第7話 「ノイズキャンセリングの騎士」

「――おい。ノックは三回、強度は四ニュートン以下。これで合ってるか?」


聞き覚えのある、地響きのような低音が執務室のドア越しに響いた。エルザは魔導回路を編む指先を止めず、視線もレンズに固定したまま答えた。


「三・八ニュートンですね。合格です。お入りなさい、ガラム隊長」


扉が開くと同時に、使い込まれた革と、雨上がりの土のような、野生味のある匂いが流れ込んできた。北方騎士団隊長、ガラム。その巨躯が部屋に入るだけで、密閉された工房の気圧がわずかに上がるのをエルザの肌は敏感に察知する。


「……何だ、またその顔か。あんた、俺が帰ってから一度でも椅子から離れたか?」


「三十二時間前に一度、排泄と栄養補給のために離席しました。現在は新型魔導エンジンの出力安定化回路の最終調整中です。あと一〇五項目、検証(テスト)が残っています」


エルザの瞳は、過度の集中によってわずかに充血していた。彼女にとって、この「世界を数字で編み上げる時間」こそが至福であり、それ以外の肉体的な欲求は、研究を阻害するノイズでしかない。


ガラムは溜息をつき、背負っていた大剣を壁に立てかけた。先日エルザが調整したその剣は、戦場をくぐり抜けてきたはずなのに、一分の狂いもなくその輝きを保っている。


「……あんたのその『異常な集中』は、見てて飽きねえが、少しは周りを見ろ。執務室の灯りがチカチカしてやがるぞ」


「……っ」


エルザの肩が、目に見えて強張った。 魔導ランプの微かなフリッカー。普通の人間なら気づかないほどの、高速の明滅。それが、感覚過敏を持つ彼女の脳には、まるで脳髄を直接叩かれるような不快な刺激として蓄積されていた。


「……分かっています。回路の設計ミスです。ですが、今はエンジンの調整の方が優先順位が高い。このチカチカは……耐えられます。我慢、できます」


エルザは奥歯を噛み締め、再びレンズを覗き込んだ。だが、指先がわずかに震え、ピンセットが銀糸を捉え損ねる。


「嘘をつけ。顔が真っ白だぜ、嬢ちゃん」


ガラムは無造作に歩み寄ると、エルザが制止する間もなく、彼女の机の上にどさりと「何か」を置いた。


それは、厚手の柔らかな羊毛で編まれた、奇妙な形の布の塊だった。


「……何ですか、これは。布の質量。繊維の密度……。視覚情報から推測するに、防寒具の一種?」


「『防寒具』じゃねえ。耳当てと、遮光用のアイマスク、それに指先の出た手袋だ。北方の、音に敏感な猟師たちが使う特注品だぜ」


ガラムはガサガサとした手つきで、その布の塊を広げた。


「あんた、音がうるせえだの、光が眩しいだの、いつも眉間に皺寄せてるだろうが。……これを着けてみろ。羊の産毛の中でも、一番柔らかいところだけを厳選して編ませた。チクチクしねえように、裏地は最高級のシルクだ」


「……非効率です。そんなものを装着したら、作業の精度が――」


「精度が落ちるようなら、俺がその場で切り裂いてやるよ。いいから黙って貸せ」


ガラムの大きな手が、エルザの頭に伸びる。 エルザは反射的に身を竦めた。他人との接触、それは予測不能な熱と圧力の侵入。だが、ガラムの手は、驚くほど慎重だった。まるで、壊れやすい精密回路の結線を扱うかのような、繊細な手つき。


ふわり、と。 耳を覆う柔らかな感触。 その瞬間、エルザを苦しめていた「世界のノイズ」が、劇的に遠のいた。


(……静か。……音が、丸くなる)


時計の秒針が刻む金属音も、遠くの街の喧騒も、すべてが深い雪の中に埋もれたように優しく遮断された。さらにガラムがアイマスクを緩く調整すると、チカチカと網膜を焼いていたランプの明滅が、穏やかな琥珀色の光へと変わった。


「……どうだ。これなら、頭の中の『数字』がよく見えるんじゃねえか?」


ガラムの声が、布越しに低く、心地よい振動として伝わってくる。


エルザは目を開けた。 視界は適度に絞られ、耳は静寂を手に入れた。 驚くべきことに、集中力が散漫になるどころか、脳内の演算速度が加速していくのを感じた。


「……信じられません。ノイズを遮断することで、演算リソースに余剰が生まれました。……ガラム様。この差し入れの『有用性』を、過小評価していました」


「はっ、だろうな。あんたは自分の脳みその使い方は天才だが、自分の体の守り方は素人以下だ」


ガラムは満足げに鼻を鳴らし、エルザの作業を邪魔しない位置で床にどっかと座り込んだ。


「……なぜ、私にここまで? あなたの目的は、大剣のメンテナンスと、安定した魔導具の供給を受けること。私の健康管理は、契約内容に含まれていません」


エルザは再びピンセットを握った。先ほどまでの震えが、嘘のように止まっている。


「契約、契約って……。あんたは本当にかわいげがねえな」


ガラムは大剣の柄を撫でながら、独り言のように続けた。


「……戦場じゃあよ、武器が壊れる前に、使い手が壊れることが一番の損失なんだ。俺は、あんたの作ったこの『完璧な剣』を長く使いたい。そのためには、作り手が壊れちゃ困る。……ただの先行投資だよ」


「先行投資……。合理的ですね。納得しました」


エルザはレンズの向こう側で、ほんのわずかだけ、頬を緩めた。 彼女にとって「好きだから」という感情論は理解しがたいものだったが、ガラムの言う「投資」や「損失回避」という言葉は、すとんと胸に落ちた。


(……でも、この布、あたたかい)


羊毛の温もりが、冷え切っていたエルザの心身にゆっくりと浸透していく。 彼女は、自分が「不快」という感覚を我慢することに慣れすぎていたのだと、初めて自覚した。 誰かが自分の「痛み」に気づき、それを物理的に取り除いてくれる。そのことが、これほどまでに胸の鼓動(ノイズ)を穏やかにするとは知らなかった。


「ガラム様」


「あ?」


「……調整用の重り、左に零点八%ではなく、一・二%に修正します。あなたの今の筋肉の張りから見て、その方がより『身体の一部』に近くなるはずです。……これは、先ほどの投資に対する、私の個人的な追加配当です」


「ははっ! 追加配当か。ありがたく受け取っておくぜ、天才令嬢」


二人の間に、不思議な沈黙が流れた。 それは晩餐会の「気まずい沈黙」とは正反対の、互いの特性を認め合った者同士にしか流れない、設計された静寂。


エルザは、柔らかな布に守られながら、再び銀糸の海へと潜っていく。 背後でガラムが剣を磨く、規則正しいシュッ、シュッという音。 それは今のエルザにとって、世界で最も信頼できる「リズム」として刻まれていた。


恋愛という名前を付けるには、まだあまりに不器用で、論理的な二人の距離。 だが、エルザの手帳には、また一つ新しいデータが書き加えられた。


『ガラムの差し入れ:感覚過敏の緩和に極めて有効。心拍数の安定を確認。……この熱量は、おそらく、悪くない』


【第7話・完】


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