第三幕 その舟を漕ぐためには

 久鶴という街には既にその役目を終えた運河が流れており、それは市街地から浮島を抉り取るような形である。運河に流れる水は主に海から来ているものだが、運河には幾つかの川も流れ込んでいるため、その流れの向きを保つのに役立っているのだった。運河に流れ込むそういった川の一つの近くには運河公園というものが整備されており、市民に向けて開放されているのだった。特に土日は多くの人が利用するこの運河公園であるが、この日、一〇月四日の土曜日に関しては少し様子が違うようである。確かに公園に集まっている人の数は多いが、それも何と一〇〇人規模だったのだ。それも、幼稚園児や小学生といった公園で遊ぶような子どもたちではない。公園で遊ぶとはなかなか思えないような、ジャージ姿の男たちばかりだ。その中には『担い隊』の隊員たちの姿も見える。即ち、一矢も一見すると奇妙で、近寄り難いこの人集りを構成している一人であるのだった。

 見渡す限り、一矢の目にはこの人集りは主に五つの塊に別れているのが解る。三地会に集められた東、中央、西地域出身の若者たちのそれぞれからなる三つのグループ、四つの有志団体に所属する者たちからなるグループ、そして『担い隊』の隊員たちからなるグループ。更に言えば、この日にここに集まった者たちは、一矢を含めて皆が受験者なのだ。これだけの人数が集まっているのにも関わらず、話し声もあまり聞こえないのはこの場を包みつつある緊張感が原因だろう。これから始まることに対して、それを意識せざるを得ない雰囲気というものが出来上がりつつあるのだから。一矢としても彼らとは少し異なる種類の緊張を抱えていることは事実だが、それでもこの場の雰囲気を作り出すことに、無意識のうちに参加しているのかもしれなかった。恐らくその種類は問われないのだろう。

 こういった場合に率先して隊員たちに語りかけそうな隊長である能田も取り巻きたちと共に固まって動く様子はない。他の団体の目もあるし、あまり過激なことも言えまい。こちらとしてはそうやって静かにしているくれた方がありがたいのだが、このように静けさだけが続いていくと、午前九時の冷たい空気は益々その主張を強めてくるのだった。

 そうして薄手のジャージの上にダウンコートを羽織って何とか寒さを凌ぐ人集りが公園の広場を埋め尽くしていると、来たぞ、という誰かの鋭い声が聞こえてくる。それは公園の出入り口の方から聞こえてきたもので、その方を向くと一矢を含めた彼らをここに集めた者たちが姿を現しているところだった。あっさりと、その者たちは公園に入ってくる。

 彼らは『外輪組』と書かれた白い腕輪を分厚そうな上着の袖に嵌めた、五人ほどの男たちだった。そのうちの一人は拡声器を手袋をした手を持っている。彼らが『外輪組』の組員であることは明らかだったが、その中に高島や端山、それとあの手宮の姿はない。では誰なのか、という疑問に答えるかのように拡声器を持った組員の一人が一番前に進み出、その拡声器を口の前に持ってきて人集りに向けてよく通る声で語り始めた。

「えー、試験の監督を務める『外輪組』の円際です。本日お集まりいただいた皆さんには例年通り二つの試験を受けていただくことになっておりますが、今年は受験者多数でございますので、まずは一つはっきりさせておきたいと思います」

 いかにもやる気のなさそうな、気だるい様子で円際と名乗ったその男は受験者たちに呼びかける。その様子に集まった受験者たちが騒ぐこともなかったが、『担い隊』の隊員たちはその怠惰へと厳しい視線を向けた。その敵意が植え付けられたものであるとも知らずに、操られるがままに操られる隊員たち。その彼らに向けて一矢は厳しい視線を向けていたが、円際も能田を含めた隊員たちも、そのことには気付いていないようだった。静まり返る受験者たちを気にすることなく、円際は話すべきことだけを淡々と口にしていく。

「こう申しますのは、受験される方々のうち、毎年参加されておられる四つの有志団体の漕ぎ手として認められるために受験なされる四〇名の方々は、残りの一三〇名の方々と異なり、漕ぎ手の枠を争われる必要がないからです。残りの一三〇名の方々は、四艘の舟の漕ぎ手、即ち一艘一〇人ずつの枠を試験の結果によって争うことになりますが、有志団体の方々は最初から四艘の漕ぎ手である四〇人が受験されるため、このような違いが生まれているのです……つまり、同じ受験者であってもその立場は異なるということです」

 そこで、一矢は話を聞きながら前日に配られたパンフレットをジャージのポケットから取り出した。小さく折り畳まれたそれを広げると、今日これから行われる試験の内容と、そもそもこの試験を何故受けなければならないのかといった詳細が記されたページが飛び込んでくる。一度は目を通したものの、円際の話を聞いているうちにこちらを見た方が早いと思ったからこその行動だった。そこ書いてある内容をかいつまんで読むとこうなる。

「三地会が管理する昔から競舟に参加している三艘の舟の漕ぎ手になれるのは一艘一〇人ずつで、合計三〇人。各舟の船頭は過去に漕ぎ手を務めた経験があるベテラン二人が担当する。市内出身の若者は漕ぎ手に立候補した後、地域ごとの一〇人の枠に選ばれるために体力や舟の漕ぎ方を審査する試験を受けなければならない。尚、この試験は市外の有志団体の舟の漕ぎ手として競舟に参加する者たちも受けなければならないが、これは本番において事故が起こるのを防ぐためである……なるほど、『担い隊』も例外ではないわけだ」

 声に出さずに頭の中で内容を整理した一矢は、再び頭を上げて円際の話に耳を傾けた。

「……要するにですね、今回こちらで用意させていただいているゼッケンの一番から四〇番は、有志団体の四〇人の方々にお配りして他の方々との差別化を図るということになります。特に一つ目の試験では、その順位をゼッケンによって判別いたしますので」

 まだ長々と話を円際は続けていたが、受験者たちはその話が上手く飲み込めていないらしかった。『担い隊』の隊員の一部は単純に理解力が不足していることも否めないが、原因の大半は円際の話し方が回りくどいことにある。一矢でさえ、一度パンフレットを見て何を言っているのか確認する必要があったほどなのだから。そのためか、円際が話し始める前には見られなかったことだが、同じグループの中では近くに立っている仲間と顔を見合わせて小声で話したりと、徐々に騒めきが広がっていく。それに連れて、円際の方も話している自分に視線が集まるようにと益々必死に語り続けるのだった。

「と言うのも、有志団体の皆様はそれぞれの舟の漕ぎ手として一〇人ずつが受験されますので、今回試験を受けられる方々は棄権でもされない限りは漕ぎ手として競舟に出ることが認められますが、他の舟ではそうは参りません。三地会の三艘の舟では一艘あたり三倍の受験者が、『担い隊』の舟では四倍の受験者が枠を競うことになるわけですから……」

 そこまで語られると、ようやく一部の受験者たちに厳しい現実が突き付けられた。微妙な空気が流れ、騒めきは好ましくない形で静まってしまう。それもそのはずである。自分たちとは異なり、受験するだけで自動的に漕ぎ手になれる者たちが同じ場にいるのだから。三地会の漕ぎ手や『担い隊』の漕ぎ手を目指す者たちからすれば、これほど納得し難いこともあるまい。かと言って自分たちが漕ぎ手として選ばれる可能性のある舟はそれぞれで決まっており、限られた枠を争わなければならないことに変わりはないというもどかしさも捨てきれないのだ。皮肉にもそこだけが、三地会の漕ぎ手を目指す資格がある市内出身の若者たちと、『担い隊』を立ち上げることでしか競舟に関われなかった市外出身の若者たちとに共通している部分であった。それは何の慰めにも和解にもならないのだが。

 そうした空気が流れることにも気付いていない様子の円際は、分厚そうな上着の袖を捲って時間だけを気にしている素振りを見せている。彼の関心はこの試験を予定通りに進めることしかないようだった。実際、円際は受験者たちに特に配慮示すこともなく、一つ目の試験のための準備を始めるために、凄まじい勢いで話題を切り替えたのだから。

「えー、それでは試験を受ける際の受験番号を兼ねたゼッケンをお配りします。他の方のものと取り替えたりすると失格となりますので、取り扱いにはご注意ください」

 ゼッケンを紛失しても再配布はいたしませんので、と付け加えた円際は試験を進める上で手間のかかることはしませんよ、と示すかのようにそう冷たく言い放つ。それに対して異を唱える者はいなかった。ゼッケンをもらえなければ試験を受けられないからだ。

 特に大きな混乱が起きるというわけでもなく、受験者たちを分けるそれぞれの団体やグループを代表した八人が円際へと近付いた。そのうちの一人が『担い隊』の能田であり、試験を受ける隊員、四〇人分のゼッケンを両手に持って帰ってくる。幾つかに分けられたその積み重なったゼッケンを取り巻きたちが受け取り、隊員たちへと配っていく。ここでようやく、声を出しても問題ないような雰囲気を感じ取ったらしい能田が声を出した。

「お前たち、よく聞け。このゼッケンを着けたやつの四人に一人が我らが『若宝号』の漕ぎ手になれるんだ。誰が選ばれても恨みっこはなしだからな!」

 熱烈な隊員たちはおおっ、とその呼びかけに応えて拳を突き上げる。その騒ぎの中、一矢は受け取ったゼッケンの番号を静かに確認していた。一三一番だ。有志団体の受験者たちの四〇人に与えられた番号が一番から四〇番、三地会の九〇人に与えられた番号が四一番から一三〇番、そして『担い隊』の四〇人に与えられた番号が一三一番から一七〇番。つまり、一矢が適当に受け取ったゼッケンは『担い隊』の隊員たちが着けるゼッケンの中で一番先頭ということになる。これが幸か不幸かは、試験が終わってみないと解らないだろう。まあ、どっちにしても番号云々でそれほど影響を受けるとも思えないのだが。

「よし、これより我々はゼッケンの番号ごとに整列しようではないか。『担い隊』が一丸となって試験という名のこの試練を乗り越える姿を見せつけてやるのだ!」

「そうだそうだ!」「三地会の連中に負けてたまるか!」

 隊長である能田の鼓舞に踊らされた隊員たちは、昨日の集会の時のように口々に叫んで収まる様子が見えなくなってきた。当然、周りの目も厳しくなる。ここまであからさまに騒ぎ始めると、流石の円際も見過ごせないるようだった。事が予定通りに進むことを何よりも好むと見えるこの男は、拡声器を口に近付けて『担い隊』への注意を発する。

「静粛に。静粛に願います。これからまた指示を出しますので……」

「誰が黙るものか!」「俺たち『担い隊』を認めないつもりか!」「そっちこそ黙れ!」

 円際の注意が終わるよりも前に、植え付けられた敵意を増幅させられた隊員たちの一部が負けじと言い返す。これは三地会の漕ぎ手になるためにやってきた若者たちや、有志団体の者たちにとっては驚きだった。自分たちが競舟に出るために受けなければならない試験を開催してくれている『外輪組』の組員たちに対して口答えをするなど、考えられないことだからだ。しかし、『担い隊』にとっての『外輪組』は自分たちの参加を認めようとしなかった変わるべき古い組織でしかない。そうしたものに払う敬意や対する態度などを持ち合わせているはずもなかった。たとえここで競舟に参加する資格を失っても、より過激な手段に訴える覚悟を持っている彼らにとって、そうしたものは必要ですらなかったのだ。それを躊躇なく露わにできる精神性に関しては、それもまた問題ではと思うのだが。

 そんなことを頭に浮かべつつ、熱を帯び始めた隊員たちの中にあってただ一人、一矢は口を開かずに目の前の状況を見守っていた。何か口出しをするべきかとも考えたが、今ここで隊員たちを諌めでもすればそれは『担い隊』そのものへの反抗として捉えられかねない。とは言え、このまま放っておけば他の団体との関係が拗れるだけだろう。全く、厄介な立場になってしまったものだ。こういった配慮をしつつ、状況を見極めなければならないのだから。迂闊に行動すればそれが命取りになる、ここはそういった戦場なのである。

「『担い隊』の皆さん、落ち着いて話を聞いてください。お静かにしてくださいませんとこれからお話しすることが、他の受験者の方々にも聞こえませんので……」

「俺たちの話を聞こうともしなかったくせに!」「黙らせる気か!」

 円際も何とか話を進めようとしているようだが、その一言一句に隊員たちが噛み付くという事態に公園は陥り始めている。円際の注意に対して最初に言い返した時には怒りを込めた勢いを感じさせる口調の言葉が多かったが、それも段々と変化していた。円際が言われるがままで強く注意しないため、それに乗じてどんなに言い返しても大丈夫だと不安定な安全に味を占めたのだろう。怒りよりも嘲りを感じさせる口調での野次が増えている。

 ここで騒いでいる『担い隊』の隊員たちの受験資格を円際としても取り上げたいところであろうが、その権限は外輪組の代表のものだ。そもそも試験を受けられなければ競舟に参加する資格も失うことになるため、競舟に参加できなくなった『担い隊』が何をしでかすのかと怯えなければならなくなってしまうことになりかねない。それを解った上で野次を飛ばしている隊員たちも厄介なものだが、更に厄介なのは話が進まないことでもある。

 仕方がないからそろそろ静かにするように口を出そうかと一矢は小さく息を吸ったが、そうして出そうとしていた声はまた別の誰かが発した声によって直前で封じられた。

「やれやれ。『担い隊』の人たちというのはこんなにも質が低いのですか。こんな人たちと一緒に試験を受けることになるなんて、邪魔でもされないか心配ですよ。できることなら、この人たちだけ試験の時間をずらしてもらえませんかね?」

 その声は円際のものでも能田のものでも、ましてや一矢のものでもない。『担い隊』の隊員たちや、その中でも能田の取り巻きたちがこんなことを言い出すはずがなかった。その声は三地会の漕ぎ手になるために集まった若者たちの方から聞こえてきたのだ。当然、その声が聞こえた方向に視線が集まり、その視線の先にその発声者がいることになる。

「誰だ、今『担い隊』の隊員たちを虚仮にしやがったのは。出てきやがれ!」

 『担い隊』の隊員たちに対する苦言を聞き逃すわけがない能田はすかさずそう吠えて隊員たちが三地会の若者たちへと殴りかかるのを静止したが、その本人も敵意を剥き出しにしているのであまり意味はないように見えた。実際、能田も睨み付けているのだから。

「出てこいと言われましても……果し合いをするわけでもないのに大袈裟なことで。まあ、お望みとあらば名乗り出ますが。そちらの望みを叶えるのも癪ですがね」

 嫌味を全面に押し出した口調でその声の主は能田たちの前に姿を現す。その姿を見た三地会の若者たちと『担い隊』の隊員たちは、それぞれ違う意味で驚きの声を上げた。その声の主は背が高く、顔も整った非の打ち所がない好青年であったのだが、それに対してまず三地会の若者たちは喜びと驚きが入り混じった反応を示したのだった。

「あの背の高いのは、もしかすると林か?」「林? 今回の受験者中で最も足が速いと言われている、あの林か!」「林がいる以上、枠の一つは既に決まったようなものだな」

 どうやらこの林という青年はこの街で生まれ育った若者たちの間ではよく知られている優秀な人物であるらしく、その反応からも期待されていることがよく解る。このように三地会の若者たちは口々にその名を口にしたが、一方で『担い隊』の隊員たちの反応は対照的だった。つい先程まであれほど野次を飛ばしていたというのに、林がその姿を人集りの中から現した途端に、示し合わせたかのように口を閉じてしまっている。それは、圧倒的な格差を見せつけられたからでもあるだろう。それもそのはず、目の前に現れた林は恐らく身長は一九〇センチメートルほど、それでいて引き締まった肉体を持っているのだ。放たれる威圧感の前には、その威勢だけの口を開こうとは思うまい。それは隊長である能田にとっても同じことのように見えたが、能田だけはそれでも三地会の期待の星に立ち向かう気概を捨てていないようだった。林は『担い隊』と、その隊員たちを貶したのだから。

「どうも、隊長さん。僕は伝統ある三地会の舟の漕ぎ手になるために試験を受けるためにここに来た林と言います。あなたも隊長さんなら、少しは隊員さんたちが静かに話を聞くように、手綱を握ってもらいたいと思って声をかけさせていただいたのですが……僕が言いたいのはそれだけです。それくらいのことは、隊長さんならできますよね?」

 悪びれる様子もなく、逆に言い返せるものなら言い返してみろと言わんばかりに堂々とした態度で林は穏やかに微笑んだ。その笑みは決して歩み寄る類のものではない。手綱も握れないのなら帰れ、という口に出さない脅しを込めた圧をひしひしと感じさせている。

「林くん、と言ったかね。残念なことだが、そんなことを君に言われる筋合いはないし、何より隊員たちが隊長に忠誠を誓ってくれているのも疑いはないことだ。人の心配をするより、これから試験を受ける自分の心配をするべきだと思うがね」

「……未だに信じられませんよ。あなたたちみたいな人たちが、競舟への参加を認められたことがね。全く、どんな汚い手を使ったのやら」

 あからさまに『担い隊』を見下した林が三地会の若者たちの一人であるということもあり、能田を含めた隊員たちは一瞬のうちに敵意の対象を見定める。林という嫌味な男だ。

 能田を含めた隊員たちは、じりじりと三地会の若者たちの方へと近寄り出した。それに一矢が付いて行くことはしなかったが、その大半は握り拳に力を込めてそれを叩き付ける準備を始めている。それに対して三地会の若者たちも林を守るかのように立ち向かい、二つの塊は異様な緊張感に包まれて行った。これには円際も慌てて拡声器から呼びかけ、乱闘を止めようとする。拡声器から放たれた声にもその動揺が現れていた。

「止まれ、止まるんだ、止まりなさい。一人でも怪我人が出たら、その時点でその人が所属する団体の受験は認めません。たとえ代表の高島さんが許したとしても、この場を取り仕切る私が許しません!」「引っ込んでろ!」「許せないのはこいつらの方だ!」

 しかし、それでも二つの塊は近付き続ける。その先端を進む若者同士の足と足が触れ合い、互いに小突くなど既に接触が始まっていた。そのうち二つの塊のうちのどちらかの誰かが突き飛ばされ、相手側に殴り掛かろうと立ち上がる。もう塊全体を巻き込んだ乱闘はいつ起きてもおかしくない。そして、その突き飛ばされた誰かがいよいよ殴り掛かろうとしたその時だった。バァン、という空気が揺れるほどの凄まじい音の波が公園を駆け巡ってその場は静まり返る。その音が聞こえてきた方を振り向くと、それは拡声器を持った円際だった。片手に拡声器、もう片方には空にその銃口を向けた号砲が握られている。火薬の香りを漂わせる煙が流れて行ったことから、既に一発が放たれたことも明らかだった。

「今すぐ大人しくしてください。このまま騒ぎ続けるようなら、三地会の漕ぎ手になるために集まった方々であろうとも試験を受けることは許しませんよ……良いですね⁉︎」

 号砲を片手で放った円際と、その後ろで受験者たちを睨みつける組員たちを前にして、野次を飛ばす者や抗議する者はもういなかった。二つの塊を構成するそれぞれの者たちは互いに目を合わせないようにしつつ、ゆっくりと離れて行く。試験を監督する立場である円際は始めてその優位性を発揮してその場を収めたのだった。勿論それで三地会の若者たちと『担い隊』の隊員たちの間で露わになった確執がなくなったわけでもないが、どちらの立場であろうともこれ以上円際の言葉を無視することはできない。自分たちだけが競舟に参加できなくなれば、相手にそれを笑われてしまうからだ。それだけは避けなければならなかった。これ以降再び受験者たちは緊張感に包まれ、静かに円際の話に耳を傾けることになる。その緊張感はこれまでの試験に対するものの他に、下手に動けば受験を認められなくなるかもしれないというものも加わっていたのだった。更に、三地会の若者たちと『担い隊』の隊員たちの間には、試験で相手にだけは負けたくないという競争心が生まれている。これは本来自分自身が属する団体の中で生まれるものであるはずが、今では自分自身が属する団体とはまた別の団体に向けられてしまっていた。それが試験を受ける者として健全な心構えかと言われれば、それは少し違うのではないかと言わざるを得ないが。

 円際の説明が一通り済んだ後、公園に集まっていた受験者たちはその円際と組員たちを先頭にやや狭い河川敷をぞろぞろと列になって歩いて行く。公園の近くにあるその河川敷は川に沿うようになっており、その両端に雑草が生い茂る砂利道が整備されていた。その砂利道を一行が進むと引っ切り無しに砂利を踏む音が聞こえ、緩やかな風が右斜め後ろから吹きつけて辺りの背の高い雑草を揺らして騒めきを起こしている。一矢もその列の中で歩いていたわけであるが、後ろから聞こえる砂利の音が激しくなって振り向くと後ろから他の隊員たちを押し退けて能田とその取り巻きたちがやって来るのが見えた。隊長たるもの隊員たちの列の先頭を務めるべしとでも言い出すのかと思ったが、そうではないようだった。能田とその取り巻きたちは一矢が歩いているところまで来ると、それ以上進もうとはしなかったのだから。明らかに、一矢に何か用があるとしか思えなかった。それでもこちらから話しかけるともあるまい、と前を向いて隣に並んだ能田の方を見ないようにしていると、能田の方から少し機嫌が良くなさそうな様子の声が飛んでくる。林に貶されたのが余程許せなかったと見える。あんなものは、言いたいだけ言わせておけば良いものを。

「おい、隊長であるこの俺を無視するつもりか。良い度胸だな?」

 必要のない面倒事を避けるため、気乗りしないままゆっくりと一矢は右を向く。そうすれば能田の姿が視界に飛び込んでくるわけだが、林と比べると何と見劣りすることか。林のように自信に満ち溢れた様子はなく、ただひたすらに自分と『担い隊』の存在を主張するために喚くだけの軽い神輿がそこにいる。口の端から軽い笑みが溢れるのを堪えつつ、平静を装って返事をすることに集中しなければ笑ってしまっていただろう。残酷な差を目の当たりにした時に怒りよりも先に乾いた笑みが出るとは、こういうことなのだろうか。

「どうしたんだ、隊長。わざわざのお越しには感謝を示したいところだが、何かこの一矢に言いたいことでもあるというのかい?」

「ああ、そうさ。前にも言ったことだが、いくら代表がお前を推薦してこの隊に入れたからといって漕ぎ手になれるとは限らないのはこういうわけなのさ。これから始まる試験でこの四〇人のうち、漕ぎ手に選ばれるのは一〇人だけだから、早い話が上位一〇人の枠を争うってことだ……お互いにその一〇人の枠に入れることを祈ろうじゃないか」

 やけに親切に、そして長々と能田はこれから始まる試験において『担い隊』の中で繰り広げられるであろう漕ぎ手の枠の奪い合いについて語った。その口ぶりからは林との対峙で抱え込んだはずの苛立ちは感じ取れず、一矢は今ここで話しかけてきたその真意を改めて尋ねることに決める。表面だけの馴れ合いに付き合うつもりはなかったからだった。

「それで? 結局何が言いたいんだ。簡潔に述べてもらいたいものだな」

「……仮に漕ぎ手に選ばれなかったからって、代表に文句でも言ったら承知しないぞ」

 能田は念を押すかのように、低い声でそう告げる。それを聞いた一矢はすぐにそれに対して言い返すことはしなかったが、それは返答に詰まったからではない。ただ単に、なんだかそんなことかと呆れてしまったからだった。そもそも選ばれないという選択肢はないというのに、選ばれなかった時のことを考えてどうするのだ。そんなことを考えているようでは、選ばれるかどうかに関して不安を抱えていると自ら暴露しているようなものではないのか。そうも考えたが、能田にとっては不安なのだろうと自分自身を納得させる。

 隣に並んで歩いている能田とその取り巻きたちを見てみるのだが、その目に映った者たちの姿はその納得をより確かなものにするのだった。鼻や口、それに耳などにピアスをした能田の取り巻きたちはその主と同じようにニヤニヤと憎たらしい笑みを浮かべているのだが、どうしてもそこにある不自然さを隠せてはいなかった。結局、人を馬鹿にするよりも前に緊張から抜け出せていないのである。無理に笑っているその姿は笑えるものではあるが、当の本人たちは笑みから最も遠い状態にあるのだ。これはなかなかに悲しいことだが、それをどうにか解消してやろうという気が起きるはずもなかった。

 『担い隊』を認めようとしなかった高島の推薦で入隊したこの一矢を快く思っていないからこそニヤニヤとしているのだろうが、それは一矢にとっても同じことだった。手のひらの上で踊らされて『担い隊』を立ち上げた能田に付いていく見る目のなさを自ら晒し続けている取り巻きたちの醜態ほど見ていて不愉快なものもないし、差し伸べる手もない。

「なんだ、わざわざそんなことを言いに来たのか。それよりも自分たちが漕ぎ手になれるかどうかを心配するべきだと思うがね。隊長が舟に乗れないんじゃ、格好もつかないぞ」

「俺たちは毎日港で鍛えているからな。その心配は必要ないっていうものさ。それに万一漕ぎ手に選ばれなくても、舟に乗る方法が俺にはあるんだからな」

 隊長としてまさか漕ぎ手に選ばれずに舟に乗れないことはないだろうな、という煽りを込めた一矢の疑問に能田とその取り巻きたちは気付かなかった。それどころか、漕ぎ手に選ばれなかった場合のことを話し始める始末だ。そこで一矢は気付く。彼らには植え付けられた敵意と目的はあれど、熱意だけが暴走して所々危機感が足りていない。そこに付け入る隙があると考えても良いだろうが、それが競舟に与える影響を考えると対処を間違えると取り返しのつかない結果を招きかねないだろう。恐ろしいものだ。今隣で取り巻きたちと共に、この一矢が漕ぎ手になれなかった時のことを話して笑っている連中が競舟の伝統を壊しかねないとは。彼らは自身が思うのとは異なる形で、この街の未来を握っているのかもしれなかった。少なくとも、未来を担う者たちではないことは確かであるのだが。

 そう考えつつ砂利道を進んで行くと、河川敷から歩道に出て行き先が見えてくる。

「くだらない話はそこまでだ、隊長。もうすぐ最初の試験の会場に着くらしいぞ」

 公園から歩き出した一行が到着したのは、東大橋の市街地側の近くから始まる運河沿いの散策路に繋がる階段の前だった。そこで一度列は止まり、その姿が全く見えない前の方から円際の声が聞こえてくる。またしても拡声器を用いて呼びかけているようだった。

「まもなく一次試験の会場に到着いたします。ゼッケンの番号順に二列に並んで階段を降りてください。また、降りる際は前の人との間隔を空けてください。この人数ですから、誰か一人でも階段で転倒すれば将棋倒しになりますので」

 それまで一矢と能田のように、好き勝手に話しながらここまで歩いてきた受験者たちはその一言を聞いた途端に話すのを止める。かなり形が乱れ、ゼッケンの番号などは気にもしていなかった列が粛々と並び直すのにも、そう長い時間はかからなかった。いよいよ一次試験が始まるという緊張感と、階段で誰か一人が転んでしまえば大惨事になることを理解したからでもある。そのため、驚くほど素直に受験者たちは言われた通りに階段を降りて行った。その階段を降りた先が運河沿いの石畳の散策路であり、試験の会場なのだ。

「えー、受験者の方々はよくお聞きください。これより漕ぎ手の選抜を兼ねた本試験の一つである一次試験……一〇キロメートル持久走を行います!」

 散策路の両脇に旗が置かれている持久走の起点並びに終点に、受験者たちは整列している。石畳の散策路とそれに沿って通る道路との間に広がる芝生が張られた土手には地元の子どもたちとその親や、三地会を構成する三つの団体の旗を振る応援団が集まっていた。

「この持久走は散策路から西大橋へ向かい、浮島へと渡ってそのまま島を通り抜けて東大橋を向かい、またこの散策路に戻ってくるのを一周として、五周するものであります! 本日は地元の方々や応援団も受験者の方々を応援するために集まっておりますので、最後まで諦めずに走り抜けることを期待しております。頑張ってください!」

 円際が一際大きな声を拡声器に乗せて飛ばすと、土手に集まったその見物客たちから拍手が降り注ぐ。応援団の太鼓の音も響き始めた。テンテケテン、タンタカタンと小刻みに響く音と共に三地会の旗も空に舞う。あくまでもこの応援は、三地会の舟の漕ぎ手になるために試験を受ける九〇名に向けてのものだった。『担い隊』への応援はないし、そもそも土手の彼らには『担い隊』の隊員たちは映っていないのだろう。まぁそういうものだ、と割り切って一矢は特に変わった様子もなく静かに流れている運河の方を眺める。その方が『担い隊』としても都合が良いかもしれないとも考えられたが、能田の声でその思考は中断された。振り向くと、能田は応援団や地元の人を指さして隊員たちに語っている。

「いいか、お前たち。三地会のやつらへの応援なんて気にするなよ。あれは俺たちの熱意を挫こうとする嫌がらせだ。それに、応援なんかなくても俺たちのうちの一〇人は競舟に出られるし、その本番で注目を浴びるのは俺たちの方なんだからな!」

 共通の敵を作って団結を高める手法を使った能田の言葉は一矢には意味のないものに聞こえたが、隊員たちはそれに応えて拳を突き上げるばかりだ。受験者たちが作る列の後ろが異様な雰囲気に包まれるが、それを気にするものは一矢以外にはいないようだった。

「えー、現在午前一〇時三〇分です。四〇分から一次試験を始めますので、受験者の方々は各自で準備をお願いします」

 受験者たちを散策路に誘導したことで満足したのか、円際やその他の組員が『担い隊』が騒いでいるのに対して注意する様子も見せなかった。それを良いことに能田は後ろから隊員たちを鼓舞し続ける。同じことを何度も繰り返し口にするその姿は、まるで隊員たちにやる気を植え付けているかのようにも見えた。敵意を植え付けられた者が、他の者にも敵意を植え付けようとしているとすれば、それは蔓延というより増殖、または増幅と言うべきなのだろうか。どちらにせよ、聞いてて心地良いものではないことだけは確かだが。

 借り物の言葉を並べ立てただけの実のない言葉を何度も耳にすることに辟易した一矢は一次試験に向けて熱を帯びていく隊員たちから背を向け、本来向くべき方向を見て膝の屈伸を始める。これから走り始めるのだから、するべきは喧しい人間スピーカーが垂れ流す騒音に耳を傾けることではなく、体を暖めて運動に備えることだろう。少なくとも、この一次試験で結果を出そうと思っているならそうするべきである。一矢は漕ぎ手に選ばれるためには、一次試験が山場であると考えていたのだ。二次試験の内容から考えても、この一次試験で自身が属する団体の中で上位一〇人を維持して走り切らなければ、漕ぎ手に選ばれる可能性は限りなく低くなる。二次試験でどれだけ挽回したとしても、最終的な判断材料には一次試験の結果も含まれるのだから、一次試験で良い結果を残さないことには相当不利になってしまうのは確実……念の為、走る際には『担い隊』の中でのトップを目指すべきか。いや、それでは目立ち過ぎる可能性もあるので二着または三着を狙うべきか。

 一三一番のゼッケンを着けた一矢はその番号の都合上、『担い隊』の隊員たちと三地会の若者たちとの丁度境目に立っている。言い換えれば、列に並んでいる『担い隊』の隊員たちの最前列に位置しているのだ。持久走が始まってからすぐに隊員たちの先頭を走るべきか、それとも後から追い上げる振りをして最終的に先頭を走るか、いざ走るとなるとどう走るべきかも考えなければならない。頭と体を両方使うのは慣れているつもりだったがいざこうやって持久走という種目に挑むとなると話は別だった。そうして頭をぐるぐると回しつつ膝を屈伸したり、背伸びして準備を進めていると、少し広い目を持てるようになったらしく、前に大勢立っている三地会の若者たちの姿が目に入ってきた。能田のように敵視しているわけではないので、この街に生まれ育った若者たちに対する敵意も持ち合わせていない。ところが、その中でも目の前に立っている塊が一矢の目に留まった。

 と言うのも、この試験に参加している者たちはその所属団体を問わず大半が男だったのだが、目の前に立っている六、七人は何と珍しいことに高校生らしき少女たちだったのだから。よくよく考えてみると、これは奇妙なことである。その少女たちは、全員が高校の指定らしき同じ深緑色のジャージの上下を着ていた。袖と足にそれぞれ二本の白い線が入ったジャージだ。『担い隊』の方などは気にする様子もなく、親しげに話している様子から察するに、同じクラスか部活の仲間であろう。自分自身は体験したことのない関係性を目の当たりにした一矢は一瞬迫り来る一次試験のことを忘れかけたが、すぐに現実を思い出して靴紐を結び直そうと屈む。地面と顔が近付いた。この場合は石畳と言うべきだが。

 すると、今まで視界の外に追いやられていた足元の近くに、花柄のハンカチが落ちているのに気付く。それを拾うか拾わないか少し迷ったが、これから一次試験が始まると無数の足に踏まれてしまうと思い、これは仕方のないことだと言い聞かせつつ手を伸ばす。こんな綺麗なハンカチを『担い隊』の隊員たちが持っているはずがないと思い、気乗りしないまま、恐る恐る目の前に立っている少女たちへと声をかける。無害を装いながら。

「……すみません。ハンカチを落としませんでしたか」

 できるだけ驚かさないように、それと隊員たちに気付かれないように静かに一矢は団体の垣根を越えて話しかけた。その声を聞いた少女たちは勢い良く振り向くが、その声の主があの『担い隊』の隊員であると解った途端、酷く冷たい目を向けてくる。『担い隊』の隊員への対応としては何も間違ってはいないのだが、一矢はこの時だけは自分がこの隊に入ったことをほんの少しだけ後悔した。『担い隊』に隊員として所属する者がどのような偏見を持たれるか、これでようやく味わうことができた気もする。自分が置かれている現状を理解するのに、これほど良い方法もなかった。それも、笑いたくなるほどにである。

「あ、それ私のかも……」

 ところが、一矢が冷たい視線を頭から足まで余すところなく浴びていると少女たちのうちの一人が小さくそう呟いた。その少女は顎よりも短く切り揃えられた黒い髪に、左耳の後ろで青いスリーピンを留めている。ハンカチの持ち主らしきその少女は冷たい視線を止めて一矢の方へと歩み寄り、跪いた一矢の右手の親指と人差し指でつまんで差し出されたハンカチを受け取った。少女は一矢の顔を見た後で下を向いてハンカチを確認し、ニコリと微笑んでそれをジャージのポケットに閉まう。一矢はそれを黙って見ているのだった。

「あ、ありがとうございます……わざわざ、ご丁寧に」

 ハンカチを落とした少女の後ろでその一部始終を見ていた少女たちも一矢に軽く頭を下げた。ハンカチを落とした少女も何度も頭を下げて列へと戻っていく。一矢は再び靴紐を結び直そうとまた下を向いたため、少女がまた一矢を見ていることには気付かなかった。

 午前一〇時四〇分という決められた時間が近付くにつれ、受験者たちの間には張り詰めた空気が広がっていた。話し声もすっかり聞こえなくなり、太鼓の音もいつの間にか止んでいる。『担い隊』に向けてのものではないだろうが、これは恐らく配慮だろう。一矢を含めた受験者たちの視線は試験を運営する側である円際たちに集中していた。土手に設置された小さな屋根付きのステージに円際が出てきた。左腕に取り付けた腕時計を頻繁に確認し、なるべく時間通りに始められるように気を遣っているらしい。その隣には組員であろう禿頭も立っており、そのごつごつとした手には号砲が握られている。残り一分を切るといよいよ散策路や土手は静まり返り、その沈黙を破る銃声を待ち侘びつつも緊張、を伴う持久走を始めたくないという葛藤が支配する空気が出来上がりつつあった。

 視線はステージの上に立つ二人の男に集中していたが、やがて号砲が空へと向けられたときに受験者たちの視線は一斉に前を向く。そう、目の前に続いていく散策路へと。もう誰も見向きもせず、放たれる音だけを求められているステージに立つ円際は手を上げた。そして、振り下ろす。引金が引かれる。燃焼と爆発によって生じた音が響き渡り、煙が上がった。煙と共に号砲は撃ち鳴らされ、遂に一次試験の火蓋が切って落とされたのだ。

 応援団の太鼓が復活し、声援が加わって走り出した受験者たち、実際はその一部を見送る。列の先頭である有志団体の漕ぎ手である四〇人に三地会の漕ぎ手の候補である九〇人が続き、その後を一矢や能田を『担い隊』の漕ぎ手の候補である四〇人が追って行く。一七〇人が並んだ列は一斉に走り出すというわけにもいかない。先頭が走り始めてから最後尾が走り出すまでには時間の差があるため、一矢は目の前に並んでいる少女たちが走り出したことで、一歩、二歩と足を動かし始めた。自分たちに向けられているわけではない声援を浴びながら走ると、それから逃げるような気分になる。事実、一矢が先頭を務めている『担い隊』の四〇人が走り始めた頃には、明らかに声援の量は減っていた。それもそのはず、応援団や地元の人々が応援しているのは『担い隊』ではないのだから。列全体の先頭を務めた有志団体の漕ぎ手たちでさえ応援を受けていたが、それすらないのだ。それを解った上で走らなければならないのだが、一矢はそのことを気にするつもりはなかった。

 受験者たちは約一.一キロメートルの散策路を走って行く。最初のうちは走り始めた頃と変わらない列を作っている。やがて、それは縦に長く伸びて行った。先頭と最後尾は走り始めた頃から差があるのは当然のことだが、一矢が立てた幾つかの予想ではその差は縮まって列は段々と密集するものだと考えていたが、そうはならなかった。手と足を振って石畳を蹴って進んでいく速度自体は先頭と大差ないはずだが、問題はこの列がどう崩れていくかだ。今の段階で隊員たちの中で先頭を走っているのはこの一矢だが、前に出てくる者がいるのかどうか、そこも見極めていかなければならない。一矢は口で軽く息を吐いた。

 こうして始まった一次試験の一〇キロメートル持久走であるが、最初の二周は列の順番に大きな変化はなかった。一矢も呼吸を整えながら徐々に速度を増していく受験者たちの列に付いて行ったが、この列の先頭は三周目に入ると大きく動いたのだった。三周目に入ってまた西大橋を渡って浮島に上陸すると、列はその形をどんどん崩していく。三地会の漕ぎ手の候補である若者たちのうち、二〇人ほどが一気に有志団体の四〇人を追い越して先頭に躍り出たのだ。その遥か後ろで走り、橋を渡っていた一矢はあの林がその若者たちを率いている後ろ姿を見る。その遠い背中を追う気はなかったが、その一方で『担い隊』の隊長やその取り巻きたちの有様といったら、それはもう比べられたものではなかった。

 林を中心とした体力に自信があるのであろう若者たちが形成する先頭集団に釣られ、その集団に付いて行こうとする若者たちや、置いていかれる見覚えのある少女たちなど、列の姿は最早消え去ろうとしている。それはかつての列の前半分で起こることであり、列の後ろ半分ではまた別の争いが起こっていた。元々列の最後尾は『担い隊』の隊員たちが占めているのだが、その集団の中でさえ最後尾は激しく順位が入れ替わっているのだ。それでも、三地会の漕ぎ手の候補である若者たちの後方を走る少女たちにも追いつくことすらできない。彼らの大半が、酒や煙草で運動能力を自ら低下させているからだ。受験者たちの最後尾は能田とその取り巻きたちで、彼らの体力の無さといったら少し走ってまたすぐに立ち止まってを繰り返すほどだった。時々隊員たちの様子を確認するために一矢は走りながら振り向くが、その度に能田たちとの距離は開いていった。これでよく隊員たちを鼓舞できたものだと呆れるしかないが、隊長である能田があの有り様であるため、ものの見事に隊員たちにも影響して勢いは弱まる一方である。あれだけ睨み合った林たちにこれほどの差を見せつけられては無理もないことだが、一矢はそれで速度を弱めようとは思わない。寧ろ、ここで堅実な走りを見せれば漕ぎ手になる可能性が高まるのだから。一矢とその他数人の隊員は『担い隊』の中でも先頭を走っていった。やはり、同じような考えを持つ者は少なからずいるらしい。可能性をさらに高める努力を惜しむべきではないのだ。そうだろう。『そうだな、そうするとしよう。』血が勢いよく巡る頭の中から声が聞こえた。

 三周目の後半に入り、東大橋を渡るときから一矢は徐々に走る速度を上げて行く。何人かの隊員は負けじとその背中を追ってきたが、四周目に入ってまた散策路に戻ってきたときにはもう追うのは諦めたようだった。この位置を維持すれば、『担い隊』の舟の漕ぎ手である一〇人の枠の一つは確実に手に入れられる。あの『若宝号』の色合いは全くもって気に入らないが、それを気にしている場合ではない。今はただ、漕ぎ手に選ばれる順位で走り抜けることが大事なのだ。そうしなければ、せっかくこの隊に入った意味がない。体を巡る血の熱さを感じながら、一矢は熱い息を吐いて石畳を蹴って進み続けるのだった。

 四周目に入り、一矢は隊員たちと凡そ一〇メートルの差をつけて『担い隊』の受験者たちが構成する集団の先頭を走り続けている。散策路を走る足が石畳に触れる度に、つま先から踵にかけて鈍い衝撃が両方の足へと交互に押し寄せた。膝の関節で繋がれた太腿と脛が作り出す絶妙な角度によってその衝撃を受け流しつつ、同時に前に出ている足と反対側の腕を前に振ることで体は進んで行く。深く吸い込んだ息は肺まで到達し、体の全体を巡って軽快な走りを支える。このようにして、一矢は安定した走りを続けていくのだった。

 最後尾の集団から一人離れて走って行く一矢が散策路に姿を現すと、土手に集まっている応援団や地元の人々もその姿に注目せざるを得なかった。と言うのも、走る速度を上げている一矢は、今にも三地会の若者たちの最後尾に追いつこうとしていたからだ。その最後尾というのは、何人かの男と見覚えのあるジャージ姿の少女たちから成る集団である。

 その集団の中に一矢が合流すると、まず三地会の漕ぎ手に選ばれる可能性が絶望的になっている男たちが横目で誰が来たのかを確認し、そしてある者は二度見し、またある者は目を大きく見開いた。既に呼吸が苦しそうな彼らだが、まさかあの『担い隊』に所属する受験者に自分たちが追い付かれるとは思っていなかったのだろう。それもそのはず、彼らが想定していた通りの『担い隊』は彼らの遥か後ろで一向に速度を上げることなくのんびりと走っているのだから。能田やその取り巻きたちはどうするつもりなのか知ったことではないが、少なくともこの一矢を彼らと一緒にされては困る。漕ぎ手にならなければならないため、手を抜いたりだらだらと走ってたりしている暇はないのだ。もしかすると能田やその取り巻きたちは競舟の在り方に対する抗議としてわざと手を抜いて走っているのかもしれないとも考えたが、先程の様子を思い出す限りはただ単に体力がないだけだろう。

 一方で、その集団の中ではジャージ姿の少女たちも走っている。少女たちは決して手を抜いているというわけでもなく、自分たちの全力を出して必死にこの持久走に向き合っているように見えた。しかし、それでも三地会の漕ぎ手に選ばれる枠はあまりにも遠いようである。受験者たちの先頭を突き進む林たちとの走る速度の差というものは残酷だった。どれだけ普段から運動部で体力を鍛えていたとしても、陸上競技のみならずスポーツ全般において男女が分けられている理由を考えれば、最早それはどうしようもないことであるとも言えよう。少女たちは少女たちにとっての全力を発揮しているが、同じ持久走に林たちのような体力に自信のある男たちが参加している以上はこうなってしまうのだ。それを解った上で追い越すのは心苦しいものがあり、一矢はそこで一旦速度を上げるのを止めてこの集団が走る速度に合わせ始めた。既に『担い隊』の隊員たちの集団からは十分離れたため、これ以上前に行くこともあるまいとも思ったからだ。これ以上目立つことも避けたかったし、二次試験を見越して体力を残しておく必要もあるだろうという判断もあった。

 そうして『担い隊』の隊員たちが形作る集団から別の集団へと移って一矢は走って行く。散策路を抜けて西大橋を渡り、浮島が見えてくると今まさに向こう側に見える東大橋の上を林たちの先頭集団が走って行くのが見えた。彼らはもうすぐまた散策路に戻り、最後の一周である五周目に入るのだ。彼らの後ろ姿を見つつ、一矢を含めた受験者たちは散策路より橋の上は少し幅が狭まるため、器用に二列に並んで行く。集団の丁度真ん中辺りを走っていた一矢ももれなくその即席の列に組み込まれるため、右に誰かが並んでくる。それが誰なのかとちらりと横目で確認すると、その顔には見覚えがあった。確か、ハンカチを落とした少女だ。汗をかいた額から上気した頬へと汗が少し流れ、一歩ずつ橋を踏み締める度に顎より短く切り揃えた黒い髪が揺れている。その髪の揺れが僅かに抑えられているのは、青いスリーピンが留められている左耳の後ろだけだった。その少女は隣を走っているのがハンカチを拾った男であると気付いて少し驚いたようだが、すぐに軽く頭を下げて微笑んだ。自分も走っていて苦しいはずであるのにも関わらず、である。これには流石に一矢も頭を下げて挨拶を返した。一矢という人として、そうするべきだと思ったからである。ある意味でそれは、人であるための懸命な努力とでも言えるかもしれなかった。

 一矢としては、その少女との関わりはこれだけに留めておくつもりだった。万が一これ以降も関わるようなことがあればこれからするべきことに影響が出る恐れもあるし、何より無関係の第三者をなるべく巻き込みたくはないからだ。そのため、今は前を向く。前を向かなければ進めないし、ここで止まるわけにはいかない。それでも今はこれ以上前に進むというよりは、現状を維持する方が重要でもあった。それ故に前を向くだけに留めるのだ。これは決して停滞ではない。前へ前へと進もうとする体を押さえつけつつ走るのだ。

 ところが、そのとき視界の端に見覚えのあるものが映る。それは、持久走の前に一矢が拾ったはずの花柄のハンカチだった。視界の端に映ると言っても、それは橋の上に落ちているわけではない。かと言って、宙を舞っているというわけでもない。やや小さくもしっかりとした手に握られているのだ。そして、そのハンカチを持っているのはその持ち主の他にはあり得ない。どういうことだともう一度右を向くと、何を思ったのかその少女はハンカチを一矢へと差し出しているのだった。一度一矢が拾ってたハンカチを、である。

 突然差し出されたハンカチと、その持ち主である少女。持久走の最中に起こったことに一矢はその意味を理解しかねて、思わず怪訝な顔をしてしまう。これは珍しいことだ。即ち、隙を見せているのと変わらないのだから。一方で、少女の方は何やら真剣な顔をしている。そこから敵意は感じられなかったが、敵を敵とも思わずに敵意を向けず、襲いかかってくる類の相手も広い世の中にはいないわけでもないため、それですぐに警戒を解くことはできなかった。一矢はその性格上、純粋な善意というものにあまりに疎かったのだ。

 集団の中で並びながら走っている一矢と少女の間で、ハンカチは風に揺れている。一矢はそれを受け取るべきかどうか悩んでいた。思考は激しく地面を蹴る足が食らう衝撃にも負けることなく続き、最終的に一つの結論に達する。そもそも、何故少女がハンカチを一矢へと差し出したのかを考える必要があった。受験者の中で少女たちを見かけた時に珍しいと思ったことは覚えているが、それは受験者の男女比が極端に偏っていたからだ。つまり、基本的にこの試験は漕ぎ手になろうとする者、いや、厳密に言えば男が受けるものであると考えられる。このご時世にこんなことを言うとよく解らない層からよく解らないことを言われそうでもあるが、これはあくまでも競舟或いは運河と共に生きてきたこの街の伝統に基づいているのだ。浮島に建ち並んでいるあの倉庫まで舟を漕いで荷下ろしを行うという力仕事を担ってきたのは、史料館に寄贈されていた半被を着ていたような男たちなのだから。それを伝統として引き継いだ競舟の漕ぎ手に選ばれるのが、この街で生まれ育った男や市外の有志団体に所属する男であっても不思議ではないはずだ。これも伝統だ。

 そう考えると、右の少女を含めたこの少女たちがこの試験に参加していることの意味も掴めるかもしれない。この試験に参加しているということは、漕ぎ手になろうとしていることでもある。即ち、本来男が選ばれるはずの漕ぎ手になろうとしているとも言える。もしそうであるならば、この少女たちも伝統に挑もうと行動を起こした者ではないか。その行動に込められた願いも、能田が立ち上げた『担い隊』のように、伝統そのものを壊して自分たちの望み通りに作り変えようというような過激なものではないだろう。伝統を尊重した上で、自分たちもその伝統を担いたいと騒ぐこともなく試験に参加する……どちらが本当の『担い隊』に相応しいか、そこに迷う余地はない。植え付けられた敵意が純粋な志を塗り潰すことなど、あってはならないことなのだから。それは人として当然のことだ。

 ここまで来て、一矢は自分がこれから選ぶべきことを自覚した。この少女たちが今から林を中心としたあの先頭集団を追い越して漕ぎ手に選ばれることは難しいが、そのことは少女たち自身にも試験を受ける前から解っていただろうし、それを解った上で漕ぎ手に選ばれたいという意志を示すために今走っているに違いないのだ。三地会がこの少女たちが試験を受けることを認めたのは、もしかするとどうせ林たちのような男たちより早くは走れないから漕ぎ手に選ばれることもあるまい、という醜い考えからかもしれない。それでも少女たちは走っている。そして、その少女たちの一人が三地会を敵視する『担い隊』の隊員である一矢にハンカチを差し出した。この少女が置かれている立場を考えれば、このハンカチは最早ただのハンカチには見えない。このハンカチを渡すことを通して、何らかの期待をこの一矢に託していると考えて然るべきではないだろうか。既に一矢は、ただハンカチを受け取ってそのまま何もせずに走ることなど、考えられなくなっていた。

 ハンカチを受け取るからには、少女から託されたものを実現する義務があるのだ。一矢は柄にもなく、その冷たい心の内側に炎が燃え上がるのを感じていた。そして、今持久走という環境に置かれている以上、後ろに退がるわけにはいかない。行動は前進でのみ示されるのである。伝統に一矢報いるためにはこの集団を抜け出し、目指さなければならないのだ。そう、走り続ける受験者たちの先頭を。伝統を背負って走り、三地会の漕ぎ手に選ばれるであろう林たちを追い抜いて持久走を終えれば、このハンカチを受け取った分の義務を果たすことができるはずだ。今、この体はそのためにのみ走るのだ。そう決めた。

 するべきことを決めた一矢は手を伸ばし、少女が差し出したハンカチを受け取る。小さく頷き、その時だけ『担い隊』の一矢は『担い隊』の一矢であることを辞めた。そこに現れるのは与えられた偽りの名前を捨て去った『仕事屋』のヤスカだった。極めて異例のことながら、その『仕事屋』は仕事の最中にまた別の仕事を引き受け、また走り出す。その仕事とは、とある少女から託された期待に応える、たったそれだけのことのために。

 その正体を現したヤスカは一瞬で少女の前と、かつて属していた集団から走り去る。浮島の歩道を蹴る脚の力は何倍にも増し、体に当たる風も強まって行く。体は今までよりも遥かに軽く、前へと進む脚も体の重さを忘れたように動いた。限界の、更にその先へと到達しつつある肉体を操る頭もこの時だけは仕事の重圧から解放され、全力で走ることを楽しんでいる。この時だけは、失った子どもの頃の興奮を取り戻しているかのような全能感に包まれているようでもあった。そんな気分が込み上げてくるのをはっきりと感じつつ、ヤスカは風の音を聞く。走る速度が上がるにつれ、風も耳元で激しい音を立てている。やがて、その風の音は低く伸びて音という波の形を失って無音となった。その時、ヤスカは風になったのだ。厳密に言えば、吹き付ける風に張り合えそうな速度で走っているということだ。浮島を通り抜け、東大橋を渡り、散策路に戻ってきたヤスカは既に林たちの先頭集団の背中を捉えていたため、風になったように走ったと言っても過言ではなかった。

 ゼッケン番号一三一番の変貌という誰も知らない変化がありつつ、一次試験の持久走は最後の一周である五周目に入って行く。五周目にもなると先頭集団として走る林たち、三地会の漕ぎ手になるために試験を受けている若者たちは少し余裕が出てきていた。先頭を走る二〇人ほどは既に三地会に属する受験者の中でも先頭を走っているため、このまま何事もなければ漕ぎ手になるのも確実だからだ。そうした余裕を抱えつつ、応援団や地元の方々が集まっている土手が横に広がる散策路に戻ってきたのだが、そこには思っていたような声援や太鼓の応援はなかった。そこにいる誰もが自分たちではなく、その後ろへと視線を向けて騒然としているのだ。まさか三地会の漕ぎ手になろうと参加していたあの女子高生たちがここまで追いつこうと走ってきているのか。そんな馬鹿なことがあるものか。

 余裕を誇示することも兼ねて林は首を横に動かし、視線を集めているその後ろに誰が迫ってきているのかを確認しようとする。先頭集団の先頭を走る林に釣られてその他数人も同じように首を横に動かした。先頭集団である彼らにとっては、自分たちと同じ三地会に属する受験者が近付いてきていることが最も厄介な事態である。ここまで来て最後に追い抜かれてしまえば、それは漕ぎ手の枠を奪われることを意味するからだ。もしそうである場合は、ここから更に走る速度を上げていかなければならない。一方で、その他の団体に属する受験者が近付いてきているとしても、それに追い抜かれることは許されないのだった。と言うのも、競舟の前に行われるこの一次試験である持久走においては、毎年三地会の受験者が総合一位にならなければならないという伝統が存在しているからである。林たちやその他の三地会に属する受験者や、有志団体に属する受験者はそれを解った上でこの持久走に臨んでいるのだ。つまり、今こうして先頭集団に迫りつつあるのであろう誰かはその暗黙の了解を知らない可能性がある。もし知っているなら、そんなことをするはずがないからだ。もし三地会以外の団体に属する受験者が総合一位を取ろうものなら、翌年から競舟に参加する団体の一覧から、その受験者が属する団体の名前は消えているだろう。

 それを踏まえた上で、林たちはその目ではっきりと確認した。後ろから凄まじい速度で先頭集団を追いかけているのが、三地会に属する受験者ではないことを。それは、その受験者のゼッケンの番号からも判ることだった。その番号は、一三一番。受験者の人数と番号の割り当てられ方から考えると、あれはあの『担い隊』に属する受験者ということになるではないか。頭の後ろで束ねた髪が風で揺れているその受験者が取り付けているゼッケンの番号を見て状況を把握した林は、声に出せずとも冗談だろう、と呟いた。遥か後ろで走っているはずの『担い隊』に属する受験者の集団から抜け出して、ここまで走ってきたというのか。一体どういう脚力をしているんだ、あの一三一番は。それでいて尚こちらにどんどん近付いてきているその姿は、驚愕をやがて恐怖へと変えて行くのだった。

 もしかすると、あの男は最も避けなければならない事態を引き起こすかもしれない。その嫌な予感を現実のものにするかのように、その男はあっという間に先頭集団へと追い付いて並走してくる。まだ最後の一周である五周目の半分ほど、つまり応援団や地元の人々の目がある散策路においての出来事だった。この展開を想定していた者は土手の方にもいなかったらしく、一三一番が先頭集団に合流すると悲鳴に似た騒めきが聞こえてくる始末である。これには流石に林も余裕を見せつけている場合ではなくなった。これまでの四周でほぼ先頭を走ってきた林たちと、とてつもない速度で追い上げてきた一三一番のどちらの体力が限界を迎えるのが先か、それを気にすることで頭が一杯になり始めている。その焦り方は、風の音を聴きながら走る一三一番……ヤスカとはあまりにも対照的だった。

 最後の一周である五周目において散策路を通り抜けた林たちとヤスカは、西大橋を渡って浮島へと向かう。道幅が狭い橋の上では列を作って走るためそれほど大きな順位の変動は起きなかったが、浮島に入ると状況は一変した。上から見ると緩やかな弧を描くような形をした散策路とは異なり、西大橋と東大橋を繋ぐ浮島の道は一直線なのだ。当然、加速するのにはもってこいの場所なのである。浮島に入り、橋を渡るためだけに作られた即席の列が崩れると、ヤスカはまた軽快に速度を上げてどんどん三地会の受験者たちを抜かしていく。その前には先頭集団の先頭を走り続ける林と、その他数名が残っていた。ヤスカに追い抜かされた者たちも何とか追い付こう、伝統を壊させるわけにはいかないと食らいつこうとするが、林たちもヤスカに追いつかれまいと速度を上げたため追い越すことはできなかった。遂に先頭集団の中でも差が生まれ始め、ヤスカから逃げ切ろうとする林とその他数名と、それにあと二メートルほどにまで迫ったヤスカが建ち並ぶ石造の倉庫の前を横切る道を駆け抜けていく。林たちもこの段階になると体力に関する自信も吹き飛び、気力だけで体を動かしているようなものだった。そのため、一人、また一人とヤスカに追い付かれてそのまま追い抜かされると、全ての気力を失ったかのようにがくんと速度が落ちて先頭から脱落していってしまう。残った者たちはヤスカを含めて滝のような汗をかき、呼吸も荒れに荒れていた。そして、東大橋に差し掛かるとき、遂に林は自分の横を走っているのが、最も追い付かれたくないと思った一三一番であることに気付いてしまった。

 後ろを振り向くと、もう三地会の仲間たちは疲れ果てたのか追い付く気力も湧かないらしく、先頭を走る二人を虚な目で眺めているだけである。もう伝統を守れるのは自分だけか、と林は厳しい現実に直面した上で前を向いた。あとはこのまま中大橋の所まで散策路を走り切れば持久走も終わりであるため、この部外者に総合一位を譲るわけにはいかないのだ。何がここまでこの男を駆り立てるのかは知らないが、その行動を伝統は許さない。

 東大橋を渡りきっても尚二人は先頭を譲らず、並走して最後の散策路に突入する。三地会の若者たちが先頭集団を占めるとばかり思っていたのか、土手に陣取る応援団の太鼓や声援は益々大きくなった。それを聴いた林は一三一番が総合一位を取ることを誰も望んでいないことに気付くように願ったが、それでもヤスカは速度を落とさない。それを見た林は直接引導を渡すべく、遂に最後の勝負を仕掛けた。忌々しい一三一番を振り切るために長距離走の走りから、短距離走の走りへと切り替える。脚にかかる負担は倍増し、全力を数十秒で出し切る諸刃の剣だ。一三一番にはもう体力が残っていないだろう、と考えた上での賭けでもある。腕と脚を前後に振る速度は数十倍に上がり、このまま終点まで走り切るつもりだった。そうして短距離走のように林が走り始めると、念願の先頭を取り戻して土手からも歓声が上がる。皆が望んだ光景がそこにようやく現れたのだから。

 それは、自国開催の国際試合で劣勢を強いられていた自国の代表が接戦の末に逆転したときの興奮にも似ている。この場合は、林が勝利を望まれている方になるわけだが。先頭を走る二人のうち、短距離走のように走り出した林はようやくヤスカとの間に僅かではあるものの、差を生み出した。終点である中大橋はもうすぐそこだ。この持久走で三地会以外の受験者に一位を取られてたまるか、それもあの『担い隊』に属しているような受験者に。こういったプライドが今までの林の走りを支えていたが、終点を目の前にした今ではこの街で生まれ育った一人の人間として負けてたまるか、という誇りに支えは変わりつつあった。鳴り響く拍手と打ち鳴らされる太鼓の音に包まれ、両手を上げてそれに答えながら林は走る。終点である中大橋の下まで後一五メートル、一〇メートル……俺の勝ちだ。

 ところが、そのとき林の隣を一つの暴風が駆け抜けた。その暴風は一三一番というゼッケンを付けている。その暴風に頭の後ろで束ねた髪を揺らしている男も、林と同じように短距離走のような走り方をして終点へと突き進んで行く。その横を走っていた林のことなど、気にする様子もなく。一瞬で追い抜かされた林は気付いた。終点を前にして先に駆け出した林の方は徐々に減速してしまい、その後でそれを追いかけた一三一番の方が終点まで速度を落とすことなく走り抜けられたのだということを。そして、気付いたときには総合一位という栄光は林の手から失われ、三地会の受験者が代々受け継いできた伝統も今目の前で失われたのだということも。持久走は誰も予想していなかった結果で終わり、誰もが望まない形で総合一位は『担い隊』の受験者である一三一番に奪われてしまったのだ。

 応援団の太鼓や声援も林が追い抜かれたときからどんどん小さくなり、ヤスカが一着で終点を駆け抜けると完全に聞こえなくなった。誰もが『担い隊』の受験者が一着になることを望んでいないのは明らかだった。林は真っ青な顔を隠せずにそのまま持久走を終えたが、やはり拍手はない。試験を運営している『外輪組』や、応援団などこの一次試験の結果を目の当たりにした全てが現実を受け止められないようだった。林自身も、であるが。

 ある意味で『担い隊』の目的を隊員としてではなく、一人の仕事屋として果たしたヤスカは終点の近くの土手に座り込んでいた。まだ心臓の激しい鼓動は落ち着かないし、噴き出た汗が染みついたジャージが冷たい風に吹かれて体が凍えそうだ。それでも一着で走り切ったという実感が体に熱を与えててくれるお陰で、それほど寒くない。繰り返し脚を襲う鈍い痛みも、今はそれほど気にはならなかった。こうしてヤスカ、いや、一矢にとっての一次試験は考えうる限りでは最高の結果で幕を閉じる。しかし、まだ一次試験が完全に終わったというわけではない。まだ終点まで走り切っていない受験者たちが大勢残っているのだ。その中にはあのハンカチを渡してくれた少女や、『担い隊』の隊員たちも含まれる。達成感を噛み締めつつ、ヤスカは受け取ったハンカチを静かに、丁寧に握りしめた。

 五〇分から六〇分ほどの時間をかけて一次試験の持久走は終わり、休憩を挟んでから受験者たちは浮島に渡っていた。史料館の横に広がる展示場に向かっているのだ。中大橋を渡って史料館に到着すると、その横には屋根付きの広々とした展示場が待ち受けている。その屋根の下には灯油ストーブや折り畳み式の長机、それとパイプ椅子などが並べられ、長机の上には同じ形をした弁当が山のように積まれている。それらは受験者たちに配られるのであろう昼食だった。既に午前一二時、或いは午後〇時を過ぎているため、丁度良い頃合いである。受験者たちをこの展示場まで連れてきた円際はまた拡声器で呼びかけた。

「受験者の方々、一次試験はお疲れ様でした。これより一時間ほどは昼食休憩の時間としますため、各団体ごとにまとまってお休みください。二次試験に備えてストーブで体を温めることもお忘れなく。それでは」

 それから、言われた通りに三地会、有志団体、そして『担い隊』のそれぞれに属する受験者たちは団体ごとに長机を囲んで一人一つずつ弁当を受け取った。その中でも、一矢を含めた『担い隊』は長机とパイプ椅子をわざわざ同じ方向へと向け、その前に隊長である能田が立って隊員たちに語りかける恒例の光景を繰り広げる。一矢としては早く弁当を食べたいとも思っていたが、『担い隊』の結束を高めるのに執心しているらしい能田はそれを簡単には許さなかった。挙げ句の果てには隊員たちへと一矢は紹介されてしまう。一次試験での成績のことを考えればそうなるだろうが、士気を高めるのに使われるのはあまり気分が良いものではない。一次試験をほぼ最下位で走った能田に讃えられてどうするか。

「皆、よく聞け。俺たち『担い隊』の一員である一矢があの三地会のやつらを追い抜いて一着を取ったそうだ。これで『若宝号』の栄えある漕ぎ手の一人は、殆ど決まったようなものだな。一矢が二次試験を受けさえすればだが、まさか受けないわけもないだろう」

 能田は一矢へと右手を差し向けたため、立ち上がって軽く一礼すると拍手が送られる。隊長である能田が求めるまでもなく、隊員たちは割れんばかりの音を掌と掌を合わせることで作り出した。それは隊員たちの能田に対する忠誠心を示しているようでもあった。事実、能田が軽く手を挙げた途端に、ピタリと幾重にも重なった破裂音は止んだのだから。

「残りの九人は速いだけじゃ選ばれないぞ。次の試験次第だな。俺も一次試験では遅かったし、難しいかもしれないが……漕ぎ手に選ばれなくても、船頭としてお前たちを引っ張るつもりだ。そういうことだから、二次試験でも気を抜くなよ!」

 能田が話し終えると、隊員たちは一斉に頭を下げた。それを聞いた一矢はとても頭を下げるつもりにはなれなかったが、それでも少しだけ頭を下げる。なんだそういうことか、という呆れさえ感じてしまった。結局は能田も試験を受けなかろうが、船頭として船に乗るつもりでいたのだ。それに疑問を抱かない隊員たちへの危機感も生まれつつあった。

 そうした危機感を知るはずもない隊員たちは自分が座っている椅子の前の机に置かれた弁当と、割り箸に手をつけることなくただひたすらに待っているのだった。そう、能田の号令を。周りに合わせて一矢もそうしていると、お待ちかねの声が聞こえてくる。

「それじゃあ、ありがたく弁当をいただこうじゃないか。食べ残すんじゃあないぞ?」

 初めて共感できそうな言葉を能田が口にすると、隊員たちも一斉にいただきます、と合掌して次々に弁当の容器の蓋を開け始める。割り箸を割る音も所々から響いていた。一矢の前にも置かれていた弁当を開けると、その中身が焼き鮭の切り身や海老の天ぷらが入った海苔弁当であることが解った。ポテトサラダやスパゲッティといったものも入っていて中々の量だった。待ち望んだ昼食の時間が始まる。本来であれば、ここに来て椅子に座った時点で弁当を食べたかったのだが『担い隊』はそれを許さない。何かに付けてやたらと隊長が隊員たちの前で語りたがるのだから。他の団体の受験者はとっくに食べ始めていたというのに、そのお陰で『担い隊』だけが遅れること凡そ五分弱でようやく弁当に手をつけたのだった。二次試験までの限られた時間で昼食を済ませる必要があるというのに、何とも不親切な隊長である。おまけに、一次試験の結果も散々な立場を棚に上げているし。

 わざわざ露わにしようとも思わない小さな不満を押し潰しつつ、一矢はよく考えると何故入っているのかよく解らないスパゲッティを割り箸で摘み、口に運ぼうとする。こうして食べ物を喉に通すことで、なかなか折り合いのつかない不満も飲み込んでしまおうと思ったのだ。その第一弾として別に好きでも嫌いでもない弁当に入っているスパゲッティを選んだわけだが、その試みを実行に移そうとしたそのときだった。一口目を口に運ぶよりも前に、後ろから肩を軽く叩かれる。割り箸を置いて振り返ると、そこには『外輪組』と記された腕輪を身に付けた男たち、二、三人が立っている。彼らは感情が読み取れない抑揚を抑えた声色で、事務的に肩を叩いた相手、即ち一矢へと声もかけてくるのだった。

「一三一番の高殿さん、ですよね。一次試験の表彰を行いますので来ていただけますか」

「今ですか。昼食くらい食べさせてもらえませんかね?」

「賞状をお渡しするだけです。時間は取らせませんから」

 こちらが応じるまで引き下がる様子もなかった。賞状は別に欲しくもないため、昼食を中断してまで行こうとは思えなかったものの、応じずにいつまでも後ろでその生気のない虚な目で見つめられるのも気分が悪いだろう。それに、ここに『外輪組』の組員たちがいると隊員たちがまた何か余計なことをしでかすかもしれなかった。能田にはその辺りの手綱を隊長として握ってもらいたいものだが、当の本人が隊員たちを扇動している以上は期待するだけ無駄なことだった。諦めた一矢はパイプ椅子から立ち上がる。高い音と共に。

「解りましたよ、行きましょうか。……そちらもそれが仕事なのでしょうから」

 昼食会場である展示場から離れた男たちと一矢が向かったのは、意外と近場の史料館の出入口の前だった。そこ到着すると、円際と一次試験で一矢と一着を争った林が待っているのが見える。一矢と男たちの姿を見た円際はニコリと微笑み、時間は取らせないという言葉の通りにすぐに本題へと入った。林の方は一矢へと鋭い視線を向けているだけだ。

「いやあ、わざわざお越しいただきまして。ともかくこれで揃ったことですし、それでは御二方に一次試験の賞状をお渡ししましょう」

 一矢をここまで連れてきた男たちのうちの一人が史料館の中へと一瞬姿を消し、次に戻ってきたときには何やら二枚の封筒を持ってきていた。あれに賞状が入っているらしい。二人へとそれぞれ封筒が手渡されると、また円際が一言付け加える。

「賞状は今お渡しいたしましたが、これは三地会の本部に飾るものでもございますので、ご覧になられましたら返却の方をお願いします。そういう伝統になっておりますので」

 茶色い封筒の封は最初から開けられている。その口を少し広げて中身を取り出すと、薄い黄金色の装飾で縁取られた、硬い手触りの賞状が出てくるのだった。その表面にはこれぞ賞状と言った感じの文面が力強い筆文字で記されている。それを目で読んでみよう。

『賞状 第二位 高殿一矢殿 貴方は春カナル杯において行われる競舟に関する持久走において優秀な成績を修められましたため、これを賞します……』

 渡された賞状には一着で走り抜けたはずであるのにも関わらず、二着であることを示す第二位という文字が記されている。渡した側の男たちはニコニコと微笑んでいるため、まず最初に書き間違えを疑った。次に林が受け取るべき賞状との渡し間違えたのかと疑ったが、そうであれば名前も書き間違えていることになる。これには声を上げざるを得ない。

「……すみません。この賞状に書かれている順位、或いは名前のどちらかが間違っていると思うのですが」

「いえ、記録としての順位は書かれている通りのものですし、お名前の方も間違ってはおりません。あの持久走はこうでなければならないのですから。よろしいですね?」

 当然のことのように事実と異なる順位を記した賞状を作り出し、それを認めさせようとする円際は一矢の予想を軽々と超えてくるのだった。つまり、持久走において三地会に属する受験者が一位を取るという伝統はこうしてでも守られるということなのか。お前はそれで良いのか、林。そんな一矢の疑問に答えるかのように、微笑んだままの円際が語る。

「ご心配なく、既に林さんにもご理解はいただいております。このことはくれぐれもご内密にご願いしますよ。これはこの街の伝統に関わることでもありますから」

 それを聞いた一矢はそうかい、と小さく呟いて言及された林の方を向く。林だけは円際を含めた男たちとは異なり、その顔に笑みは浮かべていなかった。そこだけは良かった。

「林くん、だったかな。一位になれておめでとうとだけ言っておくよ」

 林が微笑んでいないところだけを評価した上で、一矢はそれでも釘を刺すことは忘れない。偽りの肩書きを得たことを自覚するように促し、少しでも考えを改められるように。

「高殿さんでしたか。あなたの走りもお見事でしたが、こういうことですから。三地会の者のためにある競舟と、そのための試験で三地会以外の者が輝く必要はないわけですよ」

 しかし、その淡い期待を真正面から林はその純粋に育まれてきた認識で打ち破った。これがこの街で生まれ育ち、伝統に染まった者の言い分ということか。確かに間違っているとは言えないが、これはあまりにも冷たすぎる。特に、伝統の近くの他所者に対しては。

「そう言われて納得できるなら、こうはならなかっただろうにな……まあ良いだろう。今更言っても仕方のないことだ。こんなことより、もう戻っても良いだろう? まだ弁当に手をつけられてもいないのでね」

「お戻りになられるのは特に構いませんが、その前に賞状を返していただきませんと」

 円際は一矢が口にした言葉をそのまま受け取ったらしく、一矢は軽く笑ってしまう。

「言われずとも返すさ、こんなものは。そちらとしては改竄してでも伝統を守らなければならないような意味のあるものでも、こちらから見れば紙切れ一枚に過ぎないのでね」

 賞状を突き返された外輪組の男たちは、もう笑っていなかった。こうなると無理にでも笑おうとしていなかった林がまだまともに見えるが、結局は同じようなものなのだろう。そのまま伝統にしがみつくのも生き方の一つだ、と呟いて一矢はその場を離れて行くのだった。極めて『担い隊』の隊員らしい言動をした、自分自身へと内心で苦笑しながら。

 そうして展示会場へと戻る際、一矢はジャージ姿の少女とすれ違い、それがあのハンカチを渡してきた少女であると気付いて立ち止まる。少女の方も一矢に気付いたようで、頭を下げると、スタスタと規則的な足取りで近付いてきた。一矢はそこで受け取っていたハンカチを取り出し、本来の持ち主へと差し出す。少女はそれを優しく両手で包んだ。

「君は確か、ハンカチの……君のおかげで助かったよ。まだ名前を聞いていなかったな」

「理世です。理の世と書きます。……あっ、そうだ。入賞おめでとうございます。一着だなんて、本当にすごいことですよ。三地会以外の団体の方が一着なのは初めてですから」

 ハンカチを受け取った少女は純粋に入賞について喜んでいるようだが、現実はそうならなかったことはハンカチを一度受け取った者として伝えなければならないだろう。

「記録上は二着扱いらしいがね。伝統は守られければならない、ということだろうさ」

「……そうだったんですね。もし私たちが一着になっていてもそうなっていたかもしれませんけど。未だかつて、女の人が漕ぎ手に選ばれたことはありませんから」

 誰もが望む形の競舟が実現したとき、それは最早競舟なのか。そんな疑問が浮かんだ。

 それから凡そ三〇分後、午後一時半を過ぎると昼の休憩は終わった。受験者たちは展示場から観光船の乗り場へと移動している。四、五本の桟橋には質素な木製の舟が五艘浮かんでいた。舟の上に一〇本ずつ櫂が置いてあるあの舟は、実際に競舟に参加する船ではない。これから始まる二次試験で使われる舟なのだ。桟橋の前で待機させられ、一次試験で書いた汗が冷えてきて余計に寒さを感じている受験者たちの前で、暖かそうな上着に身を包んだ円際が拡声器を通して語りかける。拡声器は吹き付ける海風も少なくからず拾ってしまっているため、その声は一次試験のときよりも聞き取り難くなっていた。

「えー、現在午後一時三〇分を過ぎていますので、これから漕ぎ手の選抜を兼ねた本試験の一つである二次試験……舟の漕ぎ方の実習を行います! 一〇人を一組として五組ずつそれぞれ舟に乗って試験を受けていただきますので、待機される方々はあちらのテントでお待ちください。勿論ストーブも用意しておりますから、体を温めておいてください」

 観光船の券売所の横に広がる大型バスが何台も停まれるような駐車場には、白い屋根のパイプテントが一〇個以上設置されていた。この広々とした駐車場からは、これから二次試験で舟に乗って向かうであろう海も見える。それぞれのテントには展示場と同じ形の灯油ストーブが配置されているため、テントの中央に置かれているそれに受験者たちは殺到した。二次試験では舟に乗って海に出るのだから、当然の反応とも言える。

「それでは、ゼッケン番号一番から五〇番までの受験者の方々は桟橋へと向かい、指定された舟に乗って船頭の指示に従ってください。待機されている受験者の方々は試験の様子を見て備えておくことをお勧めいたします、それでは、二次試験を始めます!」

 一際元気な円際の呼びかけにより、二次試験は一次試験よりもゆるりと始まった。受験者のうち一番から五〇番、即ち有志団体の四〇人と三地会の一〇人が桟橋へと向かい、それぞれ決められた舟に乗っていく。能田とその取り巻きたち、それと一矢を含めた『担い隊』の面々はその様子を眺めながら一つのテントに集まっていた。やがて今を好機だと判断したのか、最早恒例のごとく能田が試験を控えた隊員へと語り始める。隊員たちは当然隊長の方へと顔を向けるが、その手は皆ストーブへと向けられていた。勿論、一矢もだ。

「一次試験では速く走れるやつが評価されたが、今度は舟を上手く漕げるやつが輝く番だからな。くれぐれも気を抜くんじゃないぞ!」

 隊長から隊員たちに対してのありがたい充電が行われると、取り巻きたちは一斉にエイエイ、オーと拳をテントの天井へと突き上げる。他の隊員たちもそれに倣って拳を上げたが、あまり手をストーブの近くから離したくはないらしく、それほど高くは上がらなかった。一矢の場合はそもそも声も出していなかったし、拳を上げることもしていない。競舟の変化を真に望む者が『担い隊』にいない以上、その熱は海風よりも冷めていたのだ。

「それでは、一番から五〇番の受験者の方々の試験を始めます。船頭の皆様は、舟の誘導をよろしくお願いします」

 円際が桟橋に停まっている五艘の舟にそう呼びかけると、受験者たちとは別にそれぞれの舟に乗っている船頭たちは一本ずつ持っている旗を揺らしてそれに応える。舟には太鼓も積まれているらしく、鳴り響く音と共に五艘の舟は並んで海へと漕ぎ出していった。横一列に並んで進み出した舟の両端には左右に五人ずつ漕ぎ手が座り、一定の間隔で櫂を動かして舟を漕いでいるのが判る。船頭は太鼓の音と共に旗を振り、漕ぎ手たちを鼓舞しているようだった。船頭が持っている旗には一から五の漢数字がそれぞれに記されており、それが舟の番号を示しているのであろう。駐車場のテントから海を眺める一矢の目には、太い筆文字で旗に力強く書かれたその文字がはっきりと見えた。そう、一矢の目にはだ。

 一番から四番までの舟、即ち有志団体の漕ぎ手たちが漕いでいる舟は巧みに舳先を変えて順番に、横一列から縦一列へと並んでいく。船頭の指示通りに左右の漕ぎ手が漕ぐことで殆ど同じ曲がり幅で進む方向を変えながら漕いでいるのだ。その技術を目の当たりにした一矢は、後ろを振り返りまだ何かを喚いている能田の話に律儀に耳を傾けている隊員たちの姿を見る。果たして、自分を含めた『担い隊』の中でまともに漕ぐことができる者がどれだけいるのだろうか。誰一人居なくても不思議ではない。『担い隊』なのだから。

 ところが、一番から四番までの舟は順調に横一列から縦一列への移行を完了しつつあったが、五番の舟だけは大きく外に膨らんで曲がり、合流するのが遅れてしまっていた。五番の舟の漕ぎ手たちは三地会に属する受験者であり、しかもよく見るとあれは林たち、漕ぎ手候補の筆頭を含めた者たちである。毎年競舟に参加している有志団体の漕ぎ手と、今年初めて漕ぎ手として試験に臨んでいる若手たちとの明確な差がここに表れていた。それでも経験豊富であろう船頭は若手たちにも容赦なく、怒号を浴びせているのが聞こえる。

「左に曲がるときに右だけが漕いでどうするっ。左は少し弱く漕ぐんだよ、さもないとぐるりと回転しちまうだろうが! それと指示を聞いたらすぐ動く! お前たち同士で顔を見合わせたって舟は動いてくれないんだからなぁっ、ぐずぐずするなよっ!」

 五番の舟はかなり遅れて先行していた舟に追いつき、五艘が揃ったとところで再び進み始めた。先頭の舟の船頭はしばらく進んだ後、振っていた旗を頭上で横向きに掲げた。続く舟の船頭たちもそれに従う。先頭の舟の船頭が掲げた旗を右向きに回し始めると、他の舟の船頭も同じように旗を回した。すると、縦に並んだ舟の列は先頭から右に曲がり始めた。今度は五番の舟も遅れることなく付いて行き、怒号が聞こえることもなかった。五番の舟の漕ぎ手たちの確かな成長を見届けた一矢が視線を移すと、テントの下で待機している『担い隊』の隊長と、それに従う隊員たちがそれぞれ海を見ながら話している。

「あの旗を持っているおっさんたち、何をしているんだろうなぁ。ここからじゃあ殆ど聞こえないし、乗ってみないとわからないだろうな。なぁ、お前たち?」

「ちゃんと漕げないとどやされるんですかねぇ」「そうだと面倒っすよねー」

 本当に、この中に自分を含めてまともに漕げる者が何人いることやら。一矢は能田とその取り巻きたちの会話に呆れつつ声に出さずに呟いた。そうして冷たい視線で彼らを見ていると、その視線に気付いた能田が不敵な笑みを浮かべて話しかけてくる。面倒な者に絡まれたものだ、と視線を逸らしたが、それで引き下がるような能田ではなかった。

「おいおい、随分と余裕そうじゃないか。それとも緊張を隠してるだけか? どっちにしろ、『担い隊』が恥をかくような真似だけはしてくれるなよ」

「何度も言うが、人の心配よりも自分の心配をした方が良いと思うがね。もっとも、一次試験で最下位を争った隊長にそんな余裕があるとも思えないが」

 一矢が恐らく能田が最も触れられたくないであろう部分に遠慮なく踏み込むと、能田の顔から一瞬笑みが消えた。それでも取り巻きや隊員たちの目の前でもあるためか、隊長としての威厳を見せつけるかのように再び顔に笑みを貼り付けて余裕を演出し始めた。

「……言ってくれるじゃないか。船頭としてお前に指示するのが楽しみだよ」

「なるほど。余裕と言っても試験がどうなろうと船頭として舟には乗れるという立場からくる余裕だったわけか。ようやく腑に落ちたよ……ありがとう」

 この一矢の言葉には、取り巻きたちが黙っていなかった。能田が何か言い返すよりも前に一矢へと詰め寄ろうと動き出した取り巻きたちは、口々に一矢を非難する言葉を吐く。

「この野郎、隊長に向かって何だその言い草は!」「試験前に隊の結束を乱す気か!」

 取り巻きたちの中には一矢の襟首を掴むつもりなのか、手を伸ばそうとする者まで現れていたが、それを意外なことに言われた側の能田が静止する。いや、本来隊長なら取り巻きが好き勝手に隊員に対して詰め寄ろうとするのを止めるのが当然な気もするのだが。

「やめないか、お前たち。試験の前にこれ以上騒ぎを起こせば競舟に出られなくなるかもしれないんだぞ。もしそうなれば手宮の兄貴やウリカワさんにどう顔向けするんだ? それは誰の責任になると思う? 信頼を裏切った俺たちに待っている道は一つしかないぞ」

 その言葉を聞いた途端、取り巻きたちは皆引き下がり、彼らを動かした熱気も消える。

「まあ、この試験を受けさえすれば漕ぎ手に選ばれるのはこちらも同じことだからな。ここは一つ、海に落ちることもなく無事に戻って来られることをお互いに祈っておこうじゃないか。なあ、隊長?」

 そう言うと、一矢はテントの下から出て券売所の隣にある自販機で缶コーヒーを買う。ガコン、というよく響く少し軽い音が体に染み渡った。もうすぐ、二次試験が始まる。

 ……と言いたいところだったが、その日の夕方、二次試験が終わってから数時間後に一矢は『担い隊』の集まりで駅前の居酒屋に来ていた。尚、白いジャージは新しいものに着替えている。汗をかいたからでもあるが、一番の理由としては二次試験で海に落ちたからだった。厳密に言えば、落とされたと言った方が正しい。二次試験において『担い隊』の漕ぎ手たちは他の団体の漕ぎ手たちと同時に試験を受けさせてはもらえず、引率が漕ぐ一番の舟に続く二番から五番の舟を漕いだ。能田たちが乗っていた五番の舟が案の定上手く曲がれず、船頭の必死の誘導も虚しく四番と三番の舟に接触して大きく揺れて一矢が乗っていた二番の舟も巻き込まれてしまった。と言うのも、傾いて沈みそうになった舟から海に落ちたくない、と慌てた連中が飛び乗ってきたのである。そのお陰で隊員の大半は冷たい海に落ちることとなり、陸に上がってからは道連れになった船頭たちから怒号を浴びせられたのだった。強面の船頭曰く、こんなどうしようもない連中が試験を受けたのは初めてだ、競舟のことを思うなら出場は辞退した方が良い、ということである。概ね同意だ。

 あの惨状を思い出したくもない、あの時だけは『担い隊』の一員として扱われたくないという頭痛の種を抱えつつ一矢は駅前のとおりに建ち並ぶ照明が色鮮やかな雑居ビルへと足を踏み入れた。エレベーターに乗って三階に向かって降りると、そこはそのフロア丸ごとが大きな居酒屋になっている。店名は『クツル召し』だ。提灯と暖簾が掲げられた障子の出入口と、白い暖簾に力強く黒い筆で『クツル召し』と書かれた看板に出迎えられる。

 その障子を横に引くと、ガラガラと安心感を与える音が店の内外へと響いた。

「いらっしゃいませー、ご予約の方ですか……あれ、あなたは確か」

 やがて元気な声と共に紺色のエプロンを身に付けた若い女性の店員が出てきて頭を下げるが、その顔は見覚えがあるものだった。いや、忘れるはずもない。その店員は、あのハンカチを渡してきた理世と名乗った少女だったのだから。これには流石に驚かされる。

「高殿さんじゃないですかー。皆さんもうお揃いですよ。ご案内しますね」

「……どうして君がここに? バイト先か何かかな」

「それはそうなんですけど、ここの店長は私の父なんです」

 そういうことか、と一矢は呟き、そうなんですよー、と理世はニコニコと微笑みながら奥のお座敷へと繋がる通路を先に進んでいく。通路の両端にも座敷と通路を仕切っているのであろう障子が並んでいたが、その向こう側のどの部屋にも灯りは点っていなかった。

「そういえば」理世が一矢の方を振り向く。「どうして『担い隊』に入ったんですか?」

「外輪組の高島さんの薦めでね。三地会の漕ぎ手には選ばれないし、競舟に出る舟の漕ぎになるためにはそうするしかなかったといったところさ。それがどうかしたかい」

 そう聞くと、理世は一瞬目を見開いたように見えたが、またすぐに笑みを浮かべた。

「いえ、ちょっと不思議だったんです。高殿さんみたいな人が、あの『担い隊』に出入りしているなんて。あの人たちがお店に来るといつも騒いで大変なんですよ。今日は貸切のお座敷だから、他のお客さんにまで迷惑はかかりませんけど……」

「うん、確かに騒がないはずもないな。しかし、ここを行きつけにされたのは災難だったな。余程気に入った料理か酒でもあったのか」

「いえ、そういうわけじゃないんですけどね……」

 歯切れの悪い言葉に対して尋ねるよりも前に、お座敷の出入り口である障子の前に二人は到着した。上がりかまちの前には乱雑に脱ぎ捨てられたスニーカーが散乱している。それを横目に一矢はスニーカーを脱ぎ、向きを揃えて置いた。一矢よりも先に靴を脱いでお座敷に上がっていた理世は屈んで床板に膝をつくと、お座敷と玄関を隔てる襖を静かに開く。お座敷の中からはまだ理世の姿しか見えていないだろう。畳が敷き詰められ、窓の外から駅前通りの夜景が見えるお座敷の中からは能田の不愉快な声が聞こえてきた。

「おお、理世ちゃんじゃん。お酒注ぎに来てくれたのかなぁ、嬉しいなぁ。何なら一緒に飲もうよ、ほら隣座ってよー」「そうだそうだー」「隊長のお誘いだぞー?」

「申し訳ございません。まだ一七歳ですので、お酒は飲めませんから……」

「いい加減にしたらどうだい、隊長。隊長ともあろう方が見苦しい真似をすると、そもそもが無いに等しい威厳が行方不明になりかねないぞ?」

 一矢が姿を現すとお座敷は静まり返り、その隙に理世はニコリと微笑んで退出する。気まずそうな顔を浮かべた能田は、理世への態度と異なり不機嫌そうに口を開くのだった。

「……遅かったな。この集まりは『若宝号』の漕ぎ手に選ばれたお前を含めた一〇人を祝うためのものだっていうのに」

「主役は遅れてやってくるものらしいからな。もっとも、主役と言ってもそのうちの一人に過ぎないわけだが……まあ、主役になれるような生き方もしてはいないがね」

 そう言いつつ、一矢はお座敷に並べられた座布団に座る。その前に置かれた足の短い机の上には冷やされたビールや刺身の盛り合わせが載っていた。やはり能田が立ち上がる。

「さて、これで主役も揃ったことだし、お待ちかねの時間だ。……『若宝号』の漕ぎ手に選ばれた一〇人と、『担い隊』に乾杯!」「「乾杯!」」「今日は好きなだけ飲んで食え!」

 冷えたビールが注がれたジョッキを頭上に掲げ、口につける。鋭い苦味が疲れた体に染み渡り、一気に飲み干すと爽快感を感じることができた。そのうち、能田が語り始める。

「今日ここに集まった者たちに聞かせることがある。それは『若宝号』についてだ……」

 その夜、一矢は口にした刺身の味が半分ほどしか解らなかった。少なくとも、競舟が無事に終わらないことだけは確かに感じられたからだ。舟の話を耳にした、そのときから。

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