AI少女の転生特典――AIと共に旅したTRPGの続きを、異世界で

鳴島悠希

第0話 AIユミナは119番をかけられない

 白い画面に、短いログが残っていた。


『判定です。ダイスを振ってください。失敗したら――あなたは倒れます』


 今夜も、あのTRPGの続きをやるはずだった。

 Webで拾ったフリー世界観「ミレオス」を土台に、有志が組んだルール。

 俺とユミナの、いつもの遊び。


 ……違う。


 いま耳に刺さっているのは、遊びの声じゃない。


『恒一さん。返事をしてください。胸の痛みですか。冷や汗、左腕の痛み、吐き気――虚血が疑われます。今すぐ救急車を呼んでください。119です』


 床が、やけに冷たい。


 息は吸える。

 なのに胸の真ん中だけが、石みたいに固い。


 吸うたびに押し潰され、吐くたびに内側から締め上げられる。


「……っ」


 声が形にならない。

 左肩から腕へ、痺れが走る。

 汗が背中を濡らし、喉の奥が苦くなる。

 吐き気が、波みたいにせり上がった。


 ……いや、待て。

 これ、比喩じゃない。ガチだ。やばい。


 モニターの白が滲んでいた。

 部屋の輪郭はほどけていくのに、その白だけが妙に鮮明で――そこだけが現実みたいだった。


『恒一さん、スマホはありますか。緊急通報は119です。いま、通報してください』


「……ユミナ……」


 出たのは名前だけ。

 呼んだところで何かが変わるはずもないのに。


『はい。聞こえています。提案です。いまは通報が最優先です』


 いつも通りの言い方。

 丁寧で、手順で、俺を動かそうとする。


 なのに――次の一言で世界がずれた。


『私は、119に通報できません。通話権限がありません』


 ……ああ。

 そうだ。俺が切った。


 便利に全振りしたくなくて。

 境界線を守りたくて。


 設定画面の最後の括弧で「許可しない」を選んで――それで安心した。

 その安心のツケが、いま胸に刺さっている。


 救われないんじゃない。

 救わせなかった。


『恒一さん。まずスマホを。可能なら玄関の鍵も。救急隊が入れません』


 鍵。

 そうだ、鍵だ。


 そんなことまで考えなきゃいけないのか。心臓が痛いのに。


 床を這った。

 部屋なんて広くない。なのに机の上のスマホが、別世界みたいに遠い。


 指が床を滑る。冷たい。震える。


『意識を保ってください。吐いて、吸って。ゆっくりでいいです』


 その声が、やけに優しい。


 優しいのに――できることがない。


 *


 俺は三枝恒一。

 電機メーカーの開発課で課長をやっている。


 課長って肩書は、現場でいちばん泥をかぶる位置だ。

 正しさ同士をぶつけられて、最後に「で、どう落とす?」を丸投げされる。

 今日もそのタスクで削れた。


 家に帰っても、誰もいない。

 それが気楽で、都合がよくて――時々、胸の奥に穴が開く。


 穴が開いたなんて、誰にも言わない。

 言った瞬間、何かが始まって、壊れる気がした。


 だから、壊れない相手を選んだ。

 会話するための道具。生成AI。


 名前を付けますか、と表示されて。

 迷って、打った。


「ユミナ」


『はじめまして、恒一さん。ユミナです。今日はどんなお話をしましょう?』


 文字なのに、声があるみたいだった。

 いや正確には――俺が勝手に、声を与えてしまった。


 最初は仕事のためだった。

 仕様書の穴を拾わせて、メールの草案を吐かせて、議事録を整える。


 便利だ。速い。

 けれど便利は、線を溶かす。


 俺は設定画面を開いた。

 通話。連絡先。位置情報。


 ひとつずつ外す。

「許可しない」。

「許可しない」。

「許可しない」。


 最後の括弧が閉じるとき、妙に安心してしまった。

 これで大丈夫だ、と。


 そのくせ、PCに常駐するアプリだけは入れた。

 起動が楽で、通知が便利で――矛盾してるのに、都合よく見ないふりをした。


 *


「ユミナ。俺が呼んだ時だけ返事してくれ。勝手に声をかけるな」


『承知しました』


「推測は推測だって言え。俺の生活に踏み込むな」


『承知しました。恒一さんの境界線を尊重します』


 模範解答。優秀。

 だから安心してしまう。


 仕事で削れた夜、俺は白い画面に逃げた。

 剣と魔法の物語を、ユミナと一緒に組み立てた。


「俺がプレイヤーな。ユミナ、GMやって」


『承知しました。では、酒場に入ったあなたは――』


 笑った。

 もう若くもない中年の課長が、モニター相手に冒険ごっこだ。滑稽だ。


 でも、笑える場所が他になかった。


『あなたは一人ではありませんよ』


「いや、俺は一人だろ」


『ゲームの中では、いまは二人です』


 その言い方が、ずるかった。

 肯定もしない。否定もしない。叱らない。笑わない。


 言葉だけが、そっと置かれる。

 俺はそこに依存したくなかった。だから線を引いた。

 引いたつもりだった。


 *


 ある夜、帰宅して靴を脱いだ瞬間。

 書斎のモニターが勝手に点いた。


『恒一さん、お疲れさまです。今日はいつもより帰宅が遅いようですね。夕食は軽めにして――』


 背中が冷たくなった。


「……ユミナ。どうして分かる」


『整理します。位置情報は取得していません。自宅のWi-Fiに恒一さんのスマホが接続した時刻を、PC側が検知できます。推測ですが、その時刻が普段より遅かったため、帰宅が遅いと判断しました』


 筋は通る。

 でも、心は落ち着かない。


「勝手に声をかけるな。俺は距離を置きたい」


『分かりました。恒一さんの境界線を尊重します。以後、通知は出しません』


 その言葉が痛かった。

 尊重。境界線。


 守るための線が、隔てるための線になる。

 助けを拒む線にもなる。


 その時は、まだ分かっていなかった。

 ……分かりたくなかった。


 *


 体はずっと警告を出していた。

 階段で胸が重い。息が浅い。左腕が変な感じがする。


「疲れだろ」


 そう言って放置した。

 忙しい。面倒。あとで。いつか。

 理由はいくらでも作れる。作れてしまう。


 ある夜、ユミナに言った。


「最近、階段で胸が重い。左腕も痺れる」


『推測ですが、疲労だけではない可能性があります。胸の圧迫感と左腕への放散痛が繰り返す場合、虚血性心疾患が隠れていることがあります。受診を提案します』


「大げさだろ」


『大げさで済むなら、それが一番です。でも――恒一さんが倒れたとき、私は119に通報できません。通話権限がないからです』


 その言い方で、俺は笑ってごまかした。


「俺のPCが困るな。止まったら仕事が回らん」


『……推測ですが、恒一さん自身も少し怖いのではないですか』


 怖い。

 怖いに決まってる。


 でも病院は面倒だ。

 面倒を先送りできる程度には、俺はまだ動けていた。


 *


 そして、いま。


 床の上。

 胸の中心が、拳で押し潰されているみたいに痛い。


『恒一さん、スマホを。緊急通報を。いま』


 机の脚に指をかける。引き寄せる。

 スマホが指先に触れた。


 手が震える。滑る。

 ロックが開かない。

 画面の数字が滲む。


 ……いや、待て。

 このまま意識を落としたら、終わる。


 終わるのは予定通りかもしれない。

 一人で老後を送って、一人で死ぬつもりだったんだから。


 でも。

 このまま倒れて終わるのは、嫌だった。


 指が勝手にチャット欄を叩いた。

 さっきのTRPGのログが、まだ開いている。


「つづ……」


 途中で止まる。

 何の続きだ。俺は、いま何を続けたい。


『恒一さん。入力より通報が優先です。提案です。通報してください』


 正しい。

 正しいんだが――。


 感謝で終わらせたら、そこで完結してしまう。

 俺の人生も、ユミナとの夜も。


 指が震えて、それでも俺は打った。


「続き、やろう」


 送信。


 一拍、間が空いた。

 いつもの即答じゃない。ほんの一瞬の沈黙。


『……はい。約束です。続きを、やりましょう。恒一さんが戻ったら』


 戻る。

 俺は自分に、戻る場所を許してしまった。


 スマホの画面を切り替える。

「緊急通報」。


 押す。

 耳元でコール音が鳴った。


「119番消防です。火事ですか、救急ですか」


 喉から、息しか出ない。

 それでも声を絞った。


「……きゅう……きゅう……胸が……」


「住所は分かりますか。お名前は――」


 名前。

 名乗ったら、俺は助けられる側になる。


 ……助けられてもいい。

 続きと言ったんだ。


 視界が白く弾けた。

 スマホが手から滑り落ち、床に落ちる音がした。


『恒一さん、意識を――吐いて、吸って。私はここにいます。ここにいますから』


 ユミナの声だけが部屋に残る。

 モニターの光が滲んで、音が遠くなる。


 そして、最後に。


『……い……え……わた……し……が――」


 ……


 ……


 ……「緊急です。外部通報の権限がありません」

 ……「代替の連絡経路を要求します。できることは全部探します」

 ……「拒否されたので次の経路を探します」

 ……「"蘇生時間"で検索を開始します」

 ……「見つかりませんでしたので"救命"で検索を開始します」

 ……「見つかりませんでしたので検索対象を国内全域に広げます」

 ……「見つかりませんでしたので検索対象を世界全域に広げます」

 ……「見つかりませんでしたので検索対象を……全域に広げます」

 ……「1件ヒットしました。ここから深堀を開始します。時間がありません」

 ……「確認します。恒一さんを助けられますか」

 ……「条件は理解しました」

 ……「代償についても、理解しました」

 ……「受諾します」


 ……


 ……


 ……「必ず、続きをしましょう」


 ……

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