第七章 35分の記念日
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シーン㉛
「望月颯太くん。」
優しく凛とした声は少し震えていた。
「私と別れてください。」
潮風が目に染みる。
1年近く前、ここで全てが始まった。
そして同じ場所で全てが終わった気がした。
天を仰げば雲ひとつない青空が眩しい。
仕方なく下に顔をやる。
ポツン。
海に雫が弾ける。
「水族館。」
颯太は一人で呟いた。
愛と恋と夢の言葉を。
一ノ瀬から澪の手術の話を聞いてから数日後。
澪から呼び出しがあった。
手術を受けることにしたこと。
記憶がなくなってしまうかもしれないこと。
颯太との別れを決めたこと。
「記憶が無くなってしまった私は私じゃなくなっちゃう。
でも颯太くんと話す私は私だから。
私が颯太くんに嫌われるなんて嫌なの。」
彼女の言葉に嘘はなかったと思う。
忘れたら他人になるやつなんかに、優しくすることなんてないんだから。
颯太があの言葉を呟くと、澪は視線を海にやった。
美しく悲しげな横顔は、すぐに上を見上げ、そして背を向けた。
何か言いたげに1度だけこちらを見ては、また背を向けた。
気持ちは分かる気がする。
何を言ったらいいのか分からないのだろう。
この愛が憎しみに変わることは無かった。
きっと澪も俺のことを思ってくれてるから。
颯太は自分で出した仮の答えを納得させようと、そう解釈した。
一人で途方もなく歩いていた。
いつもと同じ道。
何度も通ったのを体が覚えてるのか、何も考えなくても足が動く。
別に思い出の道じゃない。
なのに浮かんでくるありもしない思い出。
いや、未来かな。
想像した未来。
いつか2人で。
迷った時はいつもここを訪れる。
「カフェ・ドゥ・ソレイユ」
颯太のバイト先であり、迷った時の道標。
この日も朝からマスターがコーヒーを入れていた。
「いらっしゃい、いいコーヒーが入ってるよ。」
迷った時はいつもコーヒーと共に答えを貰う。
「コーヒーに合うケーキ作りますよ。」
「それは嬉しい提案だね。」
ケーキを作りながら颯太は思い出していた。
何度も何度もケーキを作った。
「美味しい」と嬉しそうに話す彼女の笑顔のために。
初めてケーキを作った時は思いもしなかった。
ケーキを作るのがこんなに楽しくて、こんなに悲しい気持ちになるなんて。
出会った頃は想像もしてなかった。
自分がこんなに人を愛して、愛がこんなにも苦しいだなんて。
「塩分もいいアクセントになるかもね。」
厨房を覗いたマスターはそれだけ言い残すと、カウンターに戻って行った。
「すみません。ちょっとしょっぱくなるかも。」
颯太は独り言を言いながらケーキを作り続けた。
「うん、美味しい。」
作り終わったケーキをマスターが褒めてくれた。
嬉しかった。
同じ嬉しかったなのにこんなに沸き立つものが違うのは何故だろう。
「簡単には消えないだろうね。」
マスターが呟く。
全くこの人には敵わない。全てお見通しなのだ。
「どうやったら消せますかね?」
「消えはしないんじゃないかな。」
颯太の頭には?が浮かんだ。
さっきの言いぶりだと難しいけど、いつか消えるという意味だと思った。
「頭の中から消すのは時間が経てばいずれ消えていく。
人の脳はそうやってできてるからね。」
ここまで聞いても、先程抱いた矛盾が解けない。
「でも心の記憶は違う。」
澪が手術を受けると決意した日から、俺の心は揺れ動いていた。手術の結果、彼女が俺のことを忘れてしまうかもしれない。それは、俺にとってあまりにも大きな不安だった。
しかし、その不安を打ち消すように、俺は澪のために何かしたいと強く思った。
「望月、お前さ、覚悟ができてねぇな」
病院の屋上で、俺は一ノ瀬先生にそう言われた。俺は、何も言い返せなかった。
「恋愛ってのは、夢物語じゃない。いつか現実を見なきゃいけない時が来る。それが、今だ。…かっこつけなくていい。ただ、彼女のために何ができるか、真剣に考えろ」
一ノ瀬先生の言葉は、俺の心を大きく揺さぶった。俺は、澪のために何ができるだろうか。
俺は、今までの澪との思い出を、写真という形で残すことにした。陽菜とのデートで撮った写真、水族館で撮った写真、そして、遊園地で撮った写真。俺は、それらの写真を一枚一枚見返しながら、今までの思い出を振り返った。
ここで初めて、恋人たちが写真を撮る意味を理解した。写真とは、ただの記録ではない。そこには、かけがえのない思い出や、未来への希望が詰まっているのだ。
俺は、澪のために、世界でたった一つのアルバムを作ろうと決意した。タイトルは、「35分の記念日」。
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