゃ『心』と『肝』を鎮めるんだ。……おやすみ、俺の小さな社長(ボス)」


エルザは黄金色の幸福感に包まれながら、深い眠りの予感に身を委ねた。 血管はしなやかに、記憶は鮮明に。 彼女の「バグ」は、今夜も正しい食事と愛情によって、世界を創り変えるための「力」へと昇華されていった。


【第10.5話・完】


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