第5話 悪属性の進化
治療とは、救いだと信じていた。
少なくとも――かつてのエルシアは、そう疑わなかった。
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
治療小屋の奥、石壁に囲まれた簡易寝台の上で、エルシアは静かに息を吐いた。
「……治らない、か」
誰に向けた言葉でもない。
祈りですらなかった。
右腕は黒く変色し、聖紋が浮かび上がるはずの場所には、歪んだ紋様――“悪属性反応”が脈打っている。
教会の正式治療師なら、即座に処置を中断し、異端治療署へ引き渡す兆候だ。
だが、ここには誰もいない。
いるのは、追放された聖女と、
そして――治療を拒否された、ただの一人の患者だけ。
「……私が、拒否される側になるなんて」
教会は言った。
“悪属性は治療対象外”
“聖女であろうと例外は認めない”
エルシアは、命令書を思い出す。
治療停止。聖印剥奪。発見次第、拘束可――最悪、処刑も許可。
それは“追放”という名の、死刑宣告だった。
「……私は、治しただけなのに」
治療を拒否した人間を、無理やり治さなかっただけ。
信仰を強制しなかっただけ。
救われることを望まない者に、手を伸ばさなかっただけ。
それが、罪だというのなら。
――教会こそが、病んでいる。
エルシアは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
聖女の力があった場所。
祈れば応えたはずの“光”は、もうない。
代わりに、胸の奥で蠢くものがある。
冷たく、静かで、
それでいて――どこまでも“優しい”何か。
「……これが、悪属性?」
痛みはない。
むしろ、世界がはっきりと見える。
治療小屋の外。
森の向こうを進む、教会の追跡部隊。
彼らの足取り、心拍、魔力の流れ。
――わかる。
“治すべきもの”と、“治してはいけないもの”の違いが。
エルシアは、はっと息を呑んだ。
「……違う。これ、進化……?」
悪属性は、破壊の力だと教会は教えた。
倫理を壊し、命を歪める禁忌。
だが、今の感覚は違う。
これは――
“拒絶を尊重する力”
“無理に介入しない治療”
治さないことを、選べる力。
エルシアの右腕に走っていた黒い紋様が、静かに形を変える。
禍々しさは消え、むしろ整然とした幾何学模様へと再構築されていく。
悪属性の進化。
それは、教会の記録には存在しない。
なぜなら――
悪属性が進化する前に、持ち主は必ず殺されてきたからだ。
「……なるほど」
エルシアは、皮肉げに笑った。
「だから、誰も知らなかった」
治療を拒否され、
それでも生き延び、
それでもなお、誰かを救おうとする者だけが辿り着く領域。
外で、枝が折れる音がした。
追跡者が近い。
エルシアは立ち上がり、外套を羽織る。
痛みは、もうない。
あるのは、選択肢だけだ。
「……私は、もう聖女じゃない」
それでも。
「治すか、治さないか――それを決めるのは、教会じゃない」
エルシア自身だ。
治療小屋を出た瞬間、森の闇が彼女を包み込む。
だが、恐怖はない。
悪属性は、彼女を拒まなかった。
――拒否されたからこそ、進化した。
追放された聖女は、ネックレスを身につけ、
“魔女”として、世界の裏側へと歩き出す。
それが、後に
異端治療署すら恐れる存在
――“極の魔女”の始まりだと、
この時、誰も知らなかった。
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