第8話:論破の晩餐:王子との再会

商談室の重厚な扉が開くと同時に、不快な「過去」の匂いが流れ込んできた。 エドワード王子が纏う、あの「黄金の睡蓮」の香水。以前よりもさらに濃厚で、焦りや苛立ちを隠すかのような鼻を突く芳香に、エルザは無意識に眉を寄せ、ガラムから贈られたばかりの羊毛の耳当てを指先でなぞった。


「久しぶりだな、エルザ。……いや、今はエルザ会長と呼ぶべきか」


エドワードは、かつての傲慢さを「寛容」という名の薄いメッキで塗り固め、優雅に歩み寄ってきた。その後ろには、顔色の悪い文官たちが数名、怯えたように控えている。


エルザは視線を上げなかった。彼女の机の上には、王国の主要都市における「魔力消費量と経済損失の相関グラフ」が並んでいる。


「エドワード様。本日の会談の持ち時間は十五分です。現在、三十二秒が経過しました。要件を単語単位で簡潔にお願いします」


「相変わらずだな。……まあいい。単刀直入に言おう。貴様を、王室へ呼び戻してやろうという慈悲だ」


エドワードは椅子の背もたれにふんぞり返り、芝居がかった手つきで執務室を見渡した。


「国は今、魔石の枯渇で少々混乱している。貴様が発明したというあの紫の石……あれを王室に献上し、私と復縁しろ。そうすれば、貴様の『追放された令嬢』という汚名を雪ぎ、再び王太子妃の座を与えてやる。救済(チャンス)を、与えてやると言っているのだ」


エルザの手が止まった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、エドワードを真っ向から見据えた。その瞳には、かつての「怯え」も「戸惑い」もない。ただ、故障した機械を診断するような、冷徹な観察眼があるだけだ。


「……救済。興味深い定義ですね。エドワード様、あなたは自分の発言のコストパフォーマンスを計算したことがありますか?」


「何……? コスト……だと?」


エルザは手元の資料から一枚の図表を抜き出し、エドワードの前に滑らせた。


「これは、現王政が維持している『旧来の魔法インフラ』の維持費です。魔力の漏洩率、輸送中の損失、そしてギルドへの利権供与。それらを統合すると、あなたの統治下にある王国は、毎分三万ゴールドの富を『ドブに捨てている』計算になります。私のバグ・クリスタルを献上しても、その穴を塞ぐだけの効率は得られません。なぜなら、あなたというシステム自体に深刻な『脆弱性(バグ)』があるからです」


「貴様……! 私をバグ呼ばわりするか!」


「事実を述べているだけです。さらに復縁の提案ですが、私にとっての損失(デメリット)があまりに巨大すぎます。王宮での生活は、ノイズによる脳疲労で私の作業効率を六〇%低下させます。また、あなたの隣で社交辞令を述べる時間は、私にとって一秒も利益を生みません」


エルザは、ガラムが調整してくれた耳当ての心地よい圧迫感を感じながら、淡々と続けた。


「私が今日、ここに来る前に三十分間行っていた『魔石の原石磨き』。その作業によって生み出される期待利益は、王国の現国家予算の〇・一%に相当します。……対して、あなたと会話することで得られる利益は、現時点でマイナスです」


「黙れ! 私は王子だぞ! 私が右と言えば、この国の法が変わるのだ!」


「法は変えられても、物理法則と損益計算書は変えられません」


エルザは立ち上がった。感情は動かない。ただ、目の前の存在が「非合理的」であることに、耐え難い不快感を覚えているだけだった。


「お言葉ですが、エドワード様。あなたの横に座って愛想笑いをするより、地下の工房で石を磨いている方が、統計学的に見て〇・八倍有意義です。……いえ、端数を切り捨てれば、あなたの価値はほぼゼロと言ってもいい」


「き、貴様ぁぁッ!!」


エドワードが激昂し、拳を机に叩きつけようとした瞬間――。


背後の影から、ガラムが音もなく踏み出した。 巨躯が落とす暗い影。彼が腰の大剣に手をかけただけで、部屋の空気が張り詰め、エドワードの文官たちが悲鳴を上げて後退した。


「……王子。うちのボスは、今、忙しいんだ。あんたの腐った香水の匂いで、彼女の精密な脳みそが狂っちまったら……その首、石ころみたいに磨き上げてやろうか?」


ガラムの低い、野獣のような声。 エドワードは引き攣った顔で後ずさりし、震える指をエルザに向けた。


「……後悔させてやるぞ! エルザ! 王国の全権をもって、貴様の商会を立ち入り検査し、財産を没収してやる!」


「どうぞ、お好きに」


エルザは再び椅子に座り、レンズを覗き込んだ。


「その手続きに必要な書類の発行費用と人件費、そしてわが社が供給を停止した際の国内の暴動リスクを計算してから来てください。レオンが、そのすべての『取り立て』を、一ペニーの狂いもなく王宮に送付しますから」


「う、うわあああ!」


エドワードは逃げるように部屋を飛び出していった。廊下に響く足音さえも、エルザにとっては「無駄なエネルギー消費」の音にしか聞こえなかった。


部屋に再び静寂が戻る。 ガラムが「ふん」と鼻を鳴らし、エルザの隣にドカッと座り込んだ。


「……ったく。あんな薄っぺらい男、どこがいいと思ってたんだか」


「……過去の判断ミス(エラー)です。当時は情報のサンプリングが不足していました」


エルザはそう答えながら、ふと、隣にいるガラムの「熱」を感じた。 エドワードの香水はあんなに不快だったのに、ガラムから漂う、手入れされた革と微かな油の匂いは、不思議と脳の演算を妨げない。


「ガラム様。……さっきの、五ニュートンくらいでした。ノック」


「あ? ああ、そうか。気をつけてるからな」


「……助かりました。彼と話すと、頭の中の数字がバラバラになりそうだったので」


エルザはそう言って、少しだけ、本当に少しだけ、ガラムの方へ体を寄せた。 彼女にとっての「救済」は、王座でも、復縁でも、偽りの愛でもない。 自分の特性を「機能」として認め、静寂と熱を与えてくれるこの場所、この仲間たちとの、設計された日常だった。


「さあ、仕事に戻りましょう。……石が、私を待っています」


彼女の指先が、再び魔法のような速さで動き始める。 その先には、もはや王国すら飲み込むほどの、巨大な「富の濁流」が完成しようとしていた。


【第7話・完】


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