第1章:人類は、こちらの言葉を聞かない
戦争には手順がある。
少なくとも、理性を持ち、国家を営む者同士の争いには、開戦の前段階として「外交」という名の儀式が存在するはずだった。
たとえそれが、決裂することが分かりきっている形式的なものであったとしても。
「――外交特使団、敵前衛部隊との接触まで、距離三百」
司令部のオペレーターが、抑揚のない声で告げる。
中央の戦術地図には、進軍してくる巨大な赤の奔流に対し、あまりに頼りない極小の緑の光点が一つ、向かい合うように表示されていた。
それは、我が国が誇る文官たちだ。武器は持たず、白旗と書簡だけを携えている。
「ルクシオン、本当に必要か?こんな茶番は」
低い唸り声と共に、隣に立つ巨躯の男が腕を組んだ。
魔物将軍ガルドゥ。
牛の頭部を持つミノタウロス族の猛将であり、最前線の防衛を統括する現場主義者だ。
彼は苛立ちを隠そうともせず、鼻から荒い息を噴き出している。
「奴らは侵略者だ。話など通じる相手ではない。俺の部下たちは、今すぐにでも飛びかかりたいと牙を研いでいるんだぞ」
「同感ですが、手順は踏まねばなりません」
私は地図から目を離さずに答えた。
「我々が『野蛮な魔物』ではなく、『対話可能な国家』であるという事実を、歴史に残す必要があります。たとえ、それが徒労に終わるとしても」
そう――これは、後世に向けたアリバイに過ぎない。
いつか歴史家がこの戦争を振り返った時、「魔王軍は最後まで平和的解決を模索した」という記録が一行でもあれば、我々の正当性は補強される。
……甘い考えだと、自分でも思う。
だが、元人間としての私の理性が、まだどこかで期待していたのかもしれない。相手も同じ人間だ。言葉さえ通じれば、少なくとも「虐殺」ではなく「戦争」にはなるはずだと。
「接触します」
オペレーターの声と共に、司令部正面の大型スクリーンに、現地からの魔法映像が投影された。
荒野の真ん中。
土煙を上げて停止した人類軍の先頭には、重厚な装甲に身を包んだ騎馬隊が並んでいる。
その中心に、一人の指揮官らしき男と、神官服を着た男がいた。
対する我らが特使団は、ダークエルフの老練な外交官を先頭に、恭しく礼をとった。
『――聖王国軍の皆様。我々は争いを望みません』
ノイズ混じりの音声が、司令部に響く。
外交官の声は穏やかで、知的で、そして完璧な人間語だった。
『我らが王、ゼルヴァス陛下からの親書を携えて参りました。どうか、一度剣を収め、対話のテーブルに――』
その時だった。
画面の中、人類軍の神官がおもむろに手を挙げた。
合図ですらなかった。
それは、羽虫を払うような、無造作な動作だった。
『神は言っている』
神官の声が、拡声魔法を通じて響き渡る。
『魔族は言葉を持たない、と』
外交官が顔を上げ、何かを言いかけた。
だが、次の瞬間。
指揮官が剣を一閃させた。
――ザンッ。
乾いた音が響き、外交官の首が宙を舞った。
悲鳴を上げる暇もなかった。
鮮血が噴き出し、白旗が赤く染まる。
残された特使団の補佐官たちが動揺し、逃げ出そうと背を向けた瞬間、一斉に放たれた矢の雨が彼らを貫いた。
一方的な、あまりに一方的な処刑だった。
「な……ッ!?」
ガルドゥ将軍が絶句し、目を見開いている。
司令部全体が凍りついた。
怒りよりも先に、理解不能な恐怖が蔓延する。
交渉が決裂したのではない。「交渉」という概念そのものが存在しなかったのだ。
画面の向こうで、神官が兵士たちに向かって厳かに説教を垂れているのが聞こえた。
『見たか、勇敢なる兵士諸君。悪魔たちは、我々人間と同じような鳴き声を発し、我々を惑わそうとした。なんと浅ましい。なんと冒涜的な擬態か』
『奴らには魂がない。ゆえに言葉もない。今聞こえたのは、人の声を真似る獣のさえずりに過ぎないのだ』
『慈悲を与えよ。沈黙という名の、唯一の救済を』
通信が途絶えた。
特使団は全滅。
地図上の緑の点は消滅し、代わりに赤の奔流が再び動き出した。
しん、と静まり返った司令部に、魔王ゼルヴァスの重い溜息だけが落ちた。
誰も言葉を発せない。
ガルドゥ将軍でさえ、怒りの矛先を見失い、拳を震わせている。
彼らは我々を「敵国」として見ていない。「害虫」として見ている。
だから、殺すことに躊躇いもなければ、罪悪感もない。
農夫が雑草を刈るように、彼らは我々を殺しに来るのだ。
私は、震える指先を抑え込みながら、戦況記録を閉じた。
胸の奥底に、冷たくて暗い感情が沈殿していく。
(ああ、始まったな)
これは戦争じゃない。
相互理解などという甘っちょろい希望は、最初の矢と共に死んだ。
(これは、物語の書き換えだ)
彼らが持っている「正義のシナリオ」には、言葉を話す魔物など登場してはいけないのだ。
だから、話した事実ごと消し去った。
これから起きることは、防衛戦ではない。
我々が「知性ある生命」であることを証明するための、血みどろの悪魔の証明だ。
「……総員、配置につけ」
私の声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
「もはや言葉は不要だ。鉄と魔力で、彼らの誤解を解くしかない」
人類は、こちらの言葉を聞かない。
ならば、聞かせる方法は一つしかない。
彼らの世界が、悲鳴を上げるまで。
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