第2話 ――女の朝は、昨日の続き

朝食の匂いで目が覚める、なんてことは今までなかった。

正確には、目覚めた“あと”に匂いを意識したことがなかった、というほうが近い。

空腹とか、眠気とか、そういうものより先に、鼻が勝手に反応してしまった。



パジャマの袖を引っ張りながら、階段を下りる。


一段ごとに、布が脚に触れる感覚が気になって仕方ない。


――女の身体だ。


頭では何度も確認しているはずなのに、

動くたびに、現実を突きつけられる。


「おはよう」


キッチンから母の声。

ダイニングテーブルには、父と――妹が座っていた。


妹。


昨日まで、確かに「妹」だった存在。

今も、変わらないはずなのに。


「……おはよう」


声を出すたび、少しだけ喉がひくりとする。

家族の前で、この声を使うのは、初めてだ。


「寝癖すごいわよ」


母が何気なく言って、私の髪を一瞥する。


その視線に、違和感はない。


私が“娘”であることを、疑っていない。


父は新聞を畳みながら、ちらりとこちらを見て言った。


「今日は早いな。テストでもあるのか?」

「……いや」


反射的に否定しかけて、言葉を飲み込む。


テストなんてなかった。

でも、今日が“普通の日”だとも、とても言えない。


妹がこちらを見て、にやっと笑った。

最近は臭いだのなんだの言って近寄ってくれなくなった。


「お姉ちゃん、緊張してる?」


……お姉ちゃん。

心臓が、変な跳ね方をした。


「別に」


素っ気なく返したつもりなのに、

声は思ったより柔らかく出た。


箸を持つ手が、妙に小さい。


味噌汁の湯気が、いつもより近い。


家族の会話は、昨日の続きみたいに流れていく。

その中に、自分だけが“別の昨日”から来ている。


食事を終えて、部屋に戻る。


制服が、ハンガーに掛かっていた。


女子用の、紺色のブレザー。

スカート。

リボン。


しばらく、立ち尽くす。



……着るしかない。



ブレザーに腕を通すと、不思議なことに、違和感は少なかった。

肩も、袖も、驚くほど自然に収まる。


スカートを履いたとき、一瞬だけ戸惑ったけれど、

それも、すぐに「慣れ」に近い感覚に変わった。


鏡の前に立つ。


そこにいるのは、

制服姿の、普通の女子高生だった。


似合っている、と思ってしまった自分に、少しだけ腹が立つ。


「……僕は男だ」


小さく呟いても、鏡の中の私は、何も否定しない。

靴を履いて、玄関に向かう。


いつもの朝。

いつもの時間。


ドアノブに手をかけて、深呼吸を一つ。

そして、扉を開けた。


「おはよう、透」


そこに立っていたのは――

同級生の幼馴染だった。

昔から見慣れた顔。

でも今は、その視線が、私を“女の子”として捉えている。


「……おはよう」


また一つ、

昨日とは違う朝が、始まってしまった。

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