第3話:最初の「外注」:人間不信の会計士
「――エルザ様! 今すぐその、怪しげな真鍮の塊を置いてください!」
カイルの悲鳴のような叫びが、活気あふれる自由都市の市場に響き渡った。 しかし、エルザの耳には届かない。彼女の全神経は、露店の隅で埃を被っていた「古代帝国の調圧弁」と思わしき部品に注がれていた。
「……信じられない。この曲線、手作業じゃないわ。魔力による精密切削……。カイル、これがあれば抽出機の圧力をあと一五%高められる。そうすれば結晶の純度が――」
「純度の前に、私たちの残高が純数ゼロになります! 今朝、宿代を払い忘れて追い出されそうになったのを忘れたんですか!」
カイルがエルザの肩を掴んで揺さぶる。だがエルザは、まるで重力の影響を受けない石像のように、その場から動こうとしなかった。
「宿代? それは昨日払ったはず……。あ、違うわ。昨日は、あの浮遊回路の設計図を買うために、銀貨を全部使ったんだった。……計算外ね」
「計算外じゃない、無計画と言うんです! あなたは数字に強いはずなのに、なぜ自分のお財布の計算だけは小学生以下なんですか!」
エルザは無表情に首を傾げた。
「優先順位の問題よ。カイル、宿で眠るという行為は、私の研究効率を一二%向上させるに過ぎないけれど、この部品は私の技術を根底から変える。……明らかに、こちらに投資すべきだわ」
「その『効率』とやらを支える肉体が、野垂れ死んだら終わりでしょうが!」
カイルはこめかみを押さえ、深く溜息をついた。彼は王宮の書記官時代から、数字には誰よりも厳格だった。しかし、目の前のこの令嬢は、世界の真理を見抜く超越的な知性と、自分一人の生活すら維持できない致命的な欠陥を、同じ脳の中に同居させている。
「……もういいです。エルザ様、あなたはそこに座っていてください。一歩も動かず、何も買わず。私がどうにかして資金の工面と、これまでの出納を整理してきます」
カイルは、エルザの手から「真鍮の塊」を(彼女が名残惜しそうに指を離さないのを強引に)引き剥がすと、市場の雑踏の中へと消えていった。
エルザは言われた通り、市場の噴水広場の縁に腰を下ろした。 周囲には、商談の声、馬車の車輪が石畳を叩く音、焼き菓子の甘い匂い――膨大な情報が溢れている。エルザはそれらを「背景ノイズ」として処理し、脳内の仮想空間でさきほどの調圧弁の構造を組み立て直していた。
そこに、一人の男が近づいてきた。 酷く汚れた外套を纏い、目は血走り、手には分厚い帳簿を抱えている。
「……信じられない。この数字は嘘だ。ありえない。一ペニーの誤差もないはずなのに、なぜ逆転している……」
男はブツブツと独り言を言いながら、エルザの隣に座り込んだ。彼は周囲の目も気にせず、震える手で羽根ペンを走らせている。
エルザは無意識に、彼の帳簿を横から覗き込んだ。 一瞬。わずか零点五秒の走査。
「……三四ページの、上から八行目」
エルザが口を開いた。男が弾かれたように顔を上げる。
「え?」
「繰り越し金の計算、基礎術式が間違っているわ。そこ、隣国の旧通貨レートで計算すべきなのに、現行レートで打たれている。だから、最終的な整合性が取れずに『横領』に見える数字になっているのよ」
男――カイルとはまた別の、しかしどこか似た「数字の住人」の顔をした彼は、目を見開いた。
「……貴様、何者だ。この帳簿は、王宮の第一会計監査ですら三日かかって解けなかった難問だぞ」
「三日も? ……非効率ね。私なら三秒でわかるわ。パターンが乱れている場所を探すだけだもの」
男は必死に頁をめくり、エルザが指摘した箇所を確認した。そして、絶句した。
「……本当だ。……これだ。私は、この一点のミスで、裏切り者の濡れ衣を着せられ……すべてを失ったのか。ハハ、ハハハ!」
乾いた笑い。彼は筆を投げ捨て、頭を抱えた。
「ああ、クソ食らえだ。正しくあろうとすればするほど、世界は俺を追い詰める。人間なんて、どいつもこいつも私欲のために数字を歪める。……あんたもそうなんだろう? その知恵を使って、誰かを嵌めるつもりか?」
エルザは男の「人間不信」に満ちた言葉を、感情のフィルターを通さずに受け止めた。
「いいえ。私は、誰かを嵌めることに興味はないわ。それはリソースの無駄遣いだから。……それより、あなたは有用ね」
「有用だと?」
「ええ。あなたの帳簿、筆跡に一切の迷いがない。数字への執着心、正確性、そして……人間を信じないがゆえに、事実(データ)のみを拠り所とするその姿勢。私の組織に必要だわ」
ちょうどその時、食料を抱えたカイルが戻ってきた。
「エルザ様! 勝手に知らない男と話し込まないでください、危ないって――」
「カイル、ちょうどいいわ。彼を雇いましょう。名前は?」
「……レオンだ」
「レオン。あなたに提案があるわ。私は、世界のエネルギー構造を書き換える商会を作る。私は『価値』を作るけれど、『管理』が絶望的にできない。宿代すら忘れるわ」
カイルが「それは威張って言うことじゃない!」と横から突っ込む。
「カイルは私の右腕として全体を見る。けれど、これから膨れ上がる莫大な資金の、一ペニーの狂いも許さない厳格な『門番』が欲しいの。……レオン。あなたは人間を信じなくていい。私という人間も、信じる必要はない。ただ、私の出す『数字』と、私の作る『製品』だけを信じて、それを守る仕組みを構築しなさい」
レオンは呆然としてエルザを見つめた。 これまで彼を評価してきた人間は、皆「従順さ」や「便宜」を求めた。だが、この少女は違う。
「……俺を、感情で選ばないのか? 横領の疑いがある男だぞ」
「感情? そんな不確かなもので人を雇うほど、私は愚かじゃないわ。私はあなたの『機能』を評価しているの。私の弱点は金銭管理。あなたの強みは正確性。この二つのピースは、論理的に合致する。……契約しましょう。対価は、あなたが一生かかっても使い切れないほどの、嘘のない数字の山よ」
レオンの目に、初めて生気が宿った。 それは、自分を「役立たず」と捨てた世界への復讐心ではなく、自分の「特性」が、初めて正しく、純粋に機能として求められたことへの、震えるような喜びだった。
「……フン。宿代を忘れるようなボスの下で働くのは、会計士として最悪の悪夢だが……。その『嘘のない数字』、見せてもらおうじゃないか」
カイルが、頭を抱えながらも、どこか嬉しそうに笑った。
「ああ、もう……! これで僕の苦労が少しは減ると思いたいですが、変人が二人になっただけな気がしますよ!」
「失礼ね。三人よ、カイル」
エルザは、カイルが買ってきたばかりの硬いパンを齧りながら、市場の喧騒を見渡した。
脳内には、新しい管理体制のチャート図が構築されていく。 鑑定特化(ASD)の自分。 実務と調整のカイル。 鉄壁の管理(人間不信)のレオン。
「――さあ、最強の陣容が整ったわ。次は、世界に最初の『衝撃』を与える製品をリリースしましょう」
彼女の瞳には、すでに都市の灯りすべてが、自分の開発した魔導ランプに置き換わった未来の景色が、一ミリの誤差もなく描かれていた。
【第3話・完】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます