終幕 残されたものたちから失われたもの

 運河を進む七艘の舟は、誰が一番速く運河を渡り切るかどうかなどということを争うこともなく、一糸乱れぬ陣形を維持して中大橋の下を通り過ぎようとしている。そうした競舟を乱そうとした『若宝号』は運河から追放され、もう誰も見向きすることはない。運河を見渡すことができるカナル通りに面するとある建物の屋上で、競舟の運営を担う外輪組の面々は『若宝号』の暴走とその決着を見届けていた。その中には高島と、その付き人である端山の姿もある。端山の携帯が鳴った。鳴った瞬間、端山はそれを高島に差し出す。

「代表、お電話です」

「おお、そうか……『はい、高島ですー』」

『話は聞かせてもらったよ、キミ。よくやってくれたと言いたいところだが、そう言えるのは始末を終えてからだね。引き続き、よろしく頼むよ』

『……承知しました』

 電話は切られた。元から険しい表情が益々厳しくなる。端山に電話を返すと、静かに左を向いて隣に立っている手宮の方を見た。記憶の中では自信に満ち溢れていたはずの手宮は、呆然としたまま大破した『若宝号』が土手に転がっているのを見つめていた。手宮にとって『若宝号』がどういったものであったかが解らないわけではないが、既に事は終わったのだ。このまま何事もなかったかのように、手宮を返すわけにはいかなかった。

 そのことを告げるために、高島は優しく手宮の方に手を乗せる。叩きはしなかった。

「お前たちの夢物語はここで終わりだよ、手宮。……終わったんだ。残ったのは舟の残骸と、純粋な願いを歪められた可哀想な連中だけだ」

「……なるほど、こちらは最初から踊らされていたというわけですか。あの高殿とかいうのも、よく働いたようですしね」

 手宮は諦めとも、悲しみとも判別がつかない低い声で絞り出すように口を開いた。極度の緊張に包まれているようにも見えるが、どこか楽しげでもある。どちらにせよ、手宮の運命が確定してしまったことだけは明らかだった。高島もそのことを取り繕うつもりはない。そんなことを取り繕ったところで、何も変わりはしないのだから。そうした現実に改めて直面した上で、高島は手宮に語りかけた。できるだけ感情を表に出さないように努めながら。心中に渦巻く複数の感情の一つ一つに向き合うよりは、そうした方が楽だった。

「……お前はこれから本部行きだ。もっとも、栄転からは程遠い転落だがね。上は随分とお怒りだよ。お前たちが仕組んだことを考えれば、当然だろうが」

「そうですか。相変わらず頭の固いことで」

 手宮は、自分が追い込まれた立場であることをまるで自覚していないような、どこか他人の話を聞いているような態度を崩さない。上に対して余計なことを言う余裕まで感じさせた。その姿を見ると、高島は一言二言、言いたいことが腹の中から登ってくるような気分になる。今ここで上に対して詫びたいとでも言い出せば、口添えしてやれないこともないんだぞ。自分は脅されただけだと言えば、処分は免られるかもしれないんだぞ、と。

 しかし、高島が危うくそう口に出すよりも前に屋上の扉が開け放たれた。四、五人の若い組員が入ってくる。上が手配した連中だろう。何とも早い到着だ。彼らの前で手宮の味方をするわけにはいかなかった。彼らに手宮を引き渡す。できることはもうそれだけだ。

「終わりだと言っただろう。これ以上話す事はできない……連れて行け」

 組員たちが手宮に近付くが、その歩みはハッハッハ、と手宮が高笑いを始めた事で止められる。高島も驚いて後退りしてしまった。傍に控えている端山は手宮の一挙手一投足を警戒し、視線の鋭さを強めている。突然爆発したように笑い始めた手宮は暫くの間そうしていたが、やがて瞳に力が宿った。まだ諦めていないことを示しているようでもある。そのことを証明するかのように、手宮はニヤニヤと口角を上げながら語り始めた。

「いいや、まだ終わらない……いや、まだ終われないと言うべきか。ここであんたを人質にして金を貰い、それを納めれば道は拓ける!」

 最後にそう叫んだ手宮は着ているジャケットの懐に手を伸ばした。若い組員と端山は高島を守ろうと覆い被さるように動く。そして、一発の銃声が響いた。

 殺風景な屋上の灰色の床に赤い斑点が一滴、また一滴と落ちていく。崩れ落ちたのは手宮だった。そして、煙が上がる。その煙は手宮が取り出した回転式拳銃の銃口から登っているものではない。それまで一言も発さず、会話にも入って来なかった組員の一人、円際が取り出した自動拳銃の銃口から登っているのだった。その銃口から放たれた銃弾は手宮の胸に命中し、赤い沼を作り出している。皆が手宮の声に耳を傾け始めていた。

「く、そ……お前が撃つとは、な……」

「……SUPグループ、か。連中も金は受け取るだろうが、お前の方は始末されて終わりだろうに。救いのないところに救いを求めたのが、運の尽きだな」

 一度は手助けしようかとも迷った男は、結局自分を利用して助かることしか考えていなかった。高島はそのことに驚きこそしたが、手宮ならそうするだろうという確信もあったため、それほど大きな衝撃は受けなかった。円際は銃をしまっても、何も語らなかった。

 それから間もなく、高島の関心は目の前の手宮から例の仕事屋へと移っていく。これからあの『担い隊』をどうするか、という当面の問題と同時に一つの疑問が頭によぎる。あの仕事屋は引き受けた仕事を遂行したわけだが、今はどうしているのだろうか。いや、これからどこに向かうのだろうか。それは恐らくあの仕事屋にさえ解らないことだが、考えても仕方のないことだ。それでも、ふと考え始めると気にせずにはいられなかった。

 そこまで頭を動かしていくと、やがて高島にはこれ以上このことについて考えるのはやめた方が良いのではないか、というそんな考えがふと浮かんできた。自分から考え出したというのに、何とも無責任なものだ。高島自身もそう思う。しかし、そう考えてしまったのは、やはり高島が置かれている立場にも一因があるだろうが、そもそもこの街で生まれ育ったものであるためであるかもしれなかった。あの仕事屋がどこから来てどこに行くのか、それも確かに気にはなるが、現実を見れば見るほど、この街のこれからについて考えなくてはならない。頭が重くなってきていた。こういう時には、一服するに限るだろう。

 高島は上着の懐から煙草を取り出すために腕を動かした。腕に巻かれた腕章が一瞬だけ輝く。その動きを見逃さなかった端山は、すかさず火を差し出した。やがて高島は煙草を口に咥えて吸い込み、煙を肺に取り込んで深く吐き出す。

「……なあ、端山よ。お前さんはこれで良かったと思うかい?」

「……『これ』とは今回のことでしょうか、それともこれからのことでしょうか?」

「どちらでも構わないさ。『担い隊』のことでもあるがね。連中なりにこの街のこれからを考えて集まったんだろうが、それは歪められた形で実行され、成功しなかったわけだ」

 正直なところ、一貫して反対の立場を崩さなかったとは言え、高島も彼らが言わんとしていることが解らなかったわけではなかった。競舟はあくまでも久鶴に暮らす人々の伝統であり、市外の有志団体を受け入れたのもここ数年というくらいには閉鎖的だった。ずっとそのままで良いと今でも思っている部分もある。しかし、この街のこれからを考えたとき、既に観光地として成立しているこの運河で行われる競舟を、もっと観光客が呼び込めるような形に変えていくことは間違っているのだろうか。あの『若宝号』の暴走は、競舟を本当に舟が競るような、観光客を呼び込める形にできる絶好の機会だったのではないのだろうか。もしかすると、そうしたまたとない機会を潰してしまったのかもしれない。

「代表、お忘れですか。連中は『担い隊』ですよ。伝統の外です。他所者なのですよ」

 その迷いは、端山の強い口調と共に押し切られてしまう。自分よりも若い端山が古き良き競舟の伝統が変わらないことを望むなら、それで構わない。そう考える方が楽だった。その方が外輪組の在り方も変わらずに済む。競舟の在り方を変える事は、伝統と共に生きてきた人々の暮らしさえも変えることになるのだ。『担い隊』には重過ぎる役目だった。

 その頃、浮島から海に伸びる波止場には銀髪の少女が一人で立っていた。赤いダッフルコートと長い髪が海風に揺れている。少女の表情はどこか退屈そうだった。暇を持て余しているようにも見える。やがて、少女の背後から足音が聞こえてきた。少女は一瞬警戒したようだったが、その足音の主がよく知っている男のものだと解ると表情を和らげた。

「……あら、久しぶり。貴方の顔を見るのはいつぶりかしらね……あなたが来たということは、彼は失敗したということなのかしら?」

 ヤスカではないその男は、確かにヤスカの姿をしていた。いつもよりやや低い声と共に、僅かに微笑みながらその男は懐かしむように少女に語りかける。

「いや、油断しただけさ。あいつの悪い癖だ。そういうところを直していかないと、そのうち君とも会えなくなるかもしれないな」

「まあ、貴方が出てきたからにはそういうことよね。……彼には後で伝えておくわ。だから、もう休んで良いのよ。あとは私に任せて。もう大丈夫だから」

 少女の言葉に男は静かに頷いた。それまで着ていた半被を脱ぎ捨てる。少女には、その男との別れが近いことが解っていた。彼がこちらに長居できないことも知っていたし、わざわざそのことを口に出す必要もない。少女にとってはヤスカよりも望ましいその男とまた離れるのは辛いことだったが、そのことも声には出さなかった。いや、出せなかった。

「そうしてくれ。こっちに長くいると、今度はあいつが帰って来れなくなるからな……それじゃあ、お別れだ。あいつがまたどこかに行かないように、繋ぎ止めておいてくれよ」

「ええ、お休みなさい。血の味の他に何も知らなかった坊や」

 少女は明らかに自分よりも年上であろう男に対して、子どもを寝かしつけるように優しく囁く。すると、ゆっくりとヤスカであってヤスカではない男は倒れ込む。それを少女が何とか支え、波止場に寝かせるのだった。眠りについているヤスカの頬に少女の指が触れるが、まだヤスカは起きない。今頃彼と喧嘩でもしているのかしら、と膝を折り曲げて傍に座り込んだ少女は小さい声で呟く。このまま暫く寝かせておいても良かったが、今は仕事を終えた直後だ。この仕事屋に報復をするため、探し回っている者たちがいないとは限らない。なるべく早く立ち去らなくてはならなかった。余韻に浸っている暇も、起きるのを待っている時間もそれほどあるわけではないのだった。この仕事屋は『担い隊』とかいう団体の舟を破壊したのだから、その団体に捕まればただでは済まないだろう。それが仕事だったとは言え、舟を破壊された側がそれで納得するはずもないことは少女にも解っている。それに、この仕事屋の一番大事な仕事は生きて帰ってくることと、少女を守ることなのだ。眠っている状態では、そのどちらも果たすことはできない。それでは困るのだ。少女に戦闘の経験はないし、何より仕事屋自身がそれを望まない。起こすしかなかった。

 安らかに眠っているところを無理に起こすのは心苦しいものの、少女はペチペチと軽くヤスカの頬を掌で叩き始める。それでも起きなかったため、今度は額を叩いてみた。やはり起きない。耳を引っ張っても同じことの繰り返しだった。随分と深い眠りについているようだ。仕事の間放置しておきながら、いざ帰ってくると寝てばかり。ほんの少しだけ少女は腹を立て、とうとう最後の手段として静かに寝息を立てている鼻を摘んだ。当然のことだが、鼻を摘まれれば鼻呼吸ができなくなる。息が苦しくなったのか、遂にヤスカは目を見開く。左右を見渡し、やっと真正面から少女と向き合う。ヤスカは少女の膝の上で目覚めていた。上からヤスカの顔を見下ろす形で、上下逆さまの少女の瞳がヤスカを見つめている。銀色の長い髪が顔を覆うカーテンのように、良い塩梅で空から降り注ぐ光を遮っていた。何が言いたげな視線に突き刺されたため、ヤスカは思わず目を逸らしてしまう。

「お目覚めのようね……よく眠っていたようだけれど。そんなに寝心地が良いかしら?」

「彼がここに来たのか。相変わらずこのヤスカに対して小言でも言っていたかい」

 質問に敢えて答えず、平静を装ってヤスカが質問を返すと、少女はくすりと微かに笑った。それが先程までここに居たのであろう例の男と、今ここでその代わりに目覚めたヤスカとを比べたことによる笑みなのかどうか、判別はつかない。そうした微かな不安を知ってか知らずか、少女の方はヤスカが口にした質問に、やけに優しげに答えるのだった。

「まあ、そんなところね。油断する癖を直すように伝えて、と頼まれたわ」

「……解っているさ。彼ならそう言うだろうということも。それは彼には備わっていても、このヤスカには足りていないものでもあるからね」

 彼が油断も隙もないことは、少女よりもヤスカの方が解っていることでもあった。彼の歩んできた道を思えば、油断しようと思ってもできなかっただろう。かつての彼は兵士だったのだから。彼が油断していればこのヤスカも今ここには居ないし、目の前にいる少女とも出会っていないはずだ。一方で、ヤスカは人間である。仕事屋としては兵士と同じように油断は許されないが、平時は人として生きている側面がある以上、彼のようにはいかないこともあるのだ。彼から見ればそれは修正するべき弱点なのかもしれないが、人間として生きるヤスカとしてはそれを克服、或いは除去してしまえば最早それは人間ではなかった。そうするよりは、油断している可能性を認めてそうならないように上手く付き合う方が、まだ人間らしくもありながら仕事屋として動くことができる。もっとも、そう考えようとも兵士の方が納得するはずもないのだが。彼は彼なりに必死であるため、言い分が解らないわけではない。そこはもう一人の自分として受け入れていく必要もあるだろう。

 そうやって頭の中で自分自身だけで自問自答していると、蚊帳の外にされた少女が横を向いているヤスカの両頬を両手で挟み、正面を向かせてきた。真剣な目をしている。

「それで? 仕事の方はきちんと終わらせたのかしら?」

 上下逆さまの少女と再び目が合った。今度は逸らすことは許されない。運河や街の風景を少しずつ思い出しながら、ヤスカは言葉を選んでいった。今回の仕事について、語るべきことと語らずに仕舞い込んでおくべきこと。その両方が頭を駆け巡っている。

「ああ、表面的にはね……彼らが満足しているならそれで良いんだ。競舟の在り方が変わらなかったのは、君も見ていたんだろう? どこから見ていたのかは知らないが」

「金色の舟が飛んだほかは、何一つ滞りなく進んで行ったわ。それとも何かしら、他に変わったものがあるとでも言うつもり? それでも貴方の仕事は終わったと言えるの?」

「ああ、そう言えるだろう」

 そこでヤスカは一見すると奇妙とも思えることを言い出した。競舟の伝統を守ることが仕事であったはずだが、競舟の何かは変わってしまったと言うのだ。それは仕事の失敗を意味しないのか、或いはそのことに誰も気付いていないのであればそれはそれで構わないのか。少女は問い詰めようかとも迷うが、それよりも先に膝枕から立ち上がったヤスカが語り始める。それは、『担い隊』の起こしたことが招いた結末についての話だった。

「確かに、『担い隊』の舟は運河を渡り切らなかった。伝統に沿った形で手漕ぎの舟からなる船団が陣形を組んで運河を渡り切った。それは歓迎するべきことだ……だが、本当の意味での春カナル杯はもう消えてしまったんだよ」

「春カナル杯……祭りの名前よね。冬を越して迎える春に安全に運河が使えるように願うことから名付けられた、そう聞いた覚えがあるけれど、本当の意味での、とは?」

 少女が記憶は辿りながらヤスカに尋ねる。この街に来てから運河史料館で歴史などを確認したりしたが、春カナル杯に先ほど述べたような由来意外の意味はなかったはずだが。

一方、少女の問いに答えるよりも前にヤスカは波止場の先端に聳え立つ灯台を背にしながら海に向かって指を差し向けている。それが答えであるかのように。そして、その指が指し示しているものは指し示しているヤスカ自身によって解き明かされるのだった。

「運河の底に眠っていたものは本来、穏やかな時の流れと共に海へと流れていくはずだった。今までも、そしてこれからもね。だが、その流れを乱す乱暴な波はその全てを無差別に海へと押し流し……そうして、二度と戻ることがないものは失われてしまった。春カナル杯はその本来の目的である、遥かなる灰を見送ることもできなくなったということさ」

 競舟に参加する舟が手漕ぎの舟に限定されているのには理由があったのだ。それを破った『若宝号』の荒波は遥かなる灰を運河から奪ってしまったということになる。この街の伝統もいつかは少しずつ姿を変えていくだろう。しかし、それを無理に変えようとした結果、運河からかけがえのないものたちはその姿を消してしまったのだ。それも、永久に。

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