第2章:司令部という名の戦場
司令部とは、戦場から最も遠く、しかし最も死に近い場所だ。
ここでは、人の死は「報告」という形の情報に変わり、悲鳴は「損耗率」という数字に変換される。
だからこそ、指揮官には想像力が必要だ。
地図上の光点一つが消える時、そこには確かに生きた者の鼓動があり、家族があり、断末魔があったのだと想像する力が。
「――第三防衛ライン、突破されました! オーク重装歩兵大隊、壊滅!」 「予備兵力を回せ! 第五グリフォン部隊を側面へ!」
「ダメです、敵の対空結界が展開されています!飛び込んだ瞬間に焼かれます!」
怒号が飛び交う司令部の中、私は氷のような冷たさを保つことに全神経を注いでいた。
開戦から三日。
事態は、予想以上に最悪だった。
「ルクシオン参謀長、民間人の避難状況は?」
玉座ではなく、作戦卓の前に立ち続けている魔王ゼルヴァスが問う。
その顔には疲労の色が濃い。
「ベルン市からの避難率は現在六〇パーセント。……遅れています」
私は苦渋と共に答えた。
「街道がぬかるんでいる上に、荷車には家財道具や家畜まで積まれています。彼らにとっては、それが全財産ですから」
「捨てさせろとは言えん、か」
「はい。ですが、敵の進軍速度は我々の想定を超えています」
人類軍の戦い方は、異常だった。
彼らは、土地そのものを「浄化」しようとする清掃作業のように進軍してくる。
農地は焼かれ、水源には聖水が撒かれていた。
家畜は殺され、井戸は祈りと共に塞がれていく。
焦土と化した故郷を背に、民は泣きながら逃げるしかない。
その足取りが遅くなるのは当然だった。
「ガルドゥ将軍からの通信です!」
オペレーターが叫ぶと同時に、メインスクリーンに砂嵐混じりの映像が映し出された。
背景では爆発音が絶え間なく轟き、土砂が降り注いでいる。最前線の塹壕だ。
『参謀長ッ!これ以上は支えきれんぞ!』
ガルドゥ将軍の巨体は、すでに数本の矢を受けて血にまみれていた。
だがその瞳は爛々と輝き、決して折れていない。
『聖騎士の連中、民間人の避難車列を狙ってきやがる! 奴らにとっては、女子供も“魔物の幼生”に過ぎんらしい!』
「……了解している。将軍、あと二時間だ」
私は地図上の戦線を指でなぞりながら告げた。
「二時間だけ持ちこたえてくれ。その間に、避難民を渓谷の向こう側へ逃がす」
『無茶を言うな! こちらの兵力は三割を切っているんだぞ!』
「できるはずだ。君の背中には、二万の民がいる」
一瞬、ガルドゥが言葉を詰まらせた。
そして、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべる。
『……卑怯な男だ、お前は。元人間だからか?』
「褒め言葉として受け取っておく」
『いいだろう、二時間だ! 最後の一兵になっても、この線は越えさせん!』
通信が切れる。
私はすぐに次の指示を飛ばした。
「工兵部隊、渓谷の橋に爆薬を設置。避難完了と同時に爆破し、敵の追撃を断つ。……タイミングを誤るなよ。早すぎれば民を見捨てることになり、遅すぎれば敵を引き込むことになる」
そこからの二時間は、永遠のように長く感じられた。
地図上の赤い奔流(人類軍)が、青い防衛線(ガルドゥ隊)に何度もぶつかり、そのたびに青い光が削られていく。
光が消えるたび、胸の奥が軋んだ。
あれは数字ではない。
先月、酒場で笑い合った兵士かもしれない。
昨日、家族の手紙を見せてくれた士官かもしれない。
だが、私は参謀だ。感情で判断を曇らせるわけにはいかない。
そして――。
「……避難民、渓谷を通過! 全車両、安全圏へ退避完了!」
「工兵部隊、起爆!」
ズゥゥゥン、と地響きが地下の司令部まで届いた。
スクリーンの中で、巨大な石橋が崩落し、追撃してきた聖騎士たちが谷底へ飲み込まれていく。
土煙が晴れた後、対岸に取り残された人類軍の進軍が停止した。
「敵軍、停止を確認。……後退していきます」
オペレーターの声に、安堵の響きはない。
「損害報告。ガルドゥ将軍の部隊、生存率……一八パーセント。重軽傷者多数」
五人に一人も、生きていない。
司令部に、歓声は上がらなかった。
勝利した。
確かに、戦略目標である「民間人の避難」は達成し、敵の先鋒を撃退した。戦術的には完全な勝利だ。
だが、失ったものが大きすぎた。
スクリーンには、血と泥にまみれて座り込むガルドゥ将軍の姿が映っていた。
彼の周囲には、動かなくなった部下たちの遺体が累々と重なっている。
彼は勝鬨(かちどき)を上げることなく、ただ無言で、彼らが守り抜いた避難民の消えた方角を見つめていた。
「……勝ったのに、誰も喜ばないな」
魔王ゼルヴァスが、独り言のように呟いた。
私もまた、沈黙の中で頷くことしかできなかった。
人類側の歴史書には、この戦いは「魔物の猛攻により聖騎士団が一時撤退」と記されるだろう。
だが真実は違う。
これは、生きるために逃げ惑う者たちが、死に物狂いで作った「時間」という名の防壁だった。
「……負傷者の搬送を急げ」
私は静かに命じた。
「まだ終わりじゃない。これは、最初の波に過ぎない」
地図上の赤色は、一時的に引いただけだ。
次はもっと巨大な、決定的な波が来る。
その中には、人類最強の「象徴」が含まれていることを、私は予感していた。
英雄。あるいは勇者と呼ばれる――そう呼ばれる何かが。
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