第9話「鉄の騎士と、血を巡るスープ」
「――おい。今日はもうそのペンを置け。ここからは『燃料補給』の時間だ」
執務室の重厚なドアが、三・八ニュートンの正確なノックを経て開かれた。ガラムだ。 エルザは拡大鏡を覗いたまま、肩をぴくりと揺らした。
「ガラム様……あと一項目、クリスタルの透過率の補正計算が……」
「却下だ。あんたの顔色、さっき見たイワシの腹より青白いぜ」
ガラムは無造作に歩み寄ると、エルザの細い手首を優しく、だが拒絶を許さない強さで掴んだ。そのまま彼女を「居住エリア」へと連行する。そこには、エルザの感覚過敏に配慮して、刺激の強い照明を排除し、柔らかな木材の香りが漂う特製のキッチンがあった。
ガラムは慣れた手つきで、北方の極寒の海で獲れたばかりの、丸々と太った「青魚」を取り出した。
「いいか、エルザ。鉄が錆びるように、あんたの血管も放っておけば詰まる。あんたのその精密な脳に血を巡らせるには、この脂の乗ったサバが一番だ。DHAだかEPAだか知らねえが、こいつが血の塊を防いで、あんたの血管をしなやかにするんだとよ」
「……栄養学的なアプローチですね。合理的です」
エルザは耳当てをずらし、キッチンの椅子に座った。 ガラムが包丁を振るう音が、心地よいリズムを刻む。トントン、とまな板を叩く音。 彼はエルザに、決して「不快な音」を立てない。
「次はこれだ」
ガラムが取り出したのは、強烈な匂いを放つネバネバした豆の加工品――納豆だった。
「……っ。ガラム様、その物質、揮発性の成分が鼻腔を刺激します」
「我慢しろ。こいつの『ナットウキナーゼ』って成分が、血栓を溶かす。加熱すると死んじまうらしいから、生で食え。あと、玉ねぎとニラをたっぷり刻んで入れた。硫化アリルが血をサラサラにして、コレステロールを下げる」
「数値的な根拠があるなら、摂取を拒否する理由はありません。……ですが、この香りは……」
「わかってる。だからカボチャとアボカドのサラダも作った。ビタミンEが血管を拡張させて、血流を助ける。口直しには、このキウイとイチゴを食え。ビタミンCが抗酸化作用を補強する」
ガラムは楽しそうだった。 戦場で大剣を振るう時と同じ、あるいはそれ以上の真剣さで、彼は食材と向き合っていた。 「体は食べ物で作られてるんだってよ、ボス。あんたが最高の製品を作るために道具を磨くように、俺はあんたという『本体』を磨くためにこれを食わせる。……ほら、食え。まずはこの梅干しを入れた海藻スープからだ。クエン酸が血液の酸化を防ぐ」
エルザは、差し出されたスープを一口啜った。 梅の酸味、昆布の旨味、キノコの深い香り。 それらが喉を通るたびに、冷え切っていた指先に、微かな熱が戻ってくるのを感じた。
「……驚きました。胃壁から熱が広がり、末梢神経の反応速度が向上している気がします」
「だろう? タンパク質も忘れるな。大豆と魚の良質なタンパク質が、あんたのボロボロになった血管を修理するんだ。俺が手に入れて、俺が作る。……あんたに足りない『生活』のピースを埋めるのは、俺の役目だ」
ガラムはエルザの向かい側に座り、自分も大きな口を開けてサバを頬張った。 彼はエルザを「無能」とも「病人」とも言わない。ただ、「最高出力を出すためにメンテナンスが必要な精密機械」として扱い、同時に「放っておけない一人の女」として、その生存を愛おしんでいた。
「……ガラム様。あなたは、なぜ私にここまで尽くすのですか? 私は食事中も、今のサバの脂質の構成比率について考えてしまうような、非情緒的な人間なのに」
エルザがイチゴを一つ口に運びながら、不思議そうに尋ねた。
ガラムは咀嚼を止め、不敵に笑った。 「楽しいんだよ。……あんたが石を磨いて世界を変えるのを見るのが。そして、俺が作った飯を食って、あんたの頬に少しだけ朱が差すのを見るのがな」
エルザは、自分の心臓の鼓動が、先ほどよりも少しだけ力強くなっていることに気づいた。 それはサバのDHAのせいかもしれないし、スープのクエン酸のせいかもしれない。 あるいは。
「……心拍数、毎分七十六。平常時より高いですが、不快なノイズではありません」
エルザはそう言って、ガラムが差し出した納豆を(少しだけ鼻を摘みながら)口にした。
「……美味しい、かもしれません。……いえ、訂正します。エネルギー効率が非常に良く、かつ、あなたの『意図』という未知の調味料が、私のシステムにポジティブな干渉を与えています」
「はっ! それなら合格だ」
ガラムの豪快な笑い声が、静かなキッチンに響く。 かつて王宮の晩餐会で、きつい香水の匂いと不快なノイズに囲まれ、何も食べられずに立ち尽くしていたエルザ。 今、彼女の周りには、信頼できる騎士が用意した、血を巡らせ、命を繋ぐための「最強の燃料」が並んでいた。
「……カイルとレオンにも、少し分けてあげてください。彼らも私の『資産』ですから」
「ああ、わかってる。だが、この一番いい部位はあんたが食え。……さあ、次はココアだ。ポリフェノールで動脈硬化を抑えて、明日もバリバリ稼いでもらうぜ」
エルザは温かいココアのカップを両手で包み込んだ。 血管を巡る血流が、彼女の脳に新しい回路を描いていく。 旧世界を壊し、新世界を創るための、力強い血の流れを。
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