第5話 僕の待つ時間、あなたの待つ時間
放課後の教室は、音が抜け落ちたみたいに静かだった。
机の脚が床を引きずる音も、誰かの笑い声も、もう遠い。
私は、席に座ったまま動けずにいた。
――少しだけ、時間をください。
自分で言った言葉なのに、
それがどれくらいの重さを持っているのか、分かっていなかった。
「透」
声に、肩が跳ねる。
振り向くと、みな子が鞄を肩に掛けて立っていた。
「帰らないの?」
「……うん、ちょっと」
「ふーん」
それだけ言って、彼女は私の机の前に腰を預ける。
探るような視線。
「ひなちゃん?」
「……見てたの?」
「廊下からね」
やっぱり、全部見られていたらしい。
「で?」
「で、って……」
みな子は、少し首を傾げた。
「透、なんか今日おかしいよ」
「昨日から、じゃなくて?」
「ううん。もっと前から」
前から。
それは、この世界の“前”なのか、
それとも、私がここに来る前なのか。
「今までさ」
みな子は、指で机の縁をなぞりながら言う。
「ひなちゃんのこと、ちゃんと距離とってたでしょ」
胸が、きゅっと締まる。
「先輩だから、とか」
「期待させたら悪い、とか」
「そういうの、考えてる顔してた」
――してた。
男だった頃の“僕”だ。
「でも今日の透は」
彼女は、じっと私を見た。
「考える前に、反応してる」
言葉に、息が詰まる。
反応。
ひなたが近づいたとき、
声を掛けられたとき、
横に並んで歩いたとき。
全部、体のほうが先に動いた。
「それって、悪いこと?」
私は、小さく聞いた。
みな子は、一瞬だけ黙ってから、笑った。
「さあね。でも――」
「女の子っぽい、とは思う」
その一言が、やけに深く刺さった。
女の子。
制服が、体になじむ理由。
視線の集まり方。
ひなたとの距離が“近い”と感じられた理由。
全部、そこに繋がっている気がした。
「……私さ」
声が、少し震える。
「変わっちゃったと思う?」
みな子は、少し考えてから答えた。
「変わった、っていうより」
「隠さなくなった、かな」
隠していた?
男だった頃の私は、
感情を理屈で包んで、
触れないようにしていた。
でも今は、
好きだと感じる前に、
近づきたいと思ってしまう。
「ひなちゃんのこと」
みな子が、静かに言う。
「どうしたいの」
どうしたい。
答えは、簡単なはずだった。
――好きだ。
でも、その続きを言葉にしようとすると、
喉の奥で引っかかる。
「……分かんない」
正直に言った。
「好き、だと思う」
「でも、それをそのまま渡していいのか、分かんない」
私は、男だった。
でも、今は女で。
彼女は、私を“先輩”として好きだと言った。
その全部が、絡まってほどけない。
みな子は、ため息をついた。
「難儀だね、透」
「うん」
「でもさ」
彼女は、鞄を持ち直して言った。
「ひなちゃん、きっと待つって言ったでしょ」
私は、頷く。
「じゃあ、それでいいじゃん」
「今は」
今は。
決めないことを、許される時間。
でも、それはモラトリアムを意味しない。
「逃げるのと、待つのは違うから」
「ちゃんと考えるなら、ね」
それだけ言って、みな子は教室を出ていった。
一人になった教室で、
私は自分の手を見る。
細くて、白い指。
知らないはずなのに、確かにそれは“自分のもの”だ。
この手で、
ひなたの手を取ったら。
彼女は、どんな顔をするんだろう。
怖い。
でも――少しだけ、期待してしまう。
窓の外、夕焼けが校舎を染めている。
昨日とは違う立場で、
昨日と同じ恋を抱えたまま。
私は、まだ答えを出せずにいる。
――でも、
この時間さえ、無駄じゃないと思いたかった。
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