第四幕 競舟が競るものとは限らない
競舟の本番が行われる日曜日、一〇月五日の天気は必ずしも晴れやかとは言えないものだった。空一面が雲に覆われているというほどのことではないし、太陽がその姿を完全に隠してしまっているというわけでもない。確かに日の光は地上へと降り注いではいたものの、少し多めの雲の所々には切れ端があったのだから。晴天とは言い難いだけのことだ。
そうした何とも微妙な色合いの空の下、運河公園の隣に広がる大きな駐車場には平ボディの一〇トンダンプトラック、それもキャビンには提灯付きが一〇台並び、それを昨日に行われた試験のときのような人集りが囲んでいる。一矢もその人集りを構成する者たちの一人として、横に一〇台並べられたトラックのうち、右から二番目、即ち九号車と呼ばれているトラックの荷台の上にいた。九号車の荷台には例の『若宝号』が積まれている。左右を見渡すと、右の一〇号車と左端の一号車には大きな太鼓が何個も載せられており、一号車以外の左のトラックたちにも、九号車と同じく競舟に出る予定の舟が積まれていた。
今は、各団体が競舟へと出す予定の舟を荷台へと固定する作業が行われているのだ。三地会や有志団体の舟は外輪組の作業員の助けもあったことで固定はすぐに終わったようだが、この『若宝号』は何故か作業員たちが近付こうとしない。そのため、隊員たちが自分たちだけで固定をしなければならないのだった。幸い、固定に必要なしめ縄などは与えられたため、固定そのものができないという事態にまでは至っていない。それでも、経験のない隊員たちだけで固定の作業を行うというのも中々難しいことである。『若宝号』の金色に輝く船体に太いしめ縄が巻かれていくのだが、その巻き方にも色々とやり方があるらしく、駐車場に立ったままの作業員たちの声を頼りに進めなければならない。
「そう、そこだ。舟が少しも動かないようにするんだぞ。お前たちともども、運河に入るまでは荷台の上で揺らされるんだからなぁ」「紙垂も付け忘れるなよー」
一矢と九人の漕ぎ手たちは、作業員の指示通りに荷台を一周するしめ縄と、船体を横切るように渡したしめ縄とを端と端で結んでいく。そこまで指示を出すなら荷台に上がってくれば良いものを、彼らは頑なに上がろうとしなかった。有志団体の漕ぎ手たちは慣れているから必要ないとしても、三地会に属していて初めて競舟に出る漕ぎ手たちの舟が積まれているトラックの荷台には上がったのだから、上がってくれても良いと思うのだが。これにはやはり、『担い隊』と三地会との扱いの差というものが関係しているのだろう。
そのうち、荷台の上に積まれた『若宝号』はその船体に横から線が引かれたように何本ものしめ縄が渡され、荷台そのものにも巻き付けられた太いしめ縄と結ばれて少しも揺れることはなくなった。これで固定の作業は何とか完了だ。漕ぎ手たちがそうして荷台から降りると、そこに取り巻きを引き連れた能田がやって来る。既に見覚えのある、あの毒々しい赤と黒の半被を着ていた。無論、取り巻きたちもだ。取り巻きたちは漕ぎ手たちの分の半被も持ってきたらしく、作業を終えた漕ぎ手たちへと手渡していった。一矢も受け取り、あまり色合いが好きではないその半被に袖を通す。すると、突然能田が不機嫌そうな声を上げる。競舟の本番当日だというのに、まだ騒ぐつもりなのだろうか。様子を伺ってみると、能田はしめ縄で固定されている『若宝号』を見て顔を顰めているようだった。
「……おいおい、何だよこれは。こんな地味な色の縄で巻かれたら、折角金色に塗ったのに台無しじゃないか。見てみろよ、あの縄の色。泥にでも漬けたような色だなぁ」
「そうですねえ。おい、あの縄を解くことはできないのか?」
「隊長の言う通りだ。これならない方がましだよ。何なら、縄を金色に塗らせましょう」
何を言っているんだかこいつらは、と言いたげな周りの作業員や他の団体の漕ぎ手たちからの冷たく鋭い視線に能田とその取り巻きたちは気付いていない。一矢も、目の前で繰り広げられたこの会話に対して呆れるだけだ。『若宝号』のみならず、競舟に出る全ての舟を荷台に固定するためにしめ縄が使われている意味を少しは考えるべきだろう。何故わざわざ縄で舟をしめるのか、それはただ単に舟を荷台に固定するためだけではないはずなのだから。しめ縄の結び目を見てみれば、そこにカクカクと折れ曲がった形をした白い紙である紙垂が飾り付けられていることも解るはずであるのに。彼らが壊そうとしている伝統は、こういったところにも潜んでいることにも気付かないのだろうか。それについて一矢から教えるつもりはないが、少なくともこの馬鹿げた会話は止めなければなるまい。本番の前にまた空気を悪くすることは避けたかったが、口を挟むしかないようだ。
「おい、隊長。滅茶苦茶を言うのもそれ位にしておくんだな。少なくとも、我々はこの祭りに参加させてもらう側なのだから、受け入れるべきものは受け入れるしかないだろう」
またしてもその場の視線は一矢に集中し、能田に乗っかっていた取り巻きたちはこれ幸いと余計な口出しをした隊員への攻撃を開始する。最早お決まりの流れになっていた。
「……またお前か。漕ぎ手になれたからって調子に乗ってるんじゃないのか。隊長に意見するとは何様のつもりだ。隊長にでもなったつもりか!」
「他にも漕ぎ手になれるやつはいるんだ。出過ぎた真似をするとどうなるか解らんぞ?」
思考を放棄して隊長に従うだけの人形に成り果てた者たちに何かを言う気にもならず、一矢は軽く溜め息をついてもう一度、隊長に向けて口を開く。取り巻きたちにではない。
「この期に及んでまだ解らないのか。この『担い隊』のためを思って言っているのだが……ここでしめ縄を汚すようなことをしてしまえば、何とか手に入れた競舟に参加できるという得難い立場を失うことになるぞ。それ位のことは解るはずだろう、隊長?」
周りの作業員たちと殆ど変わらない冷たさを持った視線を一矢は能田へと向けて放つ。それは理解してほしいというよりは、理解していなければならないのだと告げるために放たれた言葉ではあった。もっとも、ここですんなりと理解を示してくれるのであればそもそも『担い隊』という団体自体が必要なくなるわけだが。案の定、能田は一矢が煽りも込めて口にした言葉をニヤリと微笑むことで受け付けなかった。まだ引く気はないようだ。
「勿論、解らなくもないがね。だが、忘れたのかい。俺たちは『担い隊』なんだ。有志団体みたいに仲良くやっていこうというわけでもない。この競舟の在り方そのものをひっくり返さなきゃならないんだよ。しめ縄もそういったものの一つでしかない、通過点だな」
「そこを解っているなら、尚更しめ縄に触れるのはお勧めしないよ。あれはただ単に舟を荷台に固定するためのものではない。あのしめ縄に巻かれることによって舟は初めて競舟に出る資格を得ることになる。漕ぎ手が試験を受けるのと同じことだ。そういった意味を持つものをここで解いてしまえば、どうなるか。その結果はあまりにも明らかだろう?」
あくまでも、一矢は隊員としての立場から競舟に出るためにしめ縄に手を出すのを止めようと能田を諭した。取り巻きたちに向けては何も語る必要はない。彼らの耳に届くのは能田の言葉だけなのだから、聞く耳を持たないものに語る言葉はないということだ。能田に語りかけるのも、手宮の思考を受け付けられた相手であるためどこまで通用するかは未知数だが、ここで止めておかないと競舟に出られなくなってしまう。この『担い隊』が競舟に出られなくなった際に起こす行動について考えたとき、まだ競舟に出した方が被害は抑えられるだろうと思うからこそ、わざわざ出られるように口を出しているのだ。
ところが、そこまで聞いても能田は笑うだけだった。いや、取り巻きたちよりは聞く耳を持っているという前提を改める方が賢明かもしれない。何故ならば、そもそも能田や取り巻きたちにとっては、本来であれば競舟に出られようが出られなかろうが、最終的に競舟の在り方を変えてしまおうという目標が変わることはないのだから。変わるのは変え方だけだ。競舟に出た上で何か行動を起こすのか、競舟に出られなかろうが本番に乱入して何か行動を起こすのか。変わるのはその部分でしかないわけだ。非常に厄介なことだが。
「そうかい、お前は隊員でありながらこの隊長がやろうとしていることを止めるつもりなのか。言っておくが、これ以上口を出すなら漕ぎ手として舟に乗せるわけにはいかなくなるぞ。その立場を失いたくなかったら、余計なことしか言わないその口は閉じておけよ」
そしてとうとう、能田の口から逆に一矢を追い詰めようとする言葉が放たれた。
しかし、一矢はそれを聞いても冷たい顔を崩そうとはしない。それどころか、能田や取り巻きたちから向けられる視線など全く感じていないかのように溜め息をつくのだった。これには、能田たちも反応に困る。それが何についての溜め息なのか解りかねたのだ。
「どうした。諦めてその減らず口を閉じる気になったのか。そうだとすればありがたいことだよ、ようやくお前も隊長に忠実な隊員になれるだろう、歓迎するよ」
「頭より先に口が動くのか? だとすればそれは興味深い欠陥だな。……言わせてもらうが、この一矢は漕ぎ手に選ばれている以上、その立場を不当に剥奪するならばこの隊を抜けさせてもらうことになる。つまり、外輪組の代表と隊長が交わした約束は破られることになるわけだ。その結果としてこの隊に起こることは想像に難くないはずだが?」
その脅しの無意味さを一矢は丁寧に説明し、能田はその顔に浮かべていた笑みを失ってしまう。厄介な約束をしたものだ、こんな約束さえなければとうの昔にこの一矢という立場を弁えない隊員は追放していたのだが。何とか言葉には出さないが、頭の中で能田は不満を高島や一矢へとぶつける。だが、このまま引き下がるのは隊員たちの前である以上許されないため、どうにかして一矢を許してやる風の雰囲気を出さなければならなかった。
「……そうだな、お前を隊から追い出せば競舟に出られなくなるのは忘れてはいないさ。だがな、俺たち『担い隊』が必ずしも競舟に出なきゃならないわけじゃないことを忘れたとは言わせないぞ。寧ろ、俺たちとしてはこんなしめ縄一つにも手を出せない窮屈な状態よりは、祭りの外から乱入して暴れる方が楽なんだがな。それに、もしお前が漕ぎ手を辞めさせられたとしても、競舟が終わるまでどこかに閉じ込めておけば問題はないわけだ。隊員たちは隊長である俺に言われれば、お前を海に沈めることだってできるんだからな……って、おい。まだ俺が話してる途中だろうが!」
長々と能田が語っている間に、一矢は聞き飽きたため再びトラックの荷台へと登って行った。その荷台に積まれている舟にはまだ漕ぎ手しか乗ることを許されていないため、間接的に能田のくだらない脅しを聞くつもりはないと示したのだ。その行動に苛立った能田は漕ぎ手ではないのにも関わらず、『若宝号』が積まれた舟へと近付いて一矢に吠える。
「良い度胸だ。このままその荷台に巻かれた邪魔なしめ縄を全部解いてやる。それで『担い隊』が競舟に出られなくなっても、お前のせいだからな! 漕ぎ手も辞めてもらう!」
「ほう。そうなればその品のないお前たちの舟は解体させてもらおうか。そうなれば参加もできなくなるな。能田よ、俺との約束を忘れたわけじゃあないだろうなぁ?」
そのときだった。荷台へ手を伸ばそうとした能田の肩に、かなり強い勢いで手が置かれる。首を少し後ろに向けて見ると、その手はゴツゴツとした岩のようだった。そして、手が置かれるのと共に聞こえた聞き覚えのある声。この場において最も聞きたくない声だ。
そのままその声の正体を見れば、そこにはいつの間にか外輪の組代表である、あの高島がこれまた冷たい視線を能田に向けて立っているのだった。その横にはもれなく付き人である端山の姿もある。驚いた能田と取り巻きたちは振り返り、一斉に頭を下げる。
「「お、お疲れ様ですッ」」「驚きましたよ、代表自ら来られるとは」と能田は挨拶した。
「当たり前だろう。このトラックの手配から運行まで、組の方で面倒見てるんだからな。その辺りがきちんと進んでいるかどうか、この目で確認しないで事務所の椅子にふんぞり返っているっていうのも性に合わないんでね。それにこうして見に来ないと、お前たちが何をしでかすか解ったものじゃあないからな。なぁ?」「全く、その通りです」
高島は余裕を誇示するかのように、スラスラとここに現れた理由を語る。同意を求められた端山は付き人らしく、その問いかけに全肯定を示した。その様子を見せられた能田の表情に明るさなどありはしない。一矢へとぶつけていた不満を、唐突に無理矢理抑えつけられたからだろう。そして、能田を抑えつけた者は抑えつけられた者を容赦なくすり潰そうとする。そこに一切の容赦はなく、ましてや慈悲などあるはずもなかった。
その重圧は高島が能田の肩を二回叩くことで明らかになる。優しめに能田の肩へと手を乗せた高島は顔こそ笑ってはいるが、眼差しだけは鋭く能田を射抜いていた。射抜かれた側の能田も「そ、そうでしたか」と口を動かすのがやっとのようだった。完全に目が泳いでいる。この場にいるはずもない手宮に助けを求めているようにも見えた。
「しかし、様子を見に来て良かったですね。まさかお社からいただいたしめ縄に手を出そうとするとは。全く、どうしようもない奴らだ」
「しめ縄に手を出せばどうなるか、教えられてないのか。手宮も余計なことばかりしやがって。力を持たせる奴を間違えたときほど、手を負えないものもないっていうのになぁ」
端山と言葉を交わしながら、高島は着実に『担い隊』とその隊長へと冷ややかな視線を浴びせていく。これには能田を筆頭とした隊員たちも口を出せずに俯くしかなかったが、厳密に言えば『担い隊』の隊員とは異なる、一矢と言われている男だけは全くその会話が響いている様子を見せていなかった。と言うよりも、高島の言葉に概ね同意していたのだから。こう見てみると、一矢ほど隊員でありながら隊員らしくない者もいなかった。
「競舟の在り方を変えてやろうという野望を抱くにしても、その前提として必要な『担い隊』の存続を考えていなければ全く意味がないということだ。解ったかい、隊長さん?」
「おお、一矢か。無事に漕ぎ手に選ばれて安心したよ。推薦して良かったなあ」
その一矢は高島の発言を最後に静まり返っていたこの場で打ちのめされていた能田に助け舟を出すもののようにも見えたが、蓋を開けてみれば最初から言っていることは何も変わっていないのだった。それも、高島と同じことだ。つまり、反論はもう許されない。
「……解りました。解りましたよ。しめ縄には手を出させません。組の面子も立てます」
長い沈黙があった。それを打ち破ったのは同意以外の言葉を求められていない能田自身であり、やはりその口からは求められたことが語られる。ここでまだ同意を渋っていたならば、この場で『担い隊』はその全員が拘束されるかもしれなかったからだ。高島の眼差しには、本番の前に凡ゆる障壁を叩き潰すという覚悟を感じさせる迫力があったのだ。
そのため大変不本意ではあるものの、能田は口にしたくもない言葉を口にするしかなかったのだ。その時に味わった苦痛を忘れることはできないし、忘れることもない。特に、隊員でありながら隊長に楯突き、高島に同調する一矢に対する嫌悪感も高まっていた。
一矢の方も、能田がその本心では全くもって納得していないことに気付いている。それもそのはず、ここで本当に納得しているならば『担い隊』の解散をこの場で宣言しているだろうからだ。そうすれば伝統に対する敗北を認めることにもなるため、能田にそれができるはずもないのだが。最初からそうできていれば、この一矢がここにいる必要もない。しかし、『担い隊』が健在である以上は能田に敵意を向けられていようともここにいなければならない。それを仕事として引き受けたからには、そうする義務があるのだから。
「それなら良いんだ。これから上に報告もあるしもう行くが、大人しくしてろよ?」
偽りと言えども素直に従った能田の態度に納得した高島は、一度一矢の方を見てまた能田を鋭く射抜くと端山を連れてトラックの傍から去っていった。一矢を除いた一同は立ち去る高島の広い背中と、それに続く端山の屈強な背中を頭を下げて見送る。その中で、頭を下げている能田は目を見開いて駐車場のアスファルトを見つめていた。その目はまだ輝きを失っていない。頭を下げていなかった一矢だけが、そのことに気が付いたのだった。
隊員たちも頭を上げると、午前九時四五分になっていた。昨日も見たような腕輪を付けた男たちが高島へと頭を下げながらすれ違い、駐車場に入って来る。その一〇人ほどの男たちは、円際とその後ろに従う外輪組の組員たちだ。拡声器を片手に持った円際は先日の試験のときのように、それを通した声を響かせて八〇人ほどの漕ぎ手たちを呼び寄せる。それぞれの舟の漕ぎ手たちは、それぞれが漕ぐ舟を荷台に載せたトラックの前に二列で並ばされた。これからトラックの荷台に載せられた舟の上に乗って市内を周回する前に、注意事項が伝えられるのだ。これに耳を傾けないというわけにはいかない、と一矢も並ぶ。
組員たちが拍手を始めると三地会に属する漕ぎ手たちも拍手を始め、それに後押しされる形で円際が一歩前に出て一礼し、聞き覚えのある抑揚のない声で語り始める。
「お集まりの皆様、まずは栄えある舟の漕ぎ手に選ばれた方々におめでとうございますと言わせていただきます。市外からお越しの団体の方々も、毎年欠かさず競舟に参加していただけることを非常にありがたいと思っています。作業員の方々も、ご苦労さまです」
そこまで円際が語る頃には、既に拍手は止んでいた。いや、止んだと言ってもピタリと合わせたように止んだというわけではない。こういう場合には誰か一人が掌を打ち鳴らすことに疲れたり、飽きたりしてその動きを止めることから始まるものだ。その動きは一瞬のうちに広まり、一人、また一人と手を動かさなくなる。起点となる誰かから波のようにその変化は伝わり、やがて誰もが手を動かさなくなる時が訪れる。その時が来たのだ。
「……さて、本日はめでたく天候にも恵まれまして、当初の予定通りに春カナル杯において競舟を開催することになりました。つまるところ、幸運なことに皆様はその舟と共に運河を進むことができるようになったということです」
拍手が止んだことをそれとなく視線を満遍なく駐車場に向けて確認した円際は、いよいよ話題を本題へと進めていく。そう、円際も述べた通りにこの日はいよいよ競舟が本番を迎える日であるのだ。試験の翌日には本番という何とも厳しい日程ではあるが、これを耐えてこそ一人前の漕ぎ手ということか。一矢は一つ、深い息を殺して続きに耳を傾ける。
「これから皆様には、その身を預ける舟と共に荷台へと載って市内を回っていただくのですが、それに際しまして幾つかお伝えしなければならないことがありますので、よくお聞きください。一つ。えー、大前提として市内を回る間は決して舟から、或いは荷台から降りてはいけません。二つ。さらに、舟の上で立ち上がったり、これから渡される櫂を手放してもいけません。沿道には見物に来られるご家族やご友人もいらっしゃることでしょうが、手を振る時に櫂を手放すと漕ぎ手の資格を失うことになりますので、ご注意を……」
やはり円際は長々と語り、それが一息付いたときにまず反応を示したのは後ろから円際を見守っていた隊員たちの拍手だった。しかし、今度は三地会の漕ぎ手たちがそれに続こうとしない。本来であれば率先して組員たちに追従するであろう彼らがそうしなかったのも、一矢には解らないことでもなかった。所属は違えども、同じ漕ぎ手として今の話の内容を頭に入れる時間は欲しいものだ。ただ耳に入れるだけではなく、それを頭の中で咀嚼して飲み込もうとする場合においては、脊髄反射で拍手をすることはあまりに迂闊だ。拍手をしたということは、話に対して一定の理解を示したと見做されてしまうのだから。
それでも、少し間が空いてから一人、また一人と掌を打ち鳴らし始める。ほんの少し前と反対の現象が起こっているのだ。誰か一人が拍手を始めると、遅れてなるものかと言わんばかりにそれに続く者たちが次から次へと現れる。こうなれば、結局理解したかどうかなどを拍手で判定することも難しくなってしまうのだった。それでも先陣を切って掌を打ち鳴らすことは憚られるため、このような歪な形で掌から放たれる音は重なっていく。
無論、一矢もその中で特に表情を変えることもなく掌を打ち鳴らしていた。もっとも、その対象は円際ではなく自分を含めた漕ぎ手たち、即ち群れた風見鶏に向けてであるが。
そうして長々とした話が一旦終わると、漕ぎ手たちはそれぞれが乗る舟が載せられた荷台へと上がって行く。それにそれぞれの舟の船頭が二人ずつ続き、八台のトラックの荷台に一台一〇人ずつ、計八〇人が乗り込むことになった。二号車から九号車まで、競舟に参加する舟を積んだトラックの荷台に一〇人単位の人間が乗っている。舟ではなく太鼓を積んで車列の先頭と最後尾を務める一号車と一〇号車の荷台にも組員たちが乗り込み、駐車場に集まった者たちの大半は今、地上から少し離れたところへと移動していた。
九号車の荷台に積まれた例の『担い隊』の舟である金色の『若宝号』の上にも、一矢を含めた一〇人の漕ぎ手たちと、能田ともう一人の船頭がようやく乗り込んでいく。先陣を切って舟に乗り込んだのは能田だった。あれほどしめ縄について騒いだ割にはそこに触れることもなく、木の板でできた甲板に置かれている白い布の袋を開け放つ。そこから出てきたのは、漕ぎ手の人数分の舟を漕ぐための櫂だった。一本の木から作られたそれの表面は滑らかで、能田も一本を両手で持ち上げていることから重さも十分にあることが解る。この櫂はそれぞれの舟の船頭が漕ぎ手たちへと手渡すことになっているのであるが、『若宝号』の場合は隊長である能田が漕ぎ手たち、即ち隊員たちへと渡す形になっているのだった。そうなれば、漕ぎ手たちは能田の前に一人ずつ進み出て頭を下げ、ありがたそうに櫂を受け取っていく。それを見ていた一矢は随分と部隊らしい光景だな、と内心で苦笑してしまう。それもそのはず、『担い隊』はこれでも一応『隊』なのだから。初めて部隊らしい光景を目の当たりにするのが、まさかこんなところになるとは。何とも愉快である。
「隊長、ありがとうございますっ。この櫂をもって必ずや隊に貢献してみせますっ」
「そうだ、その心意気だ。名誉ある隊員としての務めを果たすことを期待しているぞ」
何だこの茶番は、と一矢が呆れている間に他の九人の漕ぎ手たちは一言二言述べながら隊長から櫂を受け取っていた。残るは一矢だけだ。何やら能田はまたしても不愉快な笑みを浮かべてこちらを見ている。一矢が頭を下げるのを待っているのだろう。心底くだらないことを思いつくものだ、それの何が楽しいのだろうか。別に一矢は人に頭を下げるのがそこまで嫌ではないものの、頭を下げることで能田の馬鹿馬鹿しい心が満たされるのは癪だった。こんな男の下にたった数日居ただけで、つまらないことを気にするようになってしまったのだろうか。つくづく、仕事でなければ一生関わりたくない類の人間である。
「おい、高殿くん。受け取らないのかね。それとも今更漕ぎ手を辞退するつもりかな?」
能田が実際に耳にすれば激怒するであろう文言を内心で口にしていると、その能田が醜悪な笑みを浮かべたままこちらに話しかけてきた。笑みも不愉快なら、その口から放たれる言葉も悪意に満ちている。それに対していちいち眉を顰める労力がもったいないため、大した反応もせずにそのまま進み出て一礼し、大人しく櫂を受け取るふりをした。
そうすると、予想通りに能田は口角がこれ以上上がらないであろうところまで上げるかのように益々笑みを浮かべ、その心が満たされたことを隠そうともしていない。その見たくもない姿を目の当たりにしたとき、ようやく一矢はこの能田というどう見ても代表としての資質に欠けている男が、何故この『担い隊』の隊長を務めているのかが解った気がした。この男は他人を従わせるのがこの上なく好きなのではないのだろうか。振り返ってみると、この男が不機嫌になったり不愉快を示したりしたのは、大体高島や端山、それと一矢などが能田を認めなかったり、言葉に反したときだったように思える。要は、組織の代表として自分に従うこと以外を求めていないのと同じだ。それがどれほど危ういことかは説明の必要もないほどには解るだろう。そんな男に隊長が務まるものだろうか。
いや、そもそも隊長という立場そのものも非常に怪しいものだ。そもそも『担い隊』も『若宝号』も能田自身のものではないし、最初から与えられたとさえ言えてしまうものである。手宮や市長、ホテルの支配人といった『担い隊』の行動に自分たちの目的を託している者たちに操られているだけなのかもしれない。そう考えるとよくできた役者であるとも評せなくもないが、だとしてもあまりにも演技が下手すぎる。真の隊長であるならば隊にひたすら従うことを求めるのではなく、もっと融和に務めるはずだ。無茶な話だが。
「いやあ。今のは実に感動的な場面だったな、お前たち。あの一矢がようやく隊員らしくこの隊長である俺に頭を下げたんだからな。やっと礼儀を覚えたらしいよ」
櫂を受け取った一矢が舟の左側の丁度真ん中に座ると、隊長である能田はこれまで一矢に味合わされた不満を解消するかのように、他の漕ぎ手たちを巻き込んで余計なことを口に出し始める。他の舟の漕ぎ手たちや船頭が櫂の受け渡しを終えて静かに次の指示を待っているのに対して、いつまでもくだらないことに拘って口を動かしている船頭と漕ぎ手たちのその姿は、悪い方向に目立つだけでなく、稚拙さを撒き散らしていた。恐らく能田がここまで口汚く騒ぐのは、先程高島に詰められたことの反動もあるだろうが、それにしても度が過ぎている。いや、度が過ぎていないことなどは一度もなかったかもしれない。
「……口を閉じなければ死んでしまうのかい、隊長。少しは周りの様子を見ることも覚えた方が良いとは思うがね?」
「おいおい、隊長に頭を下げた隊員がそんな口の利き方をして良いのかい?」
暗に黙れと言ってみたものの、一矢が言わんとしているところは全く伝わっていないようだった。それどころか、乗るべきではない調子に乗った能田は口に出していてさぞ爽快なのであろう文句を饒舌に並べ立て、例の口角が上がり切った笑みを崩そうとはしない。
「……全く、どこまでも鈍い隊長だな。そろそろ引退した方が良いんじゃないのか?」
そのため、一矢はわざわざ伝えたくもないことを口にするのだった。鋭い視線と共に。
「な、何だと。まだそんな口の利き方をするのか。隊長に頭を下げた隊員のくせに!」
何やら騒々しく威厳もなければ信念もない隊長を自称する男が喚いているが、そんな子どものような難癖に付き合っている暇も時間も意味もない。どうやらこの一矢に対して隊長に頭を下げた隊員という立場を押し付けて黙らせたいようだが、その発想からして既に隊長の器ではないことを示しているようなものだった。しかも、その前提が通用しないことにも気付いていないようだ。だとすれば、そこから指摘しなければならないのか。
「口の利き方は多少気を遣おうと思えば遣えるが……その前に一つ言っておこうか。さっきからこの一矢に対して隊長に頭を下げた隊員として振る舞うように求めているようだがな、それは大きな誤解であり、無礼であり、愚行である」
「屁理屈だな。俺を含めてこの『若宝号』に乗り込んだ連中は、皆お前が頭を下げるところを見ているんだ。お前こそその事実を認めずに誤解したまま、敬意を払うべき隊長に無礼を重ねる愚行を続けているんだぞ。そうだよなぁ?」
能田が同意を求めると、もう一人の船頭や他の漕ぎ手たちはお決まりの反応を示した。ある者はそうだそうだと野次を飛ばし、またある者は隊長へと無言で拍手を贈る。それを受けた能田は益々何の根拠もない自信を増幅させ、たった一人で隊長に楯突く愚か者をやり込めようと背筋を伸ばし、わざと子どもに尋ねるような口調で問いかけるのだった。
「あくまでも屁理屈だと認めないなら、聞いてやろうじゃないか。どうせ碌でもない答えしか返ってこないだろうがな。さあ、聞かせてもらおう。隊長である俺に頭を下げたわけではないと言うのなら、お前は一体何に頭を下げたって言うんだい? まさか自分から言い出しておいて答えられないなんてことはないよなぁ?」
能田としては、完全に一矢を追い詰めた気分になって半ば浮かれ始めていた。答えられるわけがないからだ。あの場において自分以外の誰に頭を下げると言うのか。どうせ高島の代表に対して頭を下げたとでも言うつもりだろうが、そう言われたらまた笑ってやるだけのことだ。お前はその場にいない人に対して、別人に頭を下げるのかと。そうやって皆に笑われれば、もう一矢も隊長である俺に口を出すこともなくなるはずだ。清々する。
「何だ、そんなことか。言っておくが、俺はしっかりこの場にあるものに対して頭を下げたからな。それが隊長に対してではなかったというだけのことだ。……解らないのか?」
ところが、一矢は能田の浅い思考を見透かしたかのように前置きを述べ、更にはここまで言っても解らないのかと真正面から煽るように疑問を投げかけてくる。これには能田の頭に問答無用で血が上り、一気にその顔から笑みが消え失せ、額に青筋が立つのと同時に腹から出た声が喉を通って空気中担い隊ぶち撒けられた。つまり、能田は吠えていた。
「ふざけけるな。言えないくせに。言えるものなら言ってみろ、何に頭を下げたかを!」
そうして怒りを露わにした隊長である能田の顔は少し赤くなっていたが、逆に一矢は心底つまらないものを見る目でその姿を眺めていた。それが余計に能田の怒りを招く。
「早く言え。どうせ言えないだけだろう。頭を下げた隊員のくせに、隊員のくせに……」
「まあ、落ち着けよ隊長。本番前にそう興奮すると、体に悪いからな。……しかし、本当に言って良いのか。そんなことも解らないのかと恥を晒すことになるかもしれないぞ?」
「うるさい。そう言ってどうせ言えないなのは解っているんだ、この屁理屈野郎め」
「そうだそうだ、隊長に今までの無礼を詫びろ、そしてこの隊から去れ!」
やがて能田だけではなく、他の漕ぎ手たちも一矢に向かって喚き始めた。それを見た一矢は、この連中は正気かと愕然としてしまう。所詮『担い隊』の隊員たちはこの程度ということなのだろうか。隊長は論外であるとしても、何人かは真面な者もいるかもしれないという微かな期待を一応捨てずに持ってはいたが、それももう手放すべきなのだろうか。
「お前たちは口を挟むな。隊長であるこの俺が、一矢に聞いているんだ。この俺に頭を下げたのではないのなら、一体何に対して頭を下げたのかを! さあ、答えるんだ!」
一矢が密かに他の漕ぎ手たちに対して見切りを付ける一方で、能田はその語気を更に強めてこれ以上の言い逃れは許さんと言わんばかりに凄む。その剣幕に奴隷のような漕ぎ手たちはすっかり黙り込み、もう一人の船頭もどう声をかけるべきかと尻込みしてしまう有様だった。そんな中でもまだ一矢は最初から何もなかったかのような態度を貫いたままだったが、このままではこれからの予定にも影響が出ると判断して一息吐くと、口も開く。
「ハァ。……解らないのか。仕方ない、教える義理も義務も意味もないだろうが、教えてやろう。この一矢が頭を下げる価値があると感じて頭を下げたのは、これのことだよ」
視線が口を開いた一矢に集中する。一矢は語り終えるよりも前に、頭を下げられたと勘違いしている能田からつい先程受け取った漕ぎ手の証、即ち舟を漕ぐための木製の櫂を右手に持って掲げたのだった。つまり、一矢が頭を下げたものというのは……。
「か、櫂だと。そんな、そんなもの、そんなものに対してお前は頭を下げたというのか……こいつは傑作だ! 人ですらないものに頭を下げるとは、何て愉快なやつなんだ!」
その正体を知った能田はやがて堪えきれなくなったのか、言葉の中に笑みが混ざって苦しそうに笑い出した。それに従って一矢と同じような形の櫂を持った漕ぎ手たちも笑い出し、一矢に『担い隊』そのものを見限らせるのに十分な光景を作り出していた。何というか、伝統に縁のない生き方をしてきてこういうのも奇妙ではあるが、反吐が出る。醜い。
こうなると、わざわざ教えてやったことにやはり何の意味もなかったことが実感できてしまった。こういった連中には何を言っても響かないし、受け入れようともしないのだろう。一つ確かなことは、この連中には競舟の在り方を変える資格はないということだ。
最早能田たちにかける言葉も見つからない一矢は、このまま本番を迎えた方が都合が良いとさえ思い始めていた。と言うのも、このまま一切の情けを気にすることもなく仕事に入れば、かなりの確率で脅威の排除に成功するであろうという結論が出たからだ。仕事を邪魔する相手がこういったどうしようもない連中であるならば、たとえ運河に放り投げたとしても全く気に病むことがない。喜んでそうしよう。いや、喜んではいけないのだが。
「おい、そこの連中。何を笑っていやがる。その下品な笑いを今すぐ止めやがれ!」
ところが、能田たちの心底最低な笑みは一矢ではない別の者によって止められることになった。その怒声が駐車場に鳴り響いた途端、驚いた能田たちは辺りを見回す。すると、『若宝号』を荷台に載せた九号車と呼ばれるトラックの周りに、しめ縄で舟を荷台に固定する作業の頃から忙しく動いていた屈強な作業員たちが集まっているのが見えた。彼らはその全員が険しい表情をして舟の上で汚く笑っていた能田や一矢の外の漕ぎ手たちを睨み付けていた。その視線に晒された能田たちは、段々と余裕を失って不安げな表情を浮かべ出す。しかし、それで引き下がるような作業員たちではなかった。彼らの円際の話が一旦終わってからいつまでも騒いでいる能田たちに対する怒りは、その程度では収まらない。
「さっきから周りも気にしないで騒ぎやがって、小学生がお前たちは!」
「櫂のことも馬鹿にしやがって。お前たちの何十倍も長く生きてる森の木から作ったその櫂は、お前たちなんかよりもずっとありがたいものなんだぞ!」
「お前たちから櫂を取り上げて、この場で競舟に出られなくしてやろうか!」
「お前たちの声を聞くのも不愉快だ、競舟に出たいならその口は閉じていろ!」
「これだからお前たちみたいなのには出てほしくなかったんだ、祭りが汚れるからな!」
「おまけに何だその舟は。金色に染め上げやがって、悪趣味の極みだな! 失せろ!」
四方八方からトラックを取り囲んだ作業員たちの罵詈雑言が浴びせられ、最初のうちは負けじと言い返していた能田も、やがて返しきれずに言われるがままになってしまった。一矢でさえここまでは言わないであろう、容赦のない言葉が聞こえるたびに、本来であれば荷台の上にいるはずであるのにも関わらず、徐々に地面にめり込んで上から怒鳴りつけられているような感覚になる。一矢は『担い隊』の隊員であるという自覚が程々に薄いためそれほど気にしてはいなかったが、能田や他の漕ぎ手たちはここまで面と向かって敵意を向けられたのはこれが初めてだった。今までは一方的に敵意を向けていた相手からいざ敵意を向けられて落ち込むのもおかしな話ではあるが、要は攻撃する無謀な元気はあったとしても、逆に攻撃されるという想定がなかったということだろう。甘い。甘すぎる。
暴言の嵐が終わった頃には能田や他の漕ぎ手たちはすっかり口を閉ざし、もう騒ごうとする者は現れなかった。それもまた、彼らの原動力になるのかもしれないのだけれども。
「さあ、時間になりました。競舟を始める前のお披露目を兼ねた周回を始めましょう。運転手の方々も、安全運転でどうぞよろしくお願いします」
円際は異様な雰囲気に包まれた駐車場の中でも相変わらずだった。物事が予定通りに進むことを何よりも願っていそうなこの男は、いつも通りの抑揚のない声で拡声器を通して指示を出し、それに応じて一〇人の運転手、これもまた組員であろう男たちは横に並んだ一〇台のトラックの運転席へと乗り込んでいく。バタバタと次々にドアが閉まる音が響いた。一矢たちが荷台の上の舟に乗っている九号車にも、前方からの軽い振動があった。
能田たちは、もう笑っていない。一矢も勿論笑みを浮かべるようにことはしていなかった。するはずもなかった。これから、ようやく仕事が始まろうとしているのだから。その合図であるかのように、横一列に並んだ一〇台のトラックは一斉にエンジンの音を立て、キャビンに取り付けられた提灯に淡い光が灯り始めていた。荷台に太鼓が積まれている一号車と一〇号車はその列の両端に位置していて、太鼓が打ち鳴らされ始めると左右から音の波が押し寄せてくるのだった。厳密に言えば、すぐ右に一〇号車が停まっているため、右からの音の波の方が大きく感じられる。その音の大きさに最初は圧倒されていたが、次第にそれは慣れてくる。丁度その頃になると、横一列に停まっていた一〇台のトラックは一号車から一台ずつ動き出し、やがて縦の列を成して駐車場から出て行った。漕ぎ手たちや船頭は皆トラックが進む先を見ている。進む先と同時に、これから待ち受ける競舟へと至る道の風景を見逃すまいとしているようでもあった。その中で、一矢だけは唯一振り返って今までトラックが停まっていた駐車場を見つめた。トラックが立ち去った駐車場には誰もいない。最初からそうであったかのような静けさが少しずつ戻ってきている。それを感じる者が誰もいないからこそ、その静けさは本物であるようにも思えた。駐車場から出て行った者たちにも、それを感じることはできない。それは、そういうものなのだから。
駐車場から離れて行くトラックの荷台の上は、少し前までの騒ぎが嘘であるかのように沈黙が降り立っていた。体に上からまとわりついてくるような重苦しい沈黙だ。これに似たものは、きっと今誰もいなくなったあの駐車場にも降り立っていることだろう。そこに人がいるかどうかではかなりの差があるため、同じものではないはずだ。似たものではあるのだろうが、同じものとは言えない理由がそこにある。一方で、この沈黙は決して不愉快なものではなかった。今までが騒がし過ぎたというのもあるだろうが、これから競舟へと向かう道中でも騒がれてはたまらない。そのため、この沈黙は歓迎するべきでもあるものでもあった。勿論、この沈黙は同時に緊張をもたらすものでもあるため、手放しで歓迎するべきかと言われると、そうでもない。一矢にとっては程よい沈黙と、仕事には欠かせない緊張を感じられるこの環境が好ましい。要するに、ただそれだけのことだった。
運河に流れる幾つかの川の一つの近くにある運河公園の駐車場から発進した一〇台のトラックが縦に連なった列は、そのトラックの荷台に載った舟が競舟に参加する前に市街地を周回することになっていた。その行列は東地区、中央地区、西地区といった三地会の勢力圏を通るため、三地会の漕ぎ手たちにとっては晴れ姿のお披露目という夢の舞台ではあるものの、『担い隊』の漕ぎ手たちにとっては石を投げられる敵地に向かうような気分である。出発前に作業員たちに散々責め立てられた後ということもあり、一矢の他の漕ぎ手たちはすっかり意気消沈してしまっていた。列の前後から聞こえてくる賑やかな太鼓の音も、『若宝号』に乗った漕ぎ手たちにとっては完全に逆効果である。それは自信の喪失にも繋がり、なかなか抜け出せない悪循環に陥る寸前にまで追い詰められてしまう。一矢としては変に自信を持たれても困るのでこのままの方が望ましかったのだが、物事はそう簡単には収まらないものだった。漕ぎ手たちの様子を見かねた能田が立ち上がる。隊長を務める『担い隊』の旗を持った能田は、あえて漕ぎ手たちに現実を見るように告げた。
「お前たちがこれから見ることになるのは、挑むべきものたちだ。よく見ておくんだな」
その言葉を聞いたとき、一矢は違和感を感じた。いつものような能田であれば、隊員としての誇り云々と言い出して何とか奮い立たせようとしそうなものだが、そうではない。寧ろ、目を背けて敵意を抱かせそうなところで現実を見るように諭しているのだ。これは今までにはないような流れである。まさかとは思うが、作業員たちによって真正面から敵意を向けられたことで、成長しているとでも言うつもりか。だとすれば、非常に不味い。甘すぎると言っている場合ではない。不味すぎる。これでは、本当に隊長のようではないか。ここに来て能田が隊長に相応しい行動を取るようになれば、付け入る隙さえもなくなってしまう。それは仕事において、非常に厄介な障壁になり得る。あまりにも、容易に。
これでこれから見ることになるものが能田が思っていたものと違う形であれば、また異なる結果を招いたのであろうが、こういうときに限ってそうはならないのだった。実際のところ、どの地区でもその地区の出身の漕ぎ手たちが乗った舟に沿道から一際大きな歓声が浴びせられたのだから。沿道を三地会の三つの旗が見事に舞い、見物人たちも手に持った小さい旗を振っている。有志団体の漕ぎ手たちもそれなりに応援されていたが、『担い隊』の漕ぎ手たちには殆ど声はかけられず、旗も振られなかった。『担い隊』の漕ぎ手たちが乗った九号車が目の前を通ると、誰もが触れてはいけないものの近くにいるような、居心地が悪そうな様子を見せるのだ。見物人たちも手に持った小さい旗を下げていた。そうやって控えめに、かつ大胆に応援するつもりがないことを示しているのだった。ところが、その光景は沈んでいた隊員たちには特効薬になる。能田の思惑通り、改めて現実を目の当たりにすることで敵意の充電が大成功していた。目には輝きが戻り始めていたのだ。
更に進むと、車列は中央地区の中心部である提灯や吹き流しに彩られた運河の近くの商店街へとやって来た。太鼓の音と共にゆっくりと進む車列が商店街に入ると、荷台の上に乗っている一矢たちの目に、沿道に見物人が大勢詰めかけているのが見えた。その中には漕ぎ手に選ばれなかった『担い隊』の隊員たちの姿もある。その多くが能田の取り巻きたちであり、彼らはその周りの人たちの迷惑になるかどうかなどは考えてもいないらしく、トラックの上で鳴り響く太鼓の音を掻き消すかのように自分たちが持って来た太鼓や金管楽器などを鳴らし始めていた。周りの人たちが眉を顰めて離れて行っても、気にする様子はない。彼らは一生懸命なのだ、気の毒になるほどに。そこに本来の『担い隊』の良さが見え隠れしているような気もするが、それを確かめる前にトラックは通りを走り去ってしまった。悲痛な叫びにもよく似ている音色だけが、『担い隊』の漕ぎ手たちを見送った。
そのまま商店街を通り抜けると、散策路と並行している通りに到着する。その通りは商店街の通りと垂直に交差しているからだ。散策路と並行している通りの両端には見覚えのある二つの橋と、中央にも一つの橋がかかっている。車列はその通りを左に曲がり、東大橋の方へと向かって行く。そのときだった。散策路と並行している通りに面する建物の屋上から、列を成して進むトラックの荷台の上の舟に乗った漕ぎ手たちに向けて色鮮やかな紙吹雪が撒かれ始めたのだ。それは桜の色に染められた紙吹雪であり、春を無事に迎えられますように、とこの祭りに込められた願いを感じさせる。この紙吹雪は漕ぎ手の所属に関係なく列全体に満遍なく降り注いだ。列も更に速度を落とし、全身で紙吹雪を浴びる。
このときばかりは、敵意に染められつつあった『担い隊』の隊員たちも頭上を舞い、やがて舟へと落ちてくる桜の色の紙吹雪を眺めていた。かつて子どもだった隊員たちが、そのときの心に一瞬戻ったような眼差しになっている。残念ながら、能田だけは甲板に落ちてきた紙吹雪を掻き集めて捨てることに終始していたため、そうはならなかったのだが。
そうした紙吹雪の嵐の中で通りを進むと、その果てにまた別の道に繋がる交差点が見えてくる。その交差点は十字路だった。左へ曲がれば市街地へ、右へ曲がれば浮島へ、正面は砂浜へと向かう道だ。交差点の前に生えている信号機に取り付けられた標識にそう書いてあるのが見えた。どこへ向かうのかと赤信号の前で停まった列の中で一矢は前を見ていると、列はそのまま真っ直ぐ進んでいく。いつもより近くに見える信号機に取り付けられた標識が前から頭の上、そして後ろへ流れて行くのを見送り、それから振り返ると海と運河の境目に近い砂浜が視界に広がっていった。緩やかな下り坂を降りて行くと、砂浜はそのような形で見えたのだ。右手に東大橋も見えるその砂浜は途中までやや荒い石畳に覆われており、バスが成す列はその石畳と砂浜の境界線で駐車場のときのように横一列に停車し、長いようで短かった周回をそこでようやく終える。太鼓の音の方はまだ続いていた。
長いようで短い道のりを経てようやく一〇台のトラックからなる車列は砂浜と石畳との境界線、それもぎりぎりの所で停車したわけであるが、ここではどのトラックも荷台の方を海に向けて停まっていた。一台ずつ砂浜に向かって後退するように停車したのである。そのお陰で、荷台に積まれた舟の上に乗っている一矢たちには、砂浜の様子がよく見えてくる。それは初めてその光景を目にする漕ぎ手たちに、騒めきを呼ぶのには十分過ぎるものだった。いつぞやの土手や、今しがた通り過ぎてきた沿道などのように、地元の人々や子どもたちが見物に来ていることに対して、特に驚く必要はない。騒めきを呼んだのは、砂浜と石畳との境界線から海に向かって設けられたものたちなのだから。まず、一矢が目にしたのは、非常に緩やかな角度のスロープだった。それも等間隔で一〇個が砂浜に並べられている。砂浜と接している部分を見る限り、どうやら頑丈な台座か何かで固定されているようでもあった。それだけでも十分異様な光景ではあるのだが、それだけに留まらずにそのスロープの斜面には、子ども用の滑り台のように無数の丸太が傾斜に沿う形で埋め込まれていたのだった。しかも、同じような丸太はその斜面のみならず、砂浜にも波打ち際まで続く形で置かれている。これでは、騒めきが起こらない方が無理な話だろう。
「漕ぎ手の皆様、周回お疲れ様でした。と言いたいところですが、気を抜く暇はありません。いよいよこれから、競舟に参加する前の最後の儀礼を受けていただくのですから。それでは、これから皆様はお乗りになられているその舟と共に海に出ていただきましょう」
目の前に設置されているものへの説明もないまま、トラックの助手席に乗っていたのか、或いは運転していたのかも解らない円際の声が砂浜に響き渡る。まだ鳴り響いていた太鼓の音にも負けないその声は、拡声器ではなくマイクを通しているようにも聞こえた。
円際の口から発せられた言葉は珍しく簡潔であったが、肝心なところが抜け落ちているようである。一矢は荷台に積まれた舟の上から、その下に広がる石畳と砂浜を眺めた。二メートルから三メートルはあるであろうこの荷台の上から、どうやって舟を下ろすつもりなのだろうか。円際はそこの部分に触れることはなかった。この高さから人力で舟を下ろすことは考え難い。舟そのものも傷つくだろうし、漕ぎ手も無事では済まないはずだ。
すると、その問いに答えるかのようにゆっくりと荷台が動き始めた。キャビンに近い方だけが徐々に持ち上がり始めたのだ。それはまるで、荷台に積んだ山盛りの土砂を工事現場に捨てるような動きだった。荷台が傾くと、当然のことながらそこに積まれていた舟も傾くわけで、その上に乗っている漕ぎ手たちは振り落とされないように必死に船体にしがみつく。荷台の角度はそこまで急ではなかったため、舟がそのまま荷台から滑り落ちることはなかったが、舟の上に乗っている漕ぎ手たちからすればどんな角度であろうとも、恐ろしいことに変わりはない。ここで怪我をするわけにはいかない、一矢にとってもだ。
傾く角度も緩やかなこともあってか。舟は荷台から滑り落ちることもなく、砂浜に放り出されることもなくある程度の場所で再び落ち着いた。これ以上は動きそうもない、と漕ぎ手たちは一安心する。一矢は何が舟の動きを止めたのか、と辺りを見渡す。そして、すぐにその原因を発見した。それは、駐車場において舟を荷台に固定するために巻いたしめ縄だった。船体を横切る形で荷台に巻かれたしめ縄と結ばれたそれは、半ば悲鳴を上げながら懸命に舟と荷台を繋ぎ止めているのだ。何重にも巻き付けられた螺旋が織りなす一本の太い縄は、そう簡単には切れることはない。これなら安心だ、と視線を更に荷台の外に動かした次の瞬間、一矢は思わず自分の目を疑った。と言うのも、しめ縄そのものは頑丈であり切れる気配は微塵も感じさせなかったのだが、荷台を一周する形で巻き付けられているしめ縄と、船体を横切る形で巻かれているしめ縄との結び目は今にも解けそうになっていたのだ。その結び目は船体を横切る形で巻かれたしめ縄の両端にあるはずだが、左側のそうした無数に存在している結び目のどれもが、あと少しでも力が加わればあっという間に解けてしまいそうになっている。恐らくは、右側でも同じことが起きているだろう。
「……この結び目が解けたら、荷台から滑り落ちるより他に道はない、だろうな」
そうして冷静に分析してから、今度は荷台から滑り落ちた場合には何が待ち受けているのかを確かめる。荷台から滑り落ちた舟が向かう先は砂浜以外にはありえない。そして、その砂浜には先ほど目にした奇妙なものたちが待ち構えている。斜面に丸太が埋め込まれた緩やかなスロープと、波打ち際まで続く線路のように置かれた丸太。この状況から判断すると、やはり全くもって認めたいとは思えないような一つの答えしか出てこなかった。
「……なるほど、これが海に出る方法か。随分と手荒だな、伝統と言うやつなのか?」
どうやら、思わずそう口に出してしまうほどには大胆な方法で海に出ることを強いられているようだった。現に、他の舟は既に荷台からゆっくりと滑り落ち、丸太が埋め込まれた斜面を滑って砂浜に降り立っている。舟も漕ぎ手も無事であるようだ。そうであるならばそこまで心配する必要もないような気がするが、そんなに楽観的に捉えて良いものなのだろうか。と言うのも、この『若宝号』に乗っているのは無事に砂浜に降り立った彼らではない。あの『担い隊』の漕ぎ手たちなのだ。彼らにできたことを、この隊員たちにもできるという保証がどこにある。二次試験で暴れて舟を転覆させたような連中に対しては、期待よりも心配が上回るのは無理もないことだった。尚、そのような心配を他所に、一矢の他の漕ぎ手たちは最早唯一の拠り所である隊長に対して、助けを求め始めている。
「た、隊長。このままでは我々の舟が海に出る前に壊されてしまいます!」
「これは三地会の連中の陰謀なのではないのでしょうか! 抗議を求めます!」
何を言っているのやら、と傾いた舟の上でも変わらない隊員たちに一矢は嘆息した。
「おお、そうだな。運転手に言って荷台を傾けるのを止めろと伝えてくる!」
ところが、能田は隊員たちの戯言を真に受けたのか不安定な舟の上で立ち上がり、ずんずんと緩やかな斜面と化した荷台の上へと登っていく。能田が一歩、また一歩と上へと進む度に舟は大きく揺れ、結び目はほぼその意味を失いつつあった。これには流石に一矢もまた険悪な空気を招くことになろうとも構わず、今やこの場において最も信用ならない船頭でもある隊長に対して口を開く。珍しいことに、その口調には少し焦りが混じった。
「下手に動くんじゃない。舟が荷台から滑り落ちるときに怪我をするだろうが!」
「……滑り落ちる、だと。『若宝号』には似合わないな。今すぐ止めさせてやる!」
その呼びかけも能田には逆効果だった。一度隊長としてのスイッチが入った途端、こちらの言うことなどは全く耳に入らなくなるのだろう。その都合の良い耳は隊長としておだてて操りたい者には最適だろうが、隊長としての振る舞いを止めさせたい側からすれば、非常に厄介なものだった。そのため、聞く耳を持たない能田は止まることもなく、またずんずんとかつて平らかな荷台だった坂を登っていくのだった。やがてしめ縄同士の結び目はその振動にさえ耐え切れなくなり、その一つが一矢の目の前で勢い良く弾け飛んだ。
それが始まりだった。一つ、また一つと解けた結び目は二度と戻ることなく、それまで確実に荷台に縛り付けていた舟を斜面の下へと解き放ち、その上に乗っていた漕ぎ手たちはその衝撃で姿勢を崩す。直前まで立っていた能田も倒れ込み、その舟の動きを止められる者は誰もいなかった。一矢だけは舟が荷台から滑り落ちることが解っていたため、舟が向かう方向を静かに見つめている。太鼓の音に混じって見物人たちの歓声が微かに聞こえるほどには、丸太が埋め込まれた斜面を舟がゆっくりと滑る最中でも落ち着いていた。
他の舟が滑り落ちたときと同じように『若宝号』も丸太が埋め込まれた緩やかな斜面を進み、速度を落として今度は波打ち際まで続く線路のような丸太の上に乗った。そのまま波打ち際まで一直線に進むほどの速度はないため、波打ち際まで二〇メートルはあるような場所で静かに停まる。その位置は、他の舟よりも大分波打ち際までは遠かった。舟の重さなどが進む距離と関係しているかもしれなかった。『若宝号』の重さは知らないが。
こうして『若宝号』を含めた競舟に参加する八艘の舟は、多少その前後の位置に差が生じている横一列に並んだ。どの舟の漕ぎ手もここに至るまで一度も舟から降りていない。市内を回る前に円際が言ったことは守られたのだ。大分強引な形で、ではあるが。改めて舟の左側に座り直した一矢はこれからどうするのか、と円際の指示を待っていた。この舟をこのまま自分たちで押して波打ち際まで持っていくのか、それとも見物人たちが手伝う形で波打ち際まで持っていってくれるのか。後者の場合誰も『若宝号』に近付こうとはしない可能性もあるな、と考えて内心で笑う。それで失格となれば、ある意味で伝説だな。
気付いたときには、いつの間にか太鼓の音は止んでいた。冷たい海風が半被を着て舟の上に乗っている漕ぎ手たちに吹き付けている。骨に直接響くような冷たさを持つその風を長くは浴びたくはなかったが、次の指示を待つ立場である以上はこうしているしかなかった。そうしていると、いつの間にか止んでいたはずの太鼓の音が再び聞こえてくる。その音は荷台に舟ではなく太鼓を積んでいる一号車と一〇号車から聞こえてくるものであることに変わりはなかったが、その太鼓の叩かれ方が異なっていた。市内を回っていた際のただ単にリズムを刻むような音ではない。より祭りらしく、踊り出したくなるようなリズムで叩かれているのだ。祭り囃子のようでもある。別に踊りたい訳でもないし、踊る立場でもないため黙って動かずにいると、突然背後から子どもたちの声が聞こえてきた。
思わず振り向くと、トラックが停まっている石畳の方から小さな三地会の半被を着た子どもたちが大勢砂浜に目掛けて走ってくるのが見えた。その全員が漏れなく柄杓を持っているというその光景は、唖然とさせられるよりも前にどこかくすりと笑いを招く。その子どもたちが舟の周りを取り囲んで太鼓の音に合わせて歌い出し、一人、また一人とその輪を抜けて海水を掬って戻り、舟へとその海水を浴びせ始めた頃には笑う気分など、既に消え去っていたのだが。子どもたちは声を揃えて歌いながら、柄杓で掬ってきた海水を櫂にまで満遍なく浴びせていく。忽ち『若宝号』やその他の舟は潮の香りに包まれた。元からそうだったのかもしれないが、砂浜そのものにもその香りが立ち込めていた。
なるほどこういうものなのか、と自分の持っている櫂にも海水が浴びせられるのを見ながら一矢は納得していた。これが競舟に参加する舟や櫂といったものに対する儀礼なのだろう。神社でいうところのお清めのようなものだ。それが海水に置き換わったと考えれば不思議なことではない。寧ろ、自然な発想であるとも言える。拒否することもあるまい。それに、子どもたちの透き通った歌声を耳にするのは心地良いと思えるのと同時に、緊張の連続で固まりつつあった体の力を抜くのに丁度良いのだった。その子どもたちが歌う歌は短いものであり、同じ歌詞を何度も何度も繰り返していた。それは繰り返し重なった。
「ふねよ うんがのみなもには しぶきのひとつもにあわない
されどこのまち ひとのまち ひとのかぎりはふねをだせ
うみよ うんがのふるさとは なみにゆられてしおのかげ
くつるこのまち そのめぐみ つづくかぎりはふねをこげ
されどわれらは うんがのこ それにならうが くつるのし……」
子どもたちの歌が繰り返されるうちに、『若宝号』はその金色の船体を海水で濡らしていた。柄杓によって浴びせられる海水の動きは子どもたちの手によるものであるためか不規則で、中には甲板にまで入ってくるものまであった。能田は何よりもそれを嫌った。
「おい、何をするんだ。しめ縄でも我慢できないっていうのに、今度は海水かよ。わざわざ舟に浴びせてどうする。ほら、やめないか。あっちに行けよ!」
木でできた手漕ぎの舟が海水に濡れることに何の不都合があるのか、やたらと能田は子どもたちへと大声を出して動きを止めようと試みていたが、一心不乱に歌っている子どもたちは能田の声など聞こえていないように、海水を浴びせ続けた。そのことで金色の塗装が剥がれるのが気になるのかもしれないが、海に出ることも想定している舟の塗装が海水で剥がれるとも考え難い。いや、そもそも海水を浴びせられること自体が許せないのかもしれなかった。どちらにせよ、子どもたちに声を荒らげる姿は情けないし、威厳もない。
それでも大声を出し続けたのが功を奏したのか、この場合は諦めが悪いとも言えなくもないが、とにかく一度だけだが、子どもたちは一旦手を止めて互いに顔を見合わせた。だが、それも一瞬のことでまたすぐに柄杓を動かして海水を舟に浴びせ始める。そんな中で手元が狂ったのか、小さな女の子の柄杓から飛び出した海水の飛沫が運悪く能田の体に、それも『担い隊』の赤と黒で彩られた趣味の悪い半被にかかってしまう。そのことが、能田の怒りに繋がる導火線に火を着けた。不運だが、火が着かない方が無理な話だった。
「こいつら、もう許せん! 『若宝号』だけじゃなく俺にまで海水を浴びせやがって!」
顔を怒りで真っ赤に染めた能田は喉が焼けそうな声で叫ぶと、勢い良く立ち上がって舟から降りようとする。今迂闊に舟から降りれば失格と見做される恐れもあるため、一矢は止めようかと軽く腰を浮かした。それに、子どもを殴ろうとするなら止めなければならない。もしそんなことになれば、競舟に参加できなくなるだけでは済まないだろう。一気に事態が緊迫したこの状況は、ある意味で一矢が何とかしなければならない仕事の一つだ。
「えー、皆様。舟のお清めが終わりましたので、いよいよ漕ぎ出していただく時間となりました。それでは、船頭以外の漕ぎ手の方々は舟から降りて海まで押してください」
そこで突然円際の声が降り注ぎ、海水を浴びせていた柄杓の動きはぴたりと止まった。子どもたちの歌も同じくぴたりと聞こえなくなった。子どもたちは皆口を真一文字に閉ざし、一目散にそれまで取り囲んでいた舟から離れていく。振り上げた拳を下ろす先を失った能田は渋々甲板に座り直した。円際の事務的な指示は、一つの悲劇を防いだのだった。
石畳の上で横一列に並んだ一〇台のトラックのうち、その両端に位置する一号車と一〇号車の荷台に積まれた太鼓のリズムはまた市内を回ったときのものに戻ってきている。やがて一矢を含めた漕ぎ手たちは櫂を甲板に置き、舟から降りて砂浜に降り立った。普段歩いているアスファルトよりも遥かに優しい足元の感触に浸る暇もなく、舟の両端に五人ずつ立った漕ぎ手たちは丸太の上に乗った舟を少しずつ押していく。勿論、舟がそう簡単に進むはずもない。漕ぎ手たちは息を合わせて波打ち際へ進むことを強いられたのだった。
一〇人の力を以てしてもなかなか舟は進まない。横一列に並んで八艘の舟は波打ち際へと少しずつ近付いていくが、次第にその進み具合に差が出てきた。その中でも、一矢たちが押している『若宝号』が一番遅れていた。他の舟よりも重いのかもしれなかった。
「それにしても、やけに重いような。他の船が軽いのか、それとも隊長が重いのか……」
「大きな声で言うな、聞こえるぞ。……確かに、うちの舟が一番遅れてるがな」
一矢の前で舟を押している『担い隊』の漕ぎ手たちは額から汗を流しつつ、舟を前へ前へと押していく。下に丸太が敷かれているとは言え、舟がほんの少しずつしか進まなかった。それでも波打ち際には確実に近付いているのだが、まだ辿り着かない。そうした漕ぎ手たちの苦労などまるで興味がないかのように、舟の上で胡座をかいた能田は船頭らしく振る舞おうとでもしたのか、絶え間なく声をかけてくるのだった。これは不愉快だった。
「他の舟に遅れるなよ、もっと力強く押すんだ! 俺たちが一番目立たなくちゃならないんだからな! ほら、海まであともう少しだ!」
能田の激励とは裏腹に、相変わらず『若宝号』は最も波打ち際から遠いところを進んでいる。やはり慣れているのか、有志団体の四艘は早くも波打ち際へと到達し、それに三地会の三艘が続いていた。初めて競舟に参加する漕ぎ手が多いのは三地会の舟と『担い隊』の舟とはそう変わらないのだが、それでも『担い隊』の舟よりも波打ち際へと近付いている。これにはやはり、舟の重さが関わっているように思えた。『若宝号』は、特に重い。
それでも、能田の大した力にもならない激励を耳にしながら何とか一矢たちは舟を波打ち際まで辿り着かせた。丸太が敷かれていなければ、競舟が始まる前に体力を使い果たしていたかもしれない。汗もかいたが、かいた傍から冷たい風に冷やされて体に悪かった、そんな体でこれから海に入ることを思うと気が滅入るが、ここまできて帰るわけにはいかない。これは仕事なのだ。仕事屋として投げ出すことなど、許されるはずがないのだ。
舟が優しい波を乗り越えて海に浮かぶ。漕ぎ手たちは膝まで海に浸かり、打ち寄せる波をその体に浴びていた。冷えた体に突き刺さる波を何とか耐えつつ足を海の中で動かしていると、自分に足が生えてあることを改めて実感させられた。その冷たさから逃げ出すかのように、漕ぎ手たちは一人、また一人と『若宝号』によじ登って乗り移る。甲板に置いておいた櫂を持ち、漕ぎ始めると能田ともう一人の船頭も旗を片手に立ち上がった。他の舟の船頭も旗を振り、横一列で進んでいた八艘の舟は試験のときのように右へと曲がり始める。やがて舟の列は縦一列へと変わっていった。その列を成す八艘の内訳は、先頭から三地会の東舟、中舟、西舟と呼ばれる三艘、有志団体の岩舟、札舟、北舟、箱舟と呼ばれる四艘、そして遅れた最後尾を務めるのが金色で悪目立ちするのが『若宝号』だ。そんな『若宝号』を漕ぐ者たちの表情は段々と険しくなっていった。一矢もその一人だった。
旗は海風で激しく揺らめき、その旗に記されている文字も碌に読めないような状況だ。それでも船頭たちは声を張り上げて漕ぎ手たちに指示を伝えている。縦一列で進む船団は砂浜の右に位置している東大橋の下を通り抜けて運河へと入ろうとしているわけだが、その船団は一つ曲がるだけでも大騒ぎだった。『若宝号』は先行している舟よりも大きく膨らんで曲がろうしている。『担い隊』の漕ぎ手は他の舟の漕ぎ手たちよりも上手く漕ぐことができないのだが、それに能田が納得するはずもなかった。当然、怒号が飛んでくる。
「右だ、右に曲がるんだ。早く回れ。列から離れてるじゃないか!」
こればかりは、一矢一人の力ではどうしようもない。この舟を一人で漕いでいるわけではないのだから。舟を波打ち際へと押した際に蓄積された疲労の回復もままならない状態で漕ぎ始めたからだろう、漕ぎ手の半分は既に息が上がっているようだった。疲労によるものも大きいだろうが、寒さによるものもあるかもしれなかった。一矢はまだ疲労困憊というわけではないが、それでも舟一つをどうこうするまでの力はない。そもそも、複数人で漕ぐ舟を一人でどうにかしようとする発想が間違っているようでもあるのだけれども。
そうして何とか『若宝号』が列に追いついたのも束の間、縦に並んだ船団は東大橋の下を通り抜けるためにまたしても右へと曲がり始めた。能田に急かされて必死に舟を漕いだ漕ぎ手たちはもう体力を殆ど使い果たしたらしく、もう激励を聞いても項垂れて荒い息を吐くだけだ。一矢もまだ漕ごうと思えば漕げたものの、周りに合わせて櫂を動かすのを止める。一人だけ調子を崩さずに漕いで仕舞えば、舟がおかしな方向に進む恐れがあったからでもあった。能田に一人だけ口うるさく怒鳴りつけられるのもご免被る。耳に悪いし。
漕ぎ手たちがあまり熱心に舟を漕がなくなったため、『若宝号』はまた列から離されてしまっていた。東大橋の下を通り抜ければ運河に入り、遂に競舟の本番が始まってしまうため、ここで遅れるわけにはいかない。能田は焦っていた。競舟そのものの在り方を変えるためには今のままではいけないというのに、漕ぎ手たちの何と情けないことか。自分の体力の無さを棚に上げ、自分の思い通りに事が進まないことに対して怒りの声を上げる。
「早く追い付けよ、先頭はもうすぐ運河に入ろうとしているんだぞ!」
漕ぎ手たちが息も絶え絶えに舟を漕ぐと、少しずつだが東大橋を通り抜けた向こう側、即ち運河が見えてくる。運河に沿って通る散策路と、その散策路に沿って広がる土手。持久走のときとは比べ物にならないほどの人がその両方に詰めかけていた。土手に陣取る応援団の人数や楽器の数も倍に増え、三地会の三艘の船頭が降っている旗と同じものが数多く振られている。散策路と運河を隔てる柵の前に並んだ見物人も小さな旗を振って今か今かと運河に舟が入ってくるのを待っていた。その光景は『若宝号』の漕ぎ手たちにも、その中の一人である一矢にもはっきりと見える。あれは伝統、或いは文化そのものの姿だ。
その三地会の漕ぎ手たちにとっては微笑ましいであろう光景を見た能田や他の漕ぎ手たちの顔から、不安や焦りといったものは消え始めていた。彼らはここで初めて、自分たちが敵視するものの姿を目の当たりにしたのだ。それまで彼らを迷わせていたものはそこでようやく掻き消され、残ったのは純粋な敵意と闘争心だけのようだった。もう引き返すつもりはないらしい。その中に潜んだ一矢と名乗っていた仕事屋、ヤスカは横目で周囲の変化を察する。能田や他の漕ぎ手たちは先行する舟や土手の応援団を睨み付け、もうその敵意を固定したまま変える気配はない。こうなれば、ヤスカも仕事を遂行するしかない。何も起こらないのであればあくまでも一人の漕ぎ手として祭りに参加する予定ではあったものの、そうはならないようである。緊張が表情の硬直を招き、視線の鋭さも増していく。
船団の最後尾で水面下で緊張が高まる一方、そんなことを知るはずもない先頭を務める東舟は東大橋の下へと近付いて行く。橋の上からも見物人が旗を振り、競舟が始まろうとしていることに喜びを示していた。その応援も、運河の方から聞こえてくる歓声も、その全てが『担い隊』や『若宝号』へと向けられたものではない。この祭りに受け入れられている舟たちは受け入れられなかった舟のことなどを気にする素振りも見せず、導かれるように橋の下を通ろうとしていた。水面に映る橋の大きな影が、進む舟を飲み込んでいく。
そのときだった。突然立ち上がった能田はもう一人の船頭と共にそれまで振っていた旗を手放し、能田は船首を覆っていた板を、もう一人の船頭は船尾を覆う板へと手を伸ばしたのだ。二人は何をするつもりなのか、と櫂を漕ぎながらヤスカが確認しようとすると、その光景は金色に輝く『若宝号』の本来の姿を暴き出していたのだった。今や偽装を解かれた船首からは銀色のタッチパネルやハンドルが、そして船尾からはスクリュー付きのエンジンの黒光りした姿が現れたのだから。つまり、この『若宝号』は本来であれば競舟に参加することを許されないはずのモーターボートであるのだった。手漕ぎの舟以外の参加は認められないからこそ、わざわざ木製かつ手漕ぎの舟であるかのように見せかけていたのだ。このことを隠すために、必要のない漕ぎ手を乗せてここまで隠し通していたのだ。
これにはヤスカを含めた漕ぎ手たちも驚きを隠せなかったが、能田ともう一人の船頭は旗を持ち直して当然のことであるかのように振る舞う。動揺している素振りもなかった。
「隊長、スクリューも問題ありません。いつでも行けます!」
船尾のエンジンを確認した船頭は船首に立って東大橋の向こう側を眺めている能田に叫んだ。それを聞いた能田は自信に満ちた笑みと共に振り向き、旗をはためかせて漕ぎ手たちへとこれから歩みべき道を指し示す。後光を得たその姿には妖しい魅力が満ちていた。
「よし。お前たち、よく聞け。これからだ。これからが、俺たちの出番なんだ。いよいよ俺たちが競舟を変えてその主役に躍り出る時が来たんだ。俺がお前たちを連れて行く!」
そうやって高らかに宣言すると、能田は船首に取り付けられているハンドルの方へと歩き出す。その足取りもまた、自信に満ち溢れていた。不安定な舟の上であってもふらつく様子もなく、その体、または手足に満ち満ちているものの力強さを感じさせる。
「……待て。それが本当に競舟の在り方を変えることになると思っているのか?」
その足取りを止めたのは、ヤスカの声だった。最早ここに至っては一矢の声ではない。仕事を前にして偽りの身分に甘えるつもりはなかった。仕事屋として、遂行しなければならない仕事と向き合っているのだ。能田の手がハンドルの隣にあるエンジンを作動させるボタンへと伸びたそのときが、最後の賭けだった。ここで能田が思い止まれば、ヤスカは危険な橋を渡る必要はなくなる。ヤスカの声に対して他の漕ぎ手たちの視線が集まっていたが、あくまでもここで重要なのは能田の反応だった。彼が、その手を下げさえすれば。
「今更止めても無駄だよ、ここまで来たんだからな。……それとも、これでは変わらないとでも言うつもりか?」
しかし、振り返ることなく能田はハンドルに手をかけた。それは姿勢を安定させるためだったのかもしれないが、その声には今までと異なり怒りが込められていなかった。既に覚悟を決め終えてしまっているかのような、冷たい口調ですらあった。その口調と変わらない冷たさで、ヤスカも初めて能田との対話を試みる。半分以上の諦めを心中に隠して。
「そうだとも。お前たちは競舟の在り方を変えると言いつつ、壊そうとしているだけだ」
一息つくとヤスカは立ち上がった。現実を突き付けつつ望みを打ち砕きながら続ける。
「……そして、この街はそのような身勝手な破壊を望んでなどいないのさ」
それは、『担い隊』の存在意義を真っ向から否定する言葉だった。もっとも、『担い隊』の方もそれを解った上で自分たちが思い描く競舟の在り方を実現するために立ち上げられた団体であるため、大した影響もないはずだった。現に、能田はハンドルを握った手を離さず、ヤスカの方へと振り向こうともしない。能田の瞳に映っているのは、目の前に広がる打破すべき対象でしかなかったのだ。ヤスカの言葉は無意識のうちに吸って吐いてを繰り返している空気のようなものだった。実際のところ、ここまで来た能田にはかねてよりの計画を実行に移す以外の選択肢は取れなかったのかもしれなかった。もう少し時間と余裕があれば結果も異なっていた可能性もあったが、現実としてはそうはならなかった。
東大橋の下を船団の先頭を務める東舟が通り始めたそのときが、始まりの合図だった。それを確認した船頭が『若宝号』の運転手となった能田に向かって大口を開けて叫ぶ。
「始まりました、隊長。今です!」
「皆も良いな⁉︎ 俺たちの競舟を始めるぞ!」
能田は遂にハンドルの隣にあるボタンを拳で叩いた。もう、引き返すことはできない。
「やめろ!」
「馬鹿言うな!」
ヤスカと能田との完全なる決別は短い言葉を交わすだけで済まされ、更にそれはブルルル、というエンジンのけたたましい音にかき消された。立ち上がろうとしていたヤスカは舟が揺れたことで膝立ちを強いられ、ハンドルから能田を引き離すことができない。船尾の後ろに白波が立ち、手漕ぎの数百倍の推進力を得た『若宝号』は列の最後尾から外れて縦一列に並んで進んでいる舟たちを追い越して行く。ヤスカを含めたその『若宝号』の漕ぎ手たちは振り落とされないように懸命にしがみつく中で、能田の高笑いを耳にした。
「ハッハッハ……お先に行かせてもらう!」
列を成して進んでいた七艘の舟の漕ぎ手たちは白波を立てて爆走する『若宝号』に呆気に取られ、何が起きているのか理解が追いついていないようだった。対照的に、船頭たちはその光景を目にした途端、口々に怒号を上げる。雷のような声が鳴り響いていた。
「おい、止まれ! 止まらんか!」
「何をしとるんじゃあ!」「祭りを台無しにするつもりかぁ!」
そうした大声は、『若宝号』が運河の出入り口にあたる東大橋の下を通り抜けた頃にはもう聞こえなくなっていた。その代わり、散策路や土手に集まった見物人たちの驚いた顔と、騒めきが飛び込んでくる。運河に入ってきたのが三地会の東舟ではなく『若宝号』だったことや、しかも『若宝号』が手漕ぎではなく、明らかにモーターの力で進んでいることに衝撃を受けているようだった。それは、舟の上にいるヤスカも同じようなものだが。
運河に入った『若宝号』の上では、船頭が『担い隊』の旗を振り回している。応援団の応援も聞こえないし、誰も旗を振っている人はいなかった。『若宝号』や『担い隊』が歓迎されていないのは明らかだったが、それでも舟は止まらなかった。止まれなかった。散策路や土手からそれを見ている人たちも、止められなかった。止まる気もなかった。遂に祭りの伝統を壊そうと進み出した『若宝号』の上でヤスカは立ち上がる。当然、他の漕ぎ手たちの視線を集めることになったが、それに構っている余裕がなかった。立ち上がってから甲板の上を歩き出したヤスカは、仕事屋としてするべき事に手をつけ始める。
その頃、『若宝号』の運転手として軽快な風を浴びながらまだ笑っていた。ようやく念願の行動に出られたのだから、自然な反応でもある。参加が危ぶまれた競舟にこうして参加し、数々の難関を乗り越えて今こうしてその全てをぶち壊しているのだから、笑わない方が無理な話だった。隊員たちを率いてきた自信に対する保証が与えられたこともその一因だったが、純粋な面白さが上回っていた。振り返ったその顔にも笑みが浮かんでいる。
「見たかあの顔、良い気味だ! これからは競舟は俺たちのものだな!」
そのとき、引き攣りそうな笑みと共に振り向いた能田のすぐ横を何かが回転しながら掠める。それが船尾にいた船頭が持っていたはずの旗であることと、その船頭の姿が舟の上から消えていることに気付くのにそこまで長い時間は必要なかった。能田はそこでようやく事態を把握する。漕ぎ手の一人である一矢、今は仕事屋のヤスカとして行動する男が、船頭の左肩と左腕を掴んで舟の上から運河へと投げ飛ばしていたのだった。突然のことに他の漕ぎ手たちも理解が追いつかないらしく、水飛沫を上げて水面に落ちて行く船頭を呆然としたまま眺めている。旗を避けるために左に曲がりつつ能田は叫び声を上げた。
「何を……何をやってるんだこの野郎、どういうつもりだ⁉︎」
その声は皮肉にも、『若宝号』の真の姿を現して船団を追い抜いて行った際に、他の舟の船頭たちから浴びせられた言葉とよく似ていた。今度は能田が予想外の事態に困惑を示す番になったのだ。そして、その事態を引き起こしたヤスカは能田とどこまでも対照的に冷たい表情を崩すことなく、事務的に『担い隊』との決別を口にする。仕事の始まりだ。
「競舟が少なくともお前たちのものではないことを教えてやる。もしお前たちのものになったと言うのなら、取り戻すまでだ」
船頭を運河へと投げ飛ばしたヤスカは、そう言いながら船首でハンドルを握る能田の方を向いた。これまで以上に冷たく、鋭い視線が突き刺さる。ここに至って初めて隊員の反逆を知った能田はまたしても運転中であるのにも関わらず船尾へと振り向き、今度は困惑ではなく怒りを込めた叫び声を上げた。既に敵意は見物人ではなくヤスカに向いている。
「この野郎、裏切るつもりか……代表の指示か⁉︎」
「た、隊長! 前前前!」
声を荒らげて裏切り者を能田は睨み付けるが、それも長続きせずに漕ぎ手の一人が慌てて舟の進行方向を指差す。ハッとしてもう一度前を向くと、旗を避けて左に曲がった『若宝号』はそのまま運河の左に建ち並ぶ倉庫を下から支える石垣にぶつかろうとしていた。船首は吸い込まれるようにその石垣へと進んでいるため、どれだけ曲がっても接触は避けられなかった。能田は懸命にハンドルを右に切るが、そう簡単には小回りが効かない。
「駄目だ、間に合わねえ!」
結局、どれだけハンドルを右に切ったとしても正面から突っ込むのを回避しただけだった。舟の左側面は容赦なく石垣と接触し、ガリガリと耳障りな音を立てて進む。更に、舟そのものも接触の衝撃で激しく揺れた。その揺れは傾きも招き、石垣に接している側の左へと大きく傾いてしまう。そうなると、殆ど水面に浸かる形になった右側に座っていた漕ぎ手たちは無事では済まなかった。右側に座っていた五人の漕ぎ手たちは既に必要のなくなった櫂を抱えたまま、運河へと投げ出されて派手な水飛沫を作り出すのだった。
一方で左側に座っていた漕ぎ手たちも投げ出されこそしなかったものの、激しく揺れて傾く舟の上で動くことはできなかった。ところが、ヤスカだけは舟が石垣と接触する直前に石垣の上へと飛び移り、舟の側面が立てる嫌な音と金色の塗装が剥がれる様子を見ながら並走している。その様子を横目で見た能田は『若宝号』が傷付いたことへの怒りも重なり、残った四人の漕ぎ手に隊長として命令を下した。ヤスカもその命令を耳にする。
「お前たち、あいつを逃がすな! 反逆者を捕まえるんだ!」
舟の傾きが少しずつ収まる中、何とか膝立ちした四人の漕ぎ手はそれぞれが手に持っている櫂を上下逆さまに構えてヤスカに叩きつけようとしていた。彼らの目には迷いはなくただひたすらに隊長である能田に従うという意思だけで、手足を動かしているように見える。敵意を植え付けられた能田に敵意を植え付けられた隊員たちが、ヤスカを攻撃しようとしているのだった。しかも、人への攻撃に使って良いはずがない櫂を持って、である。
何人かの漕ぎ手たちは櫂を振り回してヤスカが舟に戻ってこられないようにしているようだったが、やはり舟の揺れが収まらないこともあってか、ヤスカが再び石垣から舟へと飛び乗って来るのを防ぐことはできない。更に、ヤスカが甲板に飛び移ったことで収まりかけていた揺れがまたぶり返し、攻撃もままならない。漕ぎ手の一人は性懲りも無く櫂を振り回していたため、そのままバランスを崩して運河へと落ちて行ってしまった。
能田が何とか舟の進行方向を元に戻して中大橋の下へと向かう間、舟の上にはヤスカと三人の漕ぎ手が睨み合っている。船首を守る形で三人の漕ぎ手が櫂を持ち、船尾に立つヤスカは甲板に置いておいた自分の櫂を拾い、肩に担いで歩き出す。傾きがほぼ収まっていた舟の甲板に力強い足音が響き渡り、それに応じて能田を守ろうとしている三人の漕ぎ手がヤスカに襲いかかって来た。不安定な舟の上での闘いが始まろうとしている。
舟の真ん中辺りまで進んだヤスカはそこで両足をハの字の形になるように置き、姿勢を安定させた上で漕ぎ手たちを迎え撃った。一人目は我武者羅に突進してくる。ふらつきながらも何とか櫂を振り下ろしたが、それはヤスカも持っている櫂に防がれ、逆にそのまま押し切られて体勢を崩され、運河へと落下してしまう。二人目は一人目が舟から落ちた次の瞬間には突進してきていたが、その勢いを利用する形で襟首を掴まれてヤスカが更に前進するのに使われて突き飛ばされ、そのまま船尾へと突っ走って運河へと落ちていく。三人目に至っては二人目を利用する形で進んできたヤスカに近付かれないように慌てて櫂を振り回していたが、櫂を左に振ろうとしている間にヤスカが持っていた櫂の柄で腹を小突かれてそのまま運河へと投げ出されてしまう。こうして、ヤスカも元漕ぎ手ではあるものの、『若宝号』に乗り込んだ『担い隊』の漕ぎ手たちはその全員が舟の上から排除されたのだった。時間にして、二分にも満たない出来事だった。残ったのは能田、ただ一人だ。
ただ一人残ったことをハンドルを握っていたため知らない能田は、背後で一瞬繰り広げられた格闘がどうなったのかを確認するため、舟の進行方向を元に戻せたことによる一安心と共に声をかける。能田の中では、既に一矢は叩きのめされていた。複数人相手だし。
「よし、このまま進めば何とかなりそうだ……おい、お前たち。あの野郎は捕まえんただろうな? 後で隊長が直々に裁いてやるからなぁ?」
競舟を終えてから叛逆に失敗した一矢をどうしてやろうか、という悪趣味な期待に胸を膨らませつつ良い結果を求めて静かになった背後に声をかけたものの、能田の声に応える者はいなかった。皆疲れているのだろうか、しかし、隊長に返事をしないとは不誠実な。
「おい、誰もいないのか? 隊員たるもの、隊長に返事はしないと駄目だろうが!」
「いや、一人いるぞ。もっとも、お前が一番望んでいない相手だろうがな」
確かに、返事はあった。それはこの状況においては最も聞きたくない声だ。能田は振り向きたくても振り向けない。また舟を石垣にぶつけるのが嫌だから振り向かないのではない。振り向いてその声の主を確かめてしまえば、奴がこの舟にまだ乗っていることを認めなければならない。だからこそ、振り向けないのだ。しかし、現実は時にその向こう側からこちらの意思に関係なく突き付けられるものでもある。まず、ハンドルを握る能田の頭が掌で鷲掴みにされた。頭に五本の指が食い込み、頭皮が悲鳴を上げる。次に、能田の首が頭を鷲掴みしている手とは別の腕で締め上げられ始めた。呼吸が一気に苦しくなる。ハンドルを握る手の力が段々と抜けていく。視界も次第にぼやけてくる。
「やめろ、放せ……まだ進まないと、競舟を変えないと……」
「殺すつもりはない。大人しく手を放せ」
能田の耳元で、確かに一矢の声が聞こえた。これは現実だ。だが、一矢の声は今まで聞いたことがないくらいに冷たく、一切の感情を感じさせない。少しだけ感じる体の温もりが、辛うじて背後に立っている男が同じ人間であることを証明していた。同じ人間なら、まだ助かるかもしれない。追い詰められた能田は何の根拠もない可能性に縋り、息も絶え絶えになりながら口を動かす。一矢の良心に訴えかけるため、説得を試みたのだ。
「俺は、俺たちは……この街のためを思ってやってるんだぞ。それを何で邪魔するんだ。まさか、高島の代表に人質でも取られてるのか。それなら、俺たちは味方だ!」
「……こうしているのは、仕事だからだ。それ以上でもそれ以外でもない。無駄だよ」
説得は全く意味を為さなかった。能田の首を締め上げる力は更に強まり、寧ろ逆効果ですらあった。こうなると、能田は意識が完全に失われる前に一矢を倒す必要がある。つまり、この場において既に言葉が力を持つことはなく、残されたのは純粋な力、それも暴力による解決だけだった。それに能田にとってはその方が好ましいため、葛藤もなかった。
「……そうかい! そうなら、もう話すこともないな!」
腹に力を入れてそう叫ぶと、能田はハンドルから手を離して勢い良くヤスカごと後ろに飛んだ。まるで今まで対話を試みてきたような口振りだなと少し困惑しつつも、ヤスカは頭を守るために能田の首から腕を離して背中から甲板に倒れ込む。幸いにも受け身は間に合い、頭を打つようなことはなかった。仰け反りつつ立ち上がると、その隙を狙って能田が殴りかかってくるところだった。顔の上を通過する能田の左拳を避け、拳と繋がっている左腕を掴んで関節を決める。腕を捻じられた能田は激痛に耐えられずに顔を歪め、逆に隙を晒した。今度はヤスカがその隙を逃さず、能田の襟首と右腕を掴んで背負い込み、そのまま船尾の方へと投げ飛ばす。受け身は辛うじて間に合っていたようだが、背中から甲板に叩き付けられた能田は立ち上がることができず、うめき声を上げるだけだった。
「そこで大人しくしていろ……この舟をこのまま通らせるわけにはいかないからな」
ヤスカも流石に荒い息を吐いていた。こうも連続して格闘すると、肉体に蓄積した疲労は無視できない。早いところこの舟を停めてしまおう、そう呟きつつ船首の方を見た。
「フフフ……もう遅いよ、お前には、この舟を止められないさ」
そのとき、能田は何故か不気味に笑った。まさか、とヤスカが船首に取り付けられたハンドルやタッチパネルを確認すると、この『若宝号』は運転手もいないのに速度が落ちることもなく走り続けているのだった。よく見てみると、スロットルレバーが折られているのだ。これでは速度調整などできるはずもないし、舟は止まらない。このままではこの舟がどの舟よりも先に、西大橋の下を通って海に出てしまう。それは競舟の伝統に反することであり、仕事屋としては阻止しなければならない。恐らくスロットルレバーを折った張本人であろう能田は、背後で倒れ込んだままヤスカを嘲るように高らかに笑っていた。
「残念だったな、やはり競舟は変わるんだよ。俺が、俺たちが変えるんだ!」
ヤスカはそれに反応しなかった。たとえ速度が制御できなかろうとも、ハンドルをしっかりと握る。かなり重かった。少し回すだけでも一苦労だが、それでも右に切り始める。
「無駄だよ。もう止まらないって言っただろう! 何をそこまでするんだよ!」
「二度も言わせるな……それが仕事だからだ!」
珍しくことだが、自分に言い聞かせるように能田の叫びを遮る形でヤスカは叫んだ。ところが、その言葉は耳にした能田に予想外の影響を与える。消えかけていた怒りに火を着けたのだ。仕事だと。そんなこと、そんなことのために俺たちの夢を壊そうというのか。そんなこと、そんなことのために……。倒れ込んで冷え始めていた体に熱が戻り、立ち上がれないはずの足に力が入る。近いに転がっていた櫂を掴み、よろよろと立ち上がった。
次にヤスカが目にしたのは、目を血走らせながら櫂を振りかぶった能田の姿だった。
「その手を、その手を放しやがれえええ!」
能田が振り上げた櫂はそのままヤスカの頭上に振り下ろされた。叩き付けられた櫂の水刃が割れ、ヤスカの頭上で砕け散る。ハンドルを握っていたヤスカはその直撃を背後から喰らい、その場に倒れ込んだ。当然、頭部に加わった衝撃で意識は吹き飛んでしまう。
「気に入らねえ、その顔も態度も何もかも! お前のせいで何もかも台無しだ! ……何なんだ、何なんだお前は⁉︎……お前がいるから、お前が来たから!」
怒り狂った能田は甲板に転がったヤスカの背中を何度も蹴り続ける。今まで抱え込んできた一矢に対する不満や憎しみを全てぶち撒けるように、荒々しい蹴りが連続した。ヤスカの意識は衝撃から間もない頃には朦朧としていたが、定期的に訪れる痛みが完全なる気絶を許さない。能田のものなのか、それとも自分のものなのか判別がつかない荒い息が聞こえていたが、それとは別に、耳からではなく頭の中から声が聞こえてくる。
『結局こうなるのか。このヤスカを起こすなと言ってあったというのに』
ヤスカは答えられなかった。すると、頭の中の声は短い沈黙の後、勝手に結論付ける。
『そうか。そういうことなら、好きにさせてもらおうか』
誰にも聞こえないそんなやり取りの一方で、能田は動かなくなった一矢の背中を蹴るのにも疲れてハンドルを握ろうと船首に向かってよろよろと歩き始めていた。ところが、背後から突然拳が飛んできて左の頬にめり込み、そのまま振り抜かれて船尾へと回転しながら吹き飛ばされてしまう。頬を抑えながら見上げると、そこには結んでいた髪が解けて顔が良く見えない一矢が立っていた。前髪の間から覗く目の白と黒は反転しているように見えたが、それを気にする余裕もなく能田は恐怖と共に叫ぶ。困惑と怒りも混じっていた。
「何なんだ、何なんだお前は⁉︎」
「……語るほどのものでもないし、語ったとしても解るものではない。しかし、これだけは言わせてもらおう。彼は仕事屋だ、それ以上でもそれ以外でもない」
「答えになってないんだよ、この野郎!」
怒りに任せて能田は再び船首へと走り出すが、ヤスカが今度こそハンドルを右に切ったため、能田はとうとう運河へと投げ出されてしまった。特に派手な水飛沫を立てながら。
舟に一人残ったヤスカは舟の進行方向を運河の右に沿って通っている散策路に向け、そのまま進み続ける。やがて、舟は速度を落とさないまま散策路と運河を仕切る柵を押し壊し、その勢いで宙に浮かぶ。その日、久鶴では初めて舟が宙を飛んだのだった。飛んだ舟は逃げ惑う見物人を嘲笑いながら土手に突っ込み、ヤスカも無事に陸に降り立つ。騒ぎになるかと警戒したが、舟が飛んだ衝撃はすぐに運河に入ってきた七艘の舟に掻き消されていた。陣形を組んで競らない競舟は、何事もなかったかのように街に出迎えられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます