第2話 オムライス

 他の四人とは違い、”雑巾”は手に何も提げていない。

手荷物がないのだから、早く歩いたり、走ったりして四人に追いつけそうなものだが、”雑巾”は相変わらずのろのろと歩いた。


 彼は昨日の夜、母親が連れてきた若い男に思い切り蹴られた太腿が痛くて、どうしても早く歩けなかったのだ。いつもと同じ煮しめた様な色のシャツを捲れば、彼の背中にも腹にも黄色や紫に変色した痣が見て取れる。


本当なら彼は自宅の古いアパートで寝ていたかった。たとえそれが、狭い押入れの中で、布団もなく、段ボール箱や安っぽいプラスチックの衣装ケースのわずかな隙間だとしても。

けれど”雑巾”は、彼なりに頑張って古びたリュックサックにいつのものかわからない菓子パンを入れ、そこら辺に放ってある服を着て、だらしなく寝ている母親と自分を蹴った母親の連れの男の脇を起こさないようにそっと歩いて家を出てきたのだ。


バス賃は持っていない。

担任教師に渡された紙に書かれた榊原和幸の家に行くまでの路線とバス停を確認して、近くのバス停の表示を調べた。そして、バス停を一つ一つたどりながら祖師谷公園を目指した。


なぜ、ここまでして榊原和幸の誘いに乗って出掛けて来たのか、”雑巾”自身もよくわからない。榊原和幸は優しい。たまに学校に行けた時に誰も”雑巾”の側に寄ろうとしないのに、榊原和幸はいつも何も気にせずに”雑巾”に話しかけてくれる。

そんな和幸に誘われたから、足が痛くてもこうして歩いているのかもしれない。


 先に着いている四人から散々「早く来い」「走れ」と急き立てられて”雑巾”も走ろうと努力はしたのだ。けれど、走ろうとする度にやはり太腿がズキンと痛む。

前を行く四人の行く先を見失わない為に下を見ない様にして歩くと太腿は更に痛む。


前を見ると先頭に清瀬が見えた。”雑巾”は四人の中で清瀬が一番苦手だった。

清瀬の吊り上がった目は爬虫類に似ていて、その目のせいで意地悪そうに見える。

実際、意地悪いやつだと、”雑巾”は知っていた。

四人との距離はかなりあるように思えたが、祖師谷公園を抜けて榊原の家に向かう坂道の辺りでその距離はかなり近づいた。


清瀬は一度振り向いて”雑巾”を確認すると、聞こえよがしに


「和君ってさ、本当にすごいよね。普通は先生に頼まれたって誘わないよね。」


と言いながら”雑巾”を睨んだ。


清瀬が”雑巾”に向かって言っているのだと気づいた小島健斗が


「普通誘わないし、誘われても断るよ。」と応じた。


”雑巾”はそれを聞き取って(断り方がわからないだけだ。)と思っていた。

自分で断った時に「なぜ?」と聞かれたら、うまく理由を言う自信がない。

例えば気を利かせて適当な理由をつけて断ってくれる親がいたら、こんな事を言われる場所にいなくても済んだかもしれないが、彼の母親はそういう親ではなかった。

他の四人が手に手に土産を持参しているのに、彼は手ぶらだった。

それに”雑巾”の母親は、彼が出掛けた事すら気付いていないに違い。

四人の後ろをとぼとぼと追いかけていると、”雑巾”はどんどん気が重くなって来て(どうして来ちゃったんだろう?)と後悔し始めていた。


 ところがその”雑巾”の後悔は、榊原の家に着いてすぐに消えた。


榊原和幸と彼の母親、咲枝が門扉を開けて出迎えてくれた後ろの庭は芝生を敷き詰めてありその庭の奥にゴールポストが1台置いてあった。

(これは、まるでサッカーのピッチじゃないか)

”雑巾”は入り口でその庭に見惚れた。

彼はサッカーが好きだった。


些細なことで暴力を受けることが多い日常で”雑巾”が多少はしゃいでも怒られない時がある。何故か母親がサッカーの試合をテレビで観戦している時だけは怒られることが滅多になかったのだ。

そういう意味で、サッカーは”雑巾”にとって唯一の救いだった。


その唯一の救いのサッカー場が目の前にある。

実際には榊原の家の庭はそんなに広いわけではなく、”雑巾”が見誤ったゴールポストも子供用のおもちゃでしかなかったが、”雑巾”にとっては本物のサッカー場に見えたのだ。

”雑巾”はこの庭が見れただけでも来た甲斐があったと思えた。


 榊原和幸に促されて、五人は庭に面して開け放した縁側に荷物を置いた。

家の中から五人の荷物を奥の和室に動かす咲枝に、清瀬が気づいて手土産を渡す。

それを見て他の三人も次々に持参した手土産を渡した。


 和幸と土産を持たない”雑巾”は少し離れたところからその四人の様子を眺めていた。

和幸はにこにこしながら「うちのお母さん、ああいうの苦手なんだよね。」とぽつりと言う。

”雑巾”が驚いて「え?」と和幸の顔を見ると、笑顔のまま「内緒だよ。」と言った。

榊原和幸の母親を眺めたが、子供相手に丁寧に手土産のお礼を言っていて苦手なようには見えなかった。

”雑巾”はもう一度和幸の顔を見た。和幸は相変わらずただ微笑んでいる。

”雑巾”は和幸と、あの四人が知らない秘密を共有したように思えて少し嬉しかった。


 手土産を渡し終えた四人が和幸と”雑巾“の方へ走って来た。

その背中へ咲枝が

「和君、サッカーするなら靴を脱いでね。」と声を掛ける。

和幸は「はーい」と返事をしながら縁側へ向かって走り始めた。

あとの五人もそれに続き、縁側の沓脱石に靴を置いた。和幸は沓脱石の横に自分の靴を置き、”雑巾”は既に置く場所がなかったので、和幸とは反対側の沓脱石の横に靴を置いた。


”雑巾”が庭の中央でボールを囲んでいる五人に追いついたと同時に清瀬が

「だから、ひとりキーパーであとの五人で組み分けすればよくない?」

と”雑巾”を見ながら言う。


清瀬が言う「ひとりキーパー」は俺のことかと”雑巾”は思った。


すると和幸が

「三対三で組み分け出来るんだから、キーパー無しでいいでしょ?」とさらりと言って

「僕と清瀬君が順番にひとりずつメンバーを選ぼうよ。」と提案した。


清瀬は一瞬ギョッとした顔を見せたが、和幸が最初に”雑巾”を選ぶと途端に機嫌が良くなった。彼は”雑巾”が自分の側にいなければそれで満足だった。が、出来れば勝ちたい。


 そこで最初のメンバーに幼稚園の頃からサッカースクールに通っている滝口宗介を選んだ。あとの二人はどちらを選んでも大差はないと清瀬は思っていた。


”雑巾”は、まさか和幸が最初に自分を選んでくれるとは思わず、驚いた。

そして、それがすごく嬉しかった。だから、和幸の邪魔にならないように気を付けようと思っていた。


 咲枝に言われて全員が芝を走り出したところで、裸足でボールを蹴るのは痛いし難しいとわかる。

サッカーが得意なはずの滝口宗介も役に立たない。宗介はどちらを選んでも大差ないと清瀬が考えた二人と大して変わらない動きしか出来なかった。


 その中で意外にも”雑巾”が活躍した。彼は、平気で芝を裸足で走った。

”雑巾”は六人の中で一番体が小さかったから器用に体を入れて反転しボールをホールドするし、裸足でボールを蹴るのも躊躇しない。その上、和幸に正確にパスを繰り出した。


 ”雑巾”は自分でシュートは打たず,常に和幸にラストパスを出す。

和幸がそのパスをシュートするのが”雑巾”は自分でゴールするより嬉しかった。


 恐らく役立たずだろうと思われていた”雑巾”の意外な活躍でゲームは盛り上がった。

”雑巾”はいつしか太腿の痛みを忘れていた。滝口宗介は”雑巾”のパスでシュートを打ちたがったし、清瀬達も次第に”雑巾”にあからさまな嫌味な態度を見せなくなっていた。

 

 この日のサッカーは”雑巾”にとって思い出深いものだったが、サッカーともうひとつ忘れらないものがあった。

それは咲枝がサッカー後に用意した「オムライス」だ。


 白い楕円の皿に金色に輝く薄焼き卵とケチャップ、澄んだ金色のスープ。

そして白いドレッシングの掛かったサラダ。

縁側の奥の、”雑巾”の住むアパートの部屋がすっぽり入るほどの広さの和室に置かれた座卓にそれらが人数分ずらりと並べてあった。

この「オムライス」が”雑巾”にはびっくりするほど美味しかった。

これ以来オムライスを思い出すだけで、”雑巾”は幸せな気分に浸ることが出来た。


 ”雑巾”のこの日の記憶はとても偏っていて、「オムライス」に関する事は細部まではっきりと思い出すことが出来るのに、夕飯に何を食べたのか全く覚えていないし、和室でボードゲームをした覚えもあるが何のゲームかも覚えていない。


 ゲームは覚えていないが、はっきりと覚えているのは緑のヨーヨーだ。


 日が暮れて花火をした時に、和幸が緑色の光るヨーヨーを手に現れて空き缶を的に腕前を披露して見せた。

ヨーヨーは動くたびにに緑色に発光し、「キュィーン、シュー、ギュイーン」と大袈裟な機械音を立てて回った。

ヨーヨーはなかなか重たそうな大きさなのに、それを軽やかに扱う和幸が”雑巾”にはとても大人っぽく見えた。


 ”雑巾”が特に印象的に覚えているのは色んな匂いだ。

和室の部屋は木の香りがした。

そこに敷かれた布団からは甘い花のような香りがした。

そして殊更に覚えているのは風呂あがりに用意されたタオルの匂いだ。

その香りにたまらなく惹かれて、”雑巾”は何度も顔を埋めその香りを味わった。

代わる代わるシャワーを浴びて、最後に”雑巾”が風呂から上がった時に咲枝が脱衣場に顔を出した。


 その時”雑巾”はふかふかして肌に当てるだけで水気が消え、その上にたまらなく優しい香りのするタオルに顔を埋め、その匂いを嗅ぐのに没頭していた。

咲枝は脱衣場でタオルに顔を埋めている子供と、そこに脱ぎ捨てられた薄汚れたシャツとズボン、そして少し離れていても臭う下着を見て、この子供には着替える準備がないのだとわかって胸が痛んだ。

そして戸棚から和幸の下着とパジャマを取り出すと、”雑巾”の側に寄って着せ始めた。

子供の体のあちこちに痣が見えて、庭で遊んでいた時についたのかしらと一瞬思ったが、その痣の数と時間差で変化している色の違いを見てそうではないと気がついた。


ー可哀想に...


咲枝は”雑巾”に一瞬だけ同情したが、自分が出来ることはこの子には少し大きめだが息子の替えを着せてやることと、脱いだ衣服を洗濯してあげることくらいだと割りきった。


(あの担任はこの痣のこと、知っているのかしら?)


 咲枝は和幸の担任教師の田坂の顔と同時に、夏休み前の家庭訪問で「実は、クラスに投稿拒否気味の児童がいまして...」と相談を受けた時の事を思い出した。

咲枝はなぜそんな相談を自分に持ちかけるのかと訝しみ、曖昧な受け答えをして話をはぐらかそうとした時、和幸が「じゃ、今度のお泊まり会に誘ってみます。」と答えてしまった。


 咲枝も驚いたが、担任の田坂も大いに驚いた表情を見せた。

田坂は驚きながらも満面の笑みで「いいのかい?助かるよ。それがきっかけで二学期からは普通に登校出来るようになったらいいんだけど。」と咲枝の頭越しに和幸に礼を言ったのだ。


 別に子供の集まりに、ひとりやふたり人数が増えたところで何も問題はないが、田坂の術中にまんまと嵌められた気がして咲枝は不愉快だった。

けれど今さら自分が断るのは、和幸のおおらかな気質を否定するようで気が引けた。


(こんなところまで和磨さんに似なくてもいいのに...)


 少し苦々しく思いつつも、咲枝は夫と息子が生まれながらにして持ち合わせているその鷹揚さを実は好ましく思っていた。

自分が育った環境では見かけることのない、分け隔てのない包容力。

義父にそれを感じたことはないが、夫の和磨には初めて会った時から感じていた。

そして現在、まるで夫と瓜二つに成長した息子がいる。

和磨との結婚は決して簡単ではなかったが、咲枝は満足していた。


 和幸のパジャマは”雑巾”には少し大きかったので、袖口やズボンの裾を少し折り返して着せると、咲枝は”雑巾”を連れて和室へ戻った。


 和室に入ると、食事の時に使われていた座卓は部屋の隅に立て掛けられ、銘々の布団が敷かれていた。先に風呂から上がった五人はそれぞれの布団の上でふざけて遊んでいる。


 その輪の中から和幸が不意に立ち上がり


「あれ?そのパジャマ、ぼくのと同じだ。」


と、”雑巾”に近寄って来た。


 ”雑巾”は一瞬、和幸に怒られるのかと身構えた。

咲枝がすかさず

「和君のパジャマ、貸してあげたの。構わないでしょ?」

と近づいた和幸に言うと

和幸は

「うん、いいよ。なぁんだ、お揃いかと思った。」と”雑巾”に笑いかけた。


 そして「このパジャマ、ポケットがおもしろいんだよ。」と言うと、手を引いて他の四人の前に”雑巾”を立たせるとロボットのアップリケに手を入れて見せる。


 和幸は「ポケット」と呼んだが、ロボットのアップリケは三角形の頭の上の赤いホックを外して手を入れると、ロボットの脇の下から指が飛び出した。

何かを入れたら、そのロボットの脇から落ちてしまうのだ。

ロボットのアップリケより大きければ、きっと落ちない。と小島健斗が言い、全員で何を入れたら落ちないかを考え始めたが、そんなに大きなものはそもそもポケットに入れないと誰かが言い、それならタオルを挟んだらどう?とまた誰かが言う。

結局、役には立たないポケットなのになぜ付けたんだろうねぇ?と、”雑巾”を取り囲んで笑いが起こった。


全員が何が面白くて笑っているのかがわからないほど笑っていると

「なんだ、なんだ?楽しそうだな。」と、声がした。

全員がその声に振り替えると、榊原和幸の父、和磨が立っていた。













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