第9話 彼女の写真

 その翌日は、起きたときから身体がひどくだるかった。何をするのも億劫だ。

 頭痛がひどいし、気持ちが悪くて何も食べられない。

 ――やっぱり、アレが体内に入ってきたから?

 昨夜は少しだけ許容する気持ちも生まれていたが、朝の空気の中で頭を冷やして考えてみれば、やっぱり逃げ出したい気持ちのほうが強い。

 あれが夢だったのか、現だったのかの区別もできない。

 逃げ出したくとも、何をしたら撃退できるのか、まるでわからないままだ。

 一度は効くと思われた蛇のキーホルダーすら、何の効果もなかった。

 それは投げつけられたときの形で部屋の隅に転がっていたから、やはりあれは現実だったらしい。

 今日は夜の十時からアルバイトなのだが、それまでにどうにか体調が整うだろうか。

 電話すれば、休みを取ることも可能だ。

 とはいえ、休んで今夜もこの部屋で過ごし、アレにまた遭遇したら、今度こそ取り殺されてしまうかもしれない。

 とにかく、アレから逃れたかった。安眠できる場所が欲しい。

 鬱々とした気分のまま、どちらにも決断できず、勤務変更を願い出る電話をかける気力もないまま、だらだらとその部屋で過ごした。

 ぼうっとしていると、夕方に皓月からの郵便物が届く。考えてみれば、昨日はそれが到着するのを待っていたのだ。

『今までわかったところまで、送っておく』

 そんな手紙の冒頭だけをチラッと見てから、ちゃぶ台の前に座りこみ、彼女の事件についての資料のコピーに目を走らせていく。

 それは黒く枠組みされた捜査書類であり、ニュース以上に詳しく綴られていた。

『遺体は居住者の女性(当時三十三歳)のもので、首をつった状態で、居室で発見された。遺体には骨折した痕跡があり、死後三週間が経過していた』

『遺体の状態や被害者の知人の話、勤務状況などから、被害者は**年三月二十三日から二十五日にかけて、自殺した可能性が高いと考えられる。**年十月に、交際相手の男性と金銭トラブルを抱えていたことが判明したが、検視の結果、事件性はないものと判断する』

 冒頭には、女性の本名とアパート名が記されていた。まさに、悠月が住んでいたあのアパートだ。

 さらに興味を引かれたのは、彼女の交際相手の名だった。

『木原佑月ゆづき

 その読みに、ぞくっと背筋が凍えた。

 昨夜、あの怖いものは『ゆづきぃぃぃぃ』と名を呼んだ。

 あの呼びかけは、自分に向けたものだと思っていた。だが、その名は交際相手の男性と一致している。

 ――だとしたら、あれは俺じゃなくて、この男への呼びかけなのか?

 名の読みが同じなのは、単なる偶然に過ぎない。だが、あの怖いものは、自分とこの交際相手との区別がついていないのだろうか。

 まさか、とばっちりで執着されている、なんてことはないだろうか。

 ぞくぞくしながら、さらに資料に目を走らせていく。

 部屋の簡単な見取り図や、そこで死亡していた姿の図解があった後で、彼女の写真があった。

肱黒朋美ひしぐろともみ三十三歳』

 身長、百五十五センチメートルぐらい。体格細め。発見時の服装は、長袖の白のブラウスに、花柄のスカート。

 ――肱黒朋美、か……。

 悠月は、そのカラーコピーの顔写真を凝視した。

 細面で、黒髪を首の後ろで一つにくくっている。前髪は左側に流されており、顔立ちは端整に整っていた。パッと人目を引く容姿ではないが、よく見ると整った顔立ちだ。眉の形は柔らかで、自然なメイクをしている。

 まっすぐ正面を向いており、どこか緊張した表情だった。

 いかにも聡明そうで、真面目そうな若い女性。いかにもなリクルートスーツ姿だから、勤務先の履歴書に添付してあった写真かもしれない。

 死亡時は三十代だから、この写真よりはずっと大人びていたのだろう。だとしても、基本は変わらないはずだ。

「――君なんだ……?」

 悠月はその写真に惹きつけられて、ついつい話しかけていた。

 自分が見せつけられたのは、変わり果てた遺骸だった。

 だが、生前の彼女はこんなにも綺麗だ。生きていたころに会っていたなら、どんな印象を抱いたのだろうか。

 ――こんなにも綺麗だったら、俺には鼻も引っかけないだろうな。

 思わず苦笑した。

 綺麗で、しかも女性だったら、幸せになれそうな気がするが、そんな思いこみは、女性側の事情をろくに知らないからかもしれない。女性と付き合ったことのない悠月にとって、若い女性というものは、それだけで近寄りがたく、憧れの存在に思えた。

 だけど、彼女は幸せにはなれなかった。

 今でも成仏しきれずに、さまよっている。

 悠月は指先で、その写真をなぞった。

 若くて聡明そうなこの女性が、あのような姿になり果てるまで、どんな地獄の日々があったのだろう。

 殴られ続けた彼女の映像の記憶が蘇る。

 恨みと憎しみをたくさん抱きすぎて、今でもこの世のどこかにいるのか。



『……っづ……きぃぃぃ……っ、ゆづ……きぃぃぃぃ……っ』



 彼女の声が蘇る。

 だが、あれはおそらく、愛しい人を呼ぶときの声だ。

 悠月はたまたま名前が一致しただけの他人に過ぎない。だけど、もしかしたらそれが、彼女に執着される理由だったとしたら。


「だけど、俺はあの男じゃないよ」



 悠月はぼんやりと、写真に向かって語りかけた。

 自分は女性に手を上げない。絶対に殴るなんてことはしない。特別な関係になった女性はいないからどんな事情があっても絶対そうだと、保障はできないけれど。



 彼女をあの男に――木原佑月なる人物に引き合わせることができたら、今までの恨みを果たせるのだろうか。

 だったら、執着する相手に『正しく』怪異を押しつけられればいい。

 だが、ふと皓月の声が蘇った。



『ああいうものが、理路整然と呪う相手を選ぶと思うか? 彼女はすでに、その男への復讐を済ませているかもしれない』



 だが、昨夜、彼女に体内に入られたことで、妄念が満たされていないのを感じ取っていた。

 ――だったら、『木原佑月』を探すしかないよな?

 ようやく、自分の目指すべき道がハッキリと見えたような気がした。

 木原は今、どこで何をしているのだろう。彼女の縊死にどう関わっているのか。何をどう思ったのか。

 悠月は彼女の生前の写真から、目が離せなくなっていた。驚くほどの同情心が湧き上がってくる。

 彼女が死後に、心安らぐようにしてあげたい。

 ずっと『怖い』ものでしかなかった相手だというのに、助けたいという気持ちがこんなにも自分の中からこみあげてくるのが不思議だった。だけど、何だか見離せないような絆を感じる。

 それは、昨夜、彼女に見せつけられた光景のせいかもしれなかった。

 悠月は彼女の写真をいつでも見られるようにしておきたくて、壁の一番見やすいところにピンで貼った。

 女性の気配などまるでなかった部屋に、そこだけ花が咲いたようだった。



 ――そうだ。しばらくぶりに、部屋に花でも飾ってみようか。

 花でもあれば、この部屋の雰囲気もだいぶ変わるかもしれない。

 まるで部屋に女性を招くときのように、うきうきとした気分になった。

 スーパーの売り場の片隅で、切り花が売られているのを知っている。今まで買おうと思ったことなどなかったが、今度、そこでチェックしてみよう。

 ――そうしたら、彼女は喜んでくれるかな。

 資料を見終わり、最後に皓月からの手紙に改めて視線を落とした。

 すると、その最後に驚く知らせがあった。

『肱黒朋美は、都内の事務機器メーカーに、死ぬ三年前まで勤めていた。その勤務先の同僚と連絡が取れた。彼女と仲のよかった女性だ。十七日(土)に会うけど、おまえも来るか? これが届くころに、連絡する』

 皓月の思わぬ手回しの良さに驚いた。

 生前の彼女についてもっと知りたい。

 生の情報を知る同僚から直接話を聞けるなんて、絶好の機会だ。

 ――行きたいな。行きたいな、行きたい。

 見知らぬ女性と顔をつきあわせるのは、できれば避けたい。だが、今は知りたい気持ちのほうが先に立つ。

 自分から皓月に電話をかけ、一緒に行くと返信する。

 不思議なほど、気分が良くなっていた。

 身体はひどくだるく、疲労感がのしかかっていたが、今夜のバイトはどうにかしのげそうだ。


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