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シーン㉜
病院の屋上は高いフェンスで囲われている。
唯一開けているのは、雲と青空に繋がる。
神様が天にいるとするならば、神様から丸見えな場所。
ここでは嘘なんかつけないと澪は思った。
「怖いですか?」
そう話しかけてきたのは、澪のカウセリング担当である一ノ瀬だ。
澪は明日、手術を受ける。
「35分しか記憶が残らない」
そんな記憶障害が治る代わりに、もしかしたら記憶障害になってから、最悪は今までの記憶が全て消えてしまう。
「怖いのとは違う気がします。」
この場所は嘘を許さない。
だから本心だった。
「昔、陽菜に言われたんです。
ドラマの最終回を見る時って、あんなに楽しみにしていたはずなのに悲しい気持ちになるって。
私は覚えられないから、その気持ちが分からなかったけど、今の私の気持ちは多分それと同じだと思うんです。」
会話のターンの交代を告げるように、少し強めの風が吹く。
「じゃあ今の感情は『悲しい』なのかな?」
「うーん」
悲しいでも間違いではなかった。
でも1つ選ぶとしたら別の言葉だ。
「『寂しい』かな?
それくらい楽しかったんです。ここ1年くらい。」
風は吹かなかった。
この風が澪の心の揺れだとするならば、この答えには何の揺らぎもない純粋な答えなのだろう。
「そーいえば出たよ!宿題の答え!」
「ほー聞こうじゃないか。」
一ノ瀬が出した宿題。
「なぜ愛は憎しみに変わるのか」
「恋って点で、愛って線だと思うの。
そしてその線が繋がって丸になって。
その中にいろんな想いが溜まって愛が育つの。
でも線が繋がらなくて隙間から零れちゃう想い。
それが憎しみになっちゃうんじゃないかな。」
澪らしい面白い答えだ。
恋は点で、愛は線。
確かに愛は積み重ねで生まれるというのは納得できる。
しかし。
「じゃあどうして愛の線は繋がらない時があるんだろうね。」
「それはまだ分かんないんだよね。」
「でもね、間違ってないと思うんだ。」
澪は続けた。
「日記を見返すとね、それぞれ単体の出来事だし、私はもちろん覚えてないし。だから点なの。
でも気づくと読み進めてて、私の中で物語が出来ていく。それが線!
それで私の日記のはずなのに、何故か颯太の想いも流れ込んできて。」
「そっか。」
「お互いの線が、想いが繋がった時、それが丸になるんだ。」
独り言の末に出た結論。
他の人が見たらただの独り言。
でも一ノ瀬には1つの映画でも見てきたかのように感じた。
きっと話しながら脳内で今までの思い出を。
一ノ瀬颯太との思い出を振り返ったのだろう。
ポツ。
灰色のコンクリートが黒くなる。
ひとつふたつ。
雫が黒い斑点を増やしていく。
「先生、私やっぱり怖い。」
「うん。」
「手術が怖いんじゃない。記憶が無くなるのが怖いんじゃない。」
「うん。」
「颯太に。みんなに嫌われるのが怖い。」
「うん。」
「きっと嫌われるのは、私であって私じゃないのに。
それでも怖い。」
「うん。」
「やっと繋がった円が、線に戻るのが怖い。」
「うん。じゃあ楽しみなことは?」
「え?」
澪は考えもしなかった。
怖い時は怖い以外出てこないと思っていた。
「記憶が消えなくて、みんなと笑えること。」
「そっか、なら祈ろう。」
「祈る?それだけ?」
「それだけ。それだけで人は少し強くいられるんだ。」
「そっか。なら祈る。」
「あっ、でも忘れて思い出すってのもロマンチックだよね!」
やはり澪は面白い。
一ノ瀬はそう感じていた。
「陽菜とこの前初めて喧嘩したんですよ!
また、喧嘩して友情パワーで思い出すとか。」
「うん。いいね。」
「クリスマスのメンバーで集まって遊んでる時に、仲間パワーで思い出すとか。」
「うん。それもいい。」
「あとは、あとは。」
地面の黒い斑点は大きな塊になるほどに、濡れていた。
まるで、澪の想いが大きく強くなっていくように。
まるで、35分ずつというまばらな思い出がひとつに集まっていくように。
「颯太にまた恋して恋愛パワーで思い出すとか。」
「うん。それが一番いい。」
泣きじゃくる澪に一ノ瀬は言葉を見つけられなかった。
何かないかと周りを見渡した。
「笹川さん。見てごらん。」
一ノ瀬が顔を向ける方向にはフェンス越しに
海が広がっていた。
「すごい。綺麗。」
必死に涙を拭いながら海を眺める澪を見て、一ノ瀬はそれ以上何も言わなかった。
いや、何も言えなかった。
ただただ水辺線上まで伸びる海の姿は。
これから先の澪の、若者たちの未来を示しているような。
そんな感じがした。
手術当日、俺は病院の待合室で、ただただ祈っていた。
手術は無事に成功した。しかし、結果は、俺が恐れていた通りだった。澪は、記憶障害になってからの記憶を、全て失っていた。もちろん、俺との思い出も、全て消えてしまっていた。
俺は、手術を終えて病室に戻ってきた澪に、手作りのアルバムを渡した。
「…これ、なに?」
澪は、不思議そうな顔でアルバムを見つめた。アルバムを開いても、そこに写っている俺との思い出は、彼女の心に響かなかった。
「…ごめんなさい。私、これ、覚えてないみたい」
澪の言葉に、俺は胸が張り裂けそうになった。
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