第二幕 歪な胎動を感じながら
久鶴の街の中でも特に観光客がよく見かけられる場所、それがカナル通りだった。当然のことだが、そのカナル通りの周りも観光客の出入りは激しくなる。独立した道というものは殆ど存在しない。どの道もある場所とまた別の場所を繋ぐためにある。カナル通りでさえも、市街地と浮島の間に掛けられた三つの橋と繋がっているのだから。そんなカナル通りに繋がる道も数多いが、その内の一つである商店街を貫く通りの一通りはカナル通りへ向かう道のりとして観光マップに乗っているからだろうか、その行き先であるカナル通りに決して引けを取らない賑わいを見せていた。沿道も、色とりどりの提灯や吹き流しで飾り付けられている。これはもうすぐこの街で行われる祭りを盛り上げる演出であった。
そうした演出もあってか、通りは人々の声や行き交う車の音が途切れることもなく、祭りへと向かって高まっていく熱気もその勢いを失うところを知らない。商店街に並んだ土産物屋などが入った建物の中に居たとしても、その音の波は耳に届くことだろう。
ところが、その商店街に面するとある雑居ビルの中は、そうした外のざわめきなどは聴こえていないかのような静まり方をしている。そのビルの出入り口にあたる安っぽい白いドアを開けると、暗い廊下と階段が正面に位置していた。その階段を登った先の二階の廊下を歩くと、今度は薄灰色のドアが見えてくる。そのドアの横には目立たない表札が取り付けられており、そこには『外輪組』と記されていた。そこが事務所の出入り口なのだ。
その出入りの前に組の代表である高島と、その付き人である端山というスーツを着た二人の男が立ち、その後ろに白いジャージの上下を着て髪を頭の後ろで束ねた若い男が続いている。時刻は朝の九時丁度。その時間に事務所に顔を出すのが高島の日課だった。
「毎年のことだが、あいつらはもう来ているんだろうな?」
視線を合わせることなく、高島は前を歩く付き人にそう尋ねた。事務所のドアまであと四、五歩という距離でのことだ。その問いかけに対し、端山は左腕に付けた腕時計の時間を確認しつつ、少し顔を顰めて短く答える。また、右腕の方はドアノブへと伸びていた。
「既にお揃いだと連絡がありました。……それと、ネズミも一人来ているようですが」
「ネズミ? ああ、そうか。全く、困ったものだな」
高島は昨日までは見せなかった笑顔、と言っても苦笑して招かれざる客が誰であるかを把握した。そのやり取りを黙って見ている白いジャージの上下を着た男は口を開かない。
その若い男が口を挟む間もなく、端山が事務所のドアを開けたからでもあった。一つも光が灯っていないパソコンとモニターが置いてある机が並べられた中の様子が、そこで明らかになる。椅子に座ったり窓の近くの壁に立ったりしているその中にいた男たちは、ドアを開けて入ってきた端山を先頭とした三人に気が付くと、一斉に勢い良く頭を下げた。
「「お疲れ様ですッ」」
何重にも重なったよく響く挨拶は、全て三人のうちただ一人、高島へと向けられたものだ。それもそのはず、高島はこの外輪組の代表なのだから。当然、事務所にいた男たちもこの組の一員であり、代表の付き人を務める端山も例外ではない。そのため、高島が端山と共に事務所に入ってくるのはよくある光景であり、そうであれば誰も特に気にすることもない。ただ、この日、即ち競舟の本番を明後日に控えた一〇月三日の場合はその限りではなかった。代表とその付き人の他に、もう一人知らない顔が事務所に入ってきたのだ。
それこそが、白いジャージの上下を着て頭の後ろで髪を束ねた若い男だった。その見知らぬ顔を組員たちが見過ごすはずもなく、代表たちには聞こえないようにひそひそと、強面の風貌にはとても似合わない蚊の鳴くような声が囁かれる。それも大体こんな具合に。
「おい、ありゃ誰だい」「新入りか?」「聞いてねえなぁ、そんな話は」
そういった事務所の同様は勿論高島や端山も感じ取らないわけではないが、一々それに反応するつもりはなかった。何事もなかったかのように、いつもの調子で皆の視線を横切って行く。それに釣られる形で、組員たちの視線も右から左へと動いていった。
「ほい、ご苦労さん」
片手を上げつつ、組員たちに軽く挨拶をしてこれ以上の追及を退けた高島は、端山の背中を追って事務所の中でも独立したドアで仕切られている応接室へと歩いて行く。既にその扉の前に立っていた端山は、その両端を固める白いジャージの若者たちに頭を下げられてまたしてもドアノブに手を掛けているところだった。尚、ドアの両端に立っている若者たちと、高島の後ろを歩いているジャージ姿の若者とは別人である。着ている白いジャージはよく似ているものだったが、その立場には圧倒的な差があった。一方は事務所の中でも一番の下っ端である雑用係、もう一方は組の代表と共に事務所入りするような客人なのだから。その下っ端の方は頭を下げつつ高島と自分たちによく似ているようで全く似ていない若者の後ろ姿を横目で追うが、そうしていると頭上から端山の拳が軽く降ってきた。
「覗き見とは趣味が悪いじゃないか、門番は門の外だけ見てれば良いんだぞ?」
「し、失礼しましたッ」
高島とジャージ姿の若者が先に応接室へと入って行ったのを確認してから、端山もそのドアの向こう側へと消えて行く。そのドアも門番により閉められ、中は見えなくなった。
「やあやあ、お待たせして。朝早くからお揃いとは、感心するよ」
応接室に入ると、高島は精一杯の笑顔を作ってその中で待っていた者たちへと語りかける。室内には五人の男たちが待っており、高島のものらしき大きな机の前に向かい合って置かれた立派なソファに三人と二人に別れてそれぞれが座っていた。高島と端山、それとジャージ姿の若者が入ってきたことで彼らも一斉に立ち上がり、頭を下げる。頭を下げるタイミングは組員たちよりもバラバラで、まとまりはなかった。
「お久しぶりです。代表の方も、毎年毎年この季節になるとお忙しそうですな」
「そんな中でも我々と顔を合わせる機会を設けてくださるとは、ありがたいことですよ」
高島が大きな机の近くに置かれている座り心地の良さそうな脚輪の付いた椅子に座ると男たちも座っていたソファに座り、口々に高島へと語り始める。端山は高島の椅子の斜め後ろに両手を背中で組んで立ち、ジャージ姿の若者はドアの近くにある本棚の前に両手を胸の前で組んで立った。それを見た男たちは、高島へと当然とも言える疑問を口にする。
「失礼ですが、そちらのお若い方は……端山くんの後輩ですかな?」
「ああ、彼は俺の古い友だちの息子さ。気にしないでくれ。……それよりも、お前たち。今日はよく集まってくれたな。書類を郵送してもらえば済む話だなとは毎年毎年思うんだが、やっぱり本番の前に顔を合わせておきたくてなぁ」
高島がにこりと笑いながらそう語ると、五人の男たちのうちの四人もにこにこと微笑みながら口を開いた。彼ら四人と高島は非常に親しげで、何年もの付き合いを感じさせる。
「いやぁ、こちらも直接ここに来た方が確実に書類を手渡せるのでね、安心できますよ」
「そうそう。我々は久鶴の外から競舟に参加させてもらう側なんですから。本番の日だけここに来るより、本番の前にここに顔を出すのは筋でもあるでしょう。なぁ?」
残る二人の男もうんうん、と頷くが、そこでずっと沈黙を貫いていた最後の一人が動いた。ドアの両端に立っていた下っ端とそれほど歳は変わらないように見えるその男もこの応接室にやって来た者の一人だったが、やれやれとでも言いたげな様子で溜息をつき、背もたれに体を沈める態度からはとても嫌な空気を感じさせる。実際、その男の口から放たれた言葉はその場の雰囲気を不穏なものにするのには充分すぎるほどだった。
「一緒にされては困りまりますねえ、全く。市外の団体の方々はそう思っているのでしょうが、付き合わされるこっちの身にもなってくださいよ。今どき参加を申請するための書類を手渡しでしか受け付けないなんて、この事務所にはWi-Fiも飛んでないんですか?」
「おい能田! 代表の皆様の前ではその汚ねえ口を閉じやがれ!」
能田と呼ばれた若い男の慇懃無礼な態度に場の空気は静まり返り、高島の背後に控える端山はすかさずその元凶に怒号を発した。しかし、その元凶は何食わぬ顔を崩さない。
競舟への参加を申請するために集まった市外の団体の代表たちは、能田の命知らずな態度によって高島が激怒するかもしれない、と恐る恐る様子を伺う。この場において最も怒らせてはいけない相手である高島は一瞬俯いたが、次に立ち上がったときには意外なことに微笑んでいた。穏やかな微笑みを浮かべながら立ち上がった高島は、そのままゆっくりとした足取りでソファへと歩いて行く。それも、能田が座っている方に。勿論、その後ろには端山が控えている。それは、付き人として当然の動きでもあった。
「……能田よ、そう厳しいことを言ってくれるな。Wi-Fiはここにも飛んでいるし、お前さんがパスワードを知らないというだけのことだよ。届け出の方法を手渡しに拘っているのも上の爺様方さ。そういうのが今に始まった事ではないことくらいは、解るだろう?」
「また上の話ですか。そうやって決められたことにただ従い続けるのは御免ですよ。俺だったら、せめてメールでの届け出は取り入れますけどねえ?」
能田がまだ引き下がらないのを見た高島は少し目を細めるが、すぐに止めてフッと小さく笑い、ポンと軽く、そのごつごつとした手を後ろから能田の左肩に乗せた。その手には能田が着ている青い作業着の肩に皺ができるほどの力が込められているのが判る。
「そういうことは、お前さんが何かの間違いで運営の側に入れたら考えることだな。少なくとも今は、従うしかない立場なんだからな……今日ここに来たのも、届け出を出すにはこうするより他にはないからだろう? 解ったら、余計なことを口走る口は閉じておけ」
能田はそう言われると、顔を歪めてソファの傍に置いてあるリュックからよれよれの封筒を取り出した。それを見た高島は益々ニヤリと笑うと能田の左肩から手を離し、ポンポンと二回軽く叩いて自分の椅子へと戻って行く。すると、その一連の流れを見届けた端山がソファの前へと進み、代表に代わってソファに座る面々へと語り始めた。
「それでは、各団体の代表をお務めになられている皆様とその他一名は、競舟への参加を届け出る旨をお書きになられた書類をお預かりいたしますため、ご提出いただけますか」
市外の団体の代表を務める四人は一人ずつ会釈と共に折り目の一つもない封筒に入れられた書類を手渡し、それを丁寧な手付きで受け取った端山も代表たちに礼を返した。能田だけが頭を下げることなく書類を突き出して睨み付けられ、礼を返されることもない。
合計で五つの封筒を受け取った端山は重ねたそれらを両手で持ち、くるりと振り返ってそこに座っている高島へ、深い一礼と共に差し出した。今度はそれらを高島が受け取り、机の引き出しから取り出した銀色に輝くハサミで封を切っていく。ショキショキと聞いていて心地の良い音が少しの間響いた後、取り出された五枚の書類は机の上に並べられて一枚ずつ高島が目を通していった。『岩狩友の会』、『屯田団』、『北広の民』、『いざり組』、そして『担い隊』。この五つの団体が競舟への参加を届け出るための書類が読まれていく。
やがて、高島は目を通し終えた五枚の書類をまた一枚ずつ机の上に置いていった。一枚目から四枚目までは何事もなく、再び机の上に静かに戻っていく。ところが、五枚目、即ち『担い隊』の代表である能田が提出した書類だけはそうとはならなかった。その五枚目の書類を持った高島は溜め息をつき、その書類を前の四枚とは別の場所に置く。そう、机の上ですらなく、床へと手放したのだ。そのため、書類はひらひらと宙を舞って落ちる。
応接室にいた誰もが一枚の書類が吹いてもいない風に吹かれているかのように舞う様子に目を奪われ、実際に床に落ちた後でも口を開こうとする者は現れなかった。書類を床に落とした側である、高島以外には。そして、心底冷たい声が重苦しい沈黙を破った。
「おい、能田……お前さん、いや、お前さんたち『担い隊』は本当に競舟に出る気があるのかよ。とてもそうは思えないな。少なくとも、この書類じゃあ参加は認められないな」
「どういうことですか、代表。書類に不備はないはずだし、そんなに俺たち『担い隊』が目障りなんですか。変な言いがかりはよしてくださいよ!」
折角提出した書類を無下にされた能田は憤激して立ち上がり高島の机へと詰め寄ろうとするが、その前に端山が立ち塞がって上から睨み付けた。その威圧に能田は立ち止まるしかなくなったが、それでも端山の体越しにその態度で不満をぶつける。異様な緊張感が応接室に張り詰める中、本棚の前に立つジャージ姿の若者だけが何食わぬ顔を貫いていた。
一方で、端山に止められて立ち止まった能田はその端山が少し横にずれると書類を床に捨てた高島を非難する言葉を吐く。その大声には理不尽に対する怒りも込められていた。
「その書類を作るのにどれだけ苦労したと思ってるんです。他とは違って俺たちには大した学もないけど、それでも何とか仕上げたんですよ。それをよく捨てられますね!」
自身の行動があまりにも非情だと高島は責め立てられたが、それを聞いた上で眉一つ動かす気配はない。それがどうした、と言いたげに目を細め、溜め息をついて口を開く。
「まあ、そう騒ぐなよ。言いがかりとかそういう次元の話じゃないんだ。……こう言うのも悪いが、大前提として書類に書かれている字が汚すぎるんだよ。人様に読ませることを考えているとは思うないほどにな」
「それは……書き直しますよ。そうすれば、参加は認めてもらえるんですよね?」
書類が受け取られなかった理由が明らかになったと思ったのだろうか、それさえ直せば問題はないはず、と能田の表情が一気に明るくなる。しかし、高島は首を縦に振らない。そればかりか、首を横に振ってまだ認められないことを冷たく示すのだった。これには能田も再び声を上げて怒りを露わにしてしまう。まるで裏切られたかのような態度と共に。
「何が、何が足りないって言うんですか。字を直せば済む話なんでしょう?」
「確かに不備はない。書類にはな。……つまり、それ以外にはあるってことさ」
高島が口にしたことに対して、能田は眉を顰めてありったけの困惑を示した。競舟に参加するために必要な書類は字を綺麗に書き直せば不備はないと言うのに、その書類の他に何を求めているのだろうか。その疑問の答えを探すより先に理不尽に対する怒りが頭を占拠したため、能田はまた不満を包み隠さない態度を乗せた声を上げる。
「書類以外の不備って……何なんですかそれ。そんなものがどこにあるって言うんです」
「何だ、お前。解ってないのか。と言うより、そういうところに気が回っていないのか」
書類以外の不備について、高島はすぐには答えない。それどころか、何故その不備がどういうものなのか解らないのか、と目を丸くしてさえ見せた。その態度を見た能田は益々頭に血が上り、再び高島へと詰め寄ろうとするが、それは再び端山が目の前に立ち塞がることで防がれる。またしても、爆発させた不満を口にすることで示すしかなかった。
「そんなことは知りませんよ、書類を持って来いとしか言われてませんからね。どうせ書類以外の不備なんて、代表や上の爺さんたちが俺たちを競舟に参加させたくないからって言い出した屁理屈みたいなものでしょう? いくらなんでも、それは卑怯ですよ」
「……本当にガキだなあ、お前は。お前の兄貴ももう少し教育をしてやった方が良いと思うが、元が駄目なら良くなる見込みも薄いだろうしなあ」
書類以外の不備について、高島はまたもや答えなかった。自分を煽るような言葉を浴びせられるが、能田はそれを聞いて笑った。勿論その言葉で頭に血が上らないわけではないが、ここで暴れてしまえば間違いなく『担い隊』は競舟に参加できなくなってしまうだろう。それは代表や競舟の伝統にしがみつく三地会の思う壺だ。辛うじてではあるが、それくらいの理性は残っていた。それに、答えない方が能田にとっても都合が良い。
「自分は察しの良い方ではないので、宜しければ教えてくださいよ、代表。書類以外不備というやつを。屁理屈じゃないのなら、それがどういうものかご存じなんですよねえ?」
今度は能田が高島を煽る番だった。すぐ近くに立っている端山は能田の無礼な発言を聞いた途端睨み付けるが、これで高島が答えられなければ『担い隊』の参加を認めざるを得ないことになる。どう答えるのか、と能田の口角は無意識のうちに上がっていった。
「……そんなもの、お前さんの周りに最初から見えてるじゃないか。なぁ?」
高島は心底つまらないものを見るかのような目をしながら、そう言って応接室の空間そのものへと人差し指を指し向ける。いや、高島以外の応接室にいた者たちにはそう見えていたのだが、その指が指し示す方向をよく確かめると、それは能田の後ろ、即ちソファに座ったままの四人の代表たちに向かっていた。彼らはそのことに気付くと、百万人の援軍を得たかのようにその存在感を獲得して目を細め、鋭い視線を能田へと突き刺す。能田が得ていた一瞬の余裕は前後の圧によって崩れ去ってしまった。残ったのはネズミ一匹だ。
恐る恐る後ろを振り返るも突き刺さる視線に耐えきれず、能田は再び前を向いたが、そこには椅子から立ち上がってこちらを睨み付けている高島が待ち受けていた。その顔にはもう微笑みの面影はなく、ただ一人の愚かな虫けらを眺める冷たい男の姿があるだけだ。
「確かに、お前さんは封筒がくしゃくしゃであろうとも、字が汚かろうともここに書類は持ってきたし、競舟に参加するために必要な金も納めてくれた。だがな、それはそこに座ってる四人が毎年当たり前のようにやってくれていることだ。競舟に参加させてもらうためにな。お前さんは今年団体を立ち上げて初めて競舟に参加しようっていうのに、四人には何の挨拶もないそうじゃないか。よく平気な顔をして同じソファに座ってられたなあ。……教えておいてやる。書類以外の不備っていうのはな、書類以前の礼儀ってことだよ」
そう冷たく言い放った高島は目の前に立っている能田がどんどん小さくなっていくのを解った上で、更に現実を知らしめるために語り続ける。もう反論も返っては来なかった。
「礼儀がなかったことだけが問題じゃないぞ。せめて菓子折りの四つや五つでも持って来ていれば話は別だったんだが……とにかく、根回しも足りてないのさ。競舟に参加するのが自分たちだけだとでも思っているのか。お前たちは最初から最後まで参加させてもらう側で、競舟がお前たちのものになることもないってことくらいは理解しておくことだな」
高島や代表たちからの冷たい視線に晒された能田はもう立っていられずに、静かにその場に正座した。顔を顰め、目も見開いたままで膝の上に乗せた拳は震えている。屈辱と怒りを混ぜ合わせたような味の飴でも舐めていそうな表情を浮かべたその姿からは、反省の様子はとても伺えない。少しの間でもそっとしておく方が良さげな雰囲気ではあったが、その状態へと追い込んだ側の者たちはそうした配慮などをするはずもなかった。
高島が椅子に座り直すと、それを確認した端山は床に落ちていた『担い隊』の書類を拾い、それを敢えてもう一度能田の目の前にひらひらと舞うように落とす。勿論、追加の口撃も忘れていなかった。高島の付き人であるのだから、当然の行動とも言えるものだが。
「話は代表の言われた通りだ。解ったら、まずはその書類は全部書き直してこい。ああ、それと代表の皆様とこの組への菓子折りも忘れずにな。楽しみにしておくぞ」
能田は床に落ちた書類を見つめたまま動かない。代表代理でもない、付き人風情の端山などは相手にしない、とでも言いたげなささやかな反抗がその沈黙によって示されているのだ。その様子を見た端山はフッと息を吐いて笑う。そのまま能田に書類を取らせるのかと思われたが、次の瞬間、端山は床に置かれた書類を踏み付け、それに対して思わず顔を上げて睨み付けた能田の右頬を思い切り殴り飛ばした。もれなく、怒号も浴びせられる。
「解ったのか解らないのか返事せえよ、この馬鹿たれ!」
床に転がった能田の鼻からは少し血が垂れたが、床は汚れずに済んだようだった。
能田が殴られたことに非難の声を上げる者も、応接室には誰もいない。散々立場を弁えない言動を繰り返した能田を庇う方が難しいのもあるが、この組の代表である高島に対する態度が一番の原因であることは皆解っていたからだった。寧ろ、拳の一発で済まされたのはまだまだ甘いくらいでもある。そんな目に遭った能田は、静まり返った応接室の中でよろよろと立ち上がると、右の頬が痛むのか両手で抑えつつ、左の脇で端山に踏まれた書類を抱えてドアの方へと歩き出した。誰もそれを止めようともしない。止める理由もなかった。能田が出て行けば、明らかにこの応接室の雰囲気は良くなる。それならば、止める必要もなかった。また来いよ、という一言さえもなく能田はドアノブに手を伸ばす。
だがその時、応接室の外、即ち事務所の方が少し騒がしくなった。お疲れ様ですッ、と少し前に高島に向けて組員たちが発した挨拶と同じものが聞こえてくる。誰かが事務所に顔を出したことは明らかだった。それは高島や端山にも解っているようでもある。
「おい、端山。今日はこの四人の他に誰か来る予定はあったか?」
「いえ、特には。幹部の誰かじゃないですかね」
誰かが来たのは解るが、それが誰かまでは解らない。もどかしい空気が流れたが、その空気は他ならぬその誰かによって打ち消されることになる。また、よろよろと応接室から項垂れて出て行こうとしていた能田も、その前に応接室のドアが外から開かれたことで、それを無視して出て行くというわけにはいかなくなった。と言うのも、そうして応接室に入ってきたのは、能田にのみ救いの手を差し伸べる者だったからである。
「何やら騒がしかったようですが、邪魔しましたかねえ?」
「……おお、手宮か。お前はいつから重役になったんだ?」
応接室のドアを開いて新たに入ってきたその手宮と呼ばれた男は、どこか能田に似たような口調でそう言った。いや、この場合は能田がその話し方に似たと言うべきかもしれない。茶色い革靴に白いスーツの上下と、赤いネクタイ。そんな格好の三〇代くらいの男がそこにいた。髪も茶色く染め上げて胡散臭さを振り撒くその男が現れると能田の顔にも輝きが戻り、くしゃくしゃになった書類をその男に見せてこれ幸いと言わんばかりに泣き付いたのだった。見苦しい男、手宮に見苦しく泣き付く能田。これが地獄絵図か。
「聞いてくれよ、兄貴。字が汚えからって代表が書類を受け取ってくれなかったんだ。おまけに殴られるし、組と他の団体に菓子折り持って来いって言われちまったよ。どうにかしてくださいよぉ」
膝下に倒れ込んで助けを求める能田を見下ろした手宮はにこりと微笑み、顔を顰めてその様子を見ている高島の方を向く。地味な格好をして椅子に座っている高島と、派手な格好をして登場した手宮。対照的な二人の視線が、幾つかの含みを抱えてぶつかり合った。
「……少し厳しすぎませんかねえ、伯父貴。こいつらの字が汚いのも今に始まったことじゃあないでしょう。菓子折りは用意させますから、参加を認めてもらえませんかねえ?」
静かな対峙の後、手宮はわざとらしく微笑んで下手に出てみせた。自分の弟分である能田を庇いつつ、こうすれば文句はないだろうと言うかのように反論を封じようとしているのだ。それを知った上で高島は険しい表情を崩さず、『担い隊』とその代表である能田とそれに手を貸している手宮への強硬な姿勢も崩そうとはしなかった。
「手宮よぉ、菓子折りを今更用意したところでそう簡単には話が通るってわけでもないんだよ。それにお前、遅れて来たってことはまたあの市長さんのところかい?」
手宮の要求に知らん顔をした高島は取り合わず、逆に手宮にとって触れられたくないであろう部分に切り込んだ。それに対して手宮の方もその軽薄な笑みを止めることはなく、応接室に流れる張り詰めた空気は益々煮詰まっていった。その果てにあるのは暴発か、それとも収束か。今のところはそのどちらに転んでも不思議ではなかった。ただ、お互いに自ら収める気はなく、相手を抑え込もうとしている時点でかなり危うい状況ではあるが。
「ええ、ちょっと顔を出して来ましたよ。市長さんも能田たちの『担い隊』を応援すると言ってくれましてねえ。市長さんもこう言われていることですし、折角この街に芽吹いた若い芽を潰すべきではないのではと思いますけどねえ。そうは思いませんか?」
捻り潰されたネズミとは異なり、堂々とした態度で高島と語り合う手宮は市長という言葉に動揺する様子はない。それの何が悪いのか、とでも言いたげな様子で高島から向けられた鋭い疑問に対して真っ向から答えてみせる。それどころか、市長の話題を逆手に取って『担い隊』が競舟に参加することを認めさせようと仕掛けるのだった。これにはソファに座ったまま事の成り行きを見守る団体の代表たちも驚くしかない。自分たちがかつて一生懸命に三地会や外輪組に頭を下げて勝ち取ったこの立場を、こうもあっさりと礼儀もなければ態度も悪いような男が代表を務める団体も得るというのか。その可否を委ねれている高島へと市長のお墨付きを携えた手宮が迫っているのだから、動揺するのも無理もないことだ。側から見れば、参加を認めない理由はもう見当たらないように見えてしまう。
だが、それでも高島は表情を緩めなかった。参加を認めよう、とも言わなければ首を縦に振ることもない。やはり、競舟の運営を任されている組の代表はそう甘くはなかった。
「若い芽、ねぇ。その芽が腐っているかどうかはまた別の話だろうに。全く、お前もあの市長さんに何もかもべらべらと話すんじゃないよ。第一、参加できるかどうかを最終的に決めるのは上の爺様方なんだからな。俺はあくまでも『ふるい』なんだよ、その目がかなり厳しいという自覚はあるがね。……おっと、この洒落は通じなかったかな?」
抜け目なく煽ることも忘れずに、そう言って高島は手宮の提案を振り払ったのだった。
その高島の言葉を聞いた手宮からは、とうとうその顔に貼り付けていた笑みが消え失せる。その薄い仮面が剥がれた後に残ったのは、自分の思う通りに事が進まないことに苛立つ怒りを示している醜い顔だけだった。その場で直ぐに暴れ出す気配はないが、一人になった途端部屋に置いてある椅子を蹴りそうな雰囲気も感じさせる。それでも内なる衝動をなんとか抑えているように見える手宮は、高島の前であるため態度だけは取り繕い、応接室から出て行け、とだけは言われないために下手に出て無茶な説得を試みる。
「……市長さんが『担い隊』の参加を歓迎してくれているんですよ。これで『担い隊』を競舟に参加させれば、この組も大きな恩を売れるじゃないですか。それをどうして、そこまで頑なに拒むんです? まさか、能田を嫌っての私情じゃあないでしょうねえ?」
「私情? 馬鹿を言うな、そんな事で代表が務まるものか。それにな、たとえ市長さんがどれだけ『担い隊』を応援していたとしても、それが参加できるかどうかに関する判断に影響することはないんだよ。競舟はボートレースじゃあない。この街の伝統なんだよ。そんなことも解らずに恩を売るだの何だのと、恥ってものを知らないのかお前って奴は!」
段々と余裕を失っていく手宮と対照的に、高島は全く変わらない様子で相手を撥ね付ける。代表としての威厳を感じさせる態度で組の幹部にさえ立ち上がって怒号を飛ばし、それを受けた手宮は付け入る隙をすっかり見失ってしまった。立ち上がって自分の方を睨み付けてくる高島の圧に押され、思わず後退りまでしてしまう。だが、そこで手宮は逆転の好機を背後に求めた。勢いよく振り返ると、ソファに座ったままの団体の代表たちへと語りかける。まるで、高島の鋭い視線から逃れるかのように。実際、その通りなのだが。
「……いかがですか、代表の皆さん。この街の未来を担いたいと叫ぶ若者たちを受け入れてはもらえませんかねえ? 競舟に参加される皆さんが受け入れてくださるなら、きっと伯父貴にも納得してもらえると思うんですがねえ」
そう言われた四人の代表たちは手宮の必死さを表したような視線から目を背け、高島の方を向こうとしたが、その高島から向けられる鋭い視線を見た途端、そちらからも目を背けて俯いてしまう。この場において余計なことを言うべきではない、と察したからだ。
「文句が出ないということは、お認めになられるということですかねえ?」
「何かの間違いでその四人が認めたとしても、こちらが認めなければ同じことだろうが。それとも何か、お前はこの組の代表にでもなったつもりか。破門してやろうかこの野郎」
懲りずに『担い隊』の参加を認めさせようとする手宮だったが、それも高島があっという間に封じてしまう。遂に破門という言葉まで飛び出し、高島と手宮の対立は完全に表面化したのだった。手宮や能田には後日出直して菓子折りを持ってくるという選択肢はあるものの、持ってくるのが遅いと受け取られない可能性がある以上、引き下がれないのだ。
そのため、手宮は高島に対する話の内容を提案から半ば脅迫に近い形に変えざるを得なかった。ここで『担い隊』の参加を認める旨の確約を勝ち取らなければ、『担い隊』への投資や市長からの支援も無駄になってしまう。それだけは避けなければならない。代表を更に怒らせることになろうとも、『担い隊』は競舟に参加しなければならないのだから。
「……代表は、どうしても『担い隊』を競舟に参加させたくはないようですねえ?」
「参加させたい、させたくないの問題だと思っているのか。お前こそ私情でものを考え過ぎだな。そんな奴がよくも俺に私情じゃないのか、なんて言えたものだな」
「そうですか、そうなんですか。解りましたよ。こうしてお願いしても無駄ってことが。もう帰らせてもらいます。……おい、能田。帰るぞ」
「え、でも兄貴……」
いいから付いてこい、とまだ応接室に残ろうとする能田を叱り飛ばして手宮は立ち去ろうとドアへと向けて歩き出す。その表情はさほど暗くはなかったが、その後ろに続く能田はすっかり沈んでしまっていた。競舟への参加が絶望的になったのだから、そうもなるだろう。少し前に能田が歩んだ道を繰り返すその姿を見て、それを引き止めようとする者はまたもや誰もいなかった。やはり、この場の誰もが、と言うよりは競舟という伝統と共に生きてきた者たちには『担い隊』という新たな異物を受け入れる気がないように見える。
ドアまであと四、五歩のところまで歩いてきた手宮と能田は、その近くの本棚に両手を組んで立っているジャージ姿の若者と一瞬目を合わせながらも素通りし、そのまま応接室から立ち去るように見えた。だが、ドアノブに手を掛けた手宮はそこでもう一度、口を開く。背中を見せながら聞こえてきた手宮の声は少し低くなり、語られたその内容も面と向かっては言えないようなものへと変貌していた。手宮は次のようなことを語る。
「参加が認められないことは解りましたよ。ただ、こうして認められないのであれば能田たちは他の手段を選ぶかもしれないとだけ、忠告しておきましょう。認めた方が安心して本番を迎えられますよ。競舟が無事に行えなければ、代表の面子も丸潰れでしょうから。……別に組の代表になったつもりでもありませんが、組の分裂を防ぎたいのならそうした方が良いと思うんですがねえ?」
それは最早提案ではなく、殆ど脅迫に近いものだった。参加が認められないなら、能田たち、即ち『担い隊』は何をすると言うのか。本番が近付く中で抱える火種ほど不安なものもないだろう。高島が抱えていた懸念は的中し、現実のものとなったのだ。もし『担い隊』が何かをしでかせば、それは組の分裂どころか街そのものに亀裂が入ることになりかねない。応接室がかつてないほどの緊張に包まれ、特に張り詰めた空気が手宮と高島の間に流れている。唯一それに気付いていないのは、その間に立っている能田だけだった。
能田だけは、手宮が頑固な高島に対する説得を頑張っているとでも思っているのか、目を輝かせて兄貴分である手宮を見つめている。純粋に『担い隊』として参加し、競舟の在り方が変わる切掛になりたいと切望する若い隊長はその場に流れる不穏な空気も読まず、険しい顔をしたままの高島の前に土下座して大きな声を出した。
「代表! 俺も、いや、俺たちもこの街の未来を担いたいんです。だから競舟に参加させてください。お願いしますっ!」
「やかましい、お前は黙っていろ!」
その場違いな土下座と大きな声は端山の怒号に掻き消され、能田はまた立ち上がって俯いてしまう。それを無視した手宮はドアノブから手を離し、応接室から出て行く気がないことを示した上で高島の喉元にそう簡単には飲み込めない選択を突きつけた。先程口にした、脅迫めいた恐ろしいことを踏まえた上で、どうするのかを迫っているのだ。
「さあ伯父貴、どうされます。ここで能田たちを突き放して『担い隊』に最後の手段を選ばせるか、それともその広い心で受け入れるか、どちらを取るかは伯父貴次第ですねえ」
手宮としては高島がどちらを選んだとしても、『担い隊』がこの街の錆び付いた伝統を変える鍵になることに変わりはなかった。つまり、どちらが選ばれたとしても笑えるということだ。責任を取らされて高島が代表を辞めさせられれば、それで十分なのだから。高島の顔が困った顔に変わるのが楽しみだ、と振り向いたのだが、その予想は裏切られた。
高島の顔は確かに変わっている。もう険しい顔はしていない。だが、困った顔をしているわけでもなかった。寧ろ、これまで手宮や能田には見せなかった取り繕ったものでもなければ、貼り付けたものでもない穏やかな笑みを浮かべていたのだ。まるで『担い隊』に関する不安など何とも思っていないような、晴れやかな笑みだ。そんな笑みで何を言うのかと身構えるが、その口角の上がった口から放たれた言葉は手宮でも能田でもないまた別の誰かに向けてのものだった。これまた穏やかな視線の先に、その誰かがいる。
「おい、一矢。聞いての通りだ。『担い隊』はこんな体たらくらしいが、それでも入ってみるかい?」
「……ああ、構わないよ。小父さん」
そう答えたのは、本棚の前に手を組んで立っているジャージ姿の若者だった。黒い髪を頭の後ろで束ねたその若者は一矢と呼ばれ、高島が話しかけたことによって一気に応接室に集った面々からの視線を集める。それは高島と対峙していた手宮や、能田にとっても同じことだった。その中でも、手宮は自分の要求よりも優先されたその若者に対して鋭い視線を向けるが、その一矢と呼ばれた若者はそれに動じる様子は少しも見せない。その若者の素性をよく考えると知らされていない手宮は、当然とも思える質問を発するのだった。
「……こんな時に言うのもなんですが、誰ですか。その若いのは」
「うん? ああ、お前には紹介していなかったな。と言うより、皆にも名前は言っていなかったよな。すまない、今紹介させてもらおう。彼は俺の古い友だちの息子でな、高殿一矢と言うんだ。競舟を見学したいと言って昨日この街にやって来たんだよ」
高島は椅子から立ち上がり、右手をジャージ姿の若者、即ち一矢に向けて紹介する。それを受けて一矢も一礼したため、応接室の面々から向けられていた視線も次第に和らいでいった。顔を上げた一矢は改めて自ら口を開き、軽く自己紹介を行う。
「ご紹介の通り、競舟を見学するためにやって来た高殿一矢です。この街の伝統に触れるのを楽しみにしておりますので、よろしくお願いします」
ソファに座った四人の代表は軽く頭を下げて挨拶を返し、手宮や能田は話の腰を折る紹介と挨拶に白い目を向け、挨拶を返すことはなかった。それもそのはず、高殿一矢という得体の知れない若者に関する紹介が挟まったことで、高島は選ぶべき選択への回答を有耶無耶にしたからである。すっかり雰囲気も和んでしまったため、ここからもう一度選択を迫ることも難しいように思えてしまった。煙に巻かれたとは、正にこのことだろう。
「……あのですね、代表。こちらとしては『担い隊』をどう扱うのかに関して具体的に答えていただきたいんですがねえ?」
「そうそう、一矢は競舟に参加してみたいとも言っていたな。どうだい、能田。お前たちの『担い隊』はまだ隊員を集めている、と聞いているが?」
「え、ええ。隊の仲間は多い方が良いですよ。入ったからといって舟の漕ぎ手になれるというわけではありませんけど……」
突然高島に話を振られた能田は驚きつつ、『担い隊』の詳しい事情を聞かれるままに答える。このまま聞かれ続けると余計なことを口走りかねない、とすかさず手宮は高島を牽制するために間に入り、釘を刺そうと口を開いた。それに、嫌な予感もしたからだ。
「『担い隊』は三地会の舟の漕ぎ手になる資格が得られないような、外から来たこの街に暮らす若者たちのための団体ですからねえ、一矢クンには悪いようですが、誰彼構わず入れるというわけではないんですよ。そうだろう、そうだよなあ、能田?」
振り向いて能田に圧をかけて黙らせつつ、手宮は高島が仕掛けた罠に引っかからないように制御しようとする。それはある程度の効果を発揮したが、高島の次なる手がどういうものかまでは予想ができていなかった。それ故に、高島の口を閉ざすという最善の策を逃して決定的な隙がその場に生まれてしまう。そして、それを逃す高島ではなかった。
「そうか。『担い隊』は一矢が入るのを拒むのか……」
「生憎ですがそこは譲れませんよ、伯父貴。それよりも答えるべきものがあるでしょう」
悪足掻きは止めてください、と手宮は長い道のりを経てようやく突き付けたかった二択を高島へと突き付け、後はその答えを待つばかりとなった。高島がそれほど困った様子でもないのは不満として残るが、どちらを答えたとしてもこちらの思う通りには違いない。
「さて、どうしたものかなあ」
「悩まれるのも解りますが、最早『担い隊』を無視して競舟を行うことはできませんよ。さあ、ご決断を。その決断は伯父貴の返事一つなのですから」
いつの間にか手宮の顔にも笑みが戻り、応接室の空気も仮初ではあるが和やかになりつつあった。もっとも、その水面下では未だに互いに火花を散らしているのだが、今この段階では手宮や能田の側が優勢であるように見えた。手宮や能田からすれば、『担い隊』の参加が認められることが快挙である。あれほど渋った高島から参加の許可を勝ち取れば、彼らの望むものにまた一歩近付くことになるのだから。そして、それはもう目前であるようにも思える。事実、認めざるを得ない状況が出来上がっていた。
高島からすれば、ここで強硬な姿勢を貫いて参加を認めないと告げることは本番の前にして争いの火種を産むことに等しい。結果的に『春カナル杯』並びに『競舟』が中止に追い込まれる可能性もあるし、そうなれば外輪組の代表として責任を取らされることになるだろう。そうなった時にはこの街で受け継がれてきた伝統も崩れ去り、『担い隊』やそれを支える者たちによってその姿を変えられた新たな伝統に塗り潰されることも避けられまい。その最悪の事態を防ぐために、打てる手は既に打ってあるのだが……。そう、打っているではないか。それなら、別にここで悩む必要もないわけだ。それならば。
「よし、ここはお前たちの言う通りに『担い隊』の参加は認めようじゃないか」
沈黙の後にそう口にすると、にやりと顔を歪めて手宮と能田は顔を見合わせて形だけ頭を下げ、ある意味では心のこもっていない感謝の言葉が次々とその口から飛び出した。
「伯父貴、ありがとうございます。競舟は大成功を収めること間違いなしでしょう」
「ありがとうございます、代表。本当にありがとうございますっ」
「ただし」
その一言で、二人の顔からまた笑みが消えた。高島が何を言い出すのかという緊張がまたその場を包み、和やかな雰囲気も一瞬のうちに消え去ってしまっている。それを見ながら苦笑するのを何とか堪えつつ、高島は二人が見ていて不愉快になるほどに喜ぶのを止めさせるために、どうやっても引き抜けないような深さにまで釘を打ち込んだ。
「一矢を『担い隊』に入れると約束するなら、という条件付きだがね。それさえ約束してくれるなら参加は認めてやろう。もし途中で一矢から『担い隊』への出入りを禁じられたという類の連絡が入れば、その時点でお前たちが競舟に参加する資格を失うことになる」
これには手宮と能田は驚きを隠せない。参加が認められたと喜べば条件付きと言われ、どんな条件かと思えば、高殿一矢を『担い隊』に加えること、とは。それがどういうことを意味するのかという理解が十分でないうちに口を開いたのは、能田の方だった。
「……それはとてもありがたいご提案ですがね、代表。本当にその条件を受け入れれば参加を認めてもらえるんですか?」
「勿論だとも。『担い隊』の隊員の条件を満たしているとは言えない一矢をそちらが受け入れるなら、こちらも参加を認めようと言っているのだからな」
「兄貴。俺は構いませんよ。代表の古い友だちの息子さんなら、別に大した問題もないでしょう。それで参加できるなら、喜んで受け入れますよ、ねえ、良いでしょう⁉︎」
すぐ目の前に掴めるような希望をぶら下げられた能田は見え透いた罠に引っ掛かり、勢い良く手宮の方を見て高島の思惑通りに説得を始める。それを鬱陶しく押し退け、手宮はまたしても鋭く視線で高島を見つめた。その真意を伺い知ろうとしたのである。横で一矢を入れても構いませんよ、と何度も口にする能田は無視しつつ、どうにか一矢を『担い隊』に入れずとも参加を認めさせる方法を探したが、そう簡単には出てくるはずもない。
「確かに、これは魅力的なご提案ですがねえ。まさか伯父貴がそんな私情を理由に参加を認めてくださるとは思いませんでしたよ」
そうやって苦し紛れに煽るような言葉を口にすることが精一杯だった。それでもこれはこれである程度抵抗にはなるとは思ったが、高島は大した反応も見せない。反論できないのか、と内心に喜びが生まれたのも束の間、あっさりと高島は口を開いた。
「それで? 条件を受け入れるのか、受け入れないのか。どっちなんだ。受け入れないならこの話はなかったものにしても良いんだがな……」
今度は、手宮と能田が選択を強いられる番だった。これには手宮も苦虫を潰したような顔をしてしまう。やられた、完全に主導権を奪われた。いや、最初から主導権は握られていて、それを一瞬こちらが奪ったように見せかけただけかもしれなかった。良いように踊らされていたということか。そうだとすれば、こちらに答えをはぐらかす余裕はない。
「お前たちはついさっき言っていたよなあ、『担い隊』を参加させることが賢明な選択だとな。それを選んでやる代わりにそちらが受け入れる条件を受け入れるのか、それとも受け入れないのかと聞いているんだ。こちらとしては、『担い隊』の参加を認めない場合の覚悟だってできているんだぞ。そのことは忘れるなよ?」
「あ、兄貴。代表の言う通りに一矢を受け入れてましょうよ。それくらい別に良いじゃないか。ここで受け入れないと、参加も認められなくなりますよ、そうしましょうよ!」
「ええい、うるさい。お前は静かにしていろ!」
一切の誤魔化しを認めない態度を高島は貫き、条件を受け入れるのかどうかすぐに答えろと迫る。それを聞いた能田は完全に飲み込まれて焦りに焦り、慌てて隣に後ろから手宮の肩を掴んでゆすった。募る苛立ちと共にその手を振り解いた手宮は歯を食いしばり、自分たちが選択の余地がない状況に追い込まれたことを痛感する。最早選択肢は一つしかないことは解りきっている。それでもそれを選びたくない、と思うことは止められない。求めていた競舟への参加は認められたのに、何だこの屈辱感は。高島の提示した条件を受け入れなければならないからだろう。要は、高島に頭を下げることが気に食わないのだ。
しかし、いつまでもこのままというわけにはいかない。能田は条件を受け入れようと騒ぐし、高島は条件を受け入れる以外の答えを求めてはいないのだから。古い友だちの息子とは限らない、その素性が怪しすぎる高殿とかいう若いのを受け入れるのも癪だが、そうするより他に選択肢は見当たらない以上、それ以外の道は残されていないのだった。
「……兄貴、意地を張ってる場合じゃないですよ。折角代表が俺たちを認めてくださるんですから、そうさせてくださいよ……」
「……解ったよ、そうすれば良いだろう」
「え?」
「二度も言わせるな、解ったと言っているんだ! 伯父貴もこれで満足ですよね。その代わり参加は認めてくださいよ?」
大声を出して能田の声をかき消した手宮は、顔を歪めながら声に出したくもない言葉を振り絞って口から発した。聞き逃した能田に怒号を浴びせつつ、高島にも参加を認めるのかと確認を取る。それを聞いた高島は憎たらしいほどに満面の笑みを浮かべていた。最も見たくはなかった笑顔を目の当たりにするまでもなく手宮は顔を背け、能田の顔には輝きが戻って繰り返し頭を下げる。それは高島だけではなく、ソファに座る代表たちにも向けられた。ありがとうございます、という声が何度も何度も応接室の中に響き渡る。
「勿論だとも。一矢なら『担い隊』の漕ぎ手としても活躍してくれるだろうさ。お前さんたちが思うよりもずっとな。それと、こうなったらもう菓子折りも要らんからな……代表の方々も、『担い隊』の参加を認めてくれるかな?」
高島の笑みによってようやく応接室に本物の和やかな雰囲気が定着し、ソファに座った四人も胸を撫で下ろしつつ頷く。手宮だけが顔を引き攣らせているのを隠していた。
「……これはこれは、ありがとうございます。ほら、お前も頭を下げるんだよ」
「あ、はい。ありがとうございました。色々とご迷惑をおかけしまして……」
そうして挨拶を済ませると、手宮と能田は『担い隊』に入ることになった一矢を連れて応接室から出て行く。手宮だけが、成果よりも不満を抱えて退出する羽目になっていた。
応接室での応酬から少し経った頃、薄暗い階段を三人の男が歩いていた。その三人の男というのは、手宮と能田、そして一矢である。能田は先頭を歩き、その後ろに一矢と手宮が続いていた。階段を降りる三人の間に会話はなく、連続した足音だけが踊り場で一瞬重なった後にまたバラバラになって響いている。そうしているうちに前方に光が現れた。雑居ビルの一階に着いたのだ。三人はそのままその光が射し込む方へと進んで行く。
外に出た三人の前には、昼時で混み合う商店街を行き交う人々と、その人々の波を歪める形で雑居ビルの目の前に停められた黒いバンが現れた。随分と邪魔なところに停めたものだな、と一矢は微かに眉を顰めるが、手宮と能田はそのバンに近付いていった。どうやら、この黒いバンをここに停めたのはこの二人であるらしかった。能田は進み出て左側の後部座席のドアを開き、手宮が乗り込むのを待ってからそのドアを閉める。手宮は開けられたドアに近い方の後部座席に座り、奥に詰めるような様子はなかった。更に、能田の方も一矢が手宮に続いて乗り込もうとする前にドアを閉めてしまう。それが故意であることは明らかだった。その確信をわざわざ支えるかのように、能田は冷たい顔で口を開く。
「お前は右のドアからだ。俺がドアを開ける義理はないんでね」
歓迎されていないことは明らかだった。それもそのはず、一矢は高島から『担い隊』へと送り込まれた異物なのだから。それが歓迎される方が奇妙だというものだろう。自分の立場を改めて自覚し、一矢はバンの後ろから回り込んで右側の後部座席のドアへと向かった。能田はバンの前から回り込んで運転席のドアへと向かう。当然、その二人は雑居ビルとは面していない側の車体において再び顔を合わせるが、視線を合わせようとはしない。
それにしても、つい先程まで一矢を受け入れようと手宮に懇願していた能田が、こうも態度を変えてくるとは。あれも手宮を説得するための態度だったということか。こうして振り返ると、あの応接室で言葉を交わしていた高島や手宮、それに能田も、その誰もがその本心を隠して作り上げた言葉を口から発して取り繕っていたということか。それは応接室で過ごした時間の大半を沈黙に費やしたからこそ、気付けたことかもしれなかった。
右側の後部座席のドアと運転席のドアが閉められるのは、ほぼ同時だった。バタン、という確かな重みを感じる音が車外に音を、車内に振動を伝える。運転席に座った能田がエンジンキーを差し込むと、車の下からエンジンが始動する音が響き、カーナビやメーターに光が灯る。あとはアクセルを踏めば進み出す状態にまでやって来た。バックミラー越しに後部座席を、厳密に言えば運転席の斜め後ろに位置する後部座席に座る手宮の方を見た能田は、一矢に一瞥することもなく、少し前に見せた冷たさを捨てた態度で話しかけた。
「どちらに向かいましょう、兄貴」
「そんなことは決まっているだろうが、皆がSUPホテルで待っているんだろう?」
「ああ、そうでした。それでは発車しますよ。シートベルトは締めてくださいね?」
能田がそう言うと、バンは雑居ビルが面する商店街の通りを進み始めた。そのまま直進すると交差点に差し掛かるがそこを右折し、一本隣の通りと繋がるまた別の交差点も右折して走って行く。そうしてバンは一本隣の通りに入り、その通りに面する横断歩道を挟んで並んだ薬局とクリニックの間からは事務所の入っている雑居ビルが見える。それは、一矢が座っているバンの右側の後部座席に近い窓にはっきりと写っていた。視界の端にそのビルを捉えた一矢はそれを目で追うが、バンが通りを進むに連れて直ぐに見えなくなってしまう。再び視線を前に戻そうとするが、そこでそれを許さない事態が起きた。
おい、と一矢に向けて声がかけられたのだ。運転席に座る能田ではない。聞こえてきた方向から察するに、左側の後部座席に座る手宮に違いなかった。応接室で高島にやり込められた、あの手宮だ。さぞ機嫌も悪かろうそんな男に声をかけられるのはご免被りたいところではあるが、無視するわけにもいかない。そうすれば、より深刻な事態を招くことは想像に難くないからだ。そう割り切って目線を左へと移すと、案の定その手宮がこちらを見ている。向けられているのはまだ辛うじて目線のみだが、そのうち襲いかかってきそうな鋭さを兼ね備えているため、油断はできない。元からする気もないが、念のためだ。
「手宮さん、でしたよね。何かご用ですか?」
まずはなるべく刺激しないように当たり障りのない言葉を返すが、それは通用しない相手には無駄なことでもある。実際のところ、手宮は自分の思い通りの答え以外を他人に求めない人間でもあるようだし、こういった誤魔化し方は殆ど意味を持たなかった。目線をこちらに向けて凝視している手宮は一矢の言葉に反応を返すことなく、自分が言いたいことを口にし始める。そしてそれは、高島の前とはまるで異なる態度と口調だった。
「高殿、とか言ってたよなぁ。伯父貴は古い友だちの息子と言ってたが、それをハイそうですかと鵜呑みにできるほど間抜けじゃないんでね。同じことを二度聞くほど優しくないし、洗いざらい話してもらおうか。どこの馬の骨とも知れないお前は、一体何者だい?」
「……仰られている意味が解りかねますが。私は高島さんの言われた通り、古い友だちの息子という肩書き以外に言えることはありませんよ?」
「あくまでもしらばっくれるつもりか、良い度胸だ」
平穏に包まれていた車内が、かつての応接室のように濃密に煮詰まっていく。左右の後部座席に座った二人の男の間に生じた緊張は運転席にも伝わり、ハンドルを握った能田は突然のことに困惑を示すばかりだった。それが油に火を注ぐことになることも知らずに。
「ま、待ってくれよ兄貴。そいつが代表の友だちの息子じゃないなら、わざわざ代表が俺たちに嘘をついてるってことになるじゃないか。どうしてそんなことを……」
少し進んでまた交差点に差し掛かり、今度は信号が赤くなったためバンを停めた能田はバックミラー越しに後部座席を見ながら疑問を発した。手宮の方を見た後、疑惑に晒されている一矢の方をチラリと見る。目が合うと慌てて逸らしたその姿は揺れに揺れていた。
「能田、それだからいつまでもお前は脳足りんなんて言われるんだってんだよ。仮にも『担い隊』を引っ張る男ならもっと広い目を持つもんだ。まだ解らねえのか、こいつは伯父貴がお前たちを見張らせるために寄越した厄介者かもしれないってことだぞ!」
次の瞬間、助手席の背中を手宮が勢い良く蹴飛ばすと共に怒号を浴びせてバンは大きく揺れた。うわあ、と情けない声を出して能田は揺れに何とか耐えるが、その姿を見た手宮は益々頭に血が上ったのか、何度も何度も助手席の背中を蹴り付ける。物理的に振動に音の振動が重なり、車内から平穏というものは完全に消え去ってしまっていた。
「そういうことまで頭が回らねえから、お前は俺がついてないと駄目なんだ!」
やがて助手席の背中を蹴り付ける頻度は徐々に勢いを失い、それに伴って手宮は息切れして座席に深く座り直した。応接室で上手くいかなかった鬱憤の大半をここで吐き出したようにも見えるが、できれば他所でやってほしかったものである。見苦しいことこの上ないのはたとえ蹴り付けていなくても変わらなかったが、手宮が一矢の方へと身を乗り出して顔を覗き込んできたことでより一層、そう感じざるを得なかった。車が再び動き出す中で、助手席の背中を蹴り付ける一部始終を見た上で真顔を貫いていた一矢へと手宮は近付き、自身の質問に答えるようにと迫る。物理的にも、そして精神的にもである。
「さあ、正直に答えてもらおうじゃないか。この状況で顔色ひとつ変えないでいられる時点で、お前が只者じゃないってことくらいは解るんだよ。年齢と出身、伯父貴との関係、知っていることは全て話すんだ。さもないと、冷たい海の底に沈むことになるぞ?」
その脅しは手宮ならそうするだろう、という実感を伴うものでもある。こう言われれば答えるより他に選択肢はないように思えるが、何とそこで一矢の口角は少しだけ上がる。フッと軽く笑みが溢れ、それを見た手宮はその反応に対する理解が遅れてしまう。まさか笑うとは想定もしていなかったからだ。実際に何が起きたか理解したとき、眉を顰めた手宮はその笑った得体の知れない男から少し離れたが、それでも優位を保つために吼えた。
「どうした、何がおかしい。俺の顔に何かついてるってのかこの野郎!」
「特には何も付いてはいませんよ、バランスの悪い目と鼻と口以外にはね。おかしいも何も、俺を沈めればもれなく伯父貴があんたたちを海に沈めるだろうに、よほどこの人たちは海に沈みたいのかなと思っただけですから。そんなに海に沈みたいのなら、この車ごとダイビングでもしたらどうです。ご一緒するのはご免ですがね」
堂々とした一矢の態度と言動は、手宮を沸騰させるのには十分過ぎるほどだった。
「この野郎、舐めた口利きやがって……俺を誰だと思っていやがる!」
遂に爆発した手宮は動いているバンの車内でシートベルトを外してそのまま一矢に殴りかかった。左側の後部座席から立ち上がった手宮が体を回しながら放った左の拳が、右側の後部座席に座ったままの一矢の顔へと目掛けて放たれる。体の回転を加えた重たい拳は勢い良く一矢に向かっていったが、それが左の頬に叩き付けられることはなかった。一矢が飛んできた手宮の左の拳を右手で受け止めたからだ。まさか受け止められるとは思っていなかった手宮は掴まれた拳を振り解くのが遅れてしまい、それが隙を生んだ。
受け止められた左の拳は繋がっている腕ごと時計回りに捻られ、それで体勢を崩された手宮は自分が蹴り付けていた助手席の背中に頭から激突してしまう。それはあまりにも一瞬のことだったため、運転席に座っている能田が物音を聞いてバックミラー越しに後部座席の方を見た時には、シートベルトを外して助手席の背中に倒れ込んでいる手宮の姿が映っていたのだった。そのため、勘違いした能田は驚いた口調で手宮へと声をかける。
「あ、兄貴。シートベルトは外さんでくださいよ。運転中なんですから」
それに対し、左腕を捻られた痛みと助手席の背中にぶつかった痛みに苦しめられている手宮はそうじゃない、と言うこともできず、椅子に座ったままの一矢に見下ろされていたのだった。その冷たい視線から目を逸らすが、一矢は逃さんと言わんばかりに口を開く。そこで語られたのは、手宮が脅す形で答えさせようとしたことだった。即ち、脅されたから話すのではないと示している。手宮はまたしても屈辱感に与えられることになった。
「さて、質問に対して答えるとしようか。この状況で答えるということはそちら側に脅されて答えるようにも思えるかもしれないが、そうではない。わざわざ答えなくても良いことを答えてやるのだ、ということを忘れないでおくことだな。一度しか言わないからな」
倒れ込んだ手宮と、ハンドルを握っている能田の二人は一言も発さず、馬鹿正直に一矢が次に口を開く時を待った。そのある意味では滑稽な光景を前に、この場を掌握した一矢は頭の中に響く笑い声を耳にする。耳の外から聴こえる音とは異なり頭の中から響く声は非常に透き通っているが、その声色は凄まじく厳しく、聞き覚えのあるものだった。
その声は言う。お前は何者だというのか。お前が何者かを知る者などいるはずもない。お前自身ですら知らないのだから。その口から語られるお前は全て偽りでしかない、と。
それを全て受け入れた上で、一矢と名乗るその若い男はこの場において自分が必要としている自分自身の肩書きを口にする。たとえその全てが偽りで作られていたとしてもだ。
「……俺は高殿一矢と呼ばれているが、厳密に言えば日本人とも言えない。親の顔を知らないからだ。高殿という名字も本来は楼、即ちロウから来ている。要するに、元々はカズヤ・ロウと名乗っていたというわけさ。今の名前は高島さんに名付けてもらったものだ」
そこまで述べると、一矢ことカズヤ・ロウは一度言葉を区切った。自分で語っていて笑いそうになったからだった。我ながら、よくもまあここまで嘘で塗り固めた言葉を並べられたものである。それだけではない。その中に幾つかの真実を混ぜることがこれほど愉快だとは、一度やってみて良かったと思えた。それだけのことだ。だが、それが良かった。
「これがこの根無し草のような二四歳が語ることができることの大体だが、まだ知りたいことはあるかね? 脅してまで聞き出すような内容ではないことは解ったとは思うが」
ハンドルを握った能田は黙ったままだ。一矢が語ったことについてじっくりと飲み込んでいるのか、それとも手宮の反応を待っているのか、あるいはそのどちらもか。それは今の段階では判定できなかった。その判定の基準となる手宮の方は、助手席の背中に頭をぶつけた痛みがまだ治まらないらしく、少し前に暴れたときのような大きな声は出せない。
「伯父貴にそう言えと言われたんだろうが、お前が本当に高殿一矢であるという証明は何一つないじゃないか……おい能田、まさかお前今の話で納得したんじゃないだろうなぁ」
運転席に座ってハンドルを握っている能田に聞こえるか聞こえないか微妙なくらいの大きさの声を手宮は出したが、バックミラー越しに能田が斜め後ろを見たため、それが聞こえていたということが判る。そうして兄貴分である手宮を見た後、能田は一矢の方に視線を移した。それがどういう意味を持つのか、一矢は何となく予想を立てた。恐らく、能田は揺れているのだ。兄貴分である手宮の忠告を受け入れてこの一矢という異物を排除するか、それとも高島の条件を受け入れて『担い隊』に迎え入れるのか。今の能田では手宮の影響から逃れることは難しいだろうし、どちらを選ぶのかは殆ど決まっているようにも思えるが、もし前者を選べば一矢が取ることができる選択肢も限られてきてしまう。そうなったらそのときはそのときだが、それでは高島の望むような結果は得られないだろう。
「そうか、そうだったのか。もうそれ以上語らなくて良いよ。お前はこの『担い隊』の隊長、能田が隊員として認めるよ。居場所がないのは俺たちも同じなんだ。そういうやつらのためにこそ、『担い隊』はあるんだからな。でも、必ず漕ぎ手になれるわけじゃないからな……そこは平等に試験を受けてもらうことになるぞ?」
ところが、能田の選択は一矢の想像と少し異なる形だった。まさか、手宮の忠告を耳にした上でこの一矢を『担い隊』に受け入れるとは。兄貴分の言いなりではなく、ある程度の自立心を持ち合わせているとは、想定外のことだ。この能田という男、単純に見えて意外と厄介なのかもしれない。一矢の中での能田に対する認識は、ここで一段階上がった。注意するべき人物から、脅威として警戒するべき人物へとだ。何せ、『担い隊』と関わることは能田と関わることとほぼ同じなのだから。即ち、『担い隊』を率いる能田からその素性に疑惑が残る人物として認識されたまま、行動しなければならないのである。
そして当然のことながら、それを聞いて黙っている手宮ではなかった。もし先程一矢に殴りかからずに座席に座ったままだったならば、きっと能田が自分の忠告を耳にした上で言うことを聞かなかった時点で運転席へと蹴りが飛んでいたかもしれなかった。そうならずに済んだのは不幸中の幸いだが、そもそも車内で暴れるのがおかしいことではある。
「おい能田、お前本当にこいつを『担い隊』に入れるつもりかい。俺よりもこんなどこの馬の骨とも解らないようなやつを信じるってのかよ!」
まだ頭が痛むように見えたが、それでも手宮は自分の言う通りにならない能田へと控えめな怒号を飛ばす。考え直せ、とでも言いたげなそれは説得のようでもあった。応接室でならそこで直ぐに態度を変えて従うのが能田だったが、今回はそうはならない。またもやバックミラー越しに手宮を見つめた能田は、何と反論を口にしたのだ。
「兄貴のことを信じてないわけじゃないが、俺は俺なりに考えてるんだ。『担い隊』の隊長だからな。兄貴も少しは落ち着いて、俺に任せてみてくれよ。……いつまでも兄貴に頼りっぱなしじゃあ、格好もつかないしな」
「一人前気取りか。誰が『担い隊』を立ち上げるのに手を貸してやったと思ってるんだ。それに、解ってるんだろうな。この一矢とかいうやつは伯父貴がお前たちを見張らせるために寄越したに違いないんだぞ。そんなやつの入隊を認めるってのか?」
それもそうだ、とまたしても話題に上げられた一矢は内心で納得していた。あの能田が自分で選んだこととは言え、よくこの一矢を『担い隊』に迎え入れるつもりになったものだ。選択に対しても驚かされたが、それが何故そうなったかについても気にはなる。その真意を問われた能田は、もうバックミラー越しに手宮を見てはいなかった。前を見て、もう後ろを振り返ることはない。その行動は、手宮の言いなりになる気はないことを示しているようだった。更に、その口からは既に固めた覚悟のようなものも語られる。
「もし一矢がそうだったとしても、隊長として俺は『担い隊』がするべきことをするだけですよ。他の隊員たちもいるんですし、好き勝手な行動はさせませんから……それに、兄貴は確かに立ち上げには力を貸してくれましたが、隊には入らなかったじゃないですか」
要は、これはこちらで決めることだから手宮の口出しは受け付けませんということだった。ここまで言うからには隊長としての自覚は備わっているのだろう、と一矢は感心すると共に警戒心を高める。これから『担い隊』に入っていく中で、迂闊な行動が招く危険について考えるとそう気楽にはなれないからだ。一方の手宮は能田の態度に驚きの後に怒りを示し、今度こそよろよろと立ち上がって殴り飛ばそうとしていたが、それは一矢が鋭い視線を向けることで止めさせる。ここで事故を起こされては困るのだ。握りしめた拳を収めることを余儀なくされた手宮はどすん、と音を立てて座席に座り直し溜め息をついた。
「ええい、勝手にしろ。どうなっても俺は知らんからなあっ」
そう言うと、左側の後部座席に近い窓の方を向いて手宮は黙ってしまった。どうなっても知らないわけにはいかない立場であるはずの手宮が、本当に投げやりになることはできないだろう。つまり、これはかなり不器用な能田に対する信頼の現れではないだろうか。弟分に何かを任せる際に生じる兄貴分としての葛藤が過激な態度に反映されているのだとすれば、これまでの行動も少しは理解できるのかもしれなかった。もっとも、手宮に寄り添う気がない一矢にとってはそれは一つの仮説として終わる話ではあるのだが。
そうしている内に黒いバンは西大橋の近くに聳え立つ五〇階建てほどの大きなホテルの玄関前に停車した。それは高台から市街地を見渡せるリゾートホテル、『水の里』ではない。その玄関前には、暗い車内からでもはっきり見えるほどに立派な看板が掲げられている。そして、その白い看板には『SUPホテル・久鶴カナル前』と黒い文字で記されているのだった。その看板を一矢は少しの間、無言でじっと見つめていた。すると、車内が明るくなり、バンの左右に取り付けられている四枚のドアのロックが外れた音が響く。
「どうした、一矢。SUPホテルに来るのは初めてか? ……兄貴も機嫌直して、降りましょう。ウリカワさんに呼ばれてるんですよね?」
「……ああ、そうだったな」
覇気のない返事を口にした手宮と、無言で座席から立ち上がった一矢が左右の後部座席に近いドアを開いて降りたのは殆ど同時だった。左側のドアの方が玄関に近かったため、玄関へと向かうのは手宮の方が速い。黒いバンから二〇分ほどで降りた三人は、能田を先頭に自動ドアの向こう側へと消えて行く。半透明のドアが閉じられ、冷たい風を防いだ。
白いスーツを着た手宮、青い作業着を着た能田、そして白いジャージを着た一矢という統一感のない三人組は、照明の輪郭がはっきり映るほどに反射している床を歩いて高そうなソファや、色鮮やかな花々が生けられた花瓶が置かれたテーブルの側を通り過ぎてフロントへと向かう。フロントのカウンターには同じ服装に髪型、それに化粧をした受付係が三人は並んでいた。そのうちの二人の前へと、能田と一矢、そして手宮は別れて立った。どうやら、能田と手宮ではここに来た用件は異なるらしい。能田の後ろに付いて行った一矢は能田とフロントの受付係との会話を耳にすることになる。見覚えのある角度でお辞儀をする受付係は、ホテルの雰囲気に似合わない作業着とジャージを着た二人組を前にしても何一つ変わった様子を見せなかった。流石は受付係、と言ったところか。
「今日芝生広場を貸し切っている青年団の者ですが、どれくらい集まっていますか?」
「既に三〇人以上はお越しでございます……ご注文のお食事もご用意しておりますので、どうぞお楽しみください。広場はビュッフェ会場のガラス戸を抜ければすぐそこです」
決まりきった作法に見送られて二人はビュッフェ会場へと向かう。ずらりと並べられたテーブルと椅子を、満遍なくその会場の一角を占めるガラス窓が照らしていた。一定の大きさのガラスで仕切られているその一面の片隅には受付係の言った通りにガラス戸が嵌め込まれていて、そこを通ればガラス窓の向こうに広がっている庭園と、さらにその向こうに見える芝生の広場へと向かえるように見えた。何人かの人影が見える会場を横切ってそのガラス戸の前に立ち、能田は一矢の前でその透明な戸を開く。鍵が掛かっているわけではなかったらしく、すんなりとその戸が開くと緑の空気が押し寄せてきた。それと同時に庭園には似合わない香りが漂ってくる。それは、炭火のものだった。庭園の奥に更に広がっている広場の方から、その香りが漂ってきているのだ。勿論、煙も少し上がっている。
「おお、もう始まってるらしいな」
一矢に話しかけるわけでもなく、恐らく無意識のうちにそう呟いて能田は庭園に目を向けることもなくスタスタと歩き出した。白い石畳とその側に飾られた石でできた天使の横を通り過ぎていけば、少し赤くなり始めた空が降り注ぐ広場へと辿り着くのだった。そして、その広場の様子を目にした一矢はそこで何が起きているのかを把握しよう、と視線を上下左右に走らせる。それなりに明るい照明で取り囲まれた広場の様子が見えてきた。
広場の真ん中には丸太を四角形になるように組み合わせて積み重ねた焚き火があり、その焚き火の中には三枚の旗が立てられてその根元が徐々に燃えている。広場の奥にはスロープ付きのステージが設置されているが、暗幕で覆われているためその向こう側に何があるのかまでは知ることはできなかった。能田と同じような青い作業着を着た若者たちの姿も見える。それも、数十人単位でだ。彼らは広場に沢山置かれている白くて丸いテーブルの周りに集まり、氷が入った青いバケツで冷やされているビールを開け、七輪で焼かれた焼き鳥や焼き魚を食べている。炭火の香りはここから来ているものだったのだ。
広場の出入り口、即ち能田と一矢が通ってきた庭園の道の側にも列が見える。そこに置かれた折りたたみ式の長机とパイプ椅子からなる受付らしき場所に並んでいる列だ。並んでいるのは二〇人ほどの、また青い作業着を着た若者たちだった。先頭の若者は長机の上に置かれた名簿らしきものにペンを走らせ、その後にパイプ椅子に座る若者と握手を交わすと焼き鳥や焼き魚が振舞われているテーブルの方へと歩いて行く。
「あれは入隊を希望しているやつらさ。名簿に名前を書けば俺たち『担い隊』の一員として認められて、食べ物を振る舞われるのさ。そうして俺たちは結束を確かめるんだ」
「……なるほど、それならばこの一矢もそうした方が良いということだな」
状況を把握した一矢は声をかけてきた隣に立つ能田へと確認を取り、能田は頷いた。やはり、これは『担い隊』の決起集会なのだ。一方で入隊式も兼ねているようではあるが。
「そうだな。名簿に名前を書くんだ。そうすれば俺たちの仲間入りだからな」
「そうさせてもらうよ。列の最後尾は向こう側かな」
例の『担い隊』の集まりへと足を踏み入れたものの、まだ入隊したとは言えない一矢は喜んで入隊する格好を装った。列に並ぼうとする姿を見せると、能田はそれに気を良くしたらしく、歩き出そうとした一矢を呼び止める。それは非常に自然なやり取りに見えた。
「いや、その必要はないよ。なんてったって、俺は隊長なんだからな……おおい、こいつの名前を名簿に書かせてやってくれないか」
そう言った能田は受付に置かれた長机に近付いて声をかけた。すると、パイプ椅子に座っていた若者たちは慌てて立ち上がり、素早く頭を下げる。列に並んでいる者たちも軽く頭を下げていた。彼らは一矢と同じようにこれから隊員になる者たちなのだから、そういう態度になるのだろう。頭を下げないというわけにもいかない、しかし、今はまだそこまでする立場にはない。かと言って、今無視をする後で目を付けられるかもしれないのだ。
「お疲れ様ですっ」「そちらの方のご記名ですか。ええ、勿論どうぞどうぞ……」
受付にも促され、一矢は列に並ぶことなく長机の前に立つ。その横からは律儀に並んでいる若者たちの複雑な視線が突き刺さったが、そこからは明確な敵意を感じることはなかった。並んでいる者たちも、隊長である能田が連れてきた男に対して割り込むな、とは言えないはずだ。それを解った上で割り込むのも、気分の良いものではないのだが。そのため、なるべく横を見ないようにして長机に開いて置かれた真新しい帳簿に視線を落とす。
帳簿の見開いには黒い線が引かれてできた四角い枠が印刷されており、既に見知らぬ名前がずらりと、およそ三〇名分は書かれている。その一覧の中に、ボールペンで高殿一矢と書けば記名は終わるのだった。それが終わると能田が近寄ってきて手を差し出てくる。入隊を祝い、握手を求めてくるのだった。隊員としてこの場で隊長との握手断るわけにはいかないため、能田が差し出した左手に向かって一矢も右手を差し出す。近付いた手と手が握手を交わさないはずもなく、二人は受付や列に並ぶ者たちの拍手を浴びながら固く握手を交わした。一矢としては気乗りのしない握手であるためそれほど手に力を込めなかったが、能田の方は思うところがあるのか、かなり力を込めている。表情を歪めてもおかしくはないほどの力であるようにも感じたが、一矢がそれに反応することはなかった。
「これから隊員として貢献してくれよ、高殿一矢君?」
「……隊長こそ、隊を率いる者としての自覚をお忘れなきように」
向かい合って言葉を交わしつつも、二人の間に笑みはなかった。笑い合うような間柄でもなかったし、一矢が隊に入ったとしてもそれは変わらない。水面下で火花を散らしている自覚が互いにあるのかどうかも確かめないまま、二人は静かに手を離した。
受付や列に並ぶ若者たちのお辞儀に見送られながら二人は広場の中央に進み、既に隊員たちが集まっている白いテーブルへと歩いて行く。そちらでも能田は隊員たちのお辞儀に出迎えられた。一矢はそこで、かつて高島がしたような紹介を受けることになる、
「皆、こいつは外輪組の高島代表から頼まれて隊に入ることになった一矢ってやつだ。それなりに可愛がってやるんだぞ」
「へえ、あの組からですかい」「それなりに、ですね。こいつは面白そうだ」
何となく能田と似た雰囲気を持つ、軽薄な態度の若者たちの視線が一矢へと突き刺さった。それから目を逸らすためでもあったが、軽く一礼して頭を下げる。この者たちが能田と似ていると思ったのは服装が同じ青い作業着だからというのもあるかもしれないが、能田と共に過ごしてきたであろう繋がりを感じさせるのが一番の理由だった。即ち、こういった者たちこそが『担い隊』そのものなのだろう。いや、既に一矢も『担い隊』の一員となった以上、この広場にいる者たちは皆そうなのだ。そこでようやく、一矢は自分がその一員であるという自覚をはっきりと認識する。そうなれば周りに溶け込むべきか、とテーブルを囲む者たちの様子を伺うが、意外にも話しかけてくる者は現れなかった。一矢との距離感を掴みかねているといった印象を受ける。やはり、『担い隊』の中心は能田とその仲間たちといったもので、そこにすんなりと入っていくことも、馴染みのない者を受け入れることも簡単ではないらしかった。それは『担い隊』だけに限った話ではないので、ある意味では当然だと割り切ることが肝要だろう。そうなれば、わざわざ一矢の方から距離を詰めようとする必要もあるまい。無害な距離を保ちつつ、この場に留まるのが最善の策だと判断ができる。能田は一矢の近くから離れてはいなかったが、広場の隊員たちが集まるのは能田の方ばかりだ。それもある意味では、納得の光景であるのだった。
「お飲み物はいかがですかー」
そうしていると、人集りに向かって下っ端と思わしき若者がバケツを片手に近付いてくるのが見える。氷の入った青いバケツの中には缶ビールが入っていた。どうやらこの若者のこの場においての役割は、ビールを持っていない人にビールを渡すものであるらしい。能田と一矢へと目掛けてやって来たその若者は、二人の前に立つと同じ言葉を繰り返す。
「お飲み物はいかがですかー」
「俺は遠慮しておくよ。お前は?」
「いただこうかな」
意外なことに能田は隊員たちの前でビールを受け取るのを断ったが、バケツを持った若者の役割を果たさせてやろう、と一矢は受け取る。飲みたいと思ったわけでもなかったのだが、役割を果たそうと動くその姿に密かに敬意を払ったからこそそう言ったのだった。
缶ビールを受け取るとその冷たさか掌を貫通して骨まで響く。その缶のロゴをじっと見つめた後でカシュっと音を立てつつ開封し、口をつけた。鋭い苦味が口の中に広がるが、それらをまとめて飲み込むと、不思議と爽快感を味わうことができる。あまり得意な味ではないが、これだけで酔うことはない。髑髏の形をしたロゴを見た時には身構えたが、会場にいる隊員たちに配られているものでもあるため、そこまで心配は必要なかったのだ。
「じゃあ、俺はステージの方に行くから。……楽しみにしておいてくれよ」
そう言うと、何人かの隊員を引き連れて能田はテーブルから離れていく。焼き鳥を食べつつ片手を上げて一矢はその後ろ姿を見送るが、何を楽しみにすればいいのかについて思い当たる節はなかった。視界の端で能田たちを追うと、言っていた通りにステージへと向かい、そこを覆っている暗幕の向こう側へと消えて行った。何か始まるのかもしれない、と頭に入れつつ炭火で焼き上げられた鶏肉を口にする。少し味の濃い塩味が口の中に広がり、ビールを飲んだ時から残っていた苦味を打ち消してくれた。こうなると、またビールを飲もうという気はあまり起きない。元から飲みたいというわけでもなかったのだが、こうなると焼き鳥を持っている左手の反対である右手で持っている缶ビールを持て余してしまう。徐々に冷たさは弱まってきていたが、それでも別に飲もうとはならないのだから。
そう思った一矢が空いているテーブルに缶ビールを静かに置いた時だった。広場を取り囲むように配置されていたそれなりに明るい照明が消え、中央に設置された焚き火の炎だけが真っ赤に燃え上がっているのだけが見えている。それから、静まった広場に威勢の良い太鼓の音が響き始めた。ドンドッドン、ダンダッダンと力強く、である。やがて完全に消え去っていた照明が再び灯り、その全てがステージへと集中した。それでも暗幕は光を通さないため、その向かい側が見えることはなかったが、その暗幕が遂に動いた。どこにも切れ目がないように見えていた暗幕に裂け目が生まれ、その中から能田とその取り巻きたちが姿を現したのだ。その姿を見た一矢は自分の目を疑う。能田たちが、毒々しい色合いの赤と黒に染められた半被を着ていたのだから。その中の一人はこちらに背を向けて立っており、半被の背中に『隊』の一文字が刻まれていることが判る。その半被の色合いを目にした一矢が、何となく不穏な雰囲気を感じ取ったのは気のせいではない。
太鼓の音が止むと、マイクを受け取った能田は半被を風で揺らしながら広場に集まった隊員たちへと語り始める。そこには『担い隊』を率いる隊長としての姿が確かにあった。
「今日はよく集まってくれたな、お前たち。俺たちはこれから『担い隊』として競舟に参加することを求めていたが、遂に今日、外輪組の代表からその許可を貰った。これで俺たちは競舟の本番を迎えることができるわけだが、それだけが目的じゃあない。……お前たちには隊長として、伝えておくことがある。今日はそのために集まってもらったんだ」
広場に集まった隊員たちは一言も発さず、光を浴びながらステージの上に立つ能田とその後ろで横一列に並び、背中で手を組んだ取り巻きたちを見つめる。この場でまだ焼き鳥を食べているのは、見渡す限り一矢一人しかいないようだった。食べれば良いのに。広場の視線が自分に集中していることを確認した能田は一度頷くと、また大声で語り始める。
「あれを見ろ! 全員、焚火を見るんだ!」
右手の人差し指で能田が広場の中央の焚火を指差せば、皆がその方向を向いた。焚火の中には広場にやってきた時に見たように、三枚の旗が立てられて燃えている。旗竿から燃え移った炎は、既に旗そのものへと燃え広がって炭をパラパラと落としていた。
「今、競舟をその手に握る三地会の旗が燃えている。あの旗から出る煙は俺たちの反抗の狼煙なのだ。『担い隊』を結成して参加を求めない限り、競舟という伝統を掲げて俺たちを拒み続けてきた三地会へ、俺たちの存在を知らしめる時が来たのだ! そう、俺たちはこの久鶴の街の生まれではない。だが、競舟という伝統に参加してこの街の未来を担いたいという気持ちは、この街で生まれた者たちと何も変わらないのだ。それを拒んだのは連中の方だ。何も変わろうとせず、古き良き伝統に拘る者たちは俺たちを認めなかった! そんな競舟の在り方が正しいと思うか? それでこの街に良き未来が訪れると思うか?
違う! 俺が、いや、俺たちこそが新たな伝統を創り出すのだ!」
能田の声が広場に響き渡り、その呼びかけに応じて隊員たちは大声を返す。そうだ、俺たちが競舟を変えるんだ、俺たちを認めさせてやるんだ、と。その叫びの連続は途切れることなく、広場を包む空気は危険なほどの熱を帯びたまま凝縮されていく。
「手宮の兄貴やこの会場を貸してくれた支配人の売河さんなど、競舟の在り方が変わることを望む人も多い。そういう人たちが力を貸してくれる俺たちは、もうそのための力があることを忘れるな。競舟の本番で最も輝くのは俺たちなんだからな。……そして、そのための舟ももう用意してある。皆もよく見ておけ。これが俺たちの舟、『若宝号』だ!」
そう叫ぶと、能田とその取り巻きたちはステージの両端に別れ、照明が降り注ぐステージの中央に何もない空間が生まれる。それも一瞬のうちに過ぎ去り、ステージの奧にかかっていた波飛沫が描かれた幕が開かれて照明はその向こう側へと向けられた。そこからは光に包まれた和船が徐々にその姿を現す。いや、あれは照明を受けて光り輝いているだけではない。船そのものも金色に塗られて光り輝いているのだ。何とも安直な装飾である。
だが、熱気に包まれた会場に働く不思議な力は隊員たちに感動を与えたらしかった。誰かが拍手を始め、それは瞬く間に広場全体へと広がり、掛声さえ始まる。能田も叫んだ。
「『担い隊』と『若宝号』に……万歳!」「万歳! 万歳!」
その場で唯一、一矢だけが沈黙を貫いていた。危うく、そして歪な胎動を感じながら。
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