第8話 怯えるな
便器で溺死しそうになったあの日から、悠月は深夜の時間帯をアパートで過ごすことを極力避けるようにした。
ともかく、怖かったからだ。
あれが出るのは、深夜の二時から三時の間が多い。だからその時間帯は、明るいコンビニで勤務していればいい。
出来るだけ夜勤バイトのシフトを入れてくれないかと頼んでみたら、転調は大喜びだった。店は人手不足で、シフトの穴を経営者夫妻が埋めていたからだろう。
それでも、週に一度は休みが入る。労働基準法で、どうしても休みを取らせなければいけない決まりだそうだ。
その休みの日には、悠月はネットカフェやファミレスで夜を明かすことにした。よけいな出費は痛かったし、自分の部屋でくつろげないのはストレスでもあったが。
それでも、殺されるよりはマシだ。
溺死させられそうになった日から、二週間が経った。
その間は深夜帯に部屋にいなかったから、アレと遭遇することはなかった。
その日は皓月から『資料を郵便で送った』という連絡があった。その受け取りのために、悠月は朝七時のバイト明けからアパートで過ごすことになった。
濯物がたくさんたまっていたから、まずはそれをひたすら洗う。掃除もした。
それから郵便物が届くまで、家で待機することになった。資料というのは、どんなものだろうか。早くそれが見たい。
夕方になったが、まだ郵便物は届かない。
郵便物さえ受け取ったら、ネットカフェに移動するつもりだった。、
だが、夜勤だけだけあって、郵便物を待つ間にぐっすりと眠りこんでいた。
ふと目を覚ましたときには、当たりは真っ暗だった。まずは、玄関のドアを確認してみる。
郵便物はドアの差し込み口に入れられるはずだ。配達時間はとっくに過ぎているはずなのに、何も届いていない。届くのは今日ではなくて、明日だっただろうか。
――そうか。悠月はゴロンと寝返りを打って、時刻を確認する。
午後十一時。
そういえば、ここ数年、郵便物の到着がだいぶ遅くなったはずだ。
今からネットカフェに行ってもよかったが、だるくて億劫だった。二時間も怪異に触れていないこともあり、今夜、ここにいても何事もないのでは、と思ってしまう。
目を閉じると、いつの間にかまた眠ってしまったようだ。
――すごく、静かだな。
ふと目を覚まし、そんなことを考えた。
時刻を確認してみると、深夜一時過ぎだ。
完全に音が絶えている。
このアパートにいると、何かと生活音が聞こえてきた。住民の出入り音や、テレビの音声。トイレや風呂の水が流れる音が、壁や天井を通じて入ってくる。電車の通過音も定期的に聞こえる。
だが、日付が変わるころには、だんだんと静まっていく。終電が終わり、始発までの数時間は、びっくりするほど物音が聞こえてこない。ちょうど今がそうだ。耳鳴りするほどの静寂――。
世界にたった一人、取り残されたような気分になった。
そろそろ、危険な時間帯だ。今からでも外出しようかと考えたが、外の暗闇は怖いし、外出の準備をするために着替えるのは寒い。
億劫さと恐怖が、体内でせめぎ合う。テレビをつけて静寂を紛らわそうとした。だが、つけた途端、いつもは気にならないはずの音量が、夜間だからひどく大きく聞こえて、慌てて音量を落とした。
テレビ画面からのざわめきに包まれながら重い瞼を閉じ、布団のぬくもりを感じていると、また眠りに落ちたようだ。
ふと一瞬だけ、意識が浮上した。薄く目を開いたそのタイミングで、部屋の灯りが落ちた。その衝撃に、悠月は覚醒した。
テレビも、照明と同時に消えたようだ。
――来たのか……!
悠月は首まですっぽりと布団にくるまり、やや左を下にして転がっている。
やけに静かだった。枕で押しつぶされた耳朶の中で、自分の心音だけが大きく鳴り響いている。ひゅーひゅーと、喉に引っかかる呼吸音は、自分のものだろうか。
布団は縦長のワンルームの、縦に長い壁に沿って敷いてあった。足元には、大きな吐き出し窓がある。
身体はその吐き出し窓とは直角の位置にある窓のほうを向いていた。
見開いた悠月の目に映るのは、真っ暗な室内だ。
視界は全てモノクロだ。
窓のカーテンは開きっぱなしだった。
その窓からうっすらと、アパートを囲む塀が見えた。ここのはブロック塀ではなく、アルミ製の安っぽい灰色の塀だ。
その塀の上で、何かが動いていた。
それだけで、心臓が縮み上がる。目を見張った。異質な丸い形をしたものが、ゆっくりと転がっていくのが見える。
――なんだろう?
猫ではない。だとしたら、ああして動くものは、何なのだろうか。
見定めたいわけではなかった。じわりと脂汗が全身から滲みだす。
見定めてはならない。おそらく、あそこにあるのはろくでもないものだ。だから、それが何だかわからないうちに、早く視線をそらせて、目を閉じたほうがいい。
だが、怖すぎて目をそらすことはできない。
何故なら、それとは窓ガラス一枚しか隔てていないからだ。いつ、それが窓を割って室内に入りこんでくるのかわからない。
まともに空気を吸いこめないまま、悠月はそれを凝視し続けた。
だんだんと目が慣れてきたのか、まずは出っ張った部分が目についた。それが鼻だとわかった瞬間、てらてらと闇の中でも明るく見えていた部分が、眼球だと気づいた。
それに、でろりと伸びた舌。
「――っ……!」
声にならないうめきが漏れた。
こんなものを見たいわけではない。早く視線をそらせて、それと目が合わないようにしほうがいい。
なのに全身は恐怖に凍りつき、そればかり凝視してしまう。
布団の中にいるのに、全身が氷の塊になったように冷たく、凍えきっていた。
今にも叫び出しそうだ。
最初に見えた頭部は、一つだった。だが、みるみるうちにそれは塀の上で数を増し、横一列になってひしめきあう。
――カーテンを……閉じろ……。
頭の片隅で、悠月は自分に命じた。
早くカーテンを引いて、それと自分を遮断したい。
立ち上がることさえできれば、窓までは二歩ぐらいの距離でしかなかった。なのに、身体が凍りついたまま動かない。
窓に近づくことに怯えていた。
――なんだこれは。……頭部? 頭部? ……なんで、頭だけ?
そう思った瞬間、頭の中にぽっかりと光景が浮かんだ。
それは、山中で首つりをした遺体だ。
なかなかそれは発見されなかったので、頭部が腐って身体から離れ、行き場を失ってごろごろと転がり続ける。
あるものは木の枝で首を吊り、あるものは家のドアノブで首を吊った。またあるものは橋の下の鉄骨の出っ張りで――。
それらの遺体は発見されないまま朽ち果て、頭部がごろりと落ちる。そのなれの果てである頭部が、こんなにもたくさん、集まってきているのだ。
頭の中の光景に意識を奪われていた悠月だったが、不意にガツン、と音が響いて、現実へ引き戻された。
塀の上の頭部が、額や顔を次々と窓ガラスにぶち当ててきている。
幻としか思えなかったものが、自分の部屋の窓に物理的な衝撃を与えられることに驚いた。
しかもアパートを囲む塀は、悠月の部屋の窓から五十センチほどの距離があったはずだ。
なのに、いつの間にか塀との距離が縮まっている。その上にひしめく無数の頭部が、ガツンガツンと顔ごと窓ガラスに体当たりできるほどに。
窓ガラスに押しつけられたそれらの鼻や唇や頬が、そのたびにひどく歪む。
顔立ち自体は、どこにでもいる平凡な男女のものだ。
若者から年寄りまで、道ですれ違うようなよくある顔立ちなのに、それが窓ガラスに体当たりして平面的に歪む一瞬は、ひどく凶悪に見えた。
その表情はどれも見られたものではない。
だが、それらにとって体当たりはひどく楽しいものらしい。窓ガラスに衝突した瞬間に、それらが浮かべる喜色に、悠月はゾッとした。
場所を争いあうようにして、次々と窓ガラスに顔をぶつけてくる。
安普請だから、こんなことを続けられたらガラスは割れるだろう。
そうなったら、あいつらは一気になだれこんでくる。
今の悠月には、防御のしようがない。
がつんがつんと、体当たりの音が響いた。
ますます頭部が体当たりする速度は増し、そのたびに窓ガラスが大きく歪んだ。破壊が近いことに、悠月は怯える。
この頭部は、いったい何が目的で、ここに現れているのだろうか。
自分をその仲間に引きずりこむためか。それとも、他に目的があるのか。
窓ガラスがどうにか持ちこたえてくれることを祈りながら考えていると、不意に思いあたった。
――見に来ている?
ここに、何かが現れることを。
現れた恐ろしいものが、自分を殺しにかかるのを。
そう思い当たった途端、首筋の毛がそそけ立ち、叫びだしそうになった。それと同時に、窓ガラスがついに外側から打ち破られた。
ガラスの破片で頬や鼻や耳をざくざくに切って血まみれになった顔面たちが、争いあうように室内に雪崩こんできた。
その異形は悠月目指して、ひしめきあいながら近づいてくる。
その恐怖に、身体がすくみあがる。
ぬるりと、血を塗りつけるように、悠月の顔面に頬ずりしてくる。
その異様な触覚に大声で叫んだ次の瞬間、悠月は目覚めた。
――夢?
室内は相変わらず真っ暗だったが、ひどく静かだ。
自分以外に動くものの気配はない。
口は開いていたものの、実際に自分が叫び声をあげていたかどうかはわからない。
怖々と見上げた窓ガラスは、破損していなかった。
窓ガラスの外側も真っ暗だったが、目を凝らせばアパートを囲む塀が見える。その外側にある外灯も。
壁の上にひしめくものの姿はなく、窓ガラスまでの距離も五十センチほどに保たれていた。
室内も外も、深夜の静けさに包まれていた。
――夢か。嫌な夢を見た。
悠月は全身に入っていた力をぎこちなく抜いて、ふう、と大きく息を吐いた。肩のあたりがガチガチに強張っていて、こめかみが締めつけられたように痛い。
全身が凍えきっていた。
寒すぎたので温もりが欲しくて、無意識に布団を引き寄せた。
窓に背中を向ける形で寝返りを打とうとしたとき、室内の空気が不意に切り替わるのがわかった。ぞくっと、全身が異変を察して震える。
――来た……!
あの動物的な頭部に対しての恐怖とは違っていた。骨の随から凍えるような、根本的な恐怖が悠月を襲う。
まさに今、自分がいるこの室内に、恐怖の原因が現れようとしている。そのことを本能的に感じていた。
室内に闇が詰めこまれ、その密度によって呼吸すらしにくい。
金縛りというわけではないのだが、怖くて全身が固まっていた。
あの恐ろしいものは、決まって悠月の足元のほうに現れる。その方向に向かって、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
できれば何も見たくも、感じたくもなかった。
だが、おそらくそれは部屋の隅の吐き出し窓の前あたりに現れて、ゆっくりと歩き出すはずだ。
以前のアパートは畳だったが、ここはフローロングだから、足音は少し違う。気配だけが近づいてくるようなかすかな音。
それが聞こえてきた気がして、悠月は息を詰めた。
それに混じる、ぽたぽたとした雨音まで聞こえてくるようだ。それは雨音ではないと、悠月は知っていた。
悠月が眠る布団は、壁にぴったりつけて敷いてあった。
悠月は壁のほうを向いている。
その背後から、気配がだんだんと近づいてきた。
布団を回りこみ、悠月の頭部があるほうへと移動している。
悠月はぎゅっと目を閉じた。
何も見たくない。感じたくない。
恐怖が喉を締めつけ、浅くしか呼吸ができなくて苦しい。
「はぁ、……は……は……っ」
上擦った呼吸音が、遠く聞こえた。怖すぎて、心臓すら止まりそうだ。
――全てが、幻だったら……いいのに。
実際には何も存在していない。
全ては、自分の頭が作り出した妄想だ。
だから、怖くない。ここには何もいない。
そんなふうに必死で自分に言い聞かせてみたが、意識がどうしてもそちらに引っ張られる。
そのとき、プンと、腐臭が漂った。
最初はまだ遠く、喉の奥にいがらっぽさを生じさせる程度だ。だが、だんだんとそれは噎せ返るほど濃厚になっていく。
ぐずぐずに腐った死体に、顔を埋めているときのように。
あまりの耐え難い腐臭に、嘔吐きそうになった。
続けて苦い胃液が逆流し、布団の中で吐く。
だが、同時にその腐臭は懐かしいものでもあった。薄く、――何百分の一に薄めさえすれば、ずっと嗅いでいたいと思えるほどの。
赤ちゃんのおしめ。
好きな子の、脇の匂い。
甘ったるさと臭さの混じった、生と死の匂い。
――おまえは、……何がしたいんだ……っ!
恐怖におののきながらも、悠月は心の中で叫んだ。
自分には何もできない。
何の力もない。
そんな自分に、どうしておまえはここまで醜悪に崩れて腐った自分の姿を見せつけるのか、
そうすることで、何がしたいのか。
そう訴えながらも、悠月は懸命に自分にも言い聞かせた。
――怯えるな。
これは、実在するものではない。
その証拠に、翌朝、這いつくばって探しても、うじの一つ、さなぎの一つも落ちてはいない。
すべては幻だ。
そこにさえ焦点を合わせなければ、無視して平穏に日々をやり過ごすことができる。
だが、一回、そことつながってしまったら――。
悠月は恐れおののきながらも、目を薄く開く。
開かずにはいられなかった。
自分をここまで怯えさせる存在が、本当に実在しているのだろうか。
それを確かめずにはいられなくて、少し斜め上に身体をねじって開いた。
そこに、何かがいるはずだ。
それは、
確かにそこにいた。
実在する人のように、
もののように。
思っていたほど、悠月に近づいてはいなかった。
窓のすぐそばに立ちつくしている。
だが、悠月が振り返ったのに気づいたのか、その身体がゆらりと動いた。
一歩ごとにフローリングを踏みしめ、
パラパラとうじを降らせ、
吸っただけでも嘔吐きそうなほどの腐臭とともに、
それはずずず、と、何か重いものを引きずりながら、
悠月に近づいてきた。
――だから、何がしたいんだよ……!
キレ気味に、悠月は考えた。
ただ自分を怖がらせたいだけなのか。
そうして生まれた恐怖を、むさぼりたいのか。
その恐ろしいものが、もはやまともな思考力を持っているとは思えない。
理由や理屈など考えても、無駄なだけかもしれない。
ふと気づくと、あの怖いものがすぐ目の前に迫っていた。
見てはいけないと思いながらも、悠月はその腹のあたりから、身体に沿って視線を上げていく。
毛髪の一本一本が逆立っていく感覚があった。
歪んだ手足。
異形の輪郭に見えるのは、頭部が欠けているせいだ。
それを探して、悠月の視線が揺れた。
そのとき、突き刺さるような視線を、驚くほどすぐそばから感じ取る。
耳の真横あたり。
どうしてそんなところから視線を感じるのか、わからない。パニックに陥りそうになりながらも、必死で考えた。
何かは立っている。
頭部は普通なら、首の上にある。だけど、首は欠けている。
そこまで考えたとき、ぞわっと全身が総毛だった。
首をつった姿で身体が腐乱していくにつれて、異様なほど首が伸びると、兄から聞いた。
いずれ首は床に落ちるのだと。
さきほど塀の上でひしめいていた頭部を見た。
彼女の首も、あるべきところにないのだとしたら。
――無理。……無理無理無理……!
見てはいけないものとわかっているのに、それでも視線が動いてしまう。
ごわごわに血と体液で固まった髪をまとわせた頭部が、自分の頭のすぐそばに転がっていた。
眼球はドロリと溶け、朽ち果てた頬の空洞から歯列が覗いている。
それを眼球に映した瞬間、全身が拒絶反応を示した。
歯がガチガチと震え、恐怖で頭の中が灼き切れそうになる。
叫び出そうにも、肺には空気が残っていなかった。
大きく息を吸いこむこともできず、苦しさばかりが募っていく。
そのとき、何かが聞こえた。
洞窟に吹きこんだ風が、偶然、意味を持つ音の連なりになったような音が。
『……ゆ……づきぃぃぃぃぃぃ……』
それが自分の名だと気づいた瞬間、悠月はおかしくなりそうな恐怖を覚えた。
どうして、自分の名を知っているのか。
どうして、自分の名を呼ぶのか。
冷たい戦慄が身体を突き抜け、骨まで凍りついたようになる。
この恐ろしいものと自分の間に、個人的なつながりはないはずだ。あのアパートに住んだこと以外、接点はないはずなのに。
恐怖でおかしくなりそうな悠月の耳に、再び、声が届いた。
『ゆ……づき……っぃぃぃぃぃぃぃ……』
さきほどのものよりも、それはもっと感情を孕んでいるように思えた。
それはいまわの際の断末魔が、こぽりと喉から血の塊を吐き出しながら漏らす声だ。
どんな感情とともに、名を呼ばれたのかはわからない。
ただ、逃げ出せないと、確信するほどの執着が、その声からは感じ取れた。
離さない。
絶対に離さない。
ようやく見つけた、愛しい人。
その感情を言葉にしたとしたら、そんなふうになるのだろうか。
――何なんだよ、おまえ……!
悠月はそこで、ぶち切れた。
こんなものに、平穏な生活を脅かされたくない。
全身に必死になって力をこめ、恐怖で縮こまっていた身体を動かそうとした。
枕元に置いておいた兄からのプレゼントの蛇のキーホルダーをつかみ、渾身の力でその頭部に投げつける。
――消えろ……ぉぉぉぉ……!
今まで有効だったのは、そのキーホルダーだけだ。
だが、キーホルダーは異形の身体を素通りし、床の上をすべっていっただけだ。その恐ろしい身体を見上げても、キーホルダーが影響を与えた痕跡は感じ取れない。
――え?
呆然と見上げているときに、それは悠月にますます迫った。
その影が、倒れこむように悠月の身体に重なってくる。
鼻の奥が、腐臭でツンとした。
悠月の手にそれの手が、悠月の腕にそれの腕が、悠月の肩にそれの肩が二重写しになる。骨まで凍てつくような悪寒が広がり、指や腕が自分では動かせなくなる。
――え?
あの怖いものに、体内に入られたことを実感した。全身に違和感があったが、それ以上に悠月の注意を惹きつけたのは、頭の中を通り過ぎる無数の情景だ。
これは、何なのだろう。
早すぎてまるで把握できないが、見知らぬ風景に、見知らぬ人々との接触。
話したり、しゃべったり、泣いたり、笑ったりした感情の残滓。
――だけど、この身体は、俺のものだ……!
強い反発が、胸から広がる。
全身に力をこめて、異物を跳ね返してみようとした。
だがその寸前に、とある光景が、瞼の裏で瞬いた。
その映像は、不意にカメラを倒されたように大きく揺れる。
壁や柱や床がめちゃくちゃに映り、そこに投げ出された手足が映りこむ。
何度も、
何度も何度も、
衝撃を与えられているかのように画面が揺れる。だから、そのたびに殴られているのだと気づいた。
視界に映りこんだ男の腕が、足が振り上げられる。
痛みすら伝わってきそうな光景の連続だった。
それがひたすら繰り返され、動けなくなる。
だけど、次の画面に切り替わると、その男が愛しげに抱きしめてきた。
――何だ、これは。
悠月は放心しながら考えた。
この女性が、暴力を受けていたのは間違いない。
だが、この男は恋人だろうか。
たまに優しくするのは、男が相手を思い通りに操ろうとしているからであって、そこに愛はない。そんなことは、恋愛をしたこともない悠月にもわかるというのに。
映像は、彼女の幼少のころに切り替わる。
両親に愛されて育った、子供時代。
皆との集団登校や、給食の光景。授業のときの黒板の文字を、几帳面な字でノートに書き写していくだけの平和な光景が続く。
文化祭での飾りつけ。
賞を取った絵を眺める、誇らしそうなまなざし。
そんな場面が、延々と映し出されていく。
提示された彼女の生涯はひどく断片的であって、それらは意図的に選んで見せつけられているのか、それとも完全にランダムなのか、悠月には区別できない。
だが、否応なしに見せつけられているうちに、彼女のことがだんだんと理解できるような気持ちにさせられていく。
――俺に、……似てる。
感性が。
好きなものが。
大切にしようとしているものが。
外で遊ぶよりも、室内で本を読むほうが好きだ。
大勢で宴会をするより、お気に入りの店に通うほうがいい。それも、店の常連として認められるのではなく、空気のように無視されたほうが。
だんだんと、彼女に親近感を持つようになっていた。
拒めなくなったが最後、生きている身体を、この恐ろしいものに奪われてしまうかもしれないというのに。
彼女の生涯を、延々と見せられていく――。
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