THE YASKALAW (ヤスカロウ)《春カナル杯》編
大屋易門
序幕 カナルは静けさを好むか
北国の観光地、久鶴市には今はもうその役目を終えている運河が流れている。その横を通る石畳の散策路に一定の間隔をおいてニョキニョキと生えたガス灯のぼんやりとした輝きは、底の見えない黒に染められた水面にゆらめいていた。既に人通りもまばらな時間帯ということもあり、この散策路にも観光客の姿はすっかり見えなくなっている。だが、穏やかではあるものの冷たく、雪が降る季節の訪れを感じさせるような風に包まれた人影がまだそこに伸びていた。その人影の他には、この路に人影は見当たらなかった。
人影の主は二人。そのうちの一人は黒の革靴を履き、上下の黒いスーツを着た上で灰色のチェストコートを身に纏い、紺色のボルサリーノを被った男だった。耳には逆十字架のピアスが風に揺れている。その男は散策路を共に歩くもう一人の背後を歩いていた。運河を挟んだ対岸に並ぶ石造の倉庫をちらりと見てから視線を進む方へと戻すと、灯りの少ない対岸よりも近寄り難い雰囲気を放つもう一人の小さな背中が視界に飛び込んでくる。男の前を歩くそのもう一人というのは焦茶色のブーツを履き、黒いタイツが覗く膝丈の白いノーカラーコートに身を包み、紺色のマフラーを巻き、深緑色のクロケット帽子を被った男の肘くらいの背丈の少女のことだ。男とその少女がこのような格好をするくらいにはこの街のこの時間帯は冷え、運河と散策路も昼間とは似ても似つかない寂しげな雰囲気を醸し出しているというわけだが、その雰囲気に呑まれたのか、それとも元からそうだったのか。いつの間にか二人の間にも交わされる言葉は少なくなり、奇妙な空気感という重苦しいものがこの場を支配しつつあるのだった。この男にとって好ましくない形ではあるが。
この空気感を振り払うべく、男は何度か目の前を歩く口を閉ざしたままの少女に何度か声をかけようとしたのだった。今も尚沈黙が続いているということでその試みがどうなったかは察することができるだろうが、まだ諦めてはいない。暑過ぎるはずもなく、かと言って寒過ぎるというわけでもない風が執拗に頬を撫でるに連れて、段々と風が自分自身を煽っているかのような気分にさせられてきたのだ。実際に煽られているというわけではない、と勿論理解はしている。だが、風に包まれているうちにそう思ってしまったということなのだ。そうなれば、少女に向けて男の口が開かれるのは時間の問題であると言えるかもしれなかった。それを風に煽られたからだ、と考えるのも、ある意味では都合の良い解釈ではある。何に対してもそう考えることは、決してお勧めできるものでもないのだが。
ガス灯の路と石造の倉庫が建ち並ぶ対岸を繋ぐ数本の橋のうちの一つが見えて来た頃、男は紺色の帽子をとって小脇に抱えた。頭の後ろで束ねた男の長い黒髪が風に揺れ、後ろに流さずに残った前髪が少しだけ視界で揺れる。それを掻き分けつつ、帽子を被り直してようやく本当の意味で少女と向かい合うために口を開いた。遅かったな、とどこからか聴こえてくる聴き馴染みのあるようでないような、懐かしい声を耳にしながら。
「……折角こうしてここに来るのなら、雪が降っている季節の方が良かったかな」
沈黙が続くことを望まなかったがために口から滑り出した、本心からのものでもない乾いた言葉が白い息と共に空気を震わす。そうであることを悟られないように今まさに思ったことを口にした風を装ったのだが、声をかけられた側の少女は振り返らなかった。振り返らないまま、帽子とマフラーの間から覗く銀髪を僅かな光を捉えて輝かせている。
「雪が降っていたなら、もちろん素敵でしょうけど。そうであったとしても、満足できるというわけでもないわね」
返事はそう簡単には返ってこないだろう、と油断して余所見していた男にとって、突然の返答によってもたらされた衝撃は計り知れないほどのものだった。特に変わることもない足元の石畳を見つめながら歩いていた所で、急に顔を上げて少女の背中を見つめたのだから。少女はまだ振り向いていなかったが、返事が返ってきたことは紛れもない事実だ。
耳が確かなら、この好機を逃すわけにはいかない。ここでこちらが何も返さないとなれば、また何か話しかけたとしても、次は返事さえ返ってこないかもしれないのだから。一切表情を変えることはないが、それでも男は何とか会話を繋ごうと、どう声をかけたものかとあれこれ考える。慌ただしい思考の果てに辿り着いたのは、少女も返事を返さざるを得ないような言葉の形、即ち疑問だった。それは相手に返答を求める類のものである。
「ほう。雪では君を満足させるには足りない、と。つまりはそう言いたいのかい」
男の口から放たれたのは、またしても本心からのものではない言葉を並べただけの音の羅列だった。だが、今はそれで良いのだ。その内容よりも、少女と言葉を交わし続けることを目的としているのだから。たとえ、返ってくるのが罵倒であろうとも構わない。何かしらの文言を返してくれさえすれば、重苦しい沈黙から逃れることができる。
そうして男は微かな希望を抱き始めていたわけだが、背を向けたまま疑問を投げかけられた少女はその自分勝手な目論見を知ってか知らずか、突然ぴたりとその細い脚を揃えて立ち止まった。それには男も思わず立ち止まってしまう。追い越すことはしないのだが。
そして、立ち止まった少女は静かにゆっくりと振り向き始めた。背中まで伸びている銀色の長い髪が風に靡く。左向きに回りながら振り向いていく少女に少し遅れた髪が風に揺れて煌めいている。その光景に男の目は奪われてしまったが、それだけでは終わらない。
銀髪の少女は振り向くと同時に、ずい、とその整った顔を男へと近付けてきた。黒に染められながらも淡い輝きを放つ、真珠のような瞳とそれを覆う瞼に煌めく銀色の睫毛。前髪の間から覗くその瞳の前にかつては跪かざるを得なかった男は、同じ行動だけは取らなかったものの、目を逸らすことまではできずに吸い込まれそうになっていた。本能的に。
瞳の主の少女も、その場に立ち尽くす男を下から見上げる。軽く目を細め、小さく白い息を吐く。男はその姿を見て何か声をかけようかとも思ったが、白い息が冷えた空気に溶け切るよりも前に少女の方が口を開いた。内容のない話にわざわざ合わせるかのように。
「雪が降る頃になれば、ここに来ること自体が難しくなるでしょう。……もちろん、空の港から列車に乗ってそういう景色を楽しみつつ、ここに来たいと思わないわけではないのだけれど、それも天候によりけりよね」
その言葉を耳にしたとき、男の頭には列車の座席に座った二人の姿がよぎった。窓の外には白に覆われた平原が広がっている。列車は濛々とした煙を立てながら無限を感じさせるその平原を突っ切って行く。窓側に座った少女と共に、男も窓の外を眺めている。
しかし、その幻の光景は、ほら、という少女が発した更なる言葉で消え失せていた。
「雪も度が過ぎると空の港に降り立つことも、或いは列車が動くことすらもできなくなってしまうでしょう?」
「それも、そうだが……旅人が持つにはなかなかに現実的な視点だと思うよ。旅行という非日常に身を置く者なら、もう少し浮かれている方が自然なものではないかな」
眼下の少女は男を見上げながらも、頭上の顎を殴りつけるかのような鋭い口調で語りかける。それに対して何とか絞り出した返事を口にした男を見る目は、ますます細まっていった。どの口が言うのやら、という呆れをまざまざと伝えるかのように、である。
「そうかしら。旅人も事が予定通りに進むかどうかに関しては、細心の注意を払うものではなくて? そこには、仕事屋としてここに来た貴方にも通じるものがあると思うのだけれども」
そう言われたとき、ようやく仕事屋と呼ばれた男は少女の瞳から逃れて目を背ける事ができた。近寄り難い雰囲気を放っていた少女の口から放たれた言葉を、じっくりと咀嚼して飲み込む。そこに込められた意味を一つも取りこぼさないようにするために。
「……そうか。そういうことだったんだな。君は仕事のついでにここに連れて来られたことが不満だったのか」
閉ざされた本音を探る旅を終えた男は、視線を戻して見上げてくる少女を見下ろす。真正面というにはやや下向きから見つめられた少女は、目を逸らしてぐるりとその華奢な身を翻し、背を向ける。またしても、銀色の髪が少し遅れて冷たい風に揺れて煌めいた。
「……別に、そういうわけではないけれど」
再び背を向けた少女は、そう小さく呟いた。その顔は見えない。後頭部も表情を伝えて来ないし、肩を震わしているというわけでもなかった。その後ろ姿を見ていると、男はその言葉を聴いただけでそれならそういうわけではないのだろう、と言いたくなる。実際に口にすることはないのだが。少女のその言葉も、少女が思っていることそのものを表しているようには思えなかったのだ。さて、どう声をかけたらいいものか、と男の思考は出発点へと戻ってきてしまう。戻ってくるつもりはなかったものの、結果的にそうなってしまった。短い旅を終えた途端に、新たな旅が始まったような気分だ。男はそんな気分のせいで思わず立ち止まってしまう。これは今までにはなかったような動きだった。
一方で、背を向けた少女の方も新たな動きに出た。これまでは散策路を二人で歩いているときには振り返ることこそしなかったが、それとなく背後を歩いている男の影が付いてきているかどうかを確認していたのにも関わらず、一人でスタスタと歩き始めてしまったのだ。それも、定期的に体が照らされるガス灯に近い散策路の運河側ではなく、ガス灯から少し離れた反対側の土手の方へ。あっという間にその身を照らすものはなくなり、それでも少女は進み続ける。男のことなど構うことなく、暗がりへと向かって。石畳に確かな足音が響く。その音が、男を終わりの見えない頭の中の旅から目の前への帰還を促した。
無論、我に帰った男はその小さな背中を追うために一歩を踏み出す。二歩目、三歩目と続く。少女の背中が近付いてきた。もう手を伸ばせば、その肩に届きそうなほどだ。ここで呼び止めなければ、何かが永遠に失われてしまう、という猛烈なら予感に突き動かされながら、手を伸ばす。少女がその身を包んでいる白いコートの肩に手が触れそうになる。
『……まったく、呆れた人間だ。彼女が何を求めているのかも考えずにいるから、こういうことになるのだというのがまだ解らないとはな』
その手は、肩に触れる寸前で聴こえてきた声で止まってしまった。思わず後ろを振り返るが、もちろんそこに誰かがいるはずはなかった。この散策路には、男と目の前の少女しかいないのだから。その声がどこから聴こえてくるものなのかについても、落ち着きを取り戻した男にとっては探し回る必要はなかった。目の前を歩いている少女にも、その声は聞こえていない。では、どこから聴こえてくるものなのか。その声は先程聴こえてきたものと同じように、男の頭の中から聴こえてくるのだった。
その声は、男の思考の一端とも言えるものではある。だが、それにしてはあまりにも制御不能なのだ。言語によって組み立てられる思考とはまた別に、その声は自分の意思とは無関係に頭の中から聴こえてくる。それを男は、もう一人の自分か、或いは頭に棲みついた悪魔か何かだとばかり思っていた。つまりは、その囁きがまた聴こえてきたのだ。
その囁きが聴こえ、更にはこちらに語りかけてくる場合もある。その場合には、男の側も声に出さずに語りかけるのだった。そうすれば、驚くことに自分同士の会話が始まる。
「また君か。眠ると言っていた割には随分と浅い眠りについていたらしいな。お互いにまだそんな歳でもないだろうに」
『俺だってできることならずっと眠っていたかったさ。こうして叩き起こされているのは、お前が不甲斐ないからさ。かつての兵士から見てもな』
頭の中の声はそう言うと、笑みを噛み潰したような声色へと変わりながら少女の前を歩く男へと語り続ける。最早その声はもう一人の自分でありながら、他人のようだった。
『それにしても皮肉なものだな。かつては兵士だったこの俺が、人間であるお前に対して人間らしくないと思うようになるとは。なんとも面白いことだ。人間らしくあろうとすればするほど、お前は人間らしからぬ存在になっていく……あまり笑わせてくれるなよ? これでは何のためにお前にその座を譲ったか、解らなくなるじゃないか』
「……随分と饒舌だな。逆にきさまこそ、人間らしくなったように見えるがね」
『……俺にそんなことを言っている場合か? 危機感というものを知らないのか』
頭の中の声が一瞬で低くなった。重苦しい声色が聴こえたと思えば、次の瞬間には現実には起こり得ないであろうことが起きる。少女の背中を追いながら歩いている男は右腕を少女の肩へと伸ばしていたわけだが、その右腕を突然左腕が掴んだ。それも、男の意思とは無関係に。しかも、腕の骨が圧迫されているのをはっきりと感じられるほどの力で、である。そんなことを男がわざわざするはずもない。頭の中の声の主が、左腕を操っているのだ。恐らくは、男が少女の肩に触れるのを防ぐために。
「何をしている? というより、何故きさまが左腕を動かせる?」
『俺はお前であり、頭の中にいる。体を操れても不思議ではなかろう……それに、今彼女の肩に手を触れて話しかけるのはやめておいた方がいい』
「いや、そういうわけにもいかない……この人を失うことは、自分の存在する意味に関わる。かつてお前も言っていたはずだ。この人を失えば、死ぬまで止まることのない一人の兵士が残されるだけだとな。それに、その兵士とはお前自身のことだろう?」
頭の中の声は答えを返してこなかった。その間に、男は少し開いた少女との距離を物理的に詰めていく。足の長さの違いによる歩幅の差によって瞬く間に二人は近付いて行ったが、そこでまたしても頭の中から兵士の声が聴こえてきた。少し焦った様子の声色で。
『彼女から離れろと言いたいわけではない。ただ、彼女のことを思いやらずに近付くのは、離れるよりも悲惨な結果を招くと言いたいだけだ。それはお前は……』
「……いい加減にしてくれよ。今のヤスカはこのヤスカなんだ、お前ではないんだよ」
男はそこで初めて、頭の中の声を遮った。それだけではない。自分の意のままに動かすことができる右手で握り拳を作ると、それを躊躇わずに己の額に叩き込んだ。額に衝撃が走り、脳が揺れる。視界がぼやけ、足元がふらつく。実際のところ、男はふらついてその場に倒れ込んでしまった。それはかつて兵士として生きていた男に対する、人間として生きている男による反抗だった。今の自分とかつての自分がぶつかり合う際に痛みは避けられないものだ、と覚悟だけはしていたが、それが物理的な痛みを伴うものだとは。少し想像と違う結果にはなったが、とにかく頭の中の声はもう聴こえなくなっていた。
やっとのことで主導権を取り戻した男は、頭の中に居座るかつての自分が止めたことを実行するために口を開く。そのために、自分の額に拳を向けて殴り付けたのだから。
「……すまなかった。君の仕事のついでに連れて来たつもりはなかったんだ」
久しぶりに温かさを伴った言葉が口から飛び出す。自分自身に向けてのものではない。これは、今目の前を歩いている銀髪の少女に向けてのものなのだ。それでも、少女は振り向かない。振り向かせるには足りない。ならば、まだ語り続けるしかないようだ。
「君とここに来ることになってから仕事が入ってしまったんだ。こればかりはどうしようもない。仕事をしなければこの世界で生きていくこともできなくなってしまう……これ以外の生き方を知らないんだ。知っていることと言えば、兵士としての生き方くらいだが、それはもう生き方と呼べるものでもない。君と共に生きる道ではないんだ」
「ふぅん。『兵士』としての貴方がそう言うように、とでも教えてくれたのかしら。それとも、仕事から目を背けることは許されないとでも言いたいわけ?」
男は自分の耳から聴こえてきた言葉が現実のものかどうか、まずは疑った。次に、少女がゆっくりとこちらを振り向いたことでそれが確信に変わる。不器用な子どもを見つめる母親のようでありながらも、どこか寂しさを感じさせる瞳がこちらを見つめている。
「いや、これは人間としてのこのヤスカが自分自身で考えたことだ。君と共に生きるための道を選んだのはこのヤスカだ。あの兵士ではない。それだけは、確かだと言える」
そう告げると、少女は目を一瞬だけ見開いたように見えたが、すぐにまた目を細めて男の方へと近付いてくる。下から見上げる格好ではあるが、そこから感じる圧力は相変わらずだった。しかし、今度は目を逸らさない。誤魔化さずに跪くと、少女と向き合う。
「実のところ、私が求めているのは兵士としての貴方の方なのだけれど……それでも構わないのかしら?」そう言うと、試すかのように少女は微かに微笑んだ。髪も揺れている。
「ああ、構わないさ。……人間として君と生きる道を、この手で見つけてみせるよ」
そう語り合いつつも、少女とヤスカは立ち入ることのできない見えざる互いの壁の厚さと重さに押しつぶされそうになった。お互いに歩み寄ろうとする度に傷つけ合いながら。
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