第4話 ――君は、昨日の続きを知らない

教室に入ると、空気が一段階、ざわついた。


視線が集まる。


――正確には、私に。


「おはよー、透」

「今日の髪型、ちょっと違くない?」


軽い声が飛んでくる。

どれも、昨日までの“私”に向けられていたものだ。


笑って返す。


うまく、やれていると思う。


少なくとも、表面上は。


席に着くと、みな子が前の席から振り返った。


「ね、今日の放課後って空いてる?」

「……放課後?」

「ひなちゃんと話すんでしょ」


また、その名前。

胸が、ぎゅっと縮む。


「なんで、そうなるの」

「だってさ」


みな子は、悪びれもせず言った。


「昨日、ひなちゃんから相談されたもん。“透先輩、今日も来ますか”って」


……来る?


昨日の放課後。


校舎裏。


「明日まで待ってほしい」


私が覚えている“昨日”と、

この世界の“昨日”は、やっぱり噛み合っていない。


チャイムが鳴って、会話は途切れた。


授業は、ほとんど頭に入らなかった。サインコサインタンジェントがなんちゃら。


ノートに大きく歪んだ単位円を書く手は動いているのに、意識はずっと、ひとつ先の時間にある。


放課後。

教室を出た瞬間、背中に視線を感じた。


「……あ」


その声を聞いただけで、分かってしまう。


振り返ると、そこにいた。


ひなた。


昨日まで“後輩”だった少女。

少し緊張したように、でもはっきりこちらを見ている。


「透先輩、あの……」

「うん」


声を出すだけで、胸が痛い。

彼女は、一歩近づいて、言った。


「昨日の話、覚えてますか」


覚えている。

忘れるわけがない。


でも――


私が知っている“昨日”は、

彼女が知っている“昨日”とは、たぶん違う。


「……うん」


曖昧な返事をすると、ひなたは少し安心したように笑った。


「よかった。急に何も言わなくなったら、どうしようかと……」


違う。黙っていたのは、私のほうじゃない。


でも、言えない。


私は、男だった。


事故に遭った。


目が覚めたら、女になっていた。


そんなこと、言えるはずがない。


「で、返事……」


ひなたが、ぎゅっと手を握る。


「今日、聞いてもいいですか」


――返事。


この世界では、

彼女が告白して、

私は“考えさせてほしい”と言った側だったのだろう。


昨日の“僕”と、立場が逆だ。

喉が、からからになる。


「……少し、歩こっか」


それだけ言うのが、精一杯だった。

並んで歩く廊下。


距離は近いのに、触れられない。


リノリウム張りの床に、二人の輪郭がぼんやり映る。

ひなたは、横顔で私を見ながら言った。


「先輩、変ですよね」

「……そう?」

「はい。昨日まで、もっと遠かった」


遠かった。

男だった頃の“僕”は、

確かに、彼女との距離を慎重に測っていた。


「でも」


彼女は、少し照れたように続ける。


「今は、近い気がします」


その一言で、胸がいっぱいになる。


近い。


それは、嬉しいはずの言葉なのに。

私は、彼女の“答え”を待つ側だった。


それなのに今は、

彼女の気持ちを、受け取る側に立っている。


「ひなた」


名前を呼ぶと、彼女は小さく返事をした。


このまま、受け入れていいのか。


それとも、距離を取るべきなのか。


私は、男だった。


でも、今は女で。


それでも、君に恋をしている。


――この気持ちは、嘘じゃないんだろう。


「少しだけ、時間をください」


昨日と、よく似た言葉。でも、意味はまるで違う。

ひなたは、驚いた顔をしてから、ゆっくり頷いた。


「……分かりました」


夕方の光が、二人の影を長く伸ばす。


昨日の続きを、

私たちは、違う立場でなぞっている。


――この恋は、 どこへ向かうんだろう。

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