第一章:有能な馬鹿は、最高の駒

勝利とは、なんと重たいものか。私は天幕の中で積み上げられた報告書の山を前に、熱のない溜息を吐いた。


 序章の「大突破」から三日。我が軍は破竹の勢いで進撃を続けていた。地図上の前線マーカーは、私の想定を三十キロも上回る速度で敵領土深くへと突き進んでいる。作戦司令部は「神速の進撃」とガランドを称賛し、兵士たちは勝利の美酒に酔いしれているだろう。


 だが、私の目に見えている現実は、美酒ではなく「枯渇」だ。


「……計算が合わん」


 羽ペンを走らせる手が止まる。ガランド率いる先鋒部隊の進軍速度が速すぎるのだ。輜重(しちょう)部隊の馬車が泥濘(ぬかる)みに車輪を取られ、あえいでいる間に、前線は遥か彼方へ行ってしまった。補給線(ライン)が、切れそうなゴム紐のように伸びきっている。


「補給部隊各所で遅延発生! 第六中隊より『矢が足りない、至急送れ』との催促です!」 「前線基地設営用の木材、輸送馬車が二台、車軸破損で脱落!」


 伝令兵が悲鳴のような報告を次々と持ち込んでくる。私は即座に指示を飛ばす。


「遅延部隊の積荷は第五小隊に統合しろ。入りきらない分はその場で焼却処分。敵に渡すな」「矢の催促は無視しろ。今の彼らに必要なのは矢よりも靴だ。予備のブーツを優先して送れ」「車軸の予備はない。破損した馬車は解体して薪にしろ。今夜の煮炊きに使う」


 非情な判断ではない。単なる数字の帳尻合わせだ。物理的に運べないものは、存在しないのと同じだ。


 その時、天幕の入口が荒々しく開かれた。入ってきたのは、戦場の土埃すら金の粉に見えるほどのオーラを纏った男。英雄ガランドだ。


「おい、兵站屋!どうなっている!」


 開口一番、怒鳴り声。彼は私の机にドンと拳を叩きつけた。インク壺が震え、私の眉がわずかに動く。


「食事が届いていないぞ!俺の部下たちに、乾燥肉と固いパンばかり食わせる気か!昨日の勝利の祝いはどうした!」 「……ガランド様。現在、本国からの輸送が追いついていません。あなた方の進軍があまりに速く、素晴らしいからです」


 私は皮肉を丁寧にオブラートに包んで差し出した。だが、彼はそれを誉め言葉として丸呑みする。


「当たり前だ!敵が逃げる背中が見えているのだ、追わぬ馬鹿がいるか!」 「ええ。ですが、馬車は馬以上の速さでは進めません。それに、道が悪すぎます」「ならば走らせろ!御者がたるんでいるからだ!」


 ガランドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。本気でそう思っているのだ。彼にとって、遅れとは物理的な距離の問題ではなく、精神的な「たるみ」の問題なのだ。


「いいか、兵站屋。戦争で一番大事なのは『士気』だ」


 彼はもっともらしい顔で、私に説教を始めた。


「兵士が疲れている?違う、気合が足りないんだ。俺を見ろ。三日三晩戦ってもピンピンしている。士気が高ければ、腹など減らん!」


 ――出た。精神論(オカルト)。私は表情筋を死んだ魚のように固定し、無言で頷く。


(カロリー計算を無視できるのは、君のような規格外の怪物だけだ)


 人間の肉体は『炉』だ。薪をくべなければ火は消える。彼が剣を振るうたび、兵士たちは彼に続くために全速力で走り、興奮で精神を焼き、筋肉を酷使している。今の前線部隊は、油が尽きかけたランタンを、無理やり強風の中で輝かせているようなものだ。明日にもその灯火は唐突に消えるだろう。


「とにかく、明日の朝までに酒と肉を持ってこい!次の城攻めには精をつける必要がある!」「……善処します」「頼んだぞ!俺が勝てば、お前も楽ができるんだからな!」


 ガランドは豪快に笑い、嵐のように去っていった。後に残されたのは、インクの染みが一つ増えた帳簿と、静寂。


 私は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。馬鹿だ。救いようのない――いや、扱いづらい馬鹿だ。彼は前線の敵しか見ていない。自分の足元が崩れかけていることに気づきもしない。


(視野が狭い。だが……)


 私は先ほど入ったばかりの、別件の報告書を手に取った。そこには、無視できない情報が記されていた。


『補給ルートC、敵別動隊の襲撃を確認。輸送部隊の被害、軽微ながら遅延発生』


 背筋に冷たいものが走る。被害は小さい。敵の小規模な騎兵隊が、輸送隊を軽く突いて逃げただけだ。だが、場所が悪い。そこは、ガランドがいる最前線ではなく、そこへ至る「補給線の中腹」だ。


 敵将は、気づいている。目の前で暴れまわる黄金のライオンに目を奪われるふりをしながら、視線の端で、ライオンを繋ぐ「鎖」を探し始めている。


 本来なら、ここで進軍を停止すべきだ。前線を後退させ、補給線を太く短く再構築する。それがセオリーだ。


 だが、私はガランドの後ろ姿を思い浮かべる。あの理不尽なまでの暴力装置。もし今、「引け」と言えば、彼は腐るだろう。士気は地に落ち、ただの扱いづらい暴れ馬になる。逆に、彼を前に出し続ければ?敵の視線は、再び彼に釘付けになるかもしれない。


 私は懐中時計の蓋を閉じた。カチリ、と硬質な音が響く。


(有能な馬鹿は、最高の駒だ)


 使い潰すのではない。使いこなすのだ。敵将がこちらの「兵站」に目を向け始めたのなら、それが見えなくなるほど派手な花火を、目の前で打ち上げさせればいい。


 私はペンを取り、新たな命令書を書き殴った。『後退』ではない。『物資集積所の分散』と『欺瞞(ぎまん)輸送』。そして、ガランドへの伝言。


「――ガランド将軍へ伝えろ。『補給は間に合わせる。存分に暴れられたし』と」


 伝令兵が敬礼して飛び出していく。私は口の端だけで笑った。


 さあ、賭けだ。英雄という名の光で、敵将の目を眩ませる。その隙に、私はこの細い細い命綱を、鋼の鎖へと編み変えてやる。剣の届かぬ場所で、本当の戦争が始まろうとしていた。


(第一章 完)

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