第一幕 招かれた者たちの目に映るもの

 天井に鋭角の形をした光が射し込んでいる。ゆっくりと目を開けたヤスカの真上は、丁度まだ暗い部分と光が射し込んできている部分との境界線に位置していた。ベッドの小さなテーブルの上に置かれている丸い目覚まし時計は朝の八時半過ぎを指し示し、同時に一〇月二日、木曜日という日付けまでも教えてくれている。ぼんやりとした視界が次第に明るくなっていくと、昨日の夕方から今起きたこのホテルに至るまでの記憶が流れ込んできた。そうだ。昨日の夕方に空の港に降り立った後、特急列車に揺られてこの街にやって来たのが既に夜の七時。それから夕食を済ませて運河の散策路を歩いていたのだが、そこで件の少女が一言も話さなくなったため、それをどうにかして宥めたのだったが……。

 そこまで思い出しつつ、ヤスカはベッドから起き上がる。ぎしぃ、と木材が鳴らす音と共に体を起こすと、今度はまだカーテンを閉めたままの大きな窓が目に入った。カーテンに燦々と輝く朝陽が降り注いでいるのが、その色合いで分かる。それでも受け止めきれないようで、カーテンと床の間から漏れた光が足元まで伸びてきていた。今日は良い天気なのだろう、きっと。声に出さずにそう呟く。カーテンを開けようとも、まだ考えなかった。何故ならば、ヤスカが腰掛けているダブルベッドの左側の反対側から、微かな寝息が聴こえてくるからだ。物音を立てないように慎重に振り向けば、昨日の晩に散々苦労させられた元凶が安らかに眠っている。皺のできたシーツの上に布団を巻き取るようにしながら。おかげさまで、ヤスカが眠っていた左側には枕以外は何も残っていなかった。

 眠り姫がまだ起きそうにもないので、ヤスカは先に起きてしまうことにした。ベッドから抜け出すと、ハンガーに掛けられたコートが納められたクローゼットが置かれている廊下を通り、バスルームに通じる扉が中にある洗面所へと向かう。壁に取り付けられたスイッチをパチリと押せば、電気が点いて鏡の中の自分と向き合うことになった。バスローブ姿の、無愛想かつ気怠げで、肩まで届く長い髪が絡まっている男の姿が目に入る。左右が反転した世界の、こちらの世界に生きる自分とよく似た姿の自分だった。あの兵士はもっと違った姿をしていたような気がするが、それを思い出すことはできない。あの声ならば思い出せるのだが、その部分に関しては霧がかかったようなように像が現れなかった。

 しかし、鏡に映る自分でありながら自分ではない姿を見にきたわけでもない。顔を洗いにきたのだ。アメニティが入っているカゴからヘアブラシに手を伸ばし、右手で掴む。

 そうして乱れた髪を整えていると、背後からペタペタと軽い足音が聞こえてきた。どうやらスリッパの立てる音らしい。目を覚ました少女が、ふらふらとした足取りで洗面所へと入ってきたのだ。洗面所の広さは二人並ぶと少し窮屈に感じるくらいだったが、目が開いているのかどうか分からないほどの細さのまま、少女は器用にヤスカの前へと滑り込んでくる。目の前に立っている少女の体はまだ温かかった。この部屋は暖房も効いているし互いにバスローブ姿であるため、そんなに熱が籠るとも思えないのだが。それでも、少女の体からははっきりと温かさを感じるのだった。たとえ直に触れなくても、である。

 その温かさは、少女の意識を完全に目覚めさせない要因の一つであるようにも思えた。寝ぼけて蛇口を捻り、熱水を出して火傷でもされたら困る。ヤスカは昨日の夜よりも格段に気楽に、背後から少女を見下ろす形で口を開いた。驚かせないように気を遣いながら。

「おはよう。よく眠れたかい?」

 ヤスカと同じようにヘアブラシを掴み、その象徴的な銀髪を梳かしていた小さな手が止まる。どうやら声は聴こえているらしかった。少しずつだが、目覚めつつあるようだ。

「……どうかしら。寝付いたのは日付が変わった頃でしょうし、十分に眠れたとは言えないかもしれないわね。でも、それは貴方も同じことではなくて?」

「……そうだな。そう言われてみれば、そうだったよ」

 少女はヤスカの肯定を耳にすると、今度はその長い髪を一本のヘアゴムで頭の後ろにまとめ始めた。耳の前にかかっていた髪を耳の後ろに流し、尻尾のように太く、一本の形を作っていく。それが終わると、前髪をヘアバンドで固定して蛇口を捻った。やがて、蛇口から流れる透き通った水が白い陶器を打つ音だけが静かな部屋に響く。ヤスカは洗面台の前で屈んだ少女が顔を洗うたびに、結んだ髪が左右に揺れているのを見つめていた。洗面台の鏡の上に取り付けられている華の装飾で彩られた照明が、その銀色に更なる輝きを与えていた。照明が当たらない部分と比べるとより一層煌めいて見えるが、光が当たっていない部分との対比が一番気に入ったところでもある。その光景は、少女が顔を洗い終わってもう一度蛇口を捻るまで続いたのだった。

 壁から生えている鉄の棒に掛けられたタオルを手に取り、顔を拭きながら少女は後ろで順番を待っているヤスカの方へと振り向く。顔を拭き終えてヤスカの方を見ると、そのヤスカは何故かバスルームに繋がる透明な扉の方を凝視していた。

「……そこに何か見えるのかしら? だとすると、少し心配になるのだけれど」

「いや、何でもない。見続けたいものを見続けることは必ずしも良い結果を招かないと悟ったまでのことさ。気にすることはないよ」

 気にしない方が無理なことを言いながら、ヤスカも蛇口を捻って顔を洗い始めた。

 少女の眼差しから逃れるように洗面台に頭を突っ込んだヤスカは、一旦は蛇口を捻って水を出したものの、その水を手で掬って顔に浴びせる寸前でもう一度鏡に映る自分を見つめた。屈むのを止めて背筋を伸ばすと、自分が髪を結んでいないことや、ヘアバンドを忘れていることにも気付かされる。顔だけではなく、髪までも濡れてしまうではないか。自分がいかに慌てていたのかを思い知らされてしまった。これではいけない。

「……貴方、寝ぼけているの? 火傷には気を付けてね。先に向こうで着替えているから」

「ああ、すまない……気をつけるよ」

 その様子を見ていた銀髪の少女は、どこか呆れたような口調と目線で鏡越しにそう語りかけてきた。つい先ほど起きたばかりの少女に心配していたことを、そっくりそのまま返されてしまう。そのことを知るはずもない少女は、それじゃ、と言い残すと洗面所の扉をパタリと閉めて鏡の奥の世界へと消えて行ってしまった。いや、厳密に言えばそういうわけではないのだが、鏡越しではそう見えてしまったのだ。そのお陰で、その後ろ姿がやけに名残惜しくなるのだった。後ろの扉を開けて寝室に戻れば会えることが解っているのにも関わらず、である。やけに手早く髪を結び、ヘアバンドをして顔を洗い終えたのもそのせいだろう。無意識のうちに、洗面所を出て寝室に戻る足取りも速くなっていた。

 そうしてヤスカは寝室へと戻っていく。すると、ベッドの上に両脚を同じ方向に曲げながら座っている少女が、その白い背中と首筋、それと肩をこちらに向けて待っていた。これには最初は素通りして自分のキャリーケースへと向かったヤスカも、二度見どころか三度見しても現実に理解が追い付かなかった。一旦天井を見上げ、先程の暗い部分と光の境界線が薄れつつあるのを確認した上で、また視線を寝室へと戻す。それでも目の前の光景は変わっていなかった。仕方がないので下を向きつつ、少女へ向けて語りかける。

「……着替えが終わっていないのなら、寝室に入る前に何か一言くらい言ってくれてもいいじゃないか」

「あら、着替えは概ね終わっているのよ。背中のファスナーを上げてほしかっただけ……それに、別に背中を見るのも初めてというわけでもないでしょう?」

 そう言われると、ヤスカは顔を上げて状況をもう一度冷静に観察した。少女が着ている紺色のワンピースの背中に、小さく光るものが見える。確かに、あれは、ファスナーだ。

「ああ、そういうことか。それならそうと言ってくれよ。そんなことなら、いくらでもお手伝うさせてもらうよ。それはもう、喜んで」

 白い首筋などを見ないように、かつ銀色の髪を巻き込まないように慎重な手つきでヤスカはファスナーを閉めた。冷たい汗が背中を流れたのも、気のせいではなかっただろう。

 その後は、ヤスカも黒いスーツに着替えて紺色のワンピースを着て手提げ鞄を持った少女と共に部屋の扉の外へと歩き出した。カードキーをドアノブの上のパネルにかざすと、カチリという確かな施錠音が静かな廊下に少しの間だけ響き渡り、そして消えて行く。無数の扉が連なっている一〇階の廊下にはその突き当たりにのみ窓が見えるため、日中でも基本的には照明がそこに置かれているテーブルの上のやけに高そうな青と白とで構成されている複雑な模様な磁器のツルツルとした表面を照らしている。二人が出てきた部屋のすぐ隣にある非常階段へと続く従業員用の扉の上に取り付けられた緑の背景に白い人が走っている看板も少しは光っているようだが、それすら気にならないほどだった。

「九時も過ぎたわね。レストランはまだ開いているのかしら」

 先にコツコツと足音を立てて歩き出した少女は、その細い腕の内側に文字盤がくるように取り付けた腕時計を肘を曲げながら見つつ、ヤスカへと語りかける。自身の両側に並んで連なっている無数の扉のその一つ一つが開かれるかどうかを確認しながら歩いていたヤスカの方は、その呼びかけに反応するのが少し遅れてしまった。

「……聴こえていないのかしら。それとも、耳が遠くなったの? まぁ、貴方のことだからそれも仕方ないことだけれども」

「いや、聴こえているよ。レストランだろう? もしかするともう昼食のメニューしか頼めないかもしれないが、少なくとも何も食べられないなんてことはないだろうさ」

「あら、そうなの。なら構わないけど」

 二人はそう言い合いながら二つほど角を曲がり、エレベーターホールまでやって来た。角を曲がり終えるとエレベーターホールに到着するのだが、その真正面から街からも見える大きな山々がよりはっきりと見える大きな窓が出迎えた。もっとも、少女の方はその風景に目をくれることもなく、その両脇に二台ずつ配置されているエレベーターの扉の横に取り付けられたボタンを押したわけだが。そのエレベーターの扉の上には地下三階から三五階までの数字が刻まれた円が横一列に並んだパネルが取り付けられており、今は左かつ廊下側のエレベーターがグングンとこの一〇階まで昇って来ているのが判る。

 間もなく、パンポーン、という甲高い音と共にエレベーターの扉が開かれた。少女が先にその中へと入り、ヤスカは扉を軽く手で抑えつつそれに続く。中には誰もいなかった。寧ろ、いない方が良いのだが。あの気まずさはいつに経っても慣れられるものではない。

「レストランは二階よね?」

「ああ、そうだ。こちらで押すよ」

 中に入ると、ヤスカは定位置としている右の角へと背中を預ける。あら、ありがとう、という少女の背中を見ながら二階へと向かうボタンを軽く押すと、扉が静かに閉まった。

 二階へと降りて行ったエレベーターがゆっくりと停まる。少し前に閉まった扉が先程聞いたのと同じ音を立てながらこれまたゆっくりと開くと、一〇階より少し照明が弱まった廊下が目に入ってきた。ここはレストランやバーが入っている階であるとは聞いていたが、一階のビュッフェ会場を選ばなくて本当に良かったと思えた。何よりも静かで、落ち着いた雰囲気が保たれている。それもそのはずだ。今から向かう和食レストランは、そもそも宿泊者しか入ることができないのだから。仕事を前にして騒々しさに煩わされるよりは、その方が良いに決まっている。勿論、銀髪の少女のためでもあるわけだが。そう思いつつ、ヤスカは少女の背中を追って廊下を歩いて行った。

「いらっしゃいませー。ルームキーのご提示をお願いできますでしょうかー」

「ああ、勿論だとも」

「ありがとうこございますー、それではお席にご案内しまーす。二名様、ご案内―」

 白い布が敷かれたテーブルには、段差の一段ごとに食品サンプルが載せられている。店内は入口の近くに置かれたテーブルや壁の茶色で染め上げられていた。店員は絶妙なやる気のなさを醸し出す話し方で一礼し、このように最低限確認するべきことだけを確認する。それに応えてヤスカもルームキーを見せたが、それをチラリと見ただけで済んでしまった。その若く、痩せた男の店員は空いている店内をふらふらと歩いて二人を窓際の席へと連れて行く。その窓際の席からは高台からの街並みが見えるようになっていたが、それだけではなかった。窓際の席と言っても、その席にの近くにはもう一つの窓があるのだ。そのもう一つの窓は、このレストランの中にある庭に面しているものなのだ。

 そのことに気付いたのは、ちょうどその窓と真正面に向き合う方の席に座ろうとしていた少女のために、椅子を少し後ろに引いたときだった。ふと視線を上げると、壁そのものを覆うような広々とした窓の向こうに、白い砂利をその一面を覆われ、その真ん中に大きな岩がどっしりと腰を据えた庭が広がっているではないか。大きな岩の腹には太くて立派なしめ縄が巻き付けられていることから、恐らくこのホテルにとっては大切なものなのだろう。山の一部を切り開いた形のこのホテルのことだ、建設途中に土の中から出てきたこの岩をそのまま残しているということか。そうであれば、あのしめ縄にも納得できる。

「大きな岩ね……昔、都のお寺で見たものとよく似ていると思わない?」

「山道寺か? 随分前の話だな。何年前になる。あの頃はまだ若かったな……お互いに」

「……今の私は一三歳よ。それでも、もう若くないとでも言うつもりなのかしら?」

 ワンピースを気にしながら椅子に座った少女は、横目でヤスカを軽く射抜いた。

「ああ、そう言えばそういうことになっていたな。まぁ、君のその姿ならそう見えるから仕方がないことだろう。実際の君がそれを望んでいるかどうかは別としてだがね」

 自身に向けられる鋭い視線を躱しつつ、ヤスカもその反対側の椅子に座る。木目調のテーブルと椅子は照明が控えめな店内の雰囲気によく似合っているし、蓋にガラスがはめ込まれた木製の箸入れも洒落ていた。改めて良い店だ、と思う間もなく先程の店員がお盆に水が注がれたガラスコップを載せてやって来るのが見える。

「お冷とメニューになりますー。お決まりになりましたらお声がけくださいー」

 相変わらずの力の抜けた話し方でそう言うと、テーブルに置かれていたメニュー表を開いてコップを置き、店員は一礼して立ち去って行った。軽い会釈でそれを見送り、テーブルはまた二人だけの空間へと戻っていく。ヤスカは目の前に横向きで置かれたメニュー表の角に手を伸ばし、まずは少女の側へと右に九〇度回転させた。それを見た少女も僅かに微笑み、メニュー表へと視線を落とす。そうしている間に、あっさりと沈黙は破られた。

「『仕事』の方は今日から始まるのよね。何事もなく終われば良いのだけれど……そう上手くいかないことも解っているけれど、思わずにはいられないわ」

「そうだな。始めると言っても構わないが、まずは話を聞くところからだろうがね」

 メニュー表を眺めたままの少女は食事からかけ離れた話題を出し、ヤスカもそれを当然のこととして受け入れていた。話は、『仕事屋』であるヤスカの『仕事』についてだ。それがどのような『仕事』であるかは少女も問わないし、ヤスカもあまり明かすことはなかった。二人の間ではそれで良いのだが、同時にそれが互いの間にどうしても越えることのできないほどに高く、打ち破ることのできないほどに分厚い見えざる壁を作り出しているのだった。それが原因で離れるほど二人は冷め切っていないが、二人の間の肉体的かつ精神的な繋がりを確かめる際の障壁としては、かなり厄介なものではある。

「……この朝食セットAなんて良さそうね。それで? 貴方はどうするのかしら?」

「君のと同じのにするよ。……すみません、注文をお願いします」

「はーい、ただいま伺いまーす。お待ちくださいー」

 ヤスカと自身の間に壁を感じた少女はすぐに話題を切り替え、それにヤスカも同調して店員を呼ぶ。一瞬で張り詰めた空気から逃れるためでもあったが、これは意外と効果的だった。もっとも、上手く躱された少女の方は目を細めてこちらを見つめているのだが。そのことに気付かないふりをしつつ、テーブルへと近付いてくる店員の方を見る。やがて小さなメモ帳とペンを持った例の店員が立ち止まると、再び口を開いて注文を伝えた。

「朝食セットのAを二つ。あと、お好み汁は鉄砲汁で」

「かしこまりましたー。ご注文は以上でよろしいですかー?」

ああ、それで頼むよ、と告げると店員はまた立ち去って行く。目の前の視線から逃れるため、今度は横に広がる大きな窓の外に広がる景色へと助けを求めて首を横に動かした。

 そうして視線を横に向けると、高台からの街並みと海との境目から街の一部を切り離したかのように、緩やかに湾曲した水の流れが視界へと飛び込んでくる。それには見覚えがあるというより、昨晩の二人はあそこの近くを歩いていたのだった。そう、あれはこの久鶴という街に流れているその役目を終えた運河だ。そこを進む舟の姿も少し見えている。

「そうやって誤魔化すのは貴方の勝手だけれど、いつまでもそうしていられると思っているわけではないでしょうね」

 視線を逸らした方向から、少し低くなった声が聞こえてくる。視線の旅も終わりのようだった。諦めて前を向くと、メニュー表から顔を上げてこちらを真っ直ぐ見つめている少女と目が合う。その姿からは、昨日の夜の散策路で味わった緊張感に似ているものを感じさせた。触れた瞬間に弾き返されそうな状態、とでも言うべきだろうか。

「すまない。『仕事屋』としてそう簡単に『仕事』の内容を教えることもできないのでね……それは君にも解っていることだろう?」

「違う。違うわ。私が言いたいのは、昨日貴方が言ったことも含めてなの。私と共に生きる道を探すと言っておきながら、それでも『仕事屋』であることを理由にして距離を置こうとする貴方のことが私には解らないのよ」

「ああ、それは……」

「お待たせしましたー、朝食セットAがお二つですー。お汁物の方、お熱くなってますのでお気を付けくださいー、ごゆっくりどうぞー」

 テーブルの雰囲気が煮詰まっていく様子に全く気付かないのか、それとも気付いた上で入ってきたのか。ある意味で仕事がよくできる例の店員はそう言いながら、二人が向かい合って座っているテーブルに茶碗や小鉢、平皿などが載ったお盆を二つ持ってきた。恐らくはこの店員、別れ話をしている恋人たちのテーブルに空いたお皿をお下げします、と言いに行けるタイプだろう。寧ろ、個人的にはそうであってほしい。いや、そうであれ。

 完全に会話を遮られた向かい合う二人は、とりあえず運ばれてきた朝食を見つめた。白いご飯に大根おろしのついた焼き鮭、玉子焼きに昆布巻き、それに湯気の香る鉄砲汁が並んでいる。木製の箸入れから箸を二膳取り出し、一つを少女へと渡すと手を揃える。その動きは自然と揃い、同じ言葉が違う口から小さく呟かれた。「「いただきます」」、と。

 汁碗を両手で持ち、舌の火傷に気をつけながら一口啜る。野菜と蟹の風味がよく出ている熱い出汁が舌に触れ、口の中を満たし、腹の中へと消えて行く。その旨味と熱に体が震えた。その震えは寒さで震えているのとは異なる、心地の良さをもたらしてくれる。

 このまま食事も済ませてしまおうと、次は右手で箸を持って玉子焼きをつまむ。器用にクルクルと巻かれた弾力のある黄色い俵は、噛めば濃厚な出汁が溢れそうなほどだった。

 ヤスカはそんな玉子焼きを口に運んで味わおうとする。ところが。

「……そうね。今回は、私も付いて行こうかしら。うん、そうしましょう」

 目の前の少女が何食わぬ顔で突然そう言い放ったため、箸でつまんでいた玉子焼きを危うく落としそうになってしまった。口に運ぶのも当然止めることになる。そのように言葉を発した主を見ると、真向かいに座る少女は真っ直ぐこちらを見ていたのだった。冗談を言っているような様子でもないし、そもそも軽々しく冗談を言うような人ではないのはヤスカでさえ解っていることだ。まあ、今聞こえたことは冗談であった方が精神的にはよろしいのだが。それでも、こちらを見ているその瞳は揺るぎなく、断らせるつもりもないとでも言いたげな強い意志を感じさせてくるではないか。こうなると、ヤスカに目の前の少女をどうにか説得する手立てというのはもう思いつかなかった。それより先に、手元の鉄砲汁を冷めないうちに味わってしまおうという選択肢が優先されるのだった。

「この距離で聴こえていないとは言わせないわよ。付いて行くと言ったけれど、それはあくまでも『仕事』の話を聞くところまで。貴方の邪魔までするつもりはないわ」

 もっとも、現実逃避を兼ねたその選択肢も結局は少女の追撃によって殆ど意味をなさなかったのだった。こうなっては、真正面から向き合うしかない。得策とは言えないが。ヤスカは本能的にこの少女に逆らうことが苦手だからである。それはヤスカ自身の根幹に関わる部分なので多くは語れないが、ある意味では母親に反抗することを躊躇う子どものような側面を持っているとも言えた。それと同時に、娘との距離感を測りかねる父親のような側面も持ち合わせている、とも言えるのだけれども。そのため、面と向かって付いてこない方がいい、或いは付いてくるなとはとても言えはしなかった。口が裂けてもである。

「……本当に、話を聞くだけだからな。こちらとしてできる譲歩もそこまでだ。本音としては、君を巻き込みたくないということは承知しておいてくれよ」

「あら、私と共に生きる道を探すと言っていたのは誰だったかしら。それに、私は決めたのよ……貴方が距離を置こうとするなら、私から近付けば良いってことにね」

 そう言うと、銀髪の少女はテーブルの上に両肘を置いて手を組み、その組んだ手の上に顔を乗せてほんの少しだけ首を傾げる。そうして少し微笑んでいるのを見ると、何故だかこの人からはどうやっても逃れられないような気がして仕方がなかった。こうなると、もう打つ手がどこにもないことははっきりしてしまう。できることと言えば、はぁ、と深く息を吐いてからもう一度横の窓のことの景色を眺めることくらいだった。景色自体は先程と特に変わりはないようだが、ヤスカの目にはどうにも輝きが失われた灰色の街並みにしか見えなくなってしまっていた。自身の配慮も足りなかったのもあるだろうが、こうなるとは。少女のためにも『仕事』を完璧にこなさなくては。それしか道はないらしかった。

 レストランでの食事を終えた二人は、帰りも同じようにエレベーターを使って一〇階へと戻ろうとしていた。行きとは別のエレベーターがそれほど待つこともなく現れた。扉がパンポーン、という音と共に開くと今度は他の宿泊客が乗っていた。幼い子どもを連れた家族だ。どちらもまだ小学生であろう男の子と女の子が先に廊下へと走り出し、それに母親が声をかけている。父親の方は家族がエレベーターから出てくるのを待っていたヤスカと少女に軽く会釈し、家族たちの後ろ姿を追って行った。どちらもまだ若い夫婦だった。

「ほら、二人とも。走らないで。危ないでしょう?」「「はーい」」

 母親の優しい声と無邪気で素直な子どもたちの返事。それらを耳にしつつ、ヤスカは少女の後に続いてエレベーターの中に入った。勿論、右の角に背中を預けようとする。だがその足は、行きと同じようにはいかなかった。背中を預けることが憚られたからだ。行きのエレベーターと異なり、扉と真正面に向き合う一面に大きな鏡が取り付けられているのである。これでは、先程の子どもたちがはしゃぐのも無理はないだろう。そのため、背中を預けるわけにもいかず、その一歩手前で立つことを余儀なくされる。それでも別に構わないのだが、鏡に寄りかかるのは何となく気分が悪かった。ふとした瞬間、その向こう側に引き摺り込まれそうな感覚を拭いきれなかったからかもしれない。

 そんなことを考えていたからか、帰りのエレベーターで一〇階に向かうボタンを押す役目は少女に取られてしまった。ゆっくりと扉が閉まり、やがて上へと昇っていく。背後にある鏡が気になるヤスカは、普段では絶対に取らない行動であったエレベーターが動いている最中に後ろを向くというのをやってみることにした。同じエレベーターに乗っているのが銀髪の少女である、というのもある。そうして体を左に回して後ろを振り向くと、まずは当然ではあるが、その一面を覆うように大きな鏡と向き合った。鏡の上に取り付けられた照明は部屋の洗面所の鏡の上にもあったものと同じような華の装飾で彩られている。その装飾の豪華さは圧倒的にこちらの方が上だが、鏡の上の装飾はこのホテルでは揃えられているのだろうか。金色の華の装飾に品があるのかどうかも別の問題として気になるところである。鏡の上を見てから、今度は鏡そのものへと視線を下げていく。部屋の鏡と異なり下半身まで含めた自身の姿が映ったが、ヤスカの視線はすぐに別のものへと奪われてしまった。銀髪の少女が、鏡越しにこちらを見ている。ということは、振り返っているということだ。何故鏡越しに目を合わせようとしたのかは解らないが、これを無視することもできなかった。こちらから振り向くこともできず、そのまま目を逸らして口を開く。

「……どうした? 君も、この鏡が気になったのかい?」

「いいえ、今日はどこへ行くつもりなのかを聞いておこうと思っただけよ」

「それは勿論、あの運河さ。昨日とは少し違う景色が見えるところではあるがね」

 およそ一五分後、ヤスカと銀髪の少女はホテルのフロントでタクシーの手配を頼んでいた。再び外に出る用意を済ませた二人は昨日の夜とほぼ変わらない格好をしている。つまり、帽子やマフラー、それにコートを身につけているということだ。尚、ヤスカはそこに黒いマスクを追加していた。これは別に、感染予防対策としてではない。

「お客様、タクシーの手配が完了いたしました。二、三分で到着とのことですので、どうぞお近くのソファなどでお寛ぎください」

 制服をしっかり着こなした受付係の女性の深々とした会釈にこちらも会釈を返し、二人はシャンデリアの淡い光が降り注ぐフロントから、青空に照らされたガラス張りの吹き抜けに並べられた豪華なソファへと向かう。その中でも一番ガラス張りの壁から遠いソファを選んで座ると、ヤスカのすぐ隣に銀髪の少女も当然であるかのように身を寄せてきた。

「それにしても、まさかあの運河の向こう側の島に渡ることができるなんてね。昨日歩いたときには気付きもしなかったわ」

 ヤスカの左肩と少女の右肩が触れ合う距離で接しながら、その小さな両手で手提げ鞄をしっかりと握っている銀髪の少女はそう囁く。ヤスカも周囲の視線を気にしつつ、その内なる動揺を隠すために平静を装って少女へと言葉を返した。

「昨日は夜も遅かったしな。それに、君は気付く以前にこちらの言葉も耳に入らないような状態だったじゃないか。あれで気付くなら君はこのヤスカより仕事屋に向いているよ」

「それはそうでしょうけど……その言い方、あまり気に入らないわね」

「それはすまない。確かに、君が仕事屋になったらこちらは廃業せざるを得ないからね」

 ヤスカは自身の口から飛び出した言葉について詫びたが、それだけでは許されなかったようだった。その不満は、少女が軽くヤスカの左肩へと体重をかける形で示されたのだから。全くもって重たくもない少女がわざとそうしたのだから、そこにはそうした意図があるということだ。それをただ受け止めるだけだ。それが一番良い解決法でもある。

「今調べてみたのだけれど、観光船も運行しているそうね。まさかそれにも乗れるのかしら? いえ、無理強いするつもりはないの。そうだったら良いというだけの話でね」

「安心してくれ、例の島に渡ってからそれに乗るつもりだよ。君が調べたのも、この地図の通りに進む観光船だろう? ……そんなに近付かなくても逃げはしないよ」

 ヤスカへと寄りかかりながらスマートフォンを操作した少女がそう言うのと同時に、ヤスカはその懐からフロントに置かれていた観光マップを取り出して広げる。少女の方へと見せるまでもなく、少女の方からそのマップを覗き込んできた。左手で持ったマップとヤスカの体との間に少女が身を乗り出し、ヤスカの視界で銀髪の上に乗った黒いクロケット帽子が揺れている。声には出さないが、どうやら実は相当楽しみにしているようだった。

「へぇ。昨日見たのは三つある橋のうちの一つだったのね。中大橋、運河の中腹に掛かっているから名付けられたって書いてあるけれど、名前の通りすぎないかしら?」

「まぁ、残る二つの橋も東大橋と西大橋だからな。どの方向に掛かっているかがすぐ分かる。それに運河の向こう側の島も浮島と呼ばれているらしいし、意外と地名や橋の名前はそういうものもあるんだろう」

 同じソファに座っている二人の会話はようやく少しだけ弾んだ。これから向かう場所について話しているのだからそれも当然だと言えるが、今までが弾まなすぎたとも言えてしまう。しかも、今は弾んでいるように見えても、二人の脳裏から『仕事』の二文字が消え去ったわけでもない。そうなると、結局はこれから向かう先に対して無理に楽しさを見つけようと努めているだけなのかもしれなかった。それを互いに察した上でこのような会話を繰り広げているとすれば、何と虚しいことか。これが仕事屋の宿命なのだろうか。そうした側面を覆い隠しながら、二人の会話はタクシーが到着するまで続いたのだった。

「天野様、天野安門様。お待たせいたしました。タクシーが到着いたしましたので、お知らせに参りました。……どうぞ、いってらっしゃいませ」

 受付係の女性は丁寧に頭を下げ、わざわざ二人が座っているソファまでそのように伝えに来てくれた。ありがとう、と言いつつ立ち上がると、その後ろで少女も静かに腰を上げる。フロントの前を通ってこれまたガラス張りの玄関を通り抜けると、昨日の晩よりは冷たくはないがそれでも上着は必要な風が吹いているのを感じた。時刻は既に午前一〇時半過ぎだが、この時期の北の大地を侮ってはいけない。それでも、ホテルまでやって来たタクシーの運転手は半袖の制服から両腕を出してタオルで額の汗を拭っていたのだが。かなり丸々とした体形の運転手であったため、仕方のない部分ではある。こちらとしては、安全に運転してくれればそれでもう十分過ぎるのだから。タクシーの後部座席へと先に少女を乗せ、その後で車内に入ったヤスカはそんなことを思いつつ、行き先を短く告げる。

「中大橋までお願いします」

 すると、運転手はバックミラー越しに左の後部座席に座っているヤスカを見つめた。その大きな顔にかかっている小さな眼鏡の奥に見える澄んだ瞳と、ヤスカの輝くことを知らない黒に染まった瞳が重なり合う。何か言いたげなようにも見えた。

「……何か?」

「いえ、何でもございませんよ。……どうしようかな、言った方がいいのかなぁ」

「何だ。言いたいことがあるなら聴こうじゃないか。運転してもらうのが先だがね」

「あっ、はい。では運転しながらお話しさせていただきますねぇ」

 そう言うと、運転手は暗い車内の中でカチリとキーを挿してエンジンを作動させた。

 ブルルン、という安心感のある音が響き、やがてタクシーはホテルの玄関前から坂を下る道へと進み始めた。玄関前の上を覆っている平たい屋根から抜けると車内が一気に明るくなり、カーナビやその他の運転席周りのボタンなどが発してい照明も消えていく。

「えー、本日は信頼と実績と経験の久鶴観光タクシーをご利用いただき、ありがとうございます。運転手は私、山荒が勤めさせていただきます。……あっ、すみません。運転始める前にこうするのが当社の規則になっておりまして、何卒ご理解ください」

 どこぞの特急列車か、と言いたくなるような前置きを挟みつつ、山荒というよりは熊のような運転手は運転しながら語り始めた。誰に頼まれたというわけでもなく、である。

「規則なのは解った。それはそれで構わない。それで? 何が言いたいんだ」

「そう、それです。そのことなんですがね、お客様の行き先に関するご提案なんですよ。お客様は中大橋と言われましたが……もしかすると、そこを渡って浮島へ行かれるおつもりではございませんか? もしそうであるなら、お止めになられた方がよろしいかと」

 行き先は、まさにその通りである。運河の上に掛かっている中大橋を渡って浮島へと向かうつもりでいることを、何故この運転手は知っているのか。当然、内心で警戒心が高まる。バックミラー越しに運転手へと向ける視線も鋭くなってしまっていた。そのことに気付いたらしく、運転手は慌ててその疑惑を否定しようと言葉を続ける。

「いえ、よくあることなんですよ。観光客の方々が浮島に渡るときに中大橋を渡ろうとされるのは。なにせ、運河に近い商店街やカナル通りから一番近いのが中大橋なものですから。そのせいであの近くは日中は渋滞してましてね。お客様を降ろすのに二〇分近く列に並んだりするのが当たり前で、こちらとしましても申し訳なくなってくるんですよ」

「なるほど。皆考えるこのは同じというわけか……そんなに人気なのか、中大橋は」

「最近は特にそうですねぇ、昔は他の橋より人通りや車の出入りも多いだけでしたけど、あそこを恋人と渡って写真を撮る、映え? 蝿なのか何なのかよく分かりませんけど。そういうのが流行ってからは、ずっとそんな感じですかねぇ……」

 観光客を呼びたいからって変な呼びかけなんかしなければ良いのに、と運転手は小さく呟いた。そんなことになっているとは初めて来たこともあって知らなかったが、よく解らないことに拘る連中がそんなに多いとは。しかし、このことを知れたのは幸運だった。誰が何を撮っているか解ったものではない場所に足を運ぶのは、二人とも望まないことだからだ。隣に座っている少女も、その話をつまらなさそうに窓の外の林を眺めながら聞いている。その少女は、ヤスカが自身の方を見ていることに気が付くと、ほんの少しだけ微笑んで前を向き、運転手へと声をかけた。他所行きの笑顔と明るい声色を装備して。

「あら、そうでしたのね。教えていただきありがとうございます、運転手の小父様?」

「いえいえ、そんな。大したことではありませんから……それで、お客様方は浮島に行かれるのでしたよね。それなら、このままこのタクシーで東大橋を渡って行かれることをお勧めいたしますがいかがでしょう。料金もさほど変わりませんし」

 そこでヤスカはもう一度、観光マップを取り出して運河とそれに接する浮島を詳しく見てみた。市街地から削り取られたかのように運河と海に囲まれているのが浮島であり、その浮島と市街地は三つの橋で繋がれている。東大橋と中大橋、それと西大橋だ。運河と海との境目にかかっている二つの橋が東大橋と西大橋で、中大橋は運河の中腹を真っ直ぐに貫いている。なるほど、どの橋を渡っても浮島へと向かうことができることには変わりはないようだった。もれなく隣に座っている少女も右側からまたマップを覗き込んでいる。

「東大橋を通って浮島へ向かえば良いと思うけど。貴方もそれで構わないかしら?」

「……ああ、人混みに揉まれるよりはその方が良いだろう。決まりだな。君の提案の通りに東大橋を渡って浮島へ向かってくれ」

 二人の意見が一致したところでヤスカはマップから顔を上げ、バックミラー越しに運転手の方を見つめる。前を見ていた運転手もチラリとこちらへと視線を向け、軽く頭を下げながら承知の意を示した。二人を乗せたタクシーが、坂を下り切って街へと降りて行く。

「かしこまりました。……しかし、この本当によろしいんでしょうか。お二人は中大橋で写真を撮られるご予定はなかったので?」

「………うん? そんな予定は全く考えていなかったが」

「いえ、失礼しました。てっきりお二人も恋人どうしかと思いましてね。そうでないのなら余計な詮索でした、お許しください」

 もともと静かではあった車内に、それとはまた別の静寂が訪れた。ヤスカと銀髪の少女は互いに目を合わせず、お互いの座席の近くの窓の外の景色を眺めていた。明らかに空気は悪い。その原因は間違いなく、二人の関係についての運転手の発言だった。悪気がないのは解っている。そのことについて触れられるのは心地の良いものではないが、外から見ればそう見えてしまうのも致し方ないことではあった。そのことを知るのは二人だけであるため、それをそう簡単に話すわけにもいかないが、非常に端的に言えばヤスカと少女の違いが求めている関係性が異なっているということだった。要点だけを抜き取れば、ヤスカは少女に母性を求め、少女はヤスカに父性を求めているということであるが、これだけでは全てを語ったとはとても言えない。このねじれもこの二人の生い立ちに関わるため、二人の他にその真相を知り得る者はいなかった。つまり、本人たちでさえ触れ難い問題なのである。そのため、互いに目を合わせることすらも気まずくなってしまっていた。そして、こういう時には別の話題を出すのが最も簡単な切り抜け方である。諸刃の剣だが。

「まぁ、気にすることはない。歳の離れた妹なんだ、歳の割に大人びているからそうやって勘違いされることはよくある……それより、東大橋からでも運河の史料館には行けるのかが知りたいのだが。中大橋からなら徒歩で行けるのは調べたのだがね」

「その点に関してはご安心を。史料館の裏手にある駐車場にお停めしますので」

「そうか、ならそうしてくれ。降りられないよりは遥かに助かるよ」

 何とか車内の雰囲気を元に戻すことには成功したが、全てそう上手く行くとは限らないのが現実だ。少なくとも、隣の座席で笑顔のままヤスカの右袖を引っ張っている呼び出しを無視することはできないだろう。歳の離れた妹、という嘘を口にしたのだから、当然の結果ではあるのだが。その呼び出しに従って隣の座席へと身を屈めつつ近付くと、ヤスカの耳元に顔を寄せた少女が、運転手には聞こえないように小さな声でありったけの不満を耳の中に流し込んできた。ヤスカの耳をしても、聴き取れたのはその一部に過ぎない。

「全くどういうつもりなのかしら、今『歳の離れた妹』とか聴こえたのは何かの間違いよね。そうでしょうそんなはずがないわ、その方向性で語るなら私が姉で貴方は弟と言うべきでしょう。それがどうして妹だなんて私を年下扱いするの? 本当に信じられないわ。デリカシーというものをお腹に忘れてきたのかしら、貴方という人は。せめて姉、もしくは母でしょう。別に貴方を生んだのは私ではないけれど、少なくとも妹だけは一番有り得ないわよね。そのことを解った上で言っているなら相当捻くれてるわよ、これでは……」

「……頭の中に怪電波を注ぎ込むのは止めてくれないか、具合が悪くなりそうだ」

「ああ、なんて恐ろしい子。私が言われて嫌なことをわざわざ口にした上でそれを止めさせようとするなんて、どういう趣味をしているのかしら。貴方っていう人は本当にいつもそうよね、突き放したと思ったら急に近付いてくるし、私をどこまで振り回せば気が済むの? 突然一人にされたと思ったらまた突然帰ってきたし、私の情緒をどれだけ壊すつもりなのかしら、そう簡単に壊れたものが戻るとでも思っているのかしら、どれだけ……」

「……うん、そうだな。悪かった。謝るよ、『イブ母さん』」

 壊れたスピーカーのように耳元で語り続ける少女をどうにか落ち着かせるため、非常に気乗りしないまま懐かしい名前を少女に向けて口にする。その名前を呼ぶときには明らかに少女とはよく似た別人の顔が浮かぶわけだが、あまりその顔は思い出したくはないものなのだった。しかし、今はそうしないと事態は丸く収まりそうにもなかった。その特効薬を使うのと同時に、両手で優しく少女の頬を包んで見つめる。その瞬間、少女の顔に張り付いた偽りの微笑みも消えた。きょとんとして何が起きたか解っていないような顔を少女は一瞬したが、そのまた次の瞬間にはサッと顔を背けて右の窓の方に向いてしまう。

「……よろしい、今回だけは特別に許してあげます。全く、調子の良い子なんだから」

 少女がそう言ったのを見たヤスカは肩の力を抜き、自身の座席の背もたれに深く背中を預けた。市街地へと入っていったタクシーは幾つかの交差点を通り抜けると、提灯や吹き流しが電柱や街灯に飾り付けられた商店街を進んで行く。沿道を歩く人も多く、かなり賑わっているようだった。少なくとも、シャッター街のように静まり返っている気配は感じられない。そのような景色を眺めていると、再び運転手が声をかけてきた。

「それにしても良い時に来られましたね、もうすぐこの久鶴の街で『春カナル杯』が開催されるんですよ。もしかすると、お二人はそのためにお越しになられたので?」

「……まあ、そんなところだ。運河で行われる競舟というものを見に来たのでね」

「運河では観光船も運行していますので、そちらも是非お楽しみください」

「丁度、今日はその観光船に乗るつもりだったんだ。楽しみにしているよ」

 当たり障りのない会話に終始していると、タクシーは賑やかな商店街も通り過ぎ、左折すると今度はカナル通りという大きな標識が街灯に目立っている大通りに出た。運河と並行して走るその通りは市街地と浮島の間に掛かっている三つの橋とも繋がっているため、タクシーが進む先には運河と海の境界線としての役目を果たす東大橋が見えてくる。そして、その橋に向かうにつれて次第に人通りは少なくなっていくのだった。途中で通った中大橋の前には運転手が話したように大勢の人が歩いており、路肩にも停められた車が列を成していたのだが、そんなものはこちらでは見当たりもしない。

「どうです、向こうと比べると静かで良いでしょう?」

 カナル通りの始点並びに終点であり、右折すれば東大橋方面、左折すれば市街地に逆戻り、直進すれば砂浜が売りの海岸方面という交差点で赤信号によって停まったタクシーの車内で運転手は少しだけ得意気に語りかけてくる。ヤスカは適当に言葉を返した。

「ああ、そうだな。もし中大橋の近くで降りていたらと思うとぞっとするよ」

「皆が橋の上で写真を撮ろうとするから少しも進まないし、車道にまではみ出すくらい同じ場所に集まろうとするんですよ、ああいう連中は。人が渡るための橋を渡れないようでは、もう橋である意味もないようなものですから……」

 運転手が愚痴をこぼす間に信号の色が変わり、タクシーはまた進み始めた。右折して東大橋を渡っていく。座席の左に面する窓ガラスからは運河の外に広がる海に点々と浮かぶ小舟や、浮島に停泊している大型貨物船やその隣に生えている大型クレーンが見えた。見上げてみるとどんよりとした空はそれら全てに覆い被さり、何となく息が詰まるような気分にさせられる。これからのことを考えると、そういった気分なるのも無理もないことだった。その気分はタクシーが浮島に上陸しても変わらず、寧ろより現実味のあるものとして感じられるようになっていく。唯一の救いは、傍に少女の姿があることだった。

 タクシーは浮島に上陸すると少し速度を落とし、散策路の側からも見えていた石造の倉庫が建ち並ぶ通りの裏側を進んで行った。散策路を歩いているときには解らなかったことだが、どうやらこうした倉庫の中は土産屋になっているらしかった。久鶴名物、ガラス細工と書かれた看板や旗が無数に見える。同時に、商店街とほぼ変わらない数の人々も。そんな光景を横目にしていると、やがて目の前に、散策路からはその姿が全く見えなかった一際大きな倉庫風の建物が飛び込んできた。その建物の玄関には、こう書かれている。

「到着いたしました。久鶴市立、運河史料館でございます。お会計の方は……」

「カードで。停まってから支払わせてもらおう」

「かしこまりました」

 タクシーは史料館の裏手に広がる駐車場に停まり、そこで会計を済ませて二人はおよそ一五分ぶりに大地に降り立った。またのご利用を、という運転手の声を聴きながら歩き始め、最初の目的地である史料館の玄関口を目指す。

「……君はまた利用したいと思うかい?」

「もう少し静かな運転手が良いわね。少なくとも、貴方が疲れないような」

 それもそうだな、と言いつつ二人は石造の壁の横を歩く。その反対側には広場があり、そこには木造の蒸気船そのものが展示されていた。近くの看板をチラリと見てみると、これは既に使われなくなった古い観光船をそのまま残しているものだ、と書いてあった。なるほど、廃棄せずに展示として残しておくのも良いものだな。もう少し目立つ場所に置いても良いとは思うが、玄関前に置くとどこかの橋のように通行の妨げになりかねないということも考えられる。そうすると、これはこれで良いのかもしれなかった。

「あら、向こうに見えるのは観光船の乗り場かしら。随分と並んでいるみたいだけれど」

 少女の視線が向いている方には、浮島の海に面する側から三本ほど頑丈そうな桟橋が伸びていた。その桟橋の内の一本には屋形船が停まっており、それに乗る人と降りる人が同じ桟橋の上に集まっている。それぞれの桟橋の中央は両端と同じような柵で仕切られているため、乗り降りの際に混雑しないように工夫がされているようだが、それにしてもそもそもの人の数が多いため、その工夫もあまり機能していないようにも見えてしまう。

 それらを横目に、ヤスカと少女は石造の倉庫の形をした史料館へと入って行く。幸い、この史料館は観光船の乗り場ほどは混んでいなかった。列に並ぶこともなく入場券を発行する窓口に立ち、円形の穴が無数に開いたガラス越しに受付係の会釈を受ける。

「史料館にようこそお越しくださいました。本館の入場料は大人一人八〇〇円、高校生以下のお子様四〇〇円でございます」

「大人一名、子ども一名でお願いします」

「かしこまりました。一二〇〇円、頂戴いたします」

 二人はそれぞれ入場券を受け取るが、少女の方は子ども一名と書かれた入場券を受け取ると少しそれを手で握って歪ませた。何が不満なのか解らないわけではないが、側から見れば子どもなのだから、これはどうしようもない。受け入れてもらうしかない。少女から突き刺される鋭い視線に何とか耐えながら、ヤスカは少女の背中を軽く押して展示室の出入口の中へと進む。最初に入った展示室では、市民から提供されたかつて運河を出入りした舟の船頭や漕ぎ手が着ていたという半被や、木製の舟の模型などが並べられていた。その一つ一つ近くには、細かい説明を記したボードも置かれている。この半被はどこの倉庫に荷物を運んでいた何という組合が使っていたものか、この形の木製の舟はいつから使われ始め、そして使われなくなったか。運河を支えてきたこういう小さいものの積み重ねの記録が、ガラスのケースを隔てた向こう側に満ち満ちていた。

 その中でもヤスカの目に留まったのは、数多く展示されているような木製の舟の模型ではなく、その近くにひっそりと置かれている艀の模型だった。それは木製の舟の模型と比べても目立つものでもない。艀は船に引かれて荷物を乗せるための平たい舟で、今でも使われている。列車でいうところの貨物車のようなものだ。そういったものまでも漏れなく展示しているとは、この史料館はただの観光客向けの施設ではないらしかった。

 次の展示室は最初の部屋よりも開放的だった。ガラス張りの展示ではなく、額縁に入れられた古い写真や年表などが壁を埋め尽くしている。そのどれもが、この久鶴という街で運河が作られた歴史と、その過程で形成された伝統や文化について述べられているのだった。その膨大な文章の一つ一つにヤスカは目を通し、その中身を飲み込んでいく。

 久鶴運河。その歴史は大正時代に遡り、当時国内唯一となる沖合埋め立て方式で完成した。全長は約一・一キロメートル、幅はおよそ二〇メートルから四〇メートル。沖合で貨物船から荷揚げした荷物を載せた艀が、直接倉庫の近くまで行けるようにするために建設される。やがて運河で荷下ろしを行うなど、そこで汗水を流した者たちの中から自身の遺灰を運河に散らすことを望む者も現れた。この動きは少しずつ広がり、かつてはそれが一般的に行われていたが、公営墓地への埋葬が呼びかけられるようになってからは次第にその風習は消えていったという。散灰もされなくなり、運河がその役目を終えても尚、久鶴の人々は運河を祭り上げるという伝統を受け継いでいる。その一つが競舟である……。

「ふぅん。私も遺灰は海に撒いてもらおうかしら。この風習は、それともまた違うような気もするけれど」

「遺灰が残るような最期を迎えられるかどうかも別の問題だがね、互いに」

 運河を描いた水彩画の前に立ち、二人は互いに顔を見ることなく言葉を交わした。

 ヤスカと少女は史料館を出た。ある程度、知るべきことを確認し終えたからだ。その次に向かったのは史料館に入る前に見た観光船の乗り場で、更に言えば桟橋の近くにある券売所へとやって来る。券売所の前には観光船に乗ろうとしている観光客たちが長蛇の列を作っているが、その横の予約券発券専用窓口の方はがら空きだった。その窓口の前には、列を形作るような柵さえも設けられていない。混雑することを最初から想定していないようにも見えた。二人はその窓口の前に立ち、予約券を受け取りに来たと告げる。

「お受け取りでございますね。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 史料館の窓口よりも少し靄がかかったような、円形の穴が無数に開いたガラス越しに受付係がお決まりの問いかけを発する。極めて機械的な声色が聞こえた。

「天野安門で大人一人、学生一人を予約しているはずだ」

 隣に立っている少女がチラリ、とヤスカの方に視線を動かす。それに気付いた上で気付いていないふりをしていると、再び窓口の向こうから係の声が聞こえてくる。

「少々お待ちを……確認いたしました。ご料金の方は既にお支払いいただいておりますので、直ちに発券いたします」

 ウィーン、という紙を印刷する音がガラスの奥から微かに聞こえてきた。続いて、窓口のガラスの下に空いた隙間から音もなく二枚の乗船券が滑り出てくる。誰が二人分の料金を支払ったのか、ヤスカには心当たりがあった。そう、この予約を行ったのはヤスカではないのだ。即ち、これは招待というものである。受け取ると、確かに伝えた通りに大人一人と学生一人の分の予約券がそこにはある。それを見ると、これが現実であることを解っていたとしても、嫌でも自覚が強まった。仕事屋としての自覚というものは、逆に少し弱まってしまうのだが。これからのことを考えると、そうなる部分もあった。もっとも、それはヤスカの浅瀬のようなもので、その奥深くに眠るものは全くもって揺らいではいないのだが。そうだとしても、人間として生きるためにはそういう動きも必要なのだった。

「さて。行きましょうか? 私を三度も年下扱いした命知らずさん?」

 ヤスカがまたグルグルと頭の浅いところでそう考えていると、下から覗いてきた少女と目が合う。少し傾いた顔に合わせて頭の左側の銀髪が少し垂れていた。それを見ると微かな安らぎを得られる。仕事屋としては必要なのない浮つきも、全て叩き潰された。

「すまなかった。君に対する扱いが悪かったことは認めるよ」

「解ればよろしい。私のことは姉のように敬うことね……それなら、貴方もある程度は納得がいくでしょう?」

 ああ、そうだな、と本来の希望を押し殺してヤスカは承諾する。乗船券に記載された通り、一番橋と書かれた札が立てられた桟橋へと歩き始めた。少しの緊張感を覚えながら。

 桟橋に向かうと、そこには史料館に入る前に見たものとは見分けがつかない屋形船が停まっていた。と言っても、二人が乗るのは予約なしでも乗れるような通常の観光船ではなく、予約必須で完全個室制の特別な観光船なのだった。予約が必要なのは、こういうわけなのだ。そのため、そのような船に乗る前の桟橋が混むはずもなかった。人影の少ない桟橋にも一人の係員が立っているだけで、乗船券を見せるとお辞儀でこちらを見送り、一言も発さなかった。その方が安心感を与えてくれたのは、皮肉に思えて仕方なかったが。

 桟橋と屋形船の間に開いた僅かな隙間を慎重に乗り越え、二人はやや薄暗い船の中へと足を踏み入れる。後方の出入り口を通り抜けると、おにぎりやサンドイッチなどの軽食とお茶やコーヒーを提供するカウンターとゆったり寛げるソファが置かれている空間が出迎えてくる。船が出る時間にはまだ早いため人影はまばらだが、壁に染み付いたコーヒーの香りが積み重ねた賑わいを伝えていた。前方にはその中央を太い廊下が貫き、その左右に四つずつ、個室の襖が並んでいる。そして、二人の乗船券が示しているのは左から三番目の個室の襖だった。暖かい色合いの木目調の襖の前に立ち、軽く二度叩く。

「……入りたまえ」

 向こう側から低い声が聞こえた。その招きに応じてその襖の灰色の取手を横に引くと、室内の様子が明らかになる。外の様子がはっきりと見える明るい窓や、小さなテーブルとそれを挟む形で置かれている立派なソファ。その内の左側に座った中年らしき男は立ち上がり、二人を出迎えた。その男こそが、二人をこの船へと招いた者だった。

「私が君に連絡した高島だ。君が例の仕事屋かね。随分と若いようだし、連れの方もまだ子どもに見えるが……君は本当にあの『ヤスカ』なのか?」

「そちらが我々以外の誰かをこの船に招待したのであれば話は別だろうが、こうしてここに現れた以上、ヤスカであることを疑う必要はないだろう。そちらの想像は知ったことではない。それとも、他の誰かに今日ヤスカと会うことを伝えたとでも言うつもりか?」

「いや、そういうわけではないが……」

「ならば、そういうことだ。無駄な話をするよりもするべきことをしようじゃないか」

 高島と名乗った男は、特に反論することもなく再びソファへと腰掛ける。連れの少女が何者なのか、などの質問を封じたヤスカは、少女と共にコートを脱いでハンガーに掛け、個室に備え付けのラックに掛ける。それが済むと高島が腰掛けるソファと低いテーブルを挟んで向かい合うソファに二人並んで座った。ヤスカと高島の視線が真正面からぶつかり合う一方で、少女は窓の外に広がる果ての見えない海を眺めていた。高島は身を乗り出してヤスカの方を見ていたが、やがて一度姿勢を崩して背もたれに深く背中を預けた。更に天井を見て一息つくと、またヤスカと真正面から見つめてその口を開く。

「……さて、君に依頼の詳細を話さなければならないわけだが……その前に、そちらがお連れしたお嬢さんも同席するのかね。こう言うのも失礼だろうが、こちらとしては仕事屋以外にはあまり話したくないのだが……」

「その点に関しての心配は必要ない。彼女は仕事とは関係ないからな。純粋に観光を楽しみに来ているだけさ」

 高島が本題に入る前に発した懸念について、ヤスカはあっさりと振り払った。触れるなという言外の圧力もかけている。仕事屋に対する信頼がなければ仕事を依頼することができない以上、仕事屋を信頼する以外に選択肢はないという現実を突き付けてもいる。それは、極めて現実的かつ冷静な宣告でもあった。対する高島は思わず黙り込む。この宣告の意味するところは解るが、それを納得できるかどうかは別の問題だからだろう。実際、高島は固く目を閉じた後、少しの間その目を開くことはなかった。そのため、珍しいことではあるが、ヤスカの方から口を開くことにする。高島に向けて、とは限らないのだが。

「なあ、そうだろう?」

 その問いかけは、同じソファの隣に座る少女の方へ向けて行われたのだった。ヤスカと目を合わせたその少女は、高島が目を開けて話し合いに復帰してきたこともあってか、タクシーの運転手に見せたような他所行きの笑顔を貼り付けて微笑んでいる。

「その通りですわ。小父様はこのお部屋においては私のことなどお気になさらず、居ないものとしてお寛ぎくださいませ」

「……解った。そういうことなら大人しく話すとしよう。そうするべきなのだろう」

 足を揃えてソファに座り、膝の上に両手を重ねて上品に座る少女はそう語り、高島がこれ以上少女のことについて尋ねる機会を粉砕してしまった。これでは触れられまい。その通りに、足を広げてやや猫背で座る高島は依頼を仕事屋に伝えることを優先したからだった。こうして自然と対面するヤスカと高島は本題に入る用意を済ませ、屋形船の一室での密談が幕を開けたのである。それは仕事屋としての仕事に関する、大切な話でもあった。

『間もなくこの船は出港し、運河を巡って参ります。お客様におかれましては、是非お外の景色をお楽しみください……』

 屋形船は船内放送を終えると静かに動き出し、それとほぼ同時に高島が口を開いた。

「まず初めに、急な連絡にも関わらずよく来てくれたと言わせてもらいたい。察するに私的な旅行か何かの途中だとは思うが、ひとまずこれでこの街の伝統がなす術もなく崩れ去る可能性は低くなったと言えるだろう。ほんの少し、ではあるがね」

「仕事の依頼が来て聴く価値があると思えばそこへ向かう。たとえ同行者の機嫌を損ねようが、それはそちらが気にする必要のないことだ。それが仕事屋というものだからな」

 ヤスカは表情を変えることなく、というよりもマスクで覆われているため高島からはその機微も判るはずもなかったのだが、上辺だけの気遣いは必要ないと告げた。高島の方もいちいち動揺することもなく、淡々と話を続ける。互いの腹の探り合いよりは浅く、それでいてどこか距離のある微妙な雰囲気が室内で生まれつつあった。

「知ってはいると思うが、この久鶴の街では近々、春カナル杯という祭りが行われることになっていてね。君への依頼というのは、この祭りの目玉である『競舟』に関することなんだ。『競舟』に関する説明は必要かな?」

「それも聴かせてもらいたいところだが、その前に一つ確認しておきたいことがある」

 窓の外へと視線を向けながら語り始めた高島は、ヤスカの発した言葉に思わず正面へと向き直った。それは、ヤスカの方から何か質問が飛んでくることが予想外だったからであるが、よく考えてみればそれの何が予想外なものか、と内心で苦笑する羽目になった。自分自身が勝手に想定していたヤスカの反応がいかに当てにならないものか、それを自分に言い聞かせなければならない、と痛感したのである。

「ほう。それはなんだね。答えられる限りのことは答えるつもりではいるが」

「今は一〇月だぞ。それがどうして祭りに春という言葉が入っているんだ。まだ秋カナル杯と言われれば、こんな確認をする必要もなかったわけだが」

 このヤスカの質問を高島が飲み込むのには少し時間を要した。何故そこに違和感を感じるのかが、直ぐには理解ができなかったからだ。祭りの名前に違和感を抱く理由をあれこれと探した結果、それはヤスカがこの久鶴という街で生まれ育った人間ではないからだということに気付く。文化或いは伝統の外からやって来た人間が同じ認識を持っているとは限らない、ということだった。また、同じ認識を持っているという仮定も危ういようだ。

「その疑問も解らないこともないが……それを確認することは何か君の仕事と関係があるのかね? 君が知りたいのは、こちらがこれから伝える話の内容だと思っていたのだが」

 それでも、このように高島が思うのはそれとは別の問題だった。仕事屋はこちらの依頼を受けて実行すればそれで良いのであって、祭りの名前がどうのこうのという話題について果たして触れる必要があるのか。その疑問を口にするが、ヤスカからはその問題を思いもよらない方向で一蹴する答えが返ってくる。それは、少し低い声で語られたのだった。

「関係があるかどうかと考えるより、関係があるかもしれないと疑って些細な違和感を見逃さないことが仕事の成功に繋がることもある。ただそれだけのことだ。仕事屋として仕事に手を抜くことは許されない以上、このヤスカにはそうする義務がある」

「そ、そうか。なら君のためにも答えなければな。いや、言えば簡単なことなんだ」

 極めて冷静に確固たる信条を語ったヤスカに気圧されつつ、高島は話を続ける。

「秋に行われる祭りが春カナル杯と呼ばれているのは、この祭りの目玉であるとも言った例の競舟において、競舟に参加する舟たちの中で最も見事に運河を渡り切った舟にかつては杯が与えられていたことに由来しているというわけだ」

「それは祭りではなく杯と呼ばれている理由だろう。それで、その秋に行われる祭りに春という言葉が入っている理由は?」

「いや、まずは祭りが具体的に何を行うものなのかを伝えようと思ってね。要は、既にその役目を終えた運河で秋に競舟を行うことで、冬を越した次の年の春が無事に迎えられることを祈っているのだよ。これが祭りに春という言葉が入っている理由だ」

 高島がそこまで語ると、ヤスカは成程、と小さく呟いてそれ以上質問を投げかけてくることはなかった。次の年の春を見越して秋に行われる祭り、それが春カナル杯。その祭りの目玉としての競舟があり、かつて運河を行き来した無数の舟の伝統がここに引き継がれている……。待て、伝統だと。そのとき、ヤスカの頭には高島が少し前に述べた言葉が一言一句違わずに蘇ってきた。そしてその言葉は今回の依頼と結び付き、口から放たれる。

「思い違いでなければだが、確かそちらは先程こう言ったはずだ……『ひとまずこれでこの街の伝統がなす術もなく崩れ去る可能性は低くなった』、とな。その伝統とは恐らく競舟のことを指しているのだろうが、今回の依頼はそういうことなのか?」

 少し目を細めつつヤスカは真正面から高島と目を合わせ、高島もそこから目を逸らそうとはしない。それがある意味では答えを示していた。つまりは、そういうことなのだ。視線でのやり取りに留まらず、その事実を確定させるために高島も口を開く。

「そうだ、そうだとも。そのために君を呼んだのだからな。だからこそ、よく来てくれたと言ったのだ。君にはこの街の伝統である競舟を守ってほしい。それが今回の依頼だよ」

 高島は強い口調でヤスカへとそう伝え、最早それで満足しているような雰囲気さえ感じられる。ようやく伝えたいことを伝えられたからだろうか、深く一息をついて背もたれに再び寄りかかっていた。その様子を眺めつつ依頼の内容、と言ってもその一角を耳にしたヤスカはその逆の行動を取る。ソファから身を乗り出し、更なる追及を始めたのだった。

「おい、それだけ伝えられても困るぞ。まだまだ聴かせてもらわなければならないことがあるんだ、そもそも競舟とはどのようなものなのか、競舟の伝統が崩れ去るとはどういうことか、またはその伝統は何故崩れ去ろうとしているのか、などな」

 そう矢継ぎ早に質問を浴びせると、体を起こした高島はヤスカが依頼に興味を持ったのかと勘違いしたらしく、少し微笑みながら立ち上がった。当然ヤスカはそれを見上げる。

「おお、依頼を引き受けてくれるのか!」

「違う。まだ知らなければならないことがあるから話せ、と言っているんだ」

 ヤスカの催促によって勘違いを悟った高島は、立ち上がったときの勢いをあっという間に失って座り込み、俯きながらいよいよ競舟について語り始める。それがどう依頼と繋がるのか、ヤスカも一言一句聴き漏らさないように耳を傾けた。

「そうだな、依頼を受けるかどうかはその辺りを聴いてから判断することだろうしな。良いだろう。競舟について簡単に話しておこうか。この久鶴という街は大まかに言えば三つの地区に別れている。東地区と中央地区、それに西地区だ。競舟が始まったときは、この三つの地区からそれぞれ一〇人の漕ぎ手と二人の船頭を選び、それと三艘の舟を用意して参加していたんだ。つまり、競舟に参加していたのは三艘の舟だけだったわけだ。それが最近では七艘にまで増えているがね」

「それは、観光客が増えたからか? 中大橋の人混みはなかなかに酷いものだったが」

 ヤスカの言葉に高島は首を横に振る。どうやら、観光客とはまた違う事情があるらしかった。その事情を知っているらしい高島はその時点では深刻そうな顔付きをしていないため、そこに今回の依頼に至った原因も見当たらないように思えた。

「いや、元々競舟は久鶴に暮らす人々が行ってきた伝統行事だ。他所の街から来る連中への見世物ではないんでね。その増えた四艘というのも、久鶴と隣り合う街に住む人々の中から競舟に参加したい、と申し出てきた団体を俺が審査して許可を出しているから参加できているんだ。なにせ、俺は競舟の運営を取り仕切る外輪組の代表だからな」

「そういえばそう名乗っていたな、連絡を寄越してきたときに。外輪組は競舟を運営する立場だけでなく、市外の団体とも繋がっていたのか」

「まぁ、競舟に参加したいと言っている有志団体とだがね。それに、競舟は我々外輪組だけではとても運営できるものでもない。あくまでもその中心は、市内の三つの地区を束ねる三地会という大きな団体だ。そこが競舟に昔から参加している三艘の舟を管理し、市内の若者たちの中から漕ぎ手を集めているのさ。外輪組はその下っ端だよ」

 そこまで語ると、ようやく依頼の輪郭が少しずつではあるが、見えてきた。高島の話を聴きながら、ヤスカは頭の中でその内容を整理していく。久鶴市にあるその役目を終えた運河で行われる祭り、春カナル杯の目玉は競舟という行事である。その行事には現在七艘の舟が参加しており、その内の三艘は久鶴市の三つの地区から集められた若者たちが漕ぎ手となり、残りの四艘は参加を申請した市外の団体の舟である。この競舟を運営するのは目の前に座る高島という男が代表を務める外輪組であり、この外輪組は先程出てきた三艘の舟を管理している三地会という市内の大きな組合なのだ。つまりは、こういうことだ。

「長くなってしまったが、競舟がどういうものなのかは解ったかね?」

「ああ、大体は。……それで、これがどう依頼と絡むのか聴かせてもらおうか」

 前提として抑えておくべき情報を整理し、頭に入れたヤスカはようやくその核心へと足を踏み入れる準備を終えていた。そう、今までの話はこれからヤスカが身を投じることになるであろう舞台の成り立ちにしか過ぎない。それを知らずに身を投じてもその結果は碌なことにならないため、どうしてもその前提がいかに複雑であろうとも把握しておく必要があった。それが一段落した今、やっと聴きたいことを聴くことができるようになったのだ。そうでなければ、高島の話を聴いてもその意味を捉えることなどはできはしない。

「そうだな。ここまで話せば、君への依頼がどういうものかもやっと解って貰えるだろう……ただ、ここまで聴いたからこそ君が依頼を拒否する可能性も否定はできない」

 やっと聴きたいことが聴けるから、と益々前のめりになって高島を見つめるヤスカと対照的に、高島の方では別の不安が生じているようで、それを口にしていた。確かに、その不安は解らないこともない。相手は仕事屋であり、その依頼も内容によっては仕事として引き受けることを拒否する場合があるのだから。しかし、ヤスカは高島が抱えるその不安を見透かした上で、仕事屋としての立場を崩すことなくこう言い放った。

「話さないことには始まらないぞ。仕事屋として言えることはそれだけだ」

「……さすが仕事屋だ、そうでなくてはな。俺も往生際が悪い男だ。ここは腹を括ろう。ここからは明々後日に本番を迎える今年度の競舟が抱える爆弾について語ろう。爆弾と言っても本物ではないが、ある意味では本物よりも厄介だ。何せ、本物と違ってそう簡単に解除できるようなものでもないからな。その取り扱いにも、細心の注意が必要となる」

 ヤスカのある意味では突き放すような態度で逆に覚悟を決めた高島は、爆弾という物騒な言葉を用いて競舟の伝統が瀕している危機について語った。それを耳にしたヤスカは、何かを発することはせず、高島が次に語る言葉を静かに待つ。そして遂に、依頼の内容が明らかにされる時が来た。高島は簡潔に、競舟が瀕している危機の正体を口にする。

「方法までは判らないがね……本番においてその進行は妨害されようとしているのだよ」

「それは誰によるものだ? それが解っているならわざわざこのヤスカに依頼するまでもないことだと思うが……それも何か事情があるのだろう。それも聴かせてもらおうか」

 今度の場合は高島も躊躇うことなく、その事情について語り始める。それは非常もまた非常に複雑で、簡単に誰かを始末すれば片付くようなものではなかった。そのため、ヤスカは何故高島が自分に依頼して来たのかを納得させられることになる。

「舟が競ると書いて競舟だが、その実態は競艇のように順位を競うものではないことは祭りの名前の由来を思い出して貰えば解るはずだろう。中心を占める三地会は競舟のそうした伝統が変わることを認めない。市外の団体の参加を認めるのにも随分苦労させられた」

「待て。今年の競舟の伝統を壊す危険があるという爆弾とは、まさか……」

 目を細めたヤスカに合わせるかのように高島の表情も険しくなり、ヤスカが抱いた嫌な予感は益々現実味を増していく。つまりは、そういうことなのだろうか。その予感を確信へと変えていくかのように、高島の口から淡々と迫りつつある危機をもたらすものの姿が形作られていった。それを耳にするヤスカも、思わず握り拳に力が入ってしまう。

「そうだ、あれは我々久鶴に暮らす者たちが伝統に忠実であろうとするあまりに生み出してしまったものとも言える……仕事屋よ、君は競舟に参加する三地会の三艘の舟の漕ぎ手は誰から選ばれるか覚えているかな?」

「ああ、覚えているとも。久鶴で生まれ育った若者たちの中から選ばれるのだろう?」

 聴かされたことをそのまま答えるが、高島はそれを聴いた途端に自嘲気味に笑った。その笑みの意味を理解するよりも前に、高島は自ら補足を始める。

「厳密に言えば、漕ぎ手の候補になれるのはこの街で生まれ育った若い男なのだよ。これはあくまでも、かつて運河で船に乗って働いていたのが男たちだけだったからだがね」

「それならば、競舟の伝統を壊そうとしているのは一体誰なんだ。その口振りからして知っているのだろう? この期に及んで知らないとは言わせないぞ」

 そう問い詰めると、高島は目を見開いてヤスカを見つめ、遂にその名前を口にした。

「勿論だ、ニナイタイ。ニナイタイだよ」

 ヤスカの耳にニナイタイ、という聴き慣れないどころかその漢字も直ぐには浮かんでこなかった言葉が入ってくるのと、再び高島が語り始めるのはほぼ同時だった。

「彼らも確かに久鶴で暮らしている若者だが、この街で生まれ育ったわけではない。どこか遠くの知らない街からこの街の港に働きに来ている者たちなんだ。その者たちが結成したのが『担い隊』……俺たちだってこの街の未来を担いたい、だから競舟に参加させてくれと言ってきたんだが、思えば彼らの頼みを聞いたのが間違いの元だったよ」

「その『担い隊』という団体を結成した若者たちが競舟の伝統を壊そうとしている、ということか。それとまた一つ確認するが、その団体とお前はどういう関係なのだ? 聴いた限りでは、何らかの繋がりがあるようにも思えるが」

 ヤスカがその視線に臆さずに疑問をぶつけ返すと、そこを突かれると弱かったのか、途端に高島は目を逸らして窓の外の景色を見つめてしまう。釣られてその目線を追うと、運河の隣を走る散策路と大通りの間に広がる土手の青い芝生が視界を埋め尽くしていた。

「『担い隊』は確かに三地会の舟の漕ぎ手になる資格を得られない若者たちの要求によって立ち上げられたが、その活動資金や競舟に参加するための舟はとても彼らだけでは用意できるものではない。要はその裏に『担い隊』を動かして競舟の伝統を壊そうとしている黒幕がいるということだ。……そして、俺はその黒幕と『担い隊』の代表を知っている」

 瞳に感情を映さず、高島はそうヤスカへと告げた。その冷たい顔を見たヤスカは何となくその者たちの素性を察しつつも、敢えてそれを高島へと尋ねる。たとえ高島が口にしたくはないと思っていたとしても、それを明らかにしてもらわなければならないからだ。

「その者たちというのはあれか、身内か。だとすれば恐ろしいほどの悲劇だが……」

「そう、身内も同然だよ。『担い隊』の設立に関わったのは外輪組の幹部で、手宮という俺の部下だ。その手宮に唆されて『担い隊』を束ねているのも、その弟分の能田という男さ。どちらの顔も知っているし、何なら組の仲間として可愛がってきた。それがどうしてこうなったのか……嗤ってくれ、そうでもなければこの現実を受け止められない。もしくはどうか依頼を受けてくれないか。あいつらが三地会に消されるのを見たくはないんだ」

 青ざめた顔の高島を見ると、もうヤスカにかけられる言葉は見当たらなかった。慰める筋合いもないし、かといって嗤うこともできない。仕事屋はただ仕事屋として、仕事の内容の話を進めるだけだ。その冷たさがヤスカが持つことができる精一杯の優しさだった。

「そうならないために、このヤスカをここに招いたのだろう。身内の尻拭いというには話が大きすぎる気がしないわけでもないが、その内容によっては仕事として受けることもできる。もっとも、護衛より脅威の排除と言い換えるべきだろうがね」

「おお、本当かね。『担い隊』の背後には今年の初めに新しく市長になった男や、SUPホテル久鶴カナル前の支配人も絡んでいるらしいから君にしか頼めなかったのだよ、この『仕事』は。引き受けてくれるなら俺の首も繋がるし、伝統も守られることだろう」

 ヤスカの歩み寄りを目の当たりした高島は真正面を向いて手を伸ばし、ヤスカの右手を掴んでかなりの力で揺らす。されるがままに揺らされたヤスカはそれを振り解こうとはしなかったが、その激しい動きをただ、と一言口にすることで遮った。手も離れていく。

「先程も述べた通りだが、競舟の伝統を守ることや、その進行の妨害を防ぐことは一人では難しい以上仕事として引き受けるわけにはいかない。競舟が行われる上で護衛が必要であるならば、その進行を阻むものに対処することは仕事して成立する。即ち、『担い隊』に対して何かを働きかけるという形なら、このヤスカは仕事を引き受けるだろう」

「なるほど、そういうことか……無論、その形で構わないさ。ただし、『担い隊』の面々全員を始末するという形での解決はやめてもらいたい」

 仕事屋の肯定的な回答に高島は少しだけ納得した様子を見せたが、直ぐに過激な形での仕事の遂行に対しては釘を刺す。ヤスカもその心配はされるだろう、とある程度は予測していたがその通りになったため、内心で苦笑してしまった。仕事屋と始末屋の違いはこちらの世界の深いところに触れて来なかった者たちには解らないものだろう。始末屋として生きる者も何人か知っている。彼らの仕事における選択肢は一つしかない。標的の死だ。

 ヤスカは仕事屋であるため、最初から『担い隊』の面々の始末が選択肢に入っているわけではない。勿論、仕事としてそれを依頼されればそのときは別だが。だからこそ、ヤスカは高島の前でその可能性を否定しておく必要があった。不安を与えないためにも。

「安心してくれ。仕事を行う際の条件については聞く用意がある。始末するべきかどうかはそちらの匙加減と言ったところだ。こちらの生命に関わる場合は保証できないがね」

 そう告げると、高島はほんの少し安心した様子でソファに座り直した。もう視線は泳いでおらず、真っ直ぐにヤスカを見据えて動かない。仕事が仕事として成立するかどうかを見極める側面を持つ、仕事を行う際の条件に関する話し合いはそうして静かに始まった。

「条件の一つとしては、なるべく死者を出さないことを挙げたい……と言うよりは、担い隊の面々を始末することは避けてほしい。彼らは若者で、三地会の舟の漕ぎ手に選ばれる資格はなくても久鶴市の市民なのだよ。それに、祭りの前に大勢死人が出てしまうと祭りそのものが行えなくなる可能性もあるのでね」

「競舟のことを考えると、まあそうなるだろうな。その他に付け加えるべきことは?」

「競舟そのものが中止になるような事態は避けること。祭りの前や最中、後を問わずに死人が出るのはよろしくない。かと言って『担い隊』を放っておけば、明々後日の本番で暴れに暴れて伝統は崩れ去るだろう。これは厄介な条件だと思うが、競舟が禁止されるような最悪の事態だけは避けなければならないのだよ」

「こちらが『担い隊』を妨害することになるだろうが、そうなると前提として彼らに関与できる立場を得なければならないことになるな」

 そう述べると、高島の顔色が明確に変わった。終わりの見えないトンネルの中で散々彷徨った挙句、一筋の光を見つけたときのような様子だった。自分の選択は間違っていなかったのだ、という喜びに包まれているようにも見えたが、その顔は現実に戻っていくにつれて緊張感を持ったものへと戻っていった。そう、まだ何も解決していないからである。

「その点に関してはこちらからも支援を約束しよう。……競舟の伝統を守る大役を意味に一任することに葛藤を感じないというわけではないが、今はこれ以上に確実な手立てが見当たらないのだよ、残念なことにね。どうだい、この依頼を引き受けると言ってくれるかね。いや、是非言ってほしいのだよ。この街で続いてきた伝統のために」

 高島はソファから身を乗り出し、今度はそれに押される形でヤスカが背もたれに背中を預けた。その時飛行機の座席に腰掛けている過去の自分の姿が頭をよぎったが、あの時とは異なり、もうヤスカは不安に苛まれてはいなかった。それでも真正面を向き続ける。

「伝統を守るために動くのがその伝統とは縁もゆかりもない部外者であることは、ある意味では幸運だろう。それは同時に、寂しさを感じる貴重な瞬間の一つでもあるがね」

 目の前に座る仕事屋が口にした言葉の意味を飲み込むまでに高島は時間をかけていたが、やがて見開いていた目をゆっくりと細めた。依頼が受諾された、と理解したからだ。

高島がソファから立ち上がるとヤスカも立ち上がり、二人は固く手を握り合う。

「君が我々の望みに応えてくれたことにまずは感謝するよ。必要なものなら、人でもなんでも言ってくれたまえ。もっとも、こちらができることも限られてはいるがね。例えば、銃器の類の用意は難しいだろう」

「今最も必要としているのは銃器よりも、例の団体に関与する立場だ。それは人でもあるが、実在していなくても構わない。寧ろ、実在しない方が都合が良いだろう」

「……なるほど、それに関しては最優先で手配させるとしよう。用意でき次第、また連絡させるから待っていてくれたまえ。君の活躍を期待しているよ?」

「必ずしも求めていた結果が得られるとは限らないがね、それは覚えておいてくれよ」

 春カナル杯、競舟、三地会、そして担い隊。これから始まる仕事を取り巻くものたちの影を感じさせながらヤスカと高島はその対話を終えた。丁度その時を見計らってか、ずっとソファに座ったまま沈黙を貫いていた銀髪の少女が立ち上がり、ハンガーに掛けていたコートを取る。それに従ってヤスカも立ち上がり、同じようにしてその背中を追って退出した。勿論、二人とも個室に残った高島への一礼を忘れていなかった。扉が閉じられる。

 二人が高島と話した個室から廊下に出ても、まだ舟は動いていた。運河を既に通り抜けているが、今は浮島の海に面している側で海風に晒されながらも進んでいる。二人は廊下を直進して舟の前方へと歩いて行く。その先には進行方向の景色が一望できるデッキが広がっている。ヤスカの前を歩く少女はそこへと向かっていたのだった。足取りも軽い。

 満室であるのにも関わらず、静かな廊下を歩いているとやがてその先に光が見え、背中越しに少女の声も静かに聴こえてくる。それは久しぶりに聴く少女の地声でもあった。

「仕事の話はひとまず決まったようで良かったわ。私としては貴方が何事もなくこの仕事を終えることを願うばかりだけれども、私が仕事に関わるべきでないことは解っているつもりよ。貴方もそれを望まないでしょう?」

 そう言いながら、デッキに到着した少女はヤスカの腕に寄りかかる。デッキの欄干の固さと、腕から伝わる少女の温もりの残酷な差を噛みしめながら、ヤスカは吹き付ける風を受け止めていた。もうすぐこの暖かい世界から、容赦のない世界へと身を投じる時がやって来るのだ。それは自分で選んだ道だとも言えるし、ないとも言える。或いは、兵士か。

「ああ、そうだな……その方が良い。今はこれで良い」

 会話も止まり、観光船がもうすぐ停まることを告げる汽笛が鳴り響いた。もうこの風景をこうして見ることはないだろう。次に見るときは果たしてどう見えているのだろうか。

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